『御教え集』4号、昭和26(1951)年12月15日発行
昭和二十六年十一月十五日
霊憑りというのは、私は始終注意していますが、最初は非常に興味があるものでね。私なんかも最初は随分やりましたがね。結局これは、弊害があるんですね。私は霊憑りをやって懲りた事がある。それから、やらなくなった。それはある青年ですが――大本時代ですが、その男は――店に使っていた――その時分は 商人でしたから、店で使っていた店員なんです。それが、大本教で熱心になり、それで――大本教は鎮魂帰神と言って、こういう格好で、指の先から霊を出す。 浄霊と同じ意味ですがね。それをやっているうちに、色んな霊が憑かるようになった。憑かると面白いから随分やった。そのうちにとうとう精神病になって、鉄道線路に行って轢かれて死んじゃった。それで、私は神憑りと言うのは、危険なものだ。すべきでない、と。それで、私は止めちゃった。そういう事が、あと 一、二件――頭のおかしくなったのがありましたが、それは治りましたがね。そんな訳だから、霊憑りと言うのは、余程危険なものですね。ところが良い場合もある。それで私は、霊的研究を段々していくうちに、良い――悪い、いろんな事が解って来ましたから、それで、良いのと悪いのとの区別が判るような知識ですね。霊的知識――それを得られれば、そう危険はないんですが、それまでにはそうとうな修行と経験がいるんですよ。ですから、一般には非常に難しいのと、それから霊界が昔と違って来ているので、今はそんな事をしなくても、人を救う事が出来るんですから、全然霊憑りに触れないで、霊憑りはいけないものだと、決めてやるのが一番安全であるとともに、霊憑りに触れる人はやっぱり発展しないんです。神様が嫌うんです。だから、霊憑りに重きを置かない人は発展するんですね。本当のやり方です。この間も書いた通り、バラモンから出たものですからね。現在、西洋で霊憑りを使ってやりますが、これは科学的なものだからたいした事はないが、日本の行者とか、日蓮宗とか、精神病が出るんですね。本当のものじゃないからね。そう言う意味を精しく書いて、新聞か雑誌に出そうと思っているが、これは、今の神懸りに対する根本的な事と、それから大体知っておくべきだけの事を書いてありますがね。
(御論文『霊憑りについて(全文へ)』のあとの御教え)
これについて、書き足りない点があるんですがね。霊視能力というのがありますね。人間は――霊の見える人ですね。始終見える人は狐がついているんですね。だから危ないですね。肝腎な事を正守護神が知らせようとする場合に、ちょっと――パッと見せるんですね。これは本当です。それから、光が見えるのがあるが、これは差し支えない。よく、人間の姿ですね――そう言うのが見えるのは――始終見えてはいけないですね。必要な時にちょっと見える。それで、神様は ――本当の神様は実に簡単なものです。無駄がないんですね。ですから、人間も本当に信仰が徹底してくると、そういう風になるべきものですね。それは、他愛ない――普通はいくら喋っても、面白くても、うなっても良いですが、肝腎なことは急所急所に触れる。それが神様のやり方です。よく――女に多いですが、のべつまくなくべらべら喋るのがありますが、これは狐が喋るんです。何を喋ったか解らないような――それが良くありますがね。まくし立てて、人に喋らせないですね。話でも、人に話させないようにするのは狐霊と思って良い。話は聞かなければならないですね。だから昔から「話上手に聞き上手」というのがありますからね。しかし、聞くだけで――感心したり、解ったなと思うと、案外解らない。そこで、一番良いのは、人の話は良く聞いて、隙が出来たら、こっちの話をする。それからもう一つ受け答えですね。受け答えが満足にできる人は、外国人には案外多いですが、日本人には割合ないですね。受け答え――返事が急所を外れる人が多いです。聞こうと思う所にぶつからないで――それは聞き手のまずい場合もありますが――私なんか、何か聞いたり話したりしても、それに対する受け答えが満足な事はめったにないですね。それでその人が頭が良いか悪いか一番分りますね。男には割合多いが――女の方にはまことに申し訳ないが――非常に少ない。
それから、話術――術ではないが、話したり聞いたりする処置ですね。これは大いに勉強しなければならない。と言うのは、間ですね。間が非常に肝腎な事です。先方で――話なら話を聞く事がありますが、中には間髪を入れずに聞くことがあるし、それから順々という事があるし、その――一つの調子ですね。まあ、芸術みたいなものですね。これは大いに勉強するんですね。どこまでも簡単明瞭に言う。それから急所をつかむんですね。ですから、相手の様子ですね。興が乗って、耳をそばだててくるか、あるいはたいして――先が聞きたくない――興が乗らない時は止してしまう。それで、趣味とか聞きたいことを洞察してしまう。こういう煩悶があるというのだから、こういう解答をする。この人には、こういう喋り方なら解るだろうとか、インテリならインテリ――普通人なら普通にと、立て別けなければならない。これは大変な芸術なんです。そこで、環境、空気、一人対一人、二、三人と話す時に、多勢に言う場合、土地の習慣あるいは、 一つの色がありますね。九州の地方の人と北海道の人は違いますね。九州は、昔から古い人がいて――なかなか、九州魂というのがありますからね。
