『結核』

「アメリカを救う」昭和28(1953)年1月1日発行

この病気も全く医学が作るものであって、さきにもかいたごとく、薬毒が体内各局部に集溜固結し、その浄化作用として感冒が起り、熱によって溶解した液体毒素は、痰となって肺臓を通って出ようとする。という訳で肺とは喀痰排泄のための通過路の駅ともいうべきものであるから、痰は一旦肺臓内に滞まり、咳というポンプ作用によって咽喉(のど)を通って出るので、咳と痰が出れば出る程よく浄化される訳である。ところがそれを逆解した医学は、咳と痰を極力停めようとするのであるから、実に驚くべき錯誤である。この結果痰は肺臓内に滞溜したまま、日を経るに従い漸次固まってしまい、暫くすると再び浄化が起り風邪を引く、その時医師に診て貰うと、発熱と肺臓内にある痰の固結、咳や吐痰、喘音等によって結核初期と断定する。なおまた前の時軽微な肋膜炎もあったので、その固まりが溶けて肺から出ようとする。これを肺浸潤と言い、首肩の凝りが溶解し、肺の上部から浸入するのを肺門淋巴(リンパ)腺、または肺尖加答児(カタル)というのである。

右のごとき順序を見れば、結核は全く誤れる医療によって作られるものである事がよく分るであろう。これを一言にしていえば、自然浄化によって体内の汚物が出ようとするのを、医療は出さないようにする。もちろん服薬も注射も安静も何もかもことごとく固め手段であるから、医学の進歩とは毒素固め方法の進歩でしかない事は余りにも明らかである。

そうして結核菌であるが、これも医学でいうごとく伝染するものではなく自然発生である。というのは肺臓内に固めた痰は、時日を経るに従い腐敗する。腐敗すれば微生虫が湧くのは物質の原則であり、しかも体温という好条件が拍車をかけるにおいてをやである。以上のごとく結核は医療が作るとしたら、この事が分らない限り、増えるとも減るはずのないのは断言して憚(はばか)らないのである。何よりも事実がよく示している。最近米国でも日本でも、結核の死亡率が大いに減ったと言いながら、患者の数は一向減らないという矛盾である。これは全く毒を強めた新薬や手術等による浄化停止法が進歩したためで、なるほど一時的生命は取止め得たとしても、全治ではないから、死にもせず働く事も出来ないという宙ブラ人間が益々増えると共に、発病者の数も依然たるものであるから、ベッドが足りないといって悲鳴を挙げている現状は、米国はとにかく日本はよくそれを物語っている。

ここで結核菌についても徹底的にかいてみるが、近来結核医学は大いに進歩したとされているが、吾々から見れば進歩どころか、門口にも入っていない事実である。というのは医学は菌のみに囚われ、菌さえ殺せば結核は解決出来るものと誤信している事である。しかし菌といえどもまさか偶然空中に発生したものでもなくまた人間の体内に理由なく湧いたものでもないのはもちろんで、その発生源が必ずどこかにあらねばならないはずである。

それがいよいよ私によって発見されたので、以下詳しくかいてみるが、それについて前もって知っておかねばならない事は、人体なるものの構成であって、科学は人体を単なる物質とみなしているが、これが大変な誤りである。何となればもしそうだとすれば、人間の生死はどう説明していいか分らない事になる。ここで肝腎な事は人間の精神すなわち心である。これは目には見えないが科学といえども否定は出来ないであろう。というのは人間には肉体の外に、肉体と同様な形をしている霊という無に等しき個体が、厳然と存在しているからである。というように霊と体とは密着不離の関係にあり、死とは霊が脱出し、体の活動が休止する事である。そうして心は一秒の休みもなく動いており、人間が何らかの意欲が起るや、間髪を容れず体に移って行動となるので、体が勝手に動くのではない。としたら人間の本体は心、すなわち霊にあり、霊こそ支配者であり、体は隷属者であるから霊主体従である。この理によって病といえども最初霊に発生し、体に移写するので、これが真理である。従って根本は霊を健康にする事である。これを一層詳しく説いてみると、元来霊なるものの本質は無色透明体であって、最初この透明体に曇りが発生する。これが病原であって、科学的にいえば、本来霊の物質化が血液であり、血液の非物質化が霊であるから、霊の曇りが体に映るとその部の血は濁り、濁血が霊に映ればその部が曇る。というように霊体一致ともいえる。

では霊の曇りの原因は何かというと、宗教的にいえば罪穢の堆積であり、物質的にいえば薬毒の溜積である。そこで一体曇りの本質とは何かというと、これこそ不純水素であって、日を経るに従い漸次濃度を増すと共に縮小する。するとこれにバクテリアが発生する。このバクテリアは、いわば植物性無機質ともいうべきものであるが、時と共に漸次有機質に変化し動物性となる。これが菌の卵子であって、この卵子が育って個体すなわち一人前になったものが、顕微鏡で見得る黴菌であるから、ウイルスとは右のごとく菌の卵子から親になろうとする中間粒子で、顕微鏡には映らないが確かに在るのは、医学でも認めている通りである。これを最も分り易いたとえとして、彼(か)の塵溜に湧く蛆である。医学は蛆だけを殺そうとして、塵の方に気が付かないと同じである。

