研鑽資料no.3(2018年9月)

10月に向けての学び その2

 

はじめに

責任者:

今年の夏は日本全国で「命の危険あり」「災害レベル」と言われたほど、過去に例のない異常な猛暑の連続に加え、梅雨前線による水害、台風による超強風や高波による被害が西日本を中心に襲いました。さらに先日は北海道で震度7の地震が起こり、今なお行方が分からない方々や、災害後、復旧のめどが立たぬ地域が多いとお聴きしております。2年半前、地震で被災した当時の熊本も同様の状況だったことが思い起こされ胸を締め付けられるような思いに駆られます。被害に遭われた方々には心より御見舞いを申し上げますと共に、一日も早い復旧、復興を御祈り致します。

先月は火素の増量による浄化作用ということで浄化作用に付いて復習を致しました。そして浄化作用が「何故」「どのように」体的に影響を及ぼすのかというところまで御教えとメシヤ講座に答えを求めて確認させていただきました。

さて10月の学びは、先ずこの「十」という数字の経(霊、善)と緯(体、悪)を結ぶ(伊都能売、完成)という意味をおさらいします。そして私達の信仰の対象であるメシヤ様と「太く繋がる」為にはメシヤ様の御本体で在らせられる伊都能売大御神様が「どういう御存在」であり「どのような特徴を持たれて」いるのか、そしてメシヤ様はどのようなご性格だったのかを確認させていただこうと思います。

今月はメシヤ降誕本祝典からこれまでの個々の信仰を振り返り、更に霊籍を向上させ「メシヤ様と太く繋がり」結ぶ、絶好の機会だと思いますのでご一緒に考えながら学ばせていただきましょう。

 

「十」「結ぶ」について

「メシヤ講座no.171浜松(平成27年4月)」より抜粋:

「楳木代表

今日ここを読んでみて大分わかったでしょ?「十」というのは縦横結ぶので、完成するという意味があるし、神様に通じるというのが「十」という文字なのだと。

それから今度「十」が十個集まると百になって、これが「もも」というふうに・・・「百」は「もも」と読むので…。

「桃」というのは今日も拝読したように三千年に一度桃の実がなるという特殊な桃の木があって、それが三千年に一度実るとこの世の中は天国になっていくとかいうふうに昔からの言い伝えがあるので、何故桃がいいのかというと「十」の完成したものがまた十個集まると更に完成していくので、それを「もも」と読ませて桃というのは非常に完成されたものなのだと、まあそういうふうに段々と理解を深めていただけると・・・」

 

御教え『御講話(S28年6月16日)』:

『救世教は天国を造る宗教であるから、そのやり方も天国的やり方でなければならないのです。結局力です。今までの宗教は力がなかったのです。キリストにしろ釈迦にしろ力がないのです。だから理屈はいろいろうまく説くが、実際の力がないから、本当に救えなかったのです。というのは夜の世界ですから、今までの力は月の力ですから、ごく弱かったのです。だから極楽や天国を造ろうと思っても、どうしても邪神に邪魔されて、思うようにゆかなかったわけです。ところが今度神様は私にその力を与えられてますから、それはなによりも、弟子がキリストと同じような奇蹟をさかんに現わすのでも明らかです。キリストを作る力ですから、それは大きなものです。それで力というものは霊体一致すると力が出るのです。今までは霊体が一致しなかったのです。霊体一致ということは、火と水がチャンと結ぶと本当の力が出るが、今までは結ばなかったのです。というのはキリストは緯の教えを説いて、釈迦は経の教えを説いて、離れ離れになっていて結ばなかったから力が出なかったのです。ですから力という字は、経の棒を引いて緯を結んで十の字になっているが、結ぶと初めて力が出るのです。そうして左進右退にまわり始めるのです。ですから力という字は、十の字になって左進右退にまわるのですが、文字は神様が作ったのですが、実によくできているものです。人間でも「人」という字が霊と体になってます。もっとも今の人は逆で「入」の字になってます。そういうわけです。(「御教え集」23号、昭和28(1953)年7月15日発行)』

