12月の学び
はじめに
責任者:
時間の経つのは早いもので、あっという間に12月を迎えようとしています。11月に入り、テレビでは毎日のように皇室関係のニュースが続いておりますね。特に先週は、21日に三重県を訪れられた天皇皇后両陛下が、22日は伊勢神宮の外宮、23日は皇室の祖先とされている「天照大神」様に「即位の礼」と「大嘗祭」が終わったことを伝える儀式として内宮に参拝された様子をテレビで拝見させていただきました。
そして先日は、ローマ教皇が「平和の巡礼者として」核兵器廃絶への強い思いを持たれ、被爆地長崎と広島を訪問されております。
さて結ノ和では、今回も前回に引き続き「『景仰』を如何ように拝読するか」を基にして、「神様の御心」を求めさせていただきたいと思います。それでは、よろしくお願いいたします。
「メシヤ講座・特選集no.63(平成18年4月分)」より抜粋:
「景仰」を如何ように拝読するか(4)
はじめに
楳木先生:
私達の実践徳目というものは、メシヤ様のご在世中のご日常を拝することにより自ずから明確になってまいります。
『乱雑にすると頭の働きがにぶる』の項
≪本文≫
明主様(メシヤ様)はよくお身廻りのものを整理されながら、『私は物の区分けや始末(しまつ)がうまいから、屑屋(くずや)とか道具屋なんかやればいいな』とご冗談(じょうだん)をおっしゃいましたが、場所と物に応じ、整然と処理されるその周到(しゅうとう)さ、それは全くひとつの芸術でもあったと思います。そして、『どの戸棚の何番目の物を持って来い』とお命じになられても、決して間違いはなく、実に驚くべき正確さでありました。
かつて明主様(メシヤ様)は、『人は平素から自分の持物は、いつでもまに合うように始末しておく心がけが必要である。暗がりの中でも、入用なものを自由に取出せるくらいでなくてはいけない。放任乱雑(ほうにんらんざつ)にすると、それだけ頭の働きを鈍(にぶ)くするものである』と、静かに御教え下さいました(側近奉仕者)
≪解説≫
楳木先生:
この文章からメシヤ様がご日常で何を心掛け、私達にどのようなことをお求めになられていたかを拝察することができます。
整然としたお方付けは『芸術でもあった』
まず、身の周りのものの整理の仕方が『ひとつの芸術でもあった』と記述されております。
「芸術」と言えば、とかく芸術品のことなど特別なものを連想しがちですが、片付け方や収納の仕方が『ひとつの芸術であった』とあります。メシヤ様の写真集を拝すると、花器をはじめお部屋の調度品等が名作揃いなので芸術品に囲まれた生活という観がありますが、所作そのものが芸術的だったのです。
『天国とは芸術の世界(全文へ)』という御教えが私達の胸に強く迫ってまいります。ご日常のご様子から、天国天人のお姿を垣間見る思いがいたします。
私達は日々メシヤ様を求めております。そして自らも天国天人に近づきたい、と願い精進に努めております。この項にあるお姿は、信仰者としての実践徳目を私達に指し示していると思われます。
私達の日常生活に対して『芸術的』な片付け、清掃、整理整頓を求められているのです。まずは課題として受け止め、実践に取り組みながら、やがて何気ない振る舞いの中でそれができるところまで極めたいですね。そのような境地に達することを目指さねば、本物の信仰者とは言えないことになります。」
責任者:
ここで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
○メシヤ様の御日常の所作そのものが、芸術的だったということ。
◎メシヤ様は、私達の日常生活の実践徳目として『芸術的』な片付け、清掃、整理整頓を求められているのだから、そのことを課題として受け止めて、実践に取り組むのだということ。
◎本物の信仰者とは、メシヤ様の御日常を規範とし、何気ない振る舞いの中で芸術的な片付け(整理整頓)や掃除ができるという境地に達した人だということ。
「メシヤ講座・特選集no.63(平成18年4月分)」より抜粋つづき:
頭の働きを鈍くする
楳木先生:
次に『放任乱雑にすると、それだけ頭の働きを鈍くする』と、御教えくださった旨が記述されています。
私達は知恵を磨きたくて御教え拝読に没頭します。ところが、拝読しようとする部屋やテ-ブルが乱雑であると、どうやら目的は達せられないようです。何故なら、放任乱雑は頭の働きを鈍らせる、ということですので、知恵を磨くことに繋がり難いのです。
