『神を見せる宗教』

「栄光」138号、昭和27(1952)年1月9日発行

よく世間信仰のない人に信仰を勧める場合彼らはこの世の中に神仏等あって堪るもんか、もしあるんなら、是非見せて貰いたいといって、サモサモ自分は文化的人間のように思って迷信は真ッ平御免だとテンデ相手にならないのが、一般人の態度であろう。それが最もはなはだしいのが、いわゆるインテリ階級の人達である。といっても、これらの人を決して非難する事は出来ない。全くそれに違いないからである。というのは世間多くの信仰を見ると余りにも非科学的で、迷信臭くない信仰は、まことに寥々(りょうりょう)たる有様であるからである。従って多くの信仰は、神仏の実在をハッキリ見せる事が出来ず、あるような無いような、はなはだ頼りないのである。としたら信仰に無関心な人の多いのも無理からぬ事と思うのである。

ところが我救世教に至っては、神の実在をハッキリ誰の眼にも見せている。一度本教へ接するや必ず神の実在を知って吃驚するのである。その何よりの証拠は、本教の無数に上る御蔭話である。ところが遺憾な事には、これを読んでも信者から聞いても、そのまま呑込める人はまことに少ないのが実状である。というのも全く前述のごとき、レベルの低い信仰によって出来上った色眼鏡を透して見るからで、これも一面無理はないが、本教などにとっては残念至極である。それについて私がいつも言うごとく、本教は宗教ではない、超宗教であり、大いなる救いの業である。

そうして入信者がよく言われる事は、最初本教の刊行物などを見た場合余りに今までの宗教の教えや、科学の理論とは懸け離れているので、ただ不思議と思うばかりで、到底信ずる気にはなれないがしかし物は試しと疑い疑い浄霊を受けるが、ただ手を翳すだけなので唖然としてしまい、これ程進んだ現代医学で治らないものが、こんな他愛ないやり方で治る訳はないと思い、止めてしまおうかと決心していると、翌日になるや何だか気持がよく、軽くなったような気がするので不思議で堪らないが、マア、瞞されたと思って、今少し辛抱してみようと委(まか)していると、メキメキ快くなってしまうので、喜ぶよりかいよいよ分らなくなってしまう。というのが体験者の口を揃えて言うところである。

以上のように本教は、余りに類例のない現当利益が顕著なので、それらの話を聞く智性人などはそれだから迷信だなどと飛んでもない逆な事を言うのである。これも大いに邪魔になるのであるが、中には頭の確かな人もあって事実は飽くまで事実だからと素直に入信し、幸福者となる人もすくなくないのである。そんな訳で本教が何物にも追随を許さない奇蹟を現わし、手に取るように神の実在をも見せる以上、いかに頑迷な人でも、科学文化に心酔している人でも、結局兜を脱ぐのである。