「世界救世教奇蹟集」昭和28(1953)年9月10日発行
医療が病気を悪化させるという事は、数多いおかげ話を読めばよく分るであろう。ところが世人は逆に医療が病気を治すものと思っている処に問題があり、実に気の毒な世の中である。この医学迷信を如何に分らせるかに、吾々は日夜努力しているのは知る通りである。即ち医療は学理という理屈であるが、吾々の方は治るという事実であって、こんなにも簡単な事が分らないのであるから、全く恐るべき迷信と言うより外はない。左の御蔭話はそれをよく示しているから、これを読んだら即座に分る筈である。
御蔭話 山口県I.M. (昭和二七年七月一日)
謹んで次男Nの御守護の御報告をさせて戴きますと共に心から御礼申し上げます。
本年の一月二五日人歳になるNが目を赤く腫らして居るのを見て・ 悪化しては大変とすぐ近くの眼科医院に連れて行きました。結膜炎との事で眼を洗い薬をさされ「暫く通って来る様に」との事に毎日通院して居りましたが、はかばかしくございませんでしたので医者を替えましたところ、「これは高貴薬だがお宅のお子さん丈には特別にしてあげましょう」と言われて劇薬をさされました。その翌日からというものは今まではただ赤いだけでございましたのに急に目星が両眼共に六、七個も出来、眼球一面には白い膜が張り、視力は減退しだんだん悪化して参りました。一ヵ月余り通院した頃にはまさに失明一歩手前の様な状態でございましたが、たまたまその頃私方に参りました兄(兄は当時既に入信致しておりました)から「こんな事をして居っては大変だ、早く教会へ連れて行き御浄霊を戴く様に」と奨められましたが、心が決まらぬ侭にその日も病院へ参りましたところ「経過が悪いから今日はペニシリンをうちましょう」との事にかつて後頭部に腫物の出来ました折、やはりペニシリンをうった時の子供の苦しみを思い出し「どうぞそれ丈は」とお断りし、帰り道早速F支部へ御参りさせて戴きました。御浄霊を戴き御話を伺う内に最初左程悪くもなかったのに病院へ行き出してから段々悪くなった事等思い合わせて、明主様にお纏りさせて戴こうと決心し早速入信させて戴きました。教会へ通って御浄霊を戴いて居る内に御浄化を戴き、両眼球とも一面に青い膜が張り全然眼を開く事が出来なくなり、歩く事すら出来なくなりましたので背負って毎日お参りさせて戴いて居りました。その姿を見て親類の者や近所の人達は「そんな事をして居って治るものか、お可哀相に悪くなったらどうする……」と医者へ行く様に奨められましたが、きっぱりと断ってただひたすら大光明如来様へ一切をお任せし、お纏り致して居りました。毎月の例祭には中教会にも御参詣させて戴き、中教会長先生の懇ろな御浄霊を頂く様になりましてからは少しずつよくさせて戴いて居りましたが、子供が目が眩しい眩しいと言い、暗い隅に顔を覆って終日じっとして居ります。時々手探りで歩いても物につまずくのを、心ない周囲の人達に笑われ、その哀れな姿を見るにつけても、人の子の親として身を切られる思いでございました。殊に学期が始つても行く事が出来ず、本当に代ってやれるものなら代ってやりたいと何度思ったかも分りません。周囲の人は益々嘲笑し気違いとののしられ「子を盲にする」とまで言われました。その四面楚歌の中で、ともすれば崩れそうになる弱い心を鞭打ち、「今にきっと良くして戴けるから……必ず御守護を戴けるから……」との先生方の御励ましの言葉を力にひたすら明主様にお念じし続けたものでございました。そして遂に奇蹟の御守護を戴きました。会長先生の御親切な御配慮に依り明主様へ御守護の御願い致しましたところ、その日四月二五日にどうしても開かなかった眼が開いたのでございます。鳴呼御守護が戴けたのだと思うと心から嬉しさが胸に込み上げ、熱いものが二滴三滴と頬を伝わるのをどうする事も出来ませんでした。早速教会へお参りさせて戴き、御神前にて遥か熱海に居られます明主様へ心から御礼申し上げました。
それから今日まで四十幾日再び閉じる事もなく、それどころか一日一日と日に増して良くして戴き、膜も少し宛消えて行き、黒瞳が現われて参りました。今頃ではつまずく事もなく一日中戸外で遊び戯れて居ります。その明るい笑顔を見るにつけてもあの浄化中の苦しかった事がまるで夢の様に思われます。若しあのまま医療を続けていたら今頃は幼き失明者として、生まれもつかぬ片端の身にさせられてどんなにか親も子も悲しみ敷いた事でございましょう。明主様有難うございます。