『運命の転換』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

私は前項に述べたごとく、昭和十五年十二月一日いよいよ治療をやめ、いわば一個の浪人となったのである。それはむしろ霊的にみて、一段階上った事になるので内心は喜ばしく思ったのである。というのはそれまで治療という極限されたいわば、第一線における体当り的兵隊の仕事であったからでもある。その月の二十三日は私の五十九歳の誕生日であったので、信者中のおもなる二、三十人が日本閣という料亭へ私を招いて、誕生祝をしてくれたその時出た歌に、

「キリストも釈迦も再び生れ来よ

汝と吾との力試さん」

というのがあった。それから閑(ひま)のある内と思い関東方面各地に旅行する事となったが、これは経論上重大意義のある事で、神様がそうされた事はもちろんで、少なからず奇蹟もあったのでその中の差支えないものだけかいてみよう。

昭和十六年五月、浅井氏以下数人の信徒を伴につれ、丹波の元伊勢神宮へ参拝に行ったのである。この事について興味ある一挿話をかいてみるが、今日の伊勢山田の皇大神宮は、今から約千百年以前、この丹波の元伊勢から遷宮されたという事になっている。それについてこういう説がある。遷宮の際御神霊を御輿に乗せ奉り、一里離れた所に和知川の下流で五十鈴川があり、その川を渡御せんとした際、急に御輿が重くなり、どうしても渡り得なかったので引返したというのであるから、伊勢の山田には御神霊は移らなかった訳である。それを今日実証した一つの出来事があった。それはこの参拝から一ケ月余経た七月一日私は中島氏以下数人を従え、伊勢山田の皇大神宮へ参拝に行った。社前に額いて祝詞を奏上するや、社の中から神の声が聞こえた。それは「デハ私はこれから故郷へ帰らしていただきますから、後は宜しく御願申します」という言葉である。すると私の傍にまた別の声がした。「永い間御苦労であった」との御言葉で私はハッと思った、というのは、いよいよ、天照大御神と御留守居の神との交替である。いうまでもなく私は先日元伊勢へ参拝に行ったのは大神をお迎えしたので、今日の行事のためであった。お留守居の神とはもちろん、神素盞鳴尊(かむすさのをのみこと)で朝鮮へお帰りになったのである。その時私が思われた事は、いよいよ日本の霊界が明るくなり、正邪善悪の是正が行われる時が来たのである。しかしその頃であるから露骨にはいえないので、周囲の者へこういった。「いずれ日本の上層部に大変化がある」事である。それが四年経った二十年に現われた彼の特権階級の転落であった事は、神様の方では既に決っていたのである。

今一つこういう事があった、十六年六月二十二日浅井氏初め十数人を従え、茨城県霞ケ浦の鹿島、香取の二神宮へ参拝した。最初香取神宮へ参拝したが、神様は御留守であった。次に鹿島神宮へ参拝した時の事である。突如無声の声がした。「貴下はいよいよ重大な御役をさるる事になった事をお祝い申す。ついては諸々の神様が御守護さるるが、私もその一人である。今日お参りに来られた事を、御礼申す」という意味で、もちろん神様は武甕槌(たけみかづち)の命である。その帰途、駅へ立寄ったところ、号外が貼ってあった。みるといよいよ独ソ戦が始まったという事がかいてあった。

その年の十一月、善光寺へお詣りに行ったのである。この時も浅井氏以下数人を従えた。最初軽井沢の紅葉を観、別所温泉へ立寄り、長野へ一泊、翌日草津温泉から吾妻川渓谷の関東一の紅葉を賞で帰京したのである。善光寺へ参拝の時、阿弥陀如来が出て来られた。いわく、「儂は、もう少し経つとインドへ帰るからそれまでは自分をわるく言わないようにして欲しい」という言葉なので、私は、ハッと冷汗三斗の思いがした。というのは、それまで時折、如来の行跡を非難した事もあったからである。私は陳謝したので、如来も快く挨拶ざれ、奥の座へ入られたのである。それまで私は如来は最早インドへ帰還されたと思っていたところ、いまだ在日されていた事を知ったのである。私は方々のお宮へ参拝の時仲々おもしろい事があった。よほど以前、江の鳥の弁天様へ参詣した時、弁天様はお留守で、その後へ狐が蟠踞しおり私を見るや、彼は大いに驚いて、三拝九拝するので、笑いが止らぬ事があった。