御講話『私の信仰の経路』

「岡田茂吉全集 講話篇 第1巻(P.7)」昭和10(1935)年1月11日

 

『私の生まれたのは、浅草橋場で浅草観音様の裏のほうであって、明治前に私の曾祖父が武蔵屋喜左衛門といって、その界隈での幅利きで橋場から五、六丁離れた所の浅草町という所で質屋を営み、そうとうの財産家で義侠心に富み、いまの町長くらいの資格であり、人を助けることが好きで鳴らしたものであった。この浅草町に明治の初年まで営業を続けていたのであります。何年ごろか知りませんが、その当時浅草の観音様の御本尊を質に預けたものがありましたが、流れてそのままになったのであります。もっとも、観音は宮戸川へ流れて来ていたのでありますから、流れるのが因縁かもしれませんが、私の父の乳母が、私の家に御本体があったと言っておりましたが、父の義理の兄が失敗して御本体も人手に渡ったのかもしれませんが、いまはそれはありませんそうです。

私はその橋場で生まれたのであります。日本の艮(うしとら)は東京で、東京の艮は浅草で、そのまた艮にあたる橋場で生まれたのもなにかの因縁で、私が十五くらいの年までここにおったのであります。

太陽は東から昇ると言われますが、東というより艮のほうから昇りますから、いろいろに因縁は深いわけであります。

浅草の観音様の御本体は、明治時代になくなっているということは事実らしいのであります。元は本当の御神体は橋場の私の家の十軒ばかり先の長昌寺に安置してありまして、御開帳中は浅草寺にお移ししていたのであります。

私の家の菩提寺は三河島の観音寺という寺であるのも深い因縁のあることであります。私も子供時代にこのように非常に観音様に縁があると思っておりました。今日におよんで充分わけが判ったように思います。

私の幼時は平凡でありましたが、ただありがたいと思ったのは非常に貧乏であったことであると思っております。

浅草の橋場の生まれでありますから、江戸っ子であります。浅草は東京の東、東京は日本の東、日本は世界の極東であります。私の生まれたのは浅草の観音様の裏で、観音様の東であります。

当時私の両親は、古道具屋をやっており、浅草の観音様の境内で夜店に出ておったのであります。父が荷車を挽き、母は私をおぶって荷車の後押しをし、共稼ぎをしておりました。このような境遇のうちに育てられた私は、幼時から物を大切にしました。いまもって物を無駄にしないのは、心のうちに染み込んでいるからだと思います。

小学校時代二年から三年を飛び越えて、四年に上がったのをみると他の人よりは優れていたのだと思います。なおまた、成績は優良のため、いつも一番で通したのであります。これは私は負けることが嫌いであったからだと思っておりますが、人々より優れていたことが解ります。このため八年の小学校を七年で卒業したのであります。

私は美術学校へ入学を志し、中学程度の予備校へ入り、美術家となろうとしましたが、病気のために止めたのであります。この時代に絵筆の使い方を知ったのであります。十七、八歳から二十五歳までは、病気のためブラブラとしておりましたが、その間にいろいろな書物を読んだのであります。その本は商人になるように志し、さかんに読んだのであります。

二十五歳のとき、小間物屋を始め、十年くらいで十五万円くらい儲けました。成功者として非常に評判になった。そのころ「朝日ダイヤ」を発明して、十カ国の専売特許が得られたのであります。アメリカへさかんに出して儲けましたが、そのうちに失敗して宗教生活へ入ったのであります。さかんなころ、資本金二百万円の株式会社とまでしたが、大正九年のガラでさんざんの失敗をしたのでありますが、この失敗が信仰生活に入った動機となったのであります。

私はふつうの商人のように、決して我利我利亡者(がりがりもうじゃ)ではなかったのであります。苦学生を養ったり、苦学生に学資を送って学校を卒業させてやったり、救世軍やなにかにも寄付したり、慈悲善根を施し等しましたが、そのうち十五万円くらい損をしました。

