御蔭話 福井県Y.I. (昭和二七年五月七日)
思い起す毎に肌に粟の生ずる世紀の悲惨事とも言える彼の七年前の長崎での原爆の際、御守護戴きました追憶を御報告させて戴きます。当時私は爆心地より一里程離れたMと言う所の小高い山の松林の中の一軒屋に疎開して居りました。家のありました所よりもう一寸上りますと大分見晴しのきく程の山でございます。
当日空襲警報の解除のあと一安心した処へ突如として、雲の切れ間からサッと日の光がさした様なそれに似た、そして夏の真昼の太陽の下にそれ以上の光がさしました。何か?と思うその瞬間家の中に居りました私の足下は、木片の山となり無我夢中どうして出たのか今にしても思い出せませんが、兎も角戸外の防空壕へ飛び込んで居ました。落着いて見れば白い上衣が血で染り、怪我は何処かと手探りでみれば、額から頭へかけて斜に口が開いて居ます。急いであてた上衣の白い所を余すところなきまでに染める出血でありました。あまりの怪我に只おろおろする姑や出入の人達の中で私は冷い壕の茣蓙の上に横になり、一心に御浄霊を致しました。御参拝に上らせて戴いたことのある東京の教会(当時は治療所)で拝みました明主様の御写真を思い浮べて「大先生様」(当時はそう申し上げていました)とおとなえ申し上げ乍ら御浄霊させて戴きました。大分の怪我とは思いましたが、後で鏡に写して見ましたら、左の眉毛の横から頭上中央へかけて四寸程指三本が入る位にざくろの様に割れて居りました。その時は生きるの死ぬのと言った不安は何もなく、唯一心にお縋り致しました。やがて血も止まりましたのでガーゼで鉢巻をし、体を調べますと右腕にスプーンでくり取った様な所一カ所、他に小さい傷が数カ所ございましたが、御浄霊致しますとしまいに真黒なドロリとした血が出て止まりました。不思議とこれ程の傷が何の痛みもなく、三、四時間後には家の取り片づけにかかりました。家は爆風に対して垂直と思われる面は凡てこわされ、二階の硝子戸は骨のみ、障子は形もない木片と化して居りました。何がこの様な細い木片となったやら、それが家中を埋めて一足も入られず、どうしてこの中を出られたのかと、沁々と思われました。その後自分で浄霊致し乍ら一日も休む事なく、ずい分と頭も体も使いました。光の通った跡と申しますか、幅せまい二筋程の個所が木の葉がすっかり焦げて茶色に縮んで居りました。近所では一間程ずっと焦げた所もございました。
その後一〇日程して○町へ参り、H先生より御霊紙を戴いて貼り、日に一度宛御浄霊戴き、九月一〇日にはS町のA先生のもとへ通いました。傷口からは一時濃い膿が流れる程沢山出て、その後肉が上って参り、三月末には一旦盛り上る様に出ました肉も平に落ちつき、桃色づいていたのもうすれ、一二月半ば包帯もとれ、その後体には自覚する様な症状もなく過させて戴きました。ずっと頭の左半分はふれてもはっきり感じません程しびれて居りましたが、この頃では殆んど治癒致しました。傷あとも漸次廻りの皮膚に似た色となりつつあります。思い出します度に、御守を戴いたというのみにて、何の働きもさせて戴いていませんでした私が、この様な御守護を戴きました事を、今更の様に有難く、ただただ感謝申し上げて居る次第でございます。明主様有難うございました。この上は出来得る限り、御神業の御手伝いをさせて戴きたいものと念じて居ります。