御教え『医学の解剖』

「文明の創造、科学篇」 昭和27(1952)年

私は前項迄に、医学の誤謬(ごびゅう)を大体かいたつもりであるが、尚なお進んで之から鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。と言っても別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。只(ただ)誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心担懐になって読まれたいのである。それには先まづ事実によって、説明してみる方が早かろう。先(まづ)何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧あいまい模糊(もこ)御座(おざなり)的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就ついても言ひ切る事が出来ない。貴方あなたの病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる。此この療法が効果ありとされてゐる。此この療法以外方法はない。養生次第で治らない事はない。貴方(あなた)の病は万人に一人しかないなどといふかと思へば、貴方(あなた)は入院しなければいけない、と言はれるので患者は「入院すれば治りますか」と訊きくと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的(どうちょてき)言葉である。又予想と実際と外はずれる事の、如何(いか)に多いかも医家は知ってゐるであらう。そうして、最初診察の場合、型の如く打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、医学が真に科学的でありとすれば、それだけで病気は適確に判る筈はずである。処が両親や兄弟等の死因から、曽父母、曽々父母に迄及ぶのは勿論もちろん、本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細に渉って質問するのである。之等も万全を期す上からに違ひないが、実をいふと余りにも科学性が乏しいと言へよう。処がそうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、又は治療法が間違ってゐるか、或あるいは両方かであらう。事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。何となれば仮かりに治ったやうでも、それは一時的であって安心は出来ない。殆ほとんどは再発するか、又は他の病気となって現はれるかで、本当に根治するものは、果して幾人あるであらうか疑問と言えよう。此この事実は私が言う迄もない。医師諸君もよく知ってゐる筈はずである。此(こ)の例として主治医といふ言葉があるが、若もし本当に治るものなら、それで済んで了しまふから主治医などの必要はなくなる訳である。

右によっても判る如く、若もし病気が医学で本当に治るとしたら、段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、売物が続出しなければならない筈はずであるのに、事実は凡(およ)そ反対である。何よりも結核だけにみても、療養所が足りない、ベットが足りないと言って、年々悲鳴を上げてゐる現状である。政府が発表した結核に関する費額は、官民合せてザット一ケ年一千億に上るといふのであるから、実に驚くべき数字ではないか。之等によってみても、現代医学の何処どこかに、一大欠陥がなくてはならない筈はずであるに拘(かか)はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。

そうして、診断に就ついて其その科学性の有無をかいてみるが、之にも大いに疑点がある。例へば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合殆ほとんど区々(まちまち)である。といふのは茲ここにも科学性が乏しいからだと言えよう。何となれば若もし一定の科学的規準がありとすれば、其その様な事はあり得る訳があるまい。若(も)し医学が果して効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならない筈はずである。処が事実は一般人と同様処か、反って不健康者が多いといふ話で、これは大抵の人は知ってゐるであらう。而しかも医師の家族である以上、手遅れなどありやう訳がないのみか、治療法も最善を尽す事は勿論もちろんであるからどう考へても割り切れない話だ。そればかりではない、医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘かかはらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。之も不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委(まか)せる事など出来ない訳である。それに就ついてよく斯こういふ事も聞く。自分の家族となると、どうも迷ひが出て診断がつけ難いといふのである。としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定臆測が多分に手伝ふからであらう。

私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。それは仲々適確に病気は判るものではない。何よりも大病院で解剖の結果、診断と異ちがう数は、一寸(ちょっと)口へは出せない程多いといった事や、治ると思って施した治療が、予期通りにゆかない処か、反って悪化したり、果ては生命迄も危くなる事がよくあるので、斯(こ)ういふ場合どう説明したら、患者も其その家族も納得するかを考へ、夜も寝られない事さへ屡々(しばしば)あり、之が一番吾々の悩みであるといふので、私も成程と思った事がある。

 

此様に、医学が大いに進歩したと言ひ乍ながら診断と結果が、実際と余りに喰違くいちがふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。彼かの有名な故入沢達吉博士の辞世に『効かぬとは思へど之も義理なれば、人に服(の)ませし薬吾服(の)む』といふ歌は有名な話である。又私は時々昵懇(じっこん)の医博であるが、自身及び家族が罹病の場合、自分の手で治らないと私の処へよく来るが、直(じ)きに治してやるので喜んでゐる。以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾(こしつ)である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやった処、其その夫人は大いに感激して、医師を廃(や)め、本療法に転向させるべく極力勧すすめたが地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今以もって其その儘ままになってゐる人もある。今一つ斯こういう面白い事があった、十数年前或ある大実業家の夫人で、顔面神経麻痺まひの為ため、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往いった事がある。其(そ)の時私は何にも手当をしてはいけないと注意した処、家族の者が余り五月蝿(うるさ)いので、某大病院へ診察だけに行ったが其(そ)の際懇意である其(そ)の病院の医長である有名な某博士に面会した処、その医博曰いわく“その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。だから電気なんかかけてはいけないよ。此処(ここ)の病院でも奨めやしないか”と言はれたので『仰言る通り奨められましたが、私はお断りしました』と言うと、博士は『それはよかった』といふ話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。その夫人は二ケ月程で全快したのである。

偖(さ)て、愈々(いよいよ)医学の誤謬(ごびゅう)に就ついて、解説に取りかからう。