御教え『御神意を覚れ』

「栄光」237号、昭和28(1953)年12月2日発行

これは以前もかいた事があるが、本来人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的にかなうようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。ところが何しろ祖先以来の薬毒があり、また生まれてからも本当の事を知らないがため薬毒を入れるので、それがため病気に罹る事もあるが、これも止むを得ないのである。しかし神様はお役に立つ人が病気のため働けないとすれば、神様の方では損になるから、速(すみや)かに治して下さるのは当然で、何ら心配はないのである。ところがそれを知らない人達は、薬と称する毒を用いて、病気を抑えるのであるから全く真理に外れており順調に治る訳はないのである。

この事は独(ひと)り病気ばかりではない。それ以外あらゆる災(わざわい)も同様であって、すべては浄化作用である。しかし同じ浄化作用でも原因によっては浄化の形も自ら異(ちが)うのはもちろんである。例えば金銭や物質の罪である盗み、使い込み、人に損をかける、分不相応の贅沢をする等々の罪穢はヤハリ金銭や物質で償(つぐな)われる。世間よく金持の息子などが道楽者で、親の遺した財産を湯水のように使う事なども、親や祖先の罪障消滅をさせられるのである。それというのは祖霊が自分の血統を絶やさぬよう、益々一家繁栄を望むため、子孫の中の一人を選んで浄化に当らせるのであるから、この場合何程意見しても糠(ぬか)に釘である。

例えばここに二人の兄弟があり、兄はドラ息子で手が付けられないが、弟は律儀(りちぎ)真道(まっとう)であるとする。ちょっと考えると兄の方が悪く、祖先の名を傷つけるように思えるが、大乗的にみるとその反対である。なぜなれば祖先の罪穢を消す点からいえば、兄の方が上だからである。というように人間の考えで善悪は決められるものではない。

また火事で焼け、泥棒に盗(と)られ、詐欺に遭(あ)い、相場や競馬、競輪等で儲けようとして損をしたり、商売の失敗、病気で金を使う等々、すべて物質の罪は物質で浄化されるのであるから、たとえ人間の法律は免れ得ても、神の律法は絶対であるから、どうしようもない。従って人間の眼を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛みというように、すべて相応の理によって浄化が行われるのである。

またこういう事もある。それは信仰へ入ってからの苦しみである。しかも熱心になればなる程一層苦しむものである。

そこで信仰の浅い人はつい迷いが起るが、この時が肝腎である。この理は何かというと、神様はその人の熱心に対して、早く御利益を下されようとするが、まだ汚れがあるから浄めねばならないので、入れ物の掃除としての浄化である。その場合少しも迷わず辛抱さえすれば、それが済むや思いもかけない程の結構な御蔭を頂けるものである。

これについて私の経験をかいてみるが、私は二十年間借金に苦しめられ、いくら返したいと焦っても駄目なので、到頭諦めてしまった。それが昭和十六年になってようやく全部返す事が出来たので、ヤレヤレと思った事である。すると翌十七年になるや思いもかけない程の金が入り始めたので、今更ながら御神意の深さに驚いたのである。

また世間よく焼太りなどというが、これも浄化が済んだから運がよくなった訳である。彼(か)の熱海の火事にしてもそうで、焼ける前と今日とを比べたら、雲泥(うんでい)の相違である。以上によってみても善い事は無論結構だが、悪い事も浄化のためで、それが済めばよくなるに決っているから、ドッチへ転んでも結構な訳で、無病結構、病気結構としたら、これこそ真の安心立命である。といってもこれは信仰者に限るので、無信仰者はむしろ反対であり、苦しみが苦しみを生み焦れば焦る程悪くなるばかりで、ついには奈落の底へ沈むようになる。この理によって人間幸福の秘訣はこの道理を弁(わきまえ)る事である。