 

御教え『御光話録』13号:

――ちょっとお見受けいたしましたが、信者の方がつけられるバッジに種類があるようですが。

『あれは作っちゃったんでね、いまさら捨てるのはもったいないから作っただけは使ってるんです。』

――中の十文字はなんの意味でしょうか、……キリスト教となにか関係が……

『関係っていうより、これは私のほうの解釈ですがね、十字は経緯を結ぶっていう意味なんです。経は東洋、東洋文化ですね。緯は西洋であり、西洋の物質文明なんです。また、経は祖先との繋がりであり、緯はキリスト教の博愛的な精神です。だから、今度敗戦によって日本が民主国家になったということは、経に緯の棒が入ったってことなんです。いままで忠君愛国といったふうな経だけのところへ緯が入ったわけですよ。(昭和24(1949)年10月21日発行)』

 

責任者:

ここでは代表より「「十」というのは縦横結ぶので、完成するという意味があり、神様に通じるというのが「十」という文字である。」と御教示いただき、メシヤ様は『十字は経緯を結ぶっていう意味なんです。経は東洋、東洋文化ですね。緯は西洋であり、西洋の物質文明なんです。また、経は祖先との繋がりであり、緯はキリスト教の博愛的な精神です。』と御教え下さっております。

 

「メシヤ講座・特選集no.118(平成22年11月分)」より抜粋:

「メシヤ様の御性格について

楳木代表

ぜひ今回のメシヤ講座・特選集の「伊都能売観音様記念式典」での

≪「伊都能売観音様」入仏記念式典・挨拶(「メシヤ講座・特選集no.117(平成22年10月分)」)≫を自分の中に取り込んで考えてみてください」

 

「メシヤ講座・特選集no.117(平成22年10月分)」より抜粋:

「伊都能売観音様入仏記念式典・挨拶

伊都能売神皇の御性格

楳木代表

(前文割愛)「伊都能売観音様の本来の御姿というのは伊都能売神皇ですので、ご参拝するたびに“どういう御存在であったのかな”ということを考えさせていただいております。取り分け今年の国際情勢を見ていますと、伊都能売神皇が出国された際に非常に関連するような出来事が起きております。

伊都能売神皇は、三千年前に朝鮮半島から素盞嗚尊が押し寄せて武力によって「統治権」を迫った時に、絶対平和主義を以て皇位を天照天皇にお譲りになって密かに日本を出国した訳ですね。そして、インドへ降って行かれて後に釈迦に仏教の基となる教えを説かれた、という御存在であります。伊都能売神皇が皇位をお譲りになられた天照天皇は『ある事情によって崩御なされた』とメシヤ様は御述べになられております。(この崩御の理由は、素盞嗚尊に因って毒殺された、ということを神界通信で知らされています。)

そのため皇位を天照皇后が継ぎ、琵琶湖より東側は天照皇后、西側は素盞嗚尊、という形で統治権を持った訳ですけれども、素盞嗚尊はその後も天照皇后に迫って、やがて日本全土を征服するという暴挙に出てしまいました。

それから数百年間、素盞嗚尊が統治しましたが、素盞嗚尊の特徴である、ある癖によって日本全土が乱れてしまいました。その乱れた際に隙をついて、以前から宮崎県の高千穂に潜んでいた瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御系統が一挙に東征したのです。尊は神武天皇の祖父を生んだとされています。

宮崎県の高千穂に潜んで素盞嗚尊の統治が乱れることを虎視眈々(こしたんたん)と睨(にら)んでいて、そして愈々(いよいよ)ここまで乱れたので、天孫系が日本を征服しても庶民からは文句が出ないだろう、ということで一挙に宮崎から出て日本全土を征服したということですね。これが皇紀紀元の神武天皇の即位へとなり連綿と今に至っているのです。

