御教え『主神の御目的と天地経綸の真相』

「観音講座 第一講座」昭和10年7月15日

 

これから説く事は世界の大秘密である。それをいよいよ暴露するのであります。今までは夜の世界であった。それ故諸々(もろもろ)の穢(きたな)い事が匿(かく)れて居ったのであるが、観音様がこの世に現れた為に霊的に日が出た事になり、いよいよ秘していたことが目に見えて来た。その見えて来たままをお知らせするのであり、それで今までの迷いを去り、不安を除き去るのであります。今までのことは総てはっきりしていなかった。真理は簡単でありまして複雑な事はない。従来のあらゆる経典やお筆先は判らなかったのであるが、気が付いて見ると難しいものであります。色々ややこしい複雑極まるもの程、誤魔化しがあるのである。

マルクスの資本論のごときは、学者でもわからん位にややこしいものであります。要するにそれは真理ではないからである。自分で真理が判らないから、色々に誤魔化していたのである。御経、バイブル、御筆先もややこしくて判らん。これが今までの世で習慣となり、訳がわからんから有難いのであるとなったのであります。判らんお経を称(とな)えられて、有難いなぞとは一種の変態心理だと思う。この判らん御経を坊さんに上げて貰っても判らんものを、人間ですら判らぬものを霊になったらなお判らんことになる。この間違いを直して行く事が我々の今後の務であります。

座禅のごときも、実に馬鹿々々しい事で朝から晩まで座っている。これも一般人間には判りもしない寝言のごとき事を言って喜こんでいるだけで民衆に通用しない事は本当のものではないのであります。

バイブルも判らんが、これは外国語を直訳した為である。黙示録も夢物語に等しいのである。

儒教も孔子が言った事で余程判る事は判るが、昔の法律のごときであって、日本の憲法を見た方が反ってよく判る位のものである。しかし中には忠孝の道五常五倫の道を説いてある、これは宗教ではありません。ここにおいて喜びを与える事も出来ないのである。

日本の神道は古いのは教義がない。祭式、祈祷、呪禁(じゅごん)のごときものであるから、先頃宗教へ入れるかどうするかとの問題が起って未だ決定していない。

新しい宗教には、天理教、金光教、大本教等は教義が出来ている。天理教は教祖のお筆先が根本で謎のごとくで判らん為、学者、その他色々の人を頼み後に人間が教理を作ったのである。お筆先を読んでもある一部は判るが判然と全部が判らん。

金光教も色々あるがこれは極平易な事柄であって、現代の人間へ対する程という様な事はなく、単純な爺婆や花柳界の人達を喜ばす事である。

大本教はお筆先であるが、余り同じ様な事を繰返して煩雑過ぎ、謎の様な事が多過ぎる。中にて大本の霊界物語は、何もしないで読んでも一ケ月もかかる。その中に肝心な事はポッチリでこれも判らん。一度や二度や三度位読んでは判らんのである。これ故大衆を救うというものはない。はっきりしないから一般民衆を救う事が救えぬのである。これは夜の世界で出来たから判然としないのである。

今度観音様のことが判然とした時が光明世界なのである。五六七の世がありますが、今直(すぐ)に全部判然する時は敵が出来たり、邪魔が出たりして反感が出来て駄目になる。これが為観音様の御神業に障ることとなり、この方の目的を達せられん事となるので、困るから多少歯痒(はがゆ)い事もあるが、今までのことを思えばはっきりとしているのである。現在までの宗教のここはこういう事であると説いたまでである。