それから、北海道というのは、移民ですからね。移民というのはおかしいが、地付きの人というのが少ない。地付きと言うのはアイヌですが、皆こっちから渡った人ですからね。そういう人は色がありますからね。東北の人、上方の人、江戸っ子――皆違いますからね。それに対する色んな言い方――やり方がある訳だからね。そうなると難しくなるが、そんなに難しく考えなくても――そんなのがある訳ですね。
それから物事を難しく考えてはいけないし、単純に考えてもいけないですね。どうしてかと言うと、考えすぎて結果が悪い事があるんですね。だから出来るだけ単純にですね。私なんかも難しくなる事があるが、ごく単純に考える。そうして、あとは神様に任せるんですね。だから始終気が楽です。人間は気が楽だと良い考えが浮かぶんです。気が楽でないと、良い考えが浮かぶ余地がないんです。ですから、始終頭の中を空っぽにしておくと、良い考えが浮かびやすいです。
それから良い考えと言うのは、正守護神がヒントを与えるんです。神様は、人間に直接と言う事はない。正守護神に知らせて、それから来る。ところが頭に一 杯あると知らせても――アンテナが、働きが悪いんです。だから、良い考えが浮かばない。というのは、そういう訳ですね。これは、一種のインスピレーションみたいなものですが――始終、ゆったりした気持ちでね。ところが、色々な心配事や、気にかかる事があると、そうはいかない。ところがやりようによって、そうではない。私は、昔はよく気になる事が、色々あると、他の事は頭に入らない。ところが段々信仰に入って、そういう事は、神様にお任せしてしまうというと忘れちゃう。これはそういう癖をつけちゃうんです。一種の修行ですね、よく他の人が、色々な心配事を言うが、私は笑っているので、びっくりしてしまう。普通の人では、それが出来ませんよ。それについて書いてある。
(御論文『御任せする(全文へ)』のあとの御教え)
それからこれは関連した話ですけれども――嘘ですね。日本人の特徴のように思いますが、日本人は実に嘘をつくんです。嘘をつくのが、意識的に嘘をつくんじゃない。嘘をつくのが習慣になっている。自分で嘘つくのが分らない。それほどに嘘が身についているんですね。色々、人の話を聞いていると、本当に正直に 言うのは、おそらくないと言っても良いですね。必ず嘘があるんです。その嘘が――本人は嘘と思わないで、本当だと思っている。その場合に私が、この点が嘘で、これが本当だと言うと――それでも解らない人がありますね。そうすると、こう言う場合に、これが本当で、これが嘘だと言うと、なるほどと言う。簡単な 事を、わざわざ嘘を言ってややこしくする。これは偉い人に多いですね。何か問題が起こる。すると――正直にすると簡単に解決する。それをややこしくしている。私に、こういう事を言った人がある。この場合にこう言った方が良いですよと言うが、嘘なんです。そのご忠告通りにやってみると、成績が悪いんです。何か、そこに――スラスラ行かないんです。それで私は思った通りにやるようにした。思った通りにずばっとやる。すると良い。正直が一番良いですね。正直にしていると、何も頭に残らないから――気が咎めないから良い考えが浮かぶ。嘘の執着ですね。だから嘘か本当かが、自分ではっきり分れば、そこではっきり標準ができる。頭の居所が上になるんですね。特に信者は、正守護神からいろんな事がある場合に、頭を空っぽにするというのは、嘘をつかないんですね。また、自分に不純な心がなければ――誠意があれば、いくら本当の事を言っても、いっこう差し支えないんですからね。よく――以前なんか、家内なんかが私に、そんな事を言っちゃいけませんよと言うんです。しかし、私は何でもありのまま言うんです。すると案外先方は好感を持つんですね。私なんか、随分ひどい事を言う事があります。今はそうでもありませんが、以前の――駆け出し時分にですね。はっきり言うんです。すると、先方が怒りそうなもんだが、怒らないで笑い出したりします。この点アメリカは非常に正直だと思いますね。映画を見ても、言葉が書いてあるが、あれを見ると、実に正直で、日本人には見られないようですね。 だから、アメリカ社会が明瞭だというのは、そういう事ですね。もっとも、日本人は封建時代から押さえつけられていたから、はっきり言うと誤解されるからで、これは政治のためですね。以前はすべて曲げなければならない。最初の、「明日の医術」「天国の福音」――「明日の医術」なんか、随分曲げて書いてある。ぼやかして書いてある。徹底しないというが、徹底して書けないですね。「天国の福音」になると、余程違っている。この頃になると思いきって書くから、 徹底してますがね。でもまだ、お医者や何かに気兼ねして書いている。今度の「文明の創造」なんかは、全然そんな事なく思った通りに書いてある。世界を相手 にするので、ややこしい書き方の必要もないし、それじゃ徹底しないからね。それから、言論の自由からいうと、何ら差し支えないからね。どうせ今に出るから、見るとよく分りますがね。