以上の理によって、結核を全滅させるには菌の発生源である霊の曇りを解消する以外絶対ないのである。ところが現代医学の研究はそこまで達していないため、結果である菌のみを対象とし、研究しているので、もっと根本に触れない以上、何程努力しても徒労以外の何物でもないのである。もっとも現在の顕微鏡ではウイルス以上の微粒子を視る事は不可能であるからでもあろう。ところが幸いなるかな、私によってその根源が発見された以上、最早結核問題は解決されたのである。

では霊の曇りはいかにすれば解消出来るかというと、これを説くに当っては、その前に曇りの実質をかかねばならない。前記のごとく不純水素というのは水素中に不純分子が含有されており、もちろん顕微鏡でも見得ない程の超微粒子であって、この微粒子を消滅させるのが浄霊法である。これによれば右の毒微粒子のみが焼尽され、純粋水素は残り病原は全く解消されるのである。そうしてこの施術こそ人間の掌から放射される不可視光線であって、この光線の本質は火素といって火の霊である。すなわち火の体は熱であるが、火の霊は熱くはないが、体以上の素晴しい強力さである。これについて以前から科学では水素を言うが、火素を言わないのは不思議である。では右の火素がなぜ掌から放射されるかというと、この説明についてはどうしても宗教的でなくてはならないから、読者はその積りで読んで貰いたい。何となれば現代科学は霊を無視し、物質のみを認めている以上、容易に信じられないからである。このように科学は体のみの進歩で、言わば跛行的(はこうてき)不具的進歩であるから、真の病理も治療法も発見出来ないのは当然である。この意味において私は医学は機械的であるが、科学的ではないと常に言っている。その証拠には病気の場合、患者が医師に向かって病原を訊いても、曖昧極まる一時のがれの答えしか出来ないのは医師も経験するところであろう。それに引替え吾々の方ではどんなに深く訊かれても、立派に科学的理論をもって堂々答えるから、いかなる患者も納得し安心するのである。

話は戻るが右の浄化力こそ、神エホバが火素の本源ともいうベき霊光の玉を私に与えられたのであって(これは腹部の中央に直径六糎(センチメートル)くらいで肉眼で見る人もある)この玉から無限に光波が放射され、その伝達方法として二分の一メートルくらいの紙片に、墨と筆で光の文字を書いたものを畳んで懐へ入れさせる。すると私から出る光波は、霊線を通じて施術者に伝わり、その人の掌から放射される。これが浄霊法である。ちょうどラジオの放送局と、アンテナと受信機のようなもので、実例報告中〔略〕にある御守というのがこれである。ではなぜ神はそういう方法を私に授けられたかというと、これこそ彼のキリストが「天国は近づけり」と予言されたところの、紀元的時機が来たからである。その根本としては第一に人類から病を追放する事で、神は病気滅消の方法を私に教え給うたのである。

右は結核菌とその他についての説明であるが、次に伝染病菌についてもいささかかいてみよう。

 

御蔭話(結核)

(1)東京都M・M

シベリヤの捕虜生活の苦難の道をたどり、帰国の喜びも束の間、病魔におそわれ生きる希望もなく、この世に神は絶対になきものと一家心中まで覚悟した私の目前に救世の光は輝き始めたのです。疑いつつうけた浄霊に奇しくも再起の喜びを得、感謝感激の余り拙文も省みず御礼申し上げます。

思い起せば六年前、終戦と同時に緑鬱蒼と生い茂るシベリヤの奥地に連行され、想像だもしなかった捕虜生活が始つたのです。九月中旬早や降雪、気温は下り、毎食飯盒の蓋一杯に高梁或は玉蜀黍等へ塩を入れて炊いた物、塩鰊のスープ、塩鰈(かれい)等が渡され、なれぬ食物に初めは咽喉を通らなかったのが、何時しかやっと咽喉を通る様になり、捕虜生活も板について来一〇月、一一月には野菜の配給は少しもなく、手あたり次第とってたべた青草も枯野原と化し、雪にとざされてしまうと、同時に食糧不足栄養失調の為、体の自由がきかなくなり、次第に寒さ加わり、肉も凍る厳寒にたえかねてバタバタ倒れてゆきました。

