研鑽資料no.120(2023年10月)

10月の学び

はじめに

責任者:

十月の声を聞いてやっと秋めいてまいりました。読書やスポーツの秋、又は食欲の秋などともいいます。皆様におかれましては、どのようにしてこの爽やかