『地上天国』7号、昭和24(1949)年8月30日発行
さきに「私の観た私(全文へ)」という論文を書いたが、先の客観論と違い、今度は主観的にありのままの心境を描いてみようと思うのである。 現在私ほど幸福なものはあるまいとつくづくと思い、神に対し常に感謝で一杯だ。これは何に原因するのであろうか。なる程私は普通人と違い、特に神から重大使命を負わされ、それを遂行すべく日夜努力しており、それによっていかに多数の人々を救いつつあるかは、信徒諸士の誰もが知るところであろう。ところが私のような特殊人でないところの普通人であっても、容易に行われる幸福の秘訣があるから、それを書いてみるが、書くに当ってまず私の常に抱懐している心境を露呈してみよう。
私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、ほとんど道楽のようになっている。私は常にいかにしたらみんなが幸福になるかということをおもっている。これについてこういう事がある。私は朝起きるとまず家族の者の御機嫌はどうかという事に関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。この点は世間と反対だ。世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかについて何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で、罵詈怒号(ばりどごう)のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりする事が何よりも辛いのである。また一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこまでも平和的、幸福的で、これが私の本性である。 以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって私は「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない」と常に言うのである。
私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大される事と思っている。この文はいささか自画自讃的で心苦しいが、いささかでも裨益(ひえき)するところあれば幸甚(こうじん)である。