「皆頑張ろう。忍耐だ。我慢だ。帰る迄は」を合言葉に頑張りぬいていた気力も潰え果て、妻を子をそして故郷に思いを馳せつつ、異郷の空に傍なくも一人二人と散ってゆくのでした。そして五、六百人収容の病院で日に一割以上の死亡者を出す様になり、死屍は屋外の一カ所に集められ、それがカチカチに凍ると軍医がタポール(鍼)を持って来て頭から腹まで立割り、何処を調べるでもなく解剖したことにして、死亡診断書を書いて行って仕舞う。後の死体を日本人の兵隊が南京袋に詰めて橇(そり)ではこび、各処に掘られた穴に投込む由、同胞のこの痛々しい姿に、誰か暗涙に咽ばざる人があるでしょうか。この惨劇に目をおおいつつ、こんな事が赦されて神仏があるのだろうか。寂莫さを感じつつも、一日千秋の思いで無事の復員を待っているだろう家族を思うと、崩れゆく心に鞭打って森林の奥深く膝まで没す雪の中で、杖をひき、伐材の作業に頑張り続けました。苦労に苦労を重ねて満二年、やっとシベリヤの山奥にも民主グループの声高く、作業も、食糧も楽になったとき、ハラショラポータ(作業良好)として政治部員より帰国の内命を受け、患者の中に加えられ、懐しの故郷へ元気で帰る事が出来ました。しかし、長いシベリヤ生活に病気一つしなかった私が故郷へ帰りやれやれと腰を伸したのも束の間、ニニ年九月に帰り、同年一二月には左鼠蹊腺が腫れ上り、T診療所にて第四期性病だろうとの診断、早速硼酸湿布、ズルファミンの服薬致し、一週間で散ってしまったとホッと一息致しましたら、翌年一月尿道と直腸の間に穴があき小便の半分は肛門へ廻る様になり、慶応病院へ通院中二月には左睾丸が腫れ、激痛加わり、三週間程病室のあくのを待って手術(切取)致しました。この間ペニシリン三〇万単位五本、ザルブロ二〇cc一〇本注射致しました。手術の疵口も治らぬ内に、左湿性胸膜となり、ザルブロ三〇本うち、三ヵ月で治癒の形をとり勤めに出て一カ月、今度は右睾丸が腫れ上り、片方だけは何とかして助けたいと、ペニシリン三〇万単位五本、ザルブロー五本注射しましたが痛みは益々加わり、卵大に腫れ、ついに又手術を言渡されました。手術せずなおるものならと、ダイヤジン五〇粒程のみましたが、やはり腫れと痛みは退かず、止むをえず入院手術を受けました。幸い子供は男児が一人ありましたものの、無慙(むざん)に切取られた睾丸を見て、一生子供は一人より授からぬかと思うと、何時しかハラハラと頬を濡らす涙を止め様もありませんでした。三ヵ月して又左胸膜が再発、六カ月休養して勤めに出て五ヵ月、又しても再発、 医師より絶対安静を申し渡され遂に立つ事の出来ぬ体となり、二四年一二月には右肺も侵され、同時に腸結核も発病せし診断を受けた時は、一時に希望も消え、只々悲歎の涙に暮れました。

近所の子供は「肺病、肺病」と寄りつかず、罪なき子まで相手にされず一人淋しく遊ぶ姿を見ては、父故にと思えぱ吾運命に女々しく泣くのみ。あの捕虜の苦しみもこの子の為に親子しての楽しい生活を夢見つつ、頑張りぬいて来たのではないか。生きたい、もう一度元気になりたい。再起を念願して最後の財布もはたきストレプトマイシン五本を入手致し、一日に二回の注射で解熱し始め、ザルブロ、ザルピタール静脈注射八〇本にて二五年三月四月と発熱もなく、鳴呼これで助かった、後は恢復を待つのみと夫婦手を取って嬉し泣きに泣きました。が又々五月発熱、腸は痛み、下痢は増し、背中、胸はたえ難き激痛、氷枕ははなされず、右肺に空洞が出来手術するより方法なしといわれ、うちのめされた様な衝動をおさえ、入院を御願い致しましたが、何時まで待っても部屋はあきません。

最早や恢復の望みも夢、一日も早く死のう、皆さんの御迷惑を無くせねば申し訳ない。一枚二枚と手放された着物も今は薬代に変るものさえなく、病苦と経済苦とにせめられて前途は死あるのみ、それより唯自殺の機会を待ちました。

「父を許してくれ」も心の内、青酸加里を入れたアンパンを手に「坊や良い物上げるよ」と差出せば、飛び来たり喜ぶ吾子。皆さん如何に心を鬼にしても渡す事が出来ましょうか。手は震え、「待て!」と叫ぶ心の声、ハッと吾に帰る悪夢の様な瞬間から呼び覚された時、罪の深さにとめどなくこみ上げる鳴咽。今日は死のう明日は死のう、と準備し乍らも、無心に微笑で眠り居る子供の顔を見ると決心も鈍り、もう一日もう一日親の務めを果してと夫婦して涙に暮れました。死を助覚悟しながらも生延びたい生への欲望故に、バスをのみ続け”て居りました。

二六年三月一六日実家の前のSさんが、母より「Mが死にそうです。何とか助けて下さいと依頼された」と来宅下さいました。そして救世教の御話を御聞かせ下さいましたが、シベリヤ生活より神仏に合掌致す事が出来なくなっておりました私には、尊き御話も信ずることは出来ませんでしたが、夜を徹してお話し下さるSさんの誠心に動かされ、「どうせ死を覚悟していた私です。薬をやめるのはいと易き事です。それでは信じなくてもよいでしょうか」と言った時は夜はしらじらと明け初めていました。「結構です。只御浄霊を頂くと種々変化がありますが、その時驚いて間違った手当をして自ら墓穴を掘らない様に」と申されます。助かるものなら今一度元気になりたい、子供の為に・・・・

御浄霊を頂きまして何時になくグッスリと眠られ、翌朝は床の上に起上り食事も出来ました。今迄は呼吸苦しく、便所に行くのもやっとだったのに、二〇分三〇分過ぎても疲れる事なく、本当に不思議だと妻と話合って居りました。それより毎日御浄霊を受け、一週間後には庭へ散歩も出来る程になり、鳴呼助かった、業病治る。きっと治して頂けると感じ、心より唯々有難うございました、と合掌致す事が出来る様になりました。嘔吐下痢の激しい浄化も三、四回あり日増に元気が加わって参りました。

「有難い御守様を頂きなさい」と、Sさんが妻の御礼を貸して下さり、御厚意により夫婦そろって教修を受けさせて頂ける様になり、M町の教修会場へ行きました。行く時はフラッとしていた体も、一日の教修を終り一歩外に踏出せば足がシャンとして歩みの軽き事、不思議!駅の階段さえ元気の時と変らぬ様に昇降出来ました。有難い御守護と感謝申し上げる許りでした。三日間終始涙で拝聴致し、御守様を拝受致します時は、手は震え、神人合一、観念の神にはあらず、現実の神、神はこの世に厳然とおられたのだ、穢れ多き吾身にも御分霊が宿らせたまう随喜の涙にひれふしてしまいました。「もう二度と死ぬなんて考えを起しません。お救い下さい」と涙で後の声は消え、Sさんが「お目出度う」と申された時は声も出ませんでした。なみいる方々も皆涙を流して喜んで下さいました。

戦争、捕虜生活、病床、幾度か吾子と共に死を決した絶望のドン底の姿、走馬灯の様に過ぎし日がうかんでくる。真理を知らぬが為に我と吾身をさいなんでいた過去、最初は鼠蹊腺部が腫れた丈であるのに、浄化停止の為に再発に再発を重ね、肉を切り、医師から見放されるまで医薬に対する不信が何故おきなかったのだろうか。犯罪、戦慄すべき戦争も元を正せば薬剤の為とは。世界人類の知らざる処に不幸の種が根強くはられている。分れば分る程一つ一つが驚異でした。今此処に真理は開明され、不幸を生んだ文明は幸福を生む文明と切替えられる時期が到来している事、真善美調和した天国の出現・・・・苦しみが大きかった丈に教われし喜びも亦一入でした。

入信翌日より三人五人と毎日御浄霊に飛び廻らせて頂いており、全く夢の様でございます。それよりは一途に光明如来様に御縋り申し上げ、度々御浄化を頂き、日増に健康になりつつあります。

K支部の旬並祭、月並祭にはかかさず参拝致しておりますが、その日出掛ける前一回二回と必ず幅吐の浄化を頂き、罪穢多き身を浄めて御参りさせて頂けます御恵に、その度毎に明主様への感謝を深めさせて頂いております。

五月一日には熱海へ、七月一日には強羅へ御参拝させて頂き、親しく明主様の御顔を拝し、地獄世界より救われしこの身の仕合せを心より感謝申し上げました。あれ程無神論者で疑った頑固な私が申し訳なく、感無量でございました。この絶大なる救世の御力を未だ知らざる世の人々に、一人でも多く一日も早くお知らせ申し上げねばと、固く固く明主様にお誓い申し上げた次第でございます。

(昭和二六年九月一五日)

(2) 東京都N・T

肺結核の苦悩のどん底より歓喜に満ちた生活に転換さして頂いた私の喜びを、嬉しさの余り結核に苦しむ人の為に乱文では御座いますが御報告させて頂きます。

私は血気盛んな折、風邪気味ながら東京貯金支局に勤務致しておりました。昭和二一年一一月の事、年一回の集団検診がありまして、レントゲン検査で曇りがあると申し渡されました。小さい時より病気一つしなかったもので、その時の落胆は言い様がありませんでした。役所の医師に休む様に言い渡され、仕方なしに休む様になり、その後宮内省病院へ行き再診して左肺浸潤との事、三カ月天井ばかり見ている安静生活が始りました。昔から不治と言われる病気乍ら、医師の言う通り安静、栄養を忠実に守り、結果は一進一退、早く治そうと焦りました。三カ月経ちレントゲン検査の結果「空洞が出来ている」との事で、気胸をする様勧められ、私は反対でしたのですが、親も奨めますので仕方なしにやりました。その気胸をやるのが痛いのでその日が来るのがいやでした。空気三〇〇㏄位入れ空洞をつぶすとの事です。胸は苦しくて困りましたが、それでも根気よく続けました。その結果空洞はつぶれましたが、今度はあまり空気を入れすぎ副作用により水が溜り、遂に肋膜炎を起して了いました。その後も水を取り乍ら気胸を続けました。気胸は根気よく二年間約七〇回続けました。その中「心臓は右に移動し、溜った水は化膿した」との事で、一週間許り入院を致しまして調べましたが、外科では「化膿していない」と申されましたので一時退院を致しましたら、気胸のあとが腫れて化膿し始め、オデキの様になり、腫れては膿が出、又腫れるという風に幾個所も化膿して参りました。その内皮が破れ胸一杯潰瘍になってしまい、実に困りまして病院へ行きました処、外科へ廻され治療を受ける事になりました。しかし余り酷くて治らないので終には面倒になり「手術をした方がよい」と申されました。その時の外科医との対談中私が「手術をすれば治りますか」と訊けば、「それは分らん、君道路を歩いていて自動車に轢かれるという事もある。それは突発事故だ。手術も同じである」と言われます。人間の生命を扱うのにあっさりした解答で、唯茫然となりました。内科医は「反って手術しない方が良い結果になる時もある」と言われますし、私自身も気が進まぬ儘手術を中止して家庭療法に入る事にしました。その時、私はもう医学にも見放された者と悲観し、殆ど自暴自棄的な気持で運を天に委せていたのです。

