『解脱』

「地上天国」20号、昭和26(1951)年1月25日発行

よく昔から、解脱(げだつ)という事をきくが、この言葉は簡単に善し悪しを決める事は出来ない。世間普通の解釈による解脱とは迷いを去り、悟りをひらくとか、執着をとるとか、諦めをよくするとかいう意味であって、これは無論仏教から出たのであるが、しかし何となく逃避的隠遁的響きがあり、これは東洋人特有の思想であろう。

ところで、実際からいうと、余り悟りがひらけ過ぎると、活動力が鈍るのが通例である。もちろん競争意欲などはなくなり、民族にしても、印度(インド)のごとく衰亡する事になる。ゆえに人間は迷う事によって生きる力が出るのである、と言って迷いすぎるのもこれまた危険がある。また諦める事も活動力が鈍るきらいがある、といって余り諦めないと男女関係などは悲劇を生む事にもなる。だからあんまり解脱してしまうのも面白くない。ついには世の中が馬鹿馬鹿しくなり、孤独的になったり、生ける屍となったりしてしまう。

以上の諸々(もろもろ)を考えてみると、何でも行き過ぎがいけない。ツマリ程を知る事である。全く世の中は難しくもあり、面白くもあり、苦しくもあり、楽しくもあるというのが実相である。結局苦楽一如(くらくいちにょ)の文字通りが人間のあるがままの姿である。しかしこれだけの話では結論がつかないから、私は結論をつけてみよう。

いわく人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。迷う場合は無理に決めようとするからで、決断がつかない内は、時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。要は地〔時〕所位に応じ、事情によって最善の方法を見出だす事である。しかしそうするには叡智が要る。叡智とは正しい判断力を生む智慧であって、それは魂に曇りがない程よく出る。ゆえに魂の曇りをなくする事が根本で、それがすなわち誠である。誠とは信仰から生まれるものであって、この理を知って実行が出来れば、大悟徹底した人というべきである。