それ以後、この出雲系の神々と天孫系の神々によって日本は政権をずーっと維持してきました。一方、大和民族は陰に隠れてしまって、芸術面で時折才能を発揮するということで今日まで霊統を受け継いできました。

(中略)

そこで、もう一度考えなければいけないことは、伊都能売神皇の御姿勢ということですね。伊都能売神皇の大きな特徴は絶対平和主義というものです。これを支えるものは何かというと『徳によって治世(ちせい)に取り組む』ということです。さてこの徳によって治めるということをメシヤ様の弟子である私達はどこまで求めて生きているのか、ということが課題です。あるいは物事をどう考えていっているのか、ということを伊都能売観音様の御前に身を置いた時に真っ先に考えなければならないことだと思います。(後掲の事後雑感を参照)

75年経った今日、伊都能売神皇の御性格をどのように受け止めて、そしてメシヤ様の御教えをどこまで自分のものとして、どのように体現しているか、ということをここにご参拝の皆様には顧みていただけると有り難く思います。」

 

責任者:

楳木代表は冒頭で、「(伊都能売観音様へ)ご参拝するたびに“伊都能売観音様はどういう御存在であったのかな”」と考えておられたとあります。そして、「伊都能売神皇の大きな特徴は絶対平和主義」であり「徳によって治世を治めるということをメシヤ様の弟子である私達はどこまで求めて生きているのか」と。
このお言葉から、“私たちが伊都能売観音様の御存在をどのように受け止め、また受け止めたことをどのように実行しているのだろうか。”とお尋ねになられているように思います。

 

「メシヤ講座・特選集no.117(平成22年10月分)」より抜粋(つづき):

「御性格に照らして信仰生活の見直しを

楳木代表

今月各地の「メシヤ講座」で触れて来た内容は、対談記の中にありました霊籍に基づく生活の在り方、浄霊の在り方でした。霊界は180段階あって、そこに我々の魂が在籍しています。魂が上がれば天国へ行くし下がって行けば地獄へ在籍するということになっています。そして、それが現界での私達の生活に反映される、というようにメシヤ様は対談記でお述べくださっています。それに照らして私達の日常を考えていくと、日々の生活というのは魂が上がって行くということが一番大切だ、ということになります。

そして、天国に上がって行くにはどうしたらよいかというと、罪穢れの重みで地獄に行く訳ですから、罪穢れが払拭されると上に上がって天国に在籍することができるという訳です。

そのことを我々の日常生活に当て嵌(は)めて考えてゆくと、まず浄霊によって我々は浄められた訳ですけれども、浄められた霊体というものをまた曇らせてしまう、という生活を残念ながら今までのメシヤ様の信者は繰り返してきました。」

(中略)

「そこで、我々はメシヤ様の御教えに基づいて、伊都能売神皇の御性格に照らして信仰生活をもう一度見直さなければいけない、と思います。しかも、伊都能売観音様が御奉斎されていて、宗教宗派を超えて参拝に集結している「この場(観音堂)」は、非常に大きな役割があるのではないか、と思います。

我々の信仰対象というのは、メシヤ様であるしメシヤ様の御本体というのは伊都能売神皇、それから天照天皇、こういう御系統ですので、その御存在というのは徳によって世の中を治めていくという御姿勢と絶対平和主義ということですね。間違ったことには間違っているとキチンと言うけれども、人と争っていくという、そういう御性格は一切ないのでね。ですからメシヤ様ご自身のお姿を見ていくと、『私というもの』という御教えに終結しているわけです。

あれだけの信者のトップにおられた方でも、朝起きると家族の者の御機嫌はどうか、ということを気になされてね、それくらい家族とか周囲の者に気を使われて『一人でも御機嫌が悪いと私も気持ちが悪い。』のであるという御性格であられたのです。