前回、字面にとらわれてはいけない、というお話をいたしましたが、私達の御教え拝読が知識としてだけの習得に終わったのであれば、本来の在り方ではないことは周知の通りです。実践が伴わなければなりません。
また、整理整頓は健康な人でないとでき難いところがあります。微熱などがあると面倒臭くなりがちです。また、身体がだるかったりすると、まめに動けません。この御教えの実践のためには、浄霊をいただくことを普段に心掛け、真の健康を確保する必要があります。
さらには、人体というものは脳のために動いているという側面を持っていますので、逆説的に言えば、清掃を怠らず整理整頓を心掛けていなければ真の健康を維持でき辛いということになります。」
責任者:
ここで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎メシヤ様は、『放任乱雑(ほうにんらんざつ)にすると、それだけ頭の働きを鈍(にぶ)くするものである』と仰られていますので、御教えを拝読するときに部屋やテ-ブルが乱雑であると、拝読によって知恵を磨くということに繋がり難いのだということ。
◎私達の日常生活の実践徳目としての『芸術的』な片付け、清掃、整理整頓は、健康な人でないとでき難いところがあるので、常日頃から浄霊をいただくことを心掛け、真の健康を確保する必要があるのだということ。
○私達は、清掃を怠らず整理整頓を心掛けていなければ真の健康を維持でき辛いのだということ。
「メシヤ講座・特選集no.63(平成18年4月分)」より抜粋つづき:
在家信仰のあり方
楳木先生:
そして、今回の項で特に考えておかねばならないことがあります。それは、教団施設の奉仕についてです。ここでは清掃奉仕ということについて触れておきます。
奉仕という意味合いも少し受け取り方が変わってまいります。もちろん、自らの有する時間や身体を神様のために捧げ、奉仕する取り組みは大きな徳積みの一つです。そしてその結集が、御神業推進を支えております。大変尊いことです。
ところが、奉仕は徳積みに止まらず、また御用奉仕の意義として説かれたことに止まらず、取り組む者自身にとって大きな利益となるのです。
教団施設は小規模ながら「地上天国の雛型」を目指しております。美の象徴的なところを目指しておりますから、そこで奉仕することは清掃の練習を重ねていることになり、清掃全般の在り方を身に付けていることにもなります。学んだことを家庭や職場、地域で実践してゆく―それが信仰生活であり、天国化の具体的取り組みの一つになるのです。
教団施設などで清掃奉仕に取り組む場合、このことが根底になくてはなりません。当然教団施設では誰でもが清掃奉仕できるように、清掃用具などは誰でも扱えるように判り易く整備されています。すすんで奉仕させていただく、ということが前提となっているからです。家庭でもどこでも同じことが言えます。
また、整った施設の奉仕は取り組めば取り組むほど気持ちのよいものです。大勢の力で取り組んでおりますので、美化のスピ-ドも格段に早まります。役割を持って行なうので、‘遣り甲斐’というものも生まれ、充足感も湧きます。
そうすると、仮に家庭で問題を抱えていると、その奉仕にのめり込むことが起きることもあります。これは熱心な信者さんに当てはまることですが、現実から逃避することになってしまうことがあります。真面目であればあるほど、そうしたことも起き得るということを老婆心ながら付け加えておきます。しかし逃避してしまうと現実の問題は解決致しません。
奉仕には様々な意味合いがあることを承知して、教団施設での清掃奉仕は‘練習の場’であるという面も加わっており、実践は家庭や職場、居住地域で行なう、という姿勢が大切であるということを心得ておきたいものです。これが在家信仰の基本なのです。」
責任者:
ここで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎教団施設などで清掃奉仕に取り組む場合、そこで奉仕することは清掃の練習を重ねて(清掃全般の在り方を身に付けている)いることになるので、そこで学んだことを家庭や職場、地域で実践してゆく―それが私達の信仰生活であり、そのことが天国化の具体的取り組みの一つになるのだということ。
◎在家信仰(基本)は、教団施設での清掃奉仕などで学んだことの実践を、家庭や職場、居住地域で行なう、という姿勢が大切であるということ。
「メシヤ講座・特選集no.64(平成18年5月分)」より抜粋:
「景仰」を如何ように拝読するか(5)