前の家内の四人の子供がみな亡くなり、家内もまた病気中流産をして亡くなるという大不幸続きで、私は、これほどよいことをしているにかかわらず、このように失敗や不幸続きは解らんと、なにか信仰に入ろうと、いろいろ調べたがそのころ新聞で大本教の広告のあったのを見て引きつけられて、信者になる動機を得たのであります。

昭和二年神憑りとなり、いろいろのお知らせを受けたのであります。何十万年前からの歴史および過去未来のいろいろのことを知らされたのであります。これから述べることは、このときにお知らせがあったのであります。

大使命を知らされ、光明世界建設のことも、このときに知らされたが、最初私はこれを疑っておりましたが、その後たくさん奇蹟が続出したのであります。この状態が三月ばかり続きましたが、その後半カ年くらい後に、大本教へ行ったとき出口先生が神憑りで知らされた通りのことを言って、あなたは病気治しをすれば、なにほどでも治ると知らされたので、家に帰って病気治しをやってみると良く癒えるので、いよいよ神様から大使命のあったことを悟って、三年かかって商業をやめ、神様専門になったわけであります。

 

近ごろの流行語にインチキということがたくさんあります。インチキ宗教とか、インチキ野郎とか、あれはインチキだとかいうように、馬鹿にはやっている。で、インチキという言葉は怪しげなものに対し、ピンとくる一番適当な言葉です。一番よく使われているのは宗教に使われるインチキ宗とか邪教とか、新聞雑誌などによく出ております。私はそのたびに思う。遠慮なく言えば、今日いかなる宗教もインチキでないものはない、全部がインチキであると断定できるんであります。

インチキということは、他の言葉で言うと、インチキの言葉が一番よく表わしているんで他の言葉にいいのがない。古い言葉で言えばごまかしとか、贋物とか、まやかしものとかいう意味で、要するに本当のものではないという意味であります。

そういう意味からいうと、宗教以外にたくさんあり、本当らしい顔をして本当でないものがたくさんある。

 新しい宗教を多くインチキインチキと言いますが、あるいはそうかもしれぬが、しかし観音会だけは絶対にその名称は当てはまらぬ。いかなる宗教でもなんでも、手前味噌は言うのですがこういう言い訳は効き目はないが、ここにおいでの方は判ってるが、世間ではまた味噌を言ってるように言う。

先刻米沢さんが言ったように、観音運動は当然のことを行なうというのが観音運動の根本で、当然のことを行ないまた行なわなければならぬということは、いかに世の中の人が当然のことを行なわなくなってるかということになる。とにかく脱線が多過ぎるというわけになる。このことをしっかり判れば観音行は一番よく判るんであります。よく判るようにいろいろお話しているんで、いままでの世の中のこととはだいぶ違う。ともすればいままでの癖が出て観音行にならなくなるというのは、その前に観音運動の根本としては、人間個人をよりよくする、要するに人間らしい人間を造るというわけで、実際今日世の中を見渡して、人間らしい人間は実に少なくなった。見つけるに骨が折れる。それでは一般にたくさんの人間はありますが、だれかの歌に「人の皮着た獣なりけり」というような歌があったが、獣のようではないが、人間よりは以下になってる心や行いになっている。