丁度その頃昭和二四年一月一六日、フトした動機で隣のKさんという信者さんの家に行くようになり、そこで神の大愛の御手は差伸べられたのであります。色々とお道の話をお聞きし、私も驚いて浄霊を受けてみる気になり、それより赤羽のAさんと言う信者さんの家へ通い浄霊をして頂きました。色々有難い奇蹟の話もきかされますし、浄霊の原理も話して貰いましたが、その頃は勿論半信半疑で唯無我夢中でした。初めの中は別に変化もありませんでしたが、五月に御浄化を頂き、血便の下痢がはじまり一週間ばかり続きました。それからは身体は軽くなり、肋膜の水が出たのではないかと思いました。その後は日増に良くなり、潰瘍もすっかり乾いて来たのです。お蔭様で二年目には気胸の後の傷口もくっつき、外科医師の絶対にくっつかないと言った傷口が塞がり、大変嬉しく感激致しました。

医療をやめてから二年目の二六年六月二人日に久し振りでレントゲンで診てみたく思い、宮内省の病院に行きますと、両側の椅子には病人が一杯居りました。その中には二年前に4知っている患者さんも居り、まだ身体が悪くて、青い顔をして続けて通っているのに驚きました。前にお世話になったS 医師に会いました処、先生は私があまり変りましたので、暫くは私と分らない様子でした。それもその筈です、二年前には死の一歩手前、実に見るも隣れな状態で病院を去ったのですから。やがて診察室に入り診察を受けました時S医師は「君、幽霊かと思ったよ」とか「もう三回忌の筈じゃないか」等と言ってしきりに驚かれます。私は「幽霊が話をしますか」と冗談を申しましたが、本当に自分は大きなお救にあずかったのだという事を改めて深く心に感じ、感謝の思いに満されました。診察の結果兎に角余りに良好なので驚き「一体どうしてこの様に丈夫になったのか」ときかれましたので、救世教に入信、御浄霊を受けて治して頂いた一切を話しました。医師は「水もないらしい。ラッセルの範囲も小さくなった」と診察しつつ、唯々ウーンと唸った切りで首を傾げて居ります。

更にレントゲンの透視で調べて「水もなく大変肺もきれいだ」との事で、又々驚いておられるではありませんか。この時程医学の力と浄霊の御神力の違いさの大きい事を感じた事はなく、鳴呼、こうして自分は教われたのだ、これも皆明王様のお蔭と深く深く感謝申し上げました。早く御礼申し上ぐべき処、延引致しました事をお詫び申し上げます。明主様本当に有難うございました。

(昭和二七年四月二五日)

(3) 佐賀県S・T

物情騒然たる昭和二六年のこの春、私の長男H(一七歳)は福岡県A高等学校へ入学することになりました。常日頃さしたる勉強の様子もなく、入試困難と言うよりも、当然入学不能とさえ思っておりました処、奇蹟的にも入学の喜びに胸を張って家を出て行く我子の姿を見る時に、私の想いは一三年前の追憶にふけるのでございます。 長男は昭和一〇年七月二三日に出生、間もなく排便の状態を医師に見られたのが始りで、消化不良の烙印を捺され、人工栄養注射等々手を尽す毎に状態は悪化し、当時私は三五円也の月給生活者として、当然落ちて行く経済逼迫に、医療の手当も段々遠くなり、手を拱いて唯子供の死の迫るのを待つ状態となったのでございます。その間肺炎を惹き起し、「吸入器を買って掛けるように」との医師の言葉にも、それを購う金すらなく、胸のはりさける様な思いに、家に居たたまれずそっと抜け出て放心の姿を町はずれの小川の堤に歩いたことも幾度かありました。その間に医師を替えてみたらとの人の言葉に誘われて、今迄の小児科専門医をやめて、産婦人科専門医へ転じたのです。処が、その医師のやり方は以前の小児科医とは全然反対で総て放任主義で、その言うことは、「私の家の子供なんかは腐りかかったバナナでも少し宛やるようにしている。そのうち物にあたらなくなる。乞食の子を御覧よ。私なんか風邪を引いて熱のある時には必ず風呂に入るようにしている」と言うのです。私はびっくりしましたが、もう所詮この子の生命は無いものだとの観念から私も放任主義を取ったのです。処が良くなって来る様子はないが、それかと言って死ぬ様子もないのです。この様な状態で、生まれた時は丸々と肥っていた優良乳児も今は見る影もない姿となり乍ら、四歳を過ぎました頃変調を来し、当時東京でも有名な早期診断の大家とも言われる某博士の診察を受けたのです(私もその頃は博士の診察料位はどうやら一、二度ならば支払える様な状態にありました)。処が某博士は「これは小児結核です。而もかなり進んでいる。まあ遠慮なく言うなら、後二年位しかもたないでしょう」と言い、私は又も大鉄鎚を加えられたのです。今となっては為すべき方法もない、どんなことをしようとも後二年・・・・この時、ああこの時、御光に接したのでございます。

我儘一ぱいに育てた我子、時には親も腹立たしくなる位の我儘の子を・・・・明主様は何時も慈愛の御顔をもって御浄霊下されたのでございます。親としては唯々感謝、感激の明幕が続きました。それ以来、或時は眉をひそめる程の大浄化を幾度か戴いて参ったのでございます。この間、次男K(当年一四歳)は三回に亘る疫痢の状態、又或時は絶望的の脳膜炎の状態等々の大浄化も御救い賜わり、今日に至ったのでございます。現在私は五児の親となっておりますが、各々の子供がそれぞれ奇蹟の御救いの中に今日では益々元気で日々を送らせて戴いている次第でございます。