はじめに
楳木先生:
私達は少しでも向上を許されたいと願っております。『信仰の基準は智慧と誠です』と御教えいただいていますように、向上の眼目の一つには智慧証覚を磨くということが挙げられます。(「御講話(昭和23年8月28日)へ」)
私達が覚りを開く道としては、山陰に身を置き俗世と隔たりをもって生活を続けるか、雑踏の四囲に身を投げ入れ人々の苦しみに対峙しながら生活するか、のいずれかであります。
前者は非常に清らかな世界でありますが、反面主神様のご経綸とは離れた場所に身を置くことになります。後者はご経綸の真っ只中であり、破壊と建設の同時進行で進む世界に身を置くことになります。良くも悪くも人々の人生に関わり、そのことを通してご神意を解し、覚りを重ねます。
メシヤ教の御神業は後者によるところが大きい訳ですが、それだけに画一的な捉え方や決まり文句で物事を把握していると、思わぬ取り違いを起こしてしまうこともあります。
『ちょっとした言葉の中の宝』の項
≪本文≫
昭和十四年末、おそばにお使いいただけるようになりましてから、まもないころと存じますが、明主様(メシヤ様)から、ご浄霊をいただきます折、明主様(メシヤ様)は、『あなたはいつごろ盲腸の手術をしました?』とおききになりました。
それで私が、「はい、今年の二月でございます」と申し上げると、明主様(メシヤ様)は『ハハア、そうすると、あと十三年ぐらいか、あるいはそれまでもたないかも知れないね。ハハ・・・・・』とお笑いになりながらおっしゃいました。
私はこのお言葉を何心(なにごころ)なくお聞きして、今日まですごさせていただきました。いまにして思えば、まことに申しわけないことですが、私は神様のお言葉を軽(かろ)んじておりました。明主様(メシヤ様)は常々、『私がちょっと言った言葉の中に、実は大切なことがあるんですよ』とおっしゃっておられました。そのご注意を、私は忘れてすごしてきたのです。
以来十三年、数々のご浄化をいただきましたが、そのたびごとに目のさめるような御守護の奇蹟で、いつもそれを易々(やすやす)と乗越えさせていただき、また、今年の初めより盲腸手術(もうちょうしゅじゅつ)のあとが赤く腫(は)れ出し、大形のお湯呑茶碗(ゆのみぢゃわん)ぐらいになり、その痛みはとても激しく、夜も眠れず、起居(ききょ)も出来なくなってしまいましたが、ご浄霊いただき、その後まもなく、濃(こ)い糊(のり)のような膿(うみ)をお碗(わん)に一、二杯ぐらい出させていただき、手術痕(あと)の深い傷口(長さ約三センチ、深さ一センチほど)も浅くなり、ほとんど平らに、きれいに全快させていただきました。
顧(かえり)みすれば、手術後ちょうど十三年目の月も日も同じ時(昭和二十七年二月十一日)にいただいたこの御守護です。もし、このお道を知らなければ、十三年前のお言葉のごとく、私の生命(いのち)はこの時あるいはそれ以前になくなっていたことと思い、明主様(メシヤ様)のお言葉は御神示(ごしんじ)であり、絶対に間違いないということを、心の底から思うようにならせていただきました。(布教師)
≪解説≫
楳木先生:
この一文を読ませていただいて、羨ましく感じられたのではないでしょうか。直接メシヤ様から浄霊をいただけるなんて、羨ましい限りですね。しかし、今となっては適わぬことなので、何とか学びに繋げねばなりません。
まず、御守護のいただきやすい浄霊の受け方です。この文章を記述した方がいただいた御守護のように。誰からいただくにしても、メシヤ様から直にいただくような想念を持つことが大切です。これが欠かせない想念です。
そして次は、御教えの拝読を普段に積み重ねるということです。御教え拝読を重ねてまいりますと、この一文に対して‘何故ご質問をしなかったのか’という思いがむくむくと湧いてまいります。
『あと十三年ぐらいか』というお言葉の意味
『・・・あと十三年ぐらいか・・・』というお言葉の意味を、その場でお尋ねしてほしかったですね。そうしていただいておけば、「・・・十三年前のお言葉のごとく、私の生命はこの時あるいはそれ以前になくなっていたことと思い、・・・」という表記が微妙に変っていたと思われます。
何故なら、メシヤ様は盲腸の手術に限定してお言葉を下さったのですから、しかも『ハハ・・・・・』とお笑いになられたのですから、命に関わるということではない、と受け止めることができます。
ではどういうことなのでしょうか。盲腸の手術について考えられることは、その時点で使用した薬毒が推測されます。