神が人間を造られた目的は、今日の人間のようなものでなかった。しかしこれも必要があっていままでそういうふうになっていた。で、今度いよいよ人間らしい人間を造るということになるんであります。それはなにかというと、人間として行なうべきこと考うべきことはちゃんと決まっている。それ以外に脱出しようとするために、いろいろ面倒が起る。病貧争の根本はそこにあるのでありますから、今日の人間はほとんど病人で、どんな方をみても本当に無病息災という人はない。ほとんどが病人で、身体はよくみえても心は本当でない。心と身体とは使うもの。お腹に虫が湧くのはなんのためかと聞く人があって、それはお腹が虫の湧くくらい腐っているからだと答えたのです。これは本当で、人間の身体には虫の湧くべきものではない。虫といっても蛆虫ですが、肚に蛆が湧くほどに肚が汚い、肚が汚いということは心が汚い、心がきれいならば肚に虫の湧く道理はない。では子供はどういうわけかと言うと、子供は親の分身であり枝ですから、枝が悪くなるのは、この根が悪いに決まっている。それくらいに人間が悪くなっている。ですからいつもいう通り、病気治しは血を浄めること、浄化することですから、私はおわい屋と埃とりと兼帯でしてるんで、人間の身体に湧いた塵やおわいをとるのと同じで、これは本当のことで、それほどに汚くなっている。それほど心が汚れてる。その肉体をきれいにし、心をきれいにし立派なものにする。それが観音運動で、肉体をきれいにするのは、健康にすることで、心の間違っているのは、心が病体なんで、心と肉体すなわち霊体を健康にすることはだれもしなかった。

心を治すのに宗教があり、肉体を治すのにお医者があった。宗教も三千年も前から、世界中にはいろんな偉い人が出て、生命を犠牲にするくらいにして人間の心を治そうとし、医者も何千年前からやっている。こうして一生懸命宗教家も医者もやりながら、人間はさっぱり精神肉体ともに健康にならない。かえって反対に病体によけいなりつつある。これはどこかに欠陥がなくてはならぬ。こんなにひどくなるとはおかしい。こんなにひどく不健康な人間ができたというのは、霊体ともに治すところの宗教や医学がみなインチキだったからで、もし本当のものができていたら、もっと結果がよくならなくてはならぬはずであります。しかし、まやかしものでもまるっきりまやかしものなら存在の価値はなくなる。いい点もたくさんある。もし今日まで、宗教や医学がなかったなら、もっと人間の健康はひどかったかもしれぬ。あるいはもっとひどくならずにすんだか、それは判らぬ。それは試してみなければ判らぬ。

宗教はそうではないが、医学のほうは、もしなかったならばもっと健康は害(そこ)なわれていなかったと思う。観音運動は宗教や医学を本当のものにするんで観音様の思し召しもそこにあるんであります。本当の宗教と医術をこしらえて、人間を本当に健康にすれば、それでよいのであります。

今夜の夕刊に大本教のことが出ていたということですが、国体変革の証拠あり、建物全部を破壊して根絶する方針とか出ていたんですが、これらも実に当然のことをしなかったためで、なんと言っても宗教は人の心をよくするもので、それ以外には宗教としての使命はない。しかるになんぞや、政治運動だの、国防運動だの、社会運動をするから、ぜんぜん宗教の埒(らち)外に出ているから、当然大鉄槌を喰うに決まっている。当然のこととは、宗教は宗教としての使命がある。商人は商人として、軍人は軍人としての各々するべきこと、すべからざることと判然とおのずから決まっている。これ以外のことをやれば滅びるに決まっている。今日の宗教は、社会事業をやっていますが、これが間違っている。そういう社会事業の背景となることはいいが、それを直接するということはぜんぜん間違っている。

大きなことは、小さいことで一人一人個人個人よいことをすればよい。良い個人がたくさん寄れば政治なども完全になる。あえて政治などに嘴(くちばし)を入れなくていい。政治は政治家がやる。宗教は霊肉を完全にする。それだけやればいい。ところが人間を完全にするだけの力のある宗教はない。精神が健全なれば、肉体は健全になるに決まっている。行いが当然な行いをし、間違ったことをしなければ健全になるに決まっている。

