自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行
本教の使命は地獄で苦しんでいる人達を、天国へ救うので、それによって社会を天国化そうとするのである。この意味において、人を天国へ救うには、まず自分が天国に上って天国人となり、大衆を救い上げるのである。つまり地獄から天国へ梯子をかけて、手を延ばして一段一段登らしてやるという訳である。これが今日までのあらゆる宗教と異なる点で、それはむしろ反対でさえある。
周知のごとく、昔から宗教人といえば、粗衣粗食、最低生活に甘んじ、難行苦行を重ね、自分は地獄的状態にありながら衆生を救おうとするのであるから、梯子を逆に用いる訳である。すなわち、救う者が救われるものを押し上げてやるのであるから、上から引っ張るよりも押し上げる方が、どのくらい骨が折れるかは、推察さるるであろう。
ところが、その当時としては、実は天国は出来ていないから止むを得なかったのである。もちろんそれは時期尚早のためで、霊界が夜であったからである。しかるに、昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。否、人間が造るのではない、神様が造るのであるから、自然に時の進むに従い進捗(しんちょく)するので、人間はただ神のまにまに動けばいいのである。すなわち、神が設計し、監督し、多数の人間を自由自在に使役するので、私としての役目はまず現場監督と思えば間違いないのである。もちろんその一部として現在天国の模型も造っているので、信者諸君はよく知るところである。
右のごとくであるから、土地にしても予期もしない時期に、予期もしない位置に、売りたい人が出る、すると私はハハー神様がここを買えというのだなと思うが否や、それだけの金額は別に苦労しないで集ってくる。それに準じて、最も適した設計者も土木建築家も、材料も思う通り必要なだけは、判で捺したように入手する。庭木一本でも突如として誰かが持ってくる。それがちゃんと当て嵌まるような場所がある。時には、庭木が数本も数十本も一時に入手するので、私は戸惑いするが、これは神様がなさる事と思うから庭を睨みながら、順々に植えて行くと、過不足なく、きっちり当て嵌まってしまう。その度毎に、一切は神様がやられる事が実によく判るのである。ある位置にこういう石や木が欲しいと思うと、一日か二日でちゃんと来る。これが奇蹟でなくて何であろう。こういう事をかけば限りのない程で、追々かく事にするが今はただ片鱗だけをかいたのである。
この文はすべて人間がやっているのではない。神様の経綸のままに、人間がやらされるという事を、判らせるためにかいたのである。これらによってみても、 神意は地上天国建設の第一歩として、その模型を造られるという事があまりに明らかである。しかしながら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない。否、なり得る時期が来ているのである。もちろん、家庭も天国化し、天国的生活者となるのである。それで初めて、大衆が苦しんでいる地獄から救い上げ得るのである。故に信者に対し、私は常に出来るだけ苦のない生活環境を作るべきで、それが神意に叶うゆえんであるというのである。すなわち、病 貧争の三苦が除去されなければ本当に人を救う事は出来ない。しかしそのような事は、夜の世界では不可能であったが、今日はもはや可能となったのである事を知らなければならない。彼の釈尊の唱えた苦の娑婆の時機は最早終ったのである。この事の真諦(しんたい)が判ったとしたら、その歓喜は人類の経験にない程絶大なものがあろう。