膿が出た後の傷口の変化から判ること
だからこそ、十三年後に手術痕が腫れ始めるという浄化をいただいたのです。しかも、浄霊をいただくことにより、「濃い糊のような膿をお碗に一、二杯ぐらい出させていただき、手術痕の深い傷口も浅くなり、ほとんど平らに、きれいに・・・」という結果をいただかれたのです。
手術時の薬毒が排泄され、深さ一センチもあった傷口がほとんど平らになったのです。何と素晴しい浄化作用でしょうか。浄化は救いであるという見本のようなものです。
メシヤ様が他の宗教教祖を寄せ付けないほどに遥かに卓越された判釈(はんじゃく)をもたれたところです。そして私達はその恩恵にあずかっております。しかも、救いの教えを説かれただけではなく、救いの力を授けてくださっているのです。この上なく有り難いところです。
また、この方は浄化の際の痛みについて「その痛みはとても激しく、夜も眠れず、・・・」と記述しております。
薬の種類によって痛み方に違いがあることは、御教え(御教え『三毒』へ)に具体的に説かれてある通りです。浄化作用の在り方に確信を深め、さらに御神業に邁進する意欲が増した、というようにまとめていただきたかったですね。
『世界に知らせよ薬禍薬害』
この方の上司も、浄化を通して『薬禍薬害』のアドバイスを行なっていただきたかったですね。前述のようにメシヤ様は、盲腸の手術に対してお言葉を下さったのですから、「そこを基点にして『十三年』ということを受け止めてはどうか」というアドバイスです。(中略)
この執筆者は布教師ですので、さぞ相当な徳積みを重ねられたことと推察できます。徳積みを重ねても薬毒からは免れ得ない面がある、ということを心得ておかねばなりません。御教えに『薬毒五十年(御講話(昭和28年1月7日)全文へ)』とありますように、メシヤ様という超人的に使命を果たされた方でも、免れ得ることのできないものが薬毒なのです。
そのことを私達は肝に銘じなくてはなりません。
そして、薬毒について思い出される内容は『世界に知らせよ薬禍薬害(全文ヘ)』の項です。この中で、メシヤ様は『全世界の人に、薬禍、薬害(御教え『救世の警鐘』へ)ということを知らせれば、世界が救われるのですよ。人類を救うということは、ただこの一点にあるのですよ』と述べられています。」
責任者:
ここで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
○私達の御神業は、ご経綸の真っ只中(破壊と建設が同時進行で進む世界)に身を置きながら、人々の人生に関わり、そのことを(良くも悪くも)通してご神意を解し、覚りを重ねているので、画一的な捉え方や決まり文句で物事を把握していると、思わぬ取り違いを起こしてしまうこともあるのだということ。
◎徳積みを重ねても薬毒からは免れ得ない面があり、免れ得ることのできないものが薬毒なのだということを心得ておくということ。
◎メシヤ様は私達に『全世界の人に、薬禍、薬害ということを知らせれば、世界が救われるのですよ。人類を救うということは、ただこの一点にあるのですよ』と述べられているのだということ。
編集後記
責任者:
今回は、私達の日常生活の実践徳目として『芸術的』な片付け、清掃、整理整頓を求められているのだということを学ばせていただきました。年末は、毎年掃除や年始の準備に追われてあたふたするのが恒例になっていましたが、今年はメシヤ様のお姿を神倣い、そうならないように努めさせていただこうと思います。
それから、『救世の警鐘』を拝読し、天皇陛下とローマ教皇が希望なさっている「世界の平和」というものは、やはりメシヤ様が述べられているように『全世界の人に、薬禍、薬害ということを知らせれば、世界が救われるのですよ。人類を救うということは、ただこの一点にあるのですよ』ということを私達がコツコツと知らせ伝えてゆく、その延長線上にあるのだということを、今回は更に強く思わせていただきました。
皆さんも12月に入ると年末に向けて忙しくなられることだと思いますが、どうぞご自愛下さいませ。
有難うございました。
※責任者より
引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。
引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。
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