昔から「健全なる精神は、健康なる肉体に宿る」と言いますが、これはちっと疑問がある。ずいぶん大きな仕事をした人でも病体の人がある。有名な正岡子規など肺の初期になって、かえって大作を残した。石川啄木でも病院中で作った歌は実にいい歌がある。ですから「健康な肉体に健全な精神が宿る」と言えば、角力取りなど偉大な立派な精神を持ちそうなものです。しかし、健全な精神なら必ず健全な肉体を持つのは真ですから、根本は健全な精神で、健全な精神を作ることが根本で、あらゆる宗教をみて、病人のない宗教があれば、それは本当の宗教の使命を遂行してるものであります。しかしながら、いかなる宗教の信者も病人のない宗教はない。信者でも信者でない人も、健康状態は同じようなものです。それは力のないことを証明しております。ですから観音運動は宗教改革と医学の革命で、だいたいこの二つで世の中はよくなる。政治や経済などは、それは専門家に任せばそれでよい。宗教改革といっても、ルターのようなものでない、もっと大きい。

今日はすべて世界的になってるから、世界的のものでなくてはならぬ

各宗教の間違った点は、阿呆文学で指摘する。こういうことをまじめに言うと、はなはだお気の毒ですから、かえって反感を持つといかんから、滑稽にする。最初に大本教の一番の欠点をやり、次に天理教をし、最初は屁の玉宗、今度は南無諦め宗というのを作りました。いま、読んでもらいます。

 

南無諦め宗」(御発表)

 

この次は、外の方面へ向けて、狂人製造宗というのをやるつもりです。

観音運動の目的はただいまお話した通りでありますが、観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然のことをする人間を造ることは、非常に簡単であってなかなか難しい。なぜかと言えば、いままでのものは、人間が当然なことをしなかったために、どっちかへ脱線する癖がついている。その癖を直すのが観音運動にもなる。観音運動はご承知の通り、観音様はどちらへも片寄らぬお働きをなさる。男でもなく女でもなく、日でも月でも、また火と水のお働きをなさる。火と水両方合わしたもの、ちょうどお湯で、人間を湯へ入らせるように、いい気持ちにさせる。これは先だって言ったことですが、ちょうど気候で言えば春と秋で、寒からず暑からずという具合です。

 これが人間の行いになり、心になればよろしい。どういう行いかというと、どっちへも片寄らぬ、極端にならぬ行いで、いままでの宗教とは、その点が反対なほど違う。いままでの宗教は、非常に熱心になるほど極端になる。狂人じみてくる。狂言になる。そういう信仰になると、外でみるとおかしい。それですから親戚知人からは反対され、結局信者だけの付き合いになって、それで神様の思し召しに合ってると思う。ところが観音行は信仰が進むほど、信仰してるのかどうだか判らなくなる。この点が判らぬことで、要するに味噌くさくなくなるわけであります。たとえてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいうものはないのであります。

陽気が変わるように、天が晴れたり曇ったりするように、水の流るるごとく少しも拘泥してはいかぬ。

 

天地の諸の動きの狂ひなきは観音行の鏡なりけり

 

森羅万象、天地一切、あらゆるものの動きが観音行になっている。これを人間一切の行いにする。そうすれば永遠に栄える。それで人間が決めるところに天地自然の運行に反するから止まる。行き詰まる。ですから観音会はどこまでも栄える。天地一切の生成化育と同じことで、個人がそうなれば必ず栄えて行くにきまっている。その家はどんどんよくなる。天地自然の運行と外れることのないよう始終心掛くれば、だんだんそうなる。そうなるように人間は造られている。そうならないのは間違っている。人と話するにも、ちょうどそのときいい気持ちで聞ける話があり、それを話せば喜んで聞く。先方がまだその気にならないでおれば、時期が来ぬのですから話さない。四人五人と人がいても、その人達や、その場の空気によって言うべきことや、態度とか座り方などちょうどいい所がある。そういうことが判り、自然にそういうように行いができれば、魂の磨けた人で、根本はあくまで平和で行かなければならぬ。

観音様は天国ですから、争いがないから、地獄的なことは絶対にいけない。争いなどの場合は観音行とはぜんぜん違う。ですから水浴びたりなどの荒行は観音行ではない。水浴びるのは、魚か亀の子か蛙のすることであります。日光浴などありますが、あれは亀の子のやることで、人間は天日に背を干すべきものではないと私は言っている。