私は声を大にして、世の子を持つ親として皆様に御告げ申し上げたいのでございます。六歳を限りとしてこの世に無いと言われた私のこの子が、今日あるこの姿を御覧下さいませ。この様な奇蹟は独り私共に止まらないのでございます。或人は一家心中の寸前に御救い戴き、或人は今日の日本に於て最も排斥さるる可き主義思想の渦中より一歩一歩と御救いの御力よ引抜かれ、只今は夢のような明暮を過させて戴いている人もございます。これ等数限り無く続く御守護の奇蹟を正しく見つめて戴き度いのでございます。なおこの子は現在バレーボールの選手にさえなり、背丈も親より既に越えて五尺三寸、足も一○文半を越えようとさえしております。この事実をどうぞ御覧戴き度いと常々希望致しております。

奇蹟の生命、奇蹟の発育、次いで奇蹟の入・・・・明王様誠に有難うございます。何卒今後とも私共親子等を地上天国建設の御聖業の御一端にお使い賜わります様伏して御願い申し上げます。

(昭和二六年七月四日)

(4)神奈川県H・M

今ここに謹みて感謝の御礼を申し述べさせて頂ける身の有難さに、胸が一杯でございます。

昭和二五年もあと一カ月足らずと言う時、私は頸のぐりぐりが腫れ出し、某病院で診察を受けますと「ルイレキ」と診断され、「体から治さなければ治らない」という事で、内科に行きレントゲン写真をとりました処、今度は「肺浸潤」と診断され、これからの生活の事など考えている矢先、子供(一年九カ月)がハシカになり、楽しかるべき正月も暗い家の中で過しました。

子供はハシカの後が悪く、私は安静にしていなくてはいけない体で子供を背負い、一日おきに医者に通いました。一カ月通いましたのに余り果々しくないので親子でレントゲン写真を撮りましたら、私の結核は一層進み、絶対安静にしなければならなくなりました。でも「子供にはまだ伝染していない」と言うので伝染を心配し、子供を或厚生施設にあずけました。これで私も安静に出来工場を休んで居た主人も安心して働けると、喜んだのも束の間、主人は出勤して二日目に、手首に打撲傷を受け、働けなくなって帰ってきました。どこまで私共には不幸が続くのかと死にたくさえなりました。主人の傷は一週間たっても治らず、心配の余りレントゲンで診て頂いた処「幸い骨に異状はないが骨膜炎になるおそれがあるから当分無理をしない様に」と注意され、何時働けるとも知れず、本当に心細い思いでした(その頃は医療費は親戚から借りて居りました)。

ふと三年前主人が腰の痛みを治して頂いた事が頭に浮び、早速子安の救世教の○先生にお願いする事にきめ、三月二三日に初めて御浄霊をして頂きました。翌二四日A出張所の月並祭で主人だけお参りに行き、T支部長先生に御浄霊して頂き、色々とはげまして頂きました。御守護に依り手も大変楽になりましたので、翌二五日から工場へ出られる様になりました。それからは御神書、『栄光』新聞等乏しい経済乍らも一生懸命拝読させて戴きました。O先生は働いている主人や私の為に、夜間わざわざ御浄霊に来て下さいました。お蔭で主人は働き乍ら手の傷がなおり、一週間工場で力仕事をしても何ともない迄に完全に治して頂きました。

四月八日には主人が有難いお守様をB支部の月並祭の日に頂戴致し、それからは主人に朝晩浄霊して頂き、お蔭様で体も日増に恢復し、身の廻りのこと位出来る様になり、半月後にはA出張所へ通える様になり、一層工合よく、「ルイレキ」も四カ月目振りにさっぱりとさせて頂きました。

丁度その頃主人が子供に面会に行きますと、子供は小児結核になっており、食欲もなく毎日栄養注射で補っているということで、もう骨と皮ばかりに痩せ衰えてしまい、主人もびっくりして帰り、早速連れもどす相談を致しました。又O先生にお取次をお願いして明王様に御守護御願をして頂きました。

処が面倒な手続をして漸く預けた為、連れ戻す事も面倒にて、私が全快しない中は親子共倒れになる恐れがあるからと、レントゲン写真を撮る事になり、保健所で撮りますと「大分悪いからすぐ整形手術をした方がよい」との事、この写真を持っては子供を迎えに行く事も出来ず、思案に暮れてA出張所へ行き、O先生に御相談致しました。先生は、「大光明如来様によくお願いして行って御覧なさい。必ず神様がよい様にして下さいますよ」と、笑いながらおっしゃるのです。素人の私が見てさえ悪い処がはっきりわかる写真だからと思いましたが、先生の数々の御注意は神様が先生を通じての御言葉と思い、大光明如来様によく御守護をお願い申し上げて持って参りますと、「ああこれなら大丈夫」といわれ、余りの事に何と言ってよいかわからず、こみ上げてくる嬉しさ有難さ・・・・どうぞ御想像下さいませ。念の為手術の事を話しますと「そんなに進んでいない。もう少し気をつけていれば大丈夫」という事で、三カ月振に子供に逢う事が出来ました時は、天にも昇る気持でございました。

不思議な事には、明王様に御守護をお願い申し上げたその日から、子供の食欲が出て、迎えに行った時は普通食を食べて注射も一本位しか打っていないという事で、重ね重ねの御守護に唯々涙が溢れるばかりでございました。