そのメシヤ様を信仰の中心に置いている自分が、そこへ近づいていかないといけないわけです。家で喧嘩するとかいうことはその信仰じゃないのです。ですから、〇〇さんが機嫌が悪いと自分も気持ちが悪い、そうしたらそこへ光を頂いて改善していく、というのが本来の信仰なのだということです。とにかく、売り言葉に買い言葉をするから喧嘩になるわけです。売り言葉を受けても、それを光によって浄めて行く位の想念を持っておかないと信仰者とは言えないわけです。正しいことを言っておいたら相手がまたそれに対して攻撃してきても、もうそれには一切返事しない。そういう姿勢を家庭の中に置いておかないと、家の中は喧嘩だらけになっちゃうからね。『私というもの』という御論文を通して、その様な姿勢をどうか自分の中に身につけていって頂きたいと思います。」

 

責任者:

それではここで御教えに基づき伊都能売神皇の御性格とメシヤ様の御姿勢を確認してみたいと思います。

 

御教え『伊都能売の御霊』: 

『私は今まで幾度となく、伊都能売(いづのめ)の身魂の事を言ったり記いたりしたが、余程難しいと見えて、真に行える人は何程もないようである。ところが決してそう難しいものではない。根本が判って習性にしてしまえば案外容易に実行出来るものである。実行出来ないというのは、非常に難しいと思うその先入観念のためである。と共にそれ程重要な事と思っていない点もあるように思うから、幾度もかかない訳にはゆかないのである。

伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。小乗に非ず大乗に非ず、といって小乗であり、大乗であるという意味である。つまり極端に走らず、矢鱈(やたら)に決めてしまわない事である。そうかといって決めるべきものはもちろん決めなくてはならないが、その判別が難しいと言えばいえるので、言わば料理のようなもので、甘すぎていけず、辛すぎてもいけないというちょうど良い味である。これはまた気候にも言える。暑からず寒からずという彼岸頃の陽気で、この頃が一番快いのである。というように人間の心の持方も行いも、そういうようになれば、第一人から好かれ、万事旨くゆくのは当然である。ところが今日の人間はどうかというと、実に偏りたがる。これがよく表われているのが彼の政治面であろう。今日右派とか左派とかいって、初めから偏した主義を標榜している。従って物の考え方が極端で、しかも我が強いと来ているから、年中争いが絶えない。という訳でこれが国家人民に大いにマイナスとなるのである。この意味によって政治といえども伊都能売式でなくてはならないのは当然だが、そこに気の付く政治家も政党も仲々出そうもないらしい。何となれば吾々に近寄るまでになり得る人はまことに寥々(りょうりょう)たる有様であるからで、また戦争の原因もそうで、この両極端の主義を通そうとする思想から生まれるその結果である事はもちろんである。

そうして信仰上の争いもよく検討してみると、ヤハリ小乗と大乗、すなわち感情と理性との相違からである。だからその場合、経の棒を半分短かくし、緯の棒も半分縮めれば一致するから、円満に解決出来るのである。従ってよく考えてみれば仲直りも大して難しいものではないのである。それについてこういう事もよくある。

すなわちいかなる方面にも保守派と進歩派が必ずあって、宗教でもそうである。この二者の争いを観ると、前者は古い信者で伝統墨守(ぼくしゅ)的頑(かたく)なで、新しい事を嫌う、まず丁髷(ちょんまげ)信仰ともいえるが、後者の方は進歩的ではあるが、新しさに偏して何事も古きを排斥したがる。そこに意見の不一致が起り、相争う事になるが、これらも伊都能売式になれば何なく解決出来るのである。そうして肝腎な事は宗教といえども、時代精神を深く知る事である。ところが宗教人はどうも時代に無関心で、むしろこれをよいとさえしている傾向が強い。何百何千年前の伝統を金科玉条としている。なるほど信仰は精神的なもので、経であり、永久不変の真理であるから、曲げられないのはいいが、経綸の方はそうはゆかない。これは物質面であるから、時代相応に変遷するのが本当である。すなわち精神物質両方の完全な働きで、すなわちどこまでも伊都能売式で行かなくてはならない。