養生法でも食物でも、東京人はどういう物を食い、どういうふうに働くかちゃんとだれも決めない法則がある。規則書などにしても駄目なんで、まだまだ複雑な世界に、昨日と今日と同じ行いではいけない。

自然天然に観音様の守護を受ければ、ちょうどいい行いになる。で、非難もどうすることもできぬ。かえって世の中が狂えば非難されるかしらぬが良いものはどこまでもいい。床の間に置くべきものは床の間に置く。

当然のことをするのはわけはないことで、またあるいは今日の世の中の人には難しいかもしれませんが、どうしてもそうしなければならないことになってきている。いまははっきり判りませんが、いずれはいままでの考えを持っていると、生存することのできないほどの時期が来ている。そうならなければ世界は本当にならない。物質文化のほうは世界は恒久の平和になっているが、人間の精神のほうは後れている。これを神様は急がれているんであります。

個人をみて私は、その方の口のきき方挙動によってもよく判ることがある。その場、その時に合ってることを言う人は、よほど研(みが)けた人で、その場に外れてることを言う人がある。観音行に外れていて浄まっていない。

こういうふうに、士農工商のあらゆる階級、親子兄弟から社長、技師、労働的の仕事をする人たちなど、各々自己の階級職業などにより、ちょうど合ってる社会ができる。そういう世の中ができれば、悪魔の目的はたいへん齟齬(そご)するんで、これをさせまいとする。その最も強力なのが共産主義で、上のものを下へ、下のものを上へ行かせ、社会を混乱させ破壊に導こうとする。これが彼らの目的で、今日の学校教育なども破壊し狂わせることを教える。学校へ行った子は、親に背くなどは、その思想にやられる。こういうことに対して観音運動は、狂わせないようにする。宗教そのものも狂わそうとしている。

大本信者は喧嘩好きで、到る所で喧嘩する。そのくせいっぽうでは人類愛善運動などしている。これは自分達が神の選民と思わせる。そして社会の一般人よりは一等上だというのですから、社会の人間は眼下に見くだす。平民を見るような態度で、社会から特殊扱いにされると偉がる。またそういう人は団体中でも、信仰が進んでるなどと言われていばる。第一、教祖は三千世界の大狂人、教主は大化け物と、両方がそうですから、大いに狂人と化け物にならなければならぬというので、ほとんど狂人じみないと信仰が進んだと言えない。そしてあたりまえなことをすると、あれはまだ駄目だと言うのです。それで、その団体が気違いじみる。大本のみでなく他の各団体にもこういう団体はたくさんあります。これは悪魔が各宗教を通じて物を狂わせようとするので、その働きこそ実に恐るべきものであって、そういうような宗教と、後はぜんぜん無力な宗教との二種ですが、無力宗教のほうは売薬のようなもので見過してもいいですから、いままでの宗教は、真理だとありがたがった中にも、人心を狂わせようとする働きがたくさんあります。親鸞が言った「善人尚〔もて〕往生を遂ぐ、況んや悪人〔において〕をや」というように、悪を栄えさせるようなこと、ああいうようなことが各宗教にたくさんあって、生長の家で言う「物体は心の影なり」というのは、狂わせようとする大きなものであります。これも物を狂わせんとする一つの錯覚運動の極端な物質否定で、あの奥にはある悪魔がいる。ですからお気の毒だが滅びるんであります。

もしみなの人がああいう思想になれば、せっかく発達した世界がどうなるかしれない。当然のこと、当然のものが本当のものなんであります。

森羅万象一切に狂うものはない。草木の育つのも、太陽が出るのも、ちっとも狂わぬ。天地自然の運行は狂わぬ。悪魔は破壊しようとして、そのために人間を狂わそうとするのです。

神様はこれを救われるわけであります。