それからは毎日、親子でA出張所へ通い、一日一日と元気にならせて頂き、六月一人日の月並祭には私も有難いお守様を嬉し涙にて頂きました。続いて六月二五日には御屏風観音様もお祀り出来ました。

唯今では子供も人一倍のいたずらっ子になり、主人も元気に毎日働かせて頂き、借金も全部返済出来、本当に光明一家にさせて頂きました。この大光明如来様の大御恵に少しでもお報い申し上げる覚悟でございます。明主様、誠に有難うございました。

(昭和二七年五月五日)

(5)長崎県S・T

私は昭和二六年六月一五日御守様を戴きました者で御座います。妻A(三四歳)は四月初めに発病し床につきました。五月頃○○診療所の医者に診てもらいました時、医者の言われますには、喉頭結核並びに肺結核との診断でした。「薬をのんでも注射をしても治りますが一時ですよ」と言われ気を落しました。私の祖父(Y)も四〇代に妻を亡くし、母K(四三歳)もこれにて逝去し、今また三代目の私も男やもめとなるのではなかろうか等と日毎夜毎に悩み続けました。妻は日に増し衰弱し、苦しみ、将に死の一歩手前となりました。近所親族の人に御茶を出してもその侭にて飲んで戴けず日毎に来る客も減り、家は暗く、心は重く、仕事も手に付かず、子供の面倒から家畜の世話と多忙な事ばかりにて父とは争い、前途の希望はなくなり、捨鉢な心特でしたが、何とかして妻を助け度く思い、悲しい時の神頼みとか、あちらこちらの神様参り等と心はまよい、薬草または「まむし」等と人から聞き次第してみましたが、病人は前記の如く悪くなるばかりでした。

その頃私のすぐ近所に、お道に入信されているT様が、或店先にてお道の有難いお話をしておられました。私は一寸用件を後まわしにして聞きました。不思議にも病人をもつ身は心ひかれました。良く聞いて居りますと只の信仰でなく、科学的のお話も有り、霊的の御話も有り、現代医学より上であると思い、早速来て戴く様に御願い致し、「妻が全快すれば私もお道に協力しますから」と御願いしました。翌朝、T様は来て下さいました。御浄霊を戴き終ってから病人に向って「私は奥さんは結核ではないと思います。御浄霊を続けられ信仰なされば教われますよ、治りますよ」と申されました。私も妻も「これほどの病気が手をかざす丈で」と本当には思いませんでした。私と同じように農業しておった人が六ヵ月位信仰して、医者の見切った病人をあまり簡単に言われますので、一寸信用出来かねましたが、店先にての話を思い出し、又来て戴く様に御願い致しました。それから毎日来て戴きました。御霊紙等も戴かさして下さいまして、四、五回の御浄霊を戴きますと不思議に熱は下り、咳も止り、大変楽になりました。その喜びは何とも言えませんでした。T様は「近所ですから毎日来ては上げますが、一寸長くかかりそうですから入信されては・・・・」と奨められ、私も有難く六月一五日御守を戴き入信さして戴きました。そして私は分らぬ儘手をかざし始めました。そして二、三日おき位にT様に来て戴き御導を受け、続けて御浄霊を致して居りますと、一日一五回も下痢を致しました。又しばらくして一〇回も下痢や痰が出つつ日々快方に向いました。八月八日御屏風観音様を拝受致しました。妻は元の健康体に治して戴きましたが、八日の晩に二歳になるO(二男)が急に熱発して四〇度余りとなり、死人の如くなり、かすかに脈打つのみでした。私が見ますと日本脳炎らしく、私は夜通し御浄霊を致しましたがあまり良くならず、朝を待つて私は着物にOを包んで抱えてT様宅に行き、光明如来様に一生懸命に御守護を御願いし、御浄霊を戴いて帰り、夕方妻がつれて御参り致し御浄霊を戴きましたら、その次の日から快方に向い、治らせて戴きました。八月一一日妻も四里位もある出張所まで初めて参拝し、御守様を戴き又四里を歩いて無事帰宅致しました。その晩の私の気持を御想像下さい。

九月二六日晩より長男M(人歳)が全身が腫れ上り、腎臓炎の如く苦しみますので、毎日御浄霊を致し、またT様宅に御浄霊に参らせました。その頃妻の里に供養に行きますと、親族は口を揃えて「早く医者に診てもらいなさい」と申しました。私は「有難い御浄化ですから」と安心して居りましたが、あまり良くないので一〇月五日支部のお祭りに自動車にて連れて参りました。そして出張所のN先生に特別浄霊を受けました。すると見る見る二、三日にて快方に向い治りました。一〇月一八日H先生の御奨めを戴き、長男Mも入信さして戴きました。

私も、二七年一月一三日御神体を拝受し、御奉斎戴き、暗かりし我が家に光は射し初め、昨日と変って明るく私は前途が楽しくなって参りました。二月一五日に唐津支部に参拝し、光明の御守様を戴きました。

私もお道の有難さを人様に話して居り、お救いの道に働かさせて戴いています。今年よりの麦作からは自然農法もやらさして戴いて居ります。世の皆々様前記の通りで御座います。何卒一人でも多くお道が良くわかられて救われなさいます事を切に祈ってやみません。

御明主様、大光明如来様数々の御守護を戴きまして誠に有難う御座いました。この上共御救い下さいませ。入信の後の御守護の御報告を有りの儘致しました。色々と御導き戴きましたB先生、N先生、H先生誠に有難う御座いました。