右の意味において、今日釈迦やキリストの時代と同じように思って、その教えややり方をそのまま実行しても、現代人の魂を掴む事は到底出来ないのは言うまでもない。既成宗教の振わないのもその点にある事を知らねばならない。要するに伊都能売の働きこそ、一切の根本的真理である事が分ればいいので私が常に伊都能売の意義を説諭するのもそのためである事を、信者諸君は充分心得て貰いたいのである。(『地上天国』35号、昭和27(1952)年4月25日発行)』

 

責任者:

ここでメシヤ様は『伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。つまり極端に走らず、矢鱈(やたら)に決めてしまわない事である。言わば料理のようなもので、ちょうど良い味である。気候でいえば、彼岸頃の陽気で、この頃が一番快いのである。というように人間の心の持方も行いも、そういうようになれば、第一人から好かれ、万事旨くゆくのは当然である。』と御教え下さっております。

又、私達メシヤ教の信者に対して『要するに伊都能売の働きこそ、一切の根本的真理である事が分ればいいので私が常に伊都能売の意義を説諭するのもそのためである事を、信者諸君は充分心得て貰いたいのである。』と締めくくられておられます。

 

引きと突きの調和

御教え『御垂示(S26年5月1日)』より抜粋:

―大和民族の特徴は平和愛好で、芸術を好むとお教えいただきましたが、そういったふうに、出雲系天孫系の特徴をお伺い申し上げます。

『それは出雲系は――素盞嗚尊は月だから、「ツキ」というのは突くと言うのです。ですから、刀なんか月の形になっている。「ツキ」というのは突くということで、征服するというのは「ツキ」の働きです。今の文明は「ツキ」の働きです。ボクシングをやること、あれは素盞嗚尊の系統です。「ヒ」は引くというので求心的なんです。徳によって慕って集まってくるというのが、火の系統の性格です。征服して覇道(はどう)的にやることが、月の系統です。今までは月の系統のやり方ですね。今度は昼間の火の系統の働きになり、引きつけるのです。天孫系のほうは、だいたい火の系統なんです。引く系統なんです。日本の天皇は、引くほうの系統です。だから二千年も続いている。「ツキ」のほうだとなかなかそうは続かない。

物事を決めようとする――そういう今までの考え方や説き方は――だからいけない。決めないのです。経緯結ぶというので、千変万化で、両方が必要であって、両方のどっちかではいけない。突くほうもあれば、引くほうもある。根本は引くほうでなければならない。それが伊都能売の働きなんです。悪の世の時代と、五六七の世の時代とは違う。月の時代に引くと負けるが、今のようになればいい。

『信仰雑話』時代に説いたことと、『天国の福音』時代に説いたのは、やっぱり違うんです。既成宗教が明かさなかったというのは、明かせなかったのです。医学に対しても、以前は加減して書いた。徹底しない憾(うら)みがあった。もっとも、吹けば飛ぶようでは強いことは言えないが、こっちに力が出てからは、これは本当かもしれないということになる。ヒョロヒョロしているのに、真理とか言うと気違いだ、と言うことになる。やはり応身の働きです。教えを説く場合、相手にとって、とんでもなく外れてしまうことがある。甘い物が好きな人に、辛い物を食え食えと言うようなものでね。』

-食え食えと言うくらいでなく、口をこじ開けて入れる者もおりますので――」

『そうです。酒の好きな者に甘い物を食わせる。動作を見て、好きか、嫌いか見なければならない。自分がおいしいと思う物は、人もおいしいと思ってね。相撲の好きな人に向かって、野球の話をするようなものです。(『御垂示録』6号、昭和27(1952)年1月25日発行)』

 

正論を通すべきか、人の意見に譲るべきか?