御讃歌 観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ

(昭和二七年三月二九日)

(6)兵庫県S・I

謹みて御守護の御礼御報告申し上げます。昭和二四年十一月初め右肺浸潤となり、全快迄は一年半位では難しいとの診断で勤めを休み、絶対安静せよと言われる侭家にて療養をして居り、その間気胸療法をして、時折ビタミン注射をして日を送って居りましたが、一向に熱も引かず、三七度より三十八、九度を上下して居りました。三月も過ぎ早や一二月、来る日も来る日も天井を眺め、細い俸給で栄養をとらねばならず、一家六人迫り来る正月を控え、病床にふさねばならない不安の明け暮れ、全く病貧争の生活でした。一二月中旬、ふと病気見舞に来てくれた知人(未入信)から、「手をかざして病気がなおる信仰が有るが」と奨められました。何の事やらさっぱり解らず、でもひょっとしたらと思う気持も有り、「溺れるもの藁をもつかむ」のたとえの如く、一二月二〇日信者のFさんに来て戴きましたが、初めて見る手をかざす動作、こんな事で病気がなおるのか、と疑問やら不思議やらで、今から考えれば、何と勿体ない事を考えたものかと深く御詫び申し上げる次第です。

浄霊して下さるFさんが両肺浸潤で御蔭を戴き、時折農事をして居る姿を見て、きっとこの信仰でなおして戴けるものと思い、毎日毎日浄霊を戴いて居りました。

しかし信仰の道も日浅きが為、半信半疑の気持をどうする事も出来ず、一週間に一回か、一〇日に一回位気胸を受け、又浄霊も戴いておりました。

その頃全く迷いに迷った事は事実でした。絶対信仰の道を進まして戴けるか、それとも医療で行くべきかの二筋道でした。しかし体はいつの間にか熱も下り体も軽くなり、お道の話を聞くにつけ、体温計も不要となりました。けれど一月中頃迄に気胸を一五回やってしまいました。愈々一月末より不動の信念を固め、このお道にすがり切り、O支部のT先生の御指導をあおぐ事になり、二月一二日当時D大教会でA先生より御守様を授けて戴き、入信の第一歩を踏ませて戴く事になりました。

浄霊を受けて居る間の浄化としては、一晩下痢が夜中より始り、翌朝迄に丁度一〇回行った事が有り、自分でも驚く程のガスの浄化と痰の浄化が長い間続きました。

しかし一旦このお道にすがり切っても職務上の関係で診断書を書いて貰わねば休んで居る事が出来ない為、一〇日に一回位医師の診断を受けました。中途で気胸を断った為医師の機嫌を損ね「気胸を続けなくてどうして病気が治るんだ」と酷く叱られた事は一回ならす再三でしたが、とうとう私の根にまけ、どうでもなれという気持になったのかあまり言わなくなりました。又二月末頃レントゲン透視を行った処「肋膜に水がたまって居る」との事で「この次に来た時は水を取らねばいけない」といわれ、又心配がふえ、どうしてこの水がとれるだろうかと心配し乍ら病院から帰って来ました。早速T先生におたずねした処、先生は「肋膜の水は浄霊をして居れば盜汗か小水となって出るから心配いりませんよ」と何気なく言われました。

その言葉を信じ、毎日浄霊を続けて次の一〇日目病院へ行った処又透視をせねばなりません。心配する胸の中、その内自分の番が来た。暗室の中で一〇秒二〇秒すると医師が「おや」と言うと私の名前を二度迄も聞きなおし「水がないね。どうしたんだろう」と医師は驚いて居りましたが、その医師よりも私の驚きの方がはるかに大きく、嬉しくて嬉しくてたまらない気持でした。初めて知る偉大なる浄霊の有難さを身をもって体験する事が出来ました。

愈々三月末には御屏風観音様を御祀りさして戴き、間もなく妻も御守様を授けて戴き、光明一家となりました。光陰は矢の如しとか、早や五月の声を聞き、青葉若葉の六月初め、レントゲン写真を撮った処、意外にも全快の城に達して居る事が判りました。そして医師より「明日から勤めに出てもよろしい」と言われた時は実に驚き、これ程早く治癒さして戴いた明主様の御加護に感謝申し上げ、H先生、T先生始めF様、N様方々の親身も及ばぬ御指導が身にしみ、終生忘れる事の出来ない思い出の一日でした。

そして七月三〇日光明如来様を御奉斎さして戴きました。病にたおれし当時を想いうかべ、医薬の絶えた事のない家でしたが、今は遠い夢の如く、毎日心配なく一家六人、二年間を無医薬で過さして戴いて居ります。また当時この偉大なる御救いの力を知らせて戴きませんでしたら、私は苦しみのまま生か死か、どうなって居た事で御座いましょう。

この事を想います時、偉大なるこの御浄霊を、あらゆる病苦の為に苦しんで居られる方々に御知らせさせて戴きまして、一日も早く明主様が唱えられて居られます病貧争絶無の世界、即ち地上天国の来たらん事を御念じ申し上げさせて戴きますと共に、偉大なる御神業の万分の一なりとも御手伝出来ますれば無上の光栄と存じ、精進させて戴いて居ります。

観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ

明主様誠に有難うございました。拙文ではございますが心より感謝申し上げる次第であります。(昭和二七年一月一日)