御教え『御光話(S24年 9・10月)』:

――自分が正しい立場にあっても争いを好まぬ性質から自重して時を待つ心と、相手と口論してもその正否を決めねば収まらない心とはどちらが善であり人間的でしょうか。

『これは臨機応変でどっちに決めてもいけないんです。自重すべきがいいときと、……けど、口論はいけませんね、この道は争いをなくすんですからね。……相手が誤解してるときにはそれに対して説明する、説明ですよ。それでも相手が判らなければ時を待つんですよ。口論なんかしてもまだ解決しないと、次にこれ(拳骨をお振りになる)になりますからね。(笑声)(『御光話録』15号、昭和24(1949)年12月20日発行)』

 

御教え『私というもの』:

『さきに、「私の観た私」という論文を書いたが、先の客観論と違い、今度は主観的にありのままの心境を描いてみようと思う。

現在私ほど幸福なものはあるまいとつくづくと思い、神に対し常に感謝で一杯だ。これは何に原因するのであろうか。なる程私は普通人と違い、特に神から重大使命を負わされ、それを遂行すべく日夜努力しており、それによっていかに多数の人々を救いつつあるかは、信徒諸士の誰もが知るところであろう。ところが私のような特殊人でないところの普通人であっても、容易に行われる幸福の秘訣があるから、それを書いてみるが、書くに当ってまず私の常に抱懐している心境を露呈してみよう。

私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、ほとんど道楽のようになっている。私は常にいかにしたらみんなが幸福になるかということをおもっている。これについてこういう事がある。私は朝起きるとまず家族の者の御機嫌はどうかという事に関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。この点は世間と反対だ。世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかについて、何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で、罵詈怒号(ばりどごう)のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりする事が何よりも辛いのである。また一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこまでも平和的、幸福的で執着を嫌う。これが私の本性である。

以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって、私は、「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない」と常に言うのである。

私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大される事と思っている。この文はいささか自画自讃的で心苦しいが、いささかでも裨益(ひえき)するところあれば幸甚(こうじん)である。(自観叢書12編『自観説話集』昭和25(1950)年1月30日発行)』

 

責任者:

ここでメシヤ様はご自分の本性は『どこまでも平和的、幸福的で執着を嫌う。』と、そして『容易に行われる幸福の秘訣は、人を幸福にすることだ。』と仰られています。

 

まとめ

責任者:

伊都能売神皇は「絶対平和主義」であられ、そしてメシヤ様も「どこまでも平和的、幸福的で執着を嫌う」御性格であられたということを今回は学ばせていただきました。

その中で、そうしたご性格の神様に参拝を御許しいただいている私達の普段の言動というものは、“伊都能売大御神様、メシヤ様のご性格に相応しいものでなくてはならないのではないだろうか…”と。そういうことに気が付き“自分に足りないところを認識できたならば、今後目指すべき方向性というものを見つけることが出来るのではないでしょうか。

私達は忙しい日々を過ごしています。またそういう中で、日々の感情に押し流されたりしてしまいますが、こうした学びの時間を持つことによって“自分の信仰姿勢を振り返るという大切な機会を持つことができるのではないかな”と感じさせていただきました。

個人的にはこの『伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。』という御教えが簡単なようで大変難しいところではないかなと思います。私達が毎朝拝読させていただいている『神格をいただく道』にもありますが、『・・・日常の言動は融通無碍、地所位に応じて何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである。・・・人に接しては春秋の気候の如く、何事にも極端にはしらず、・・・』という部分をメシヤ様のご性格に近づくことが出来るように一歩一歩努力して参りたいと思いました。

 

*責任者より

引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。

 

引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。

メシヤ講座no.171浜松(平成27年4月)

メシヤ講座・特選集no.118(平成22年11月分)

メシヤ講座・特選集no.117(平成22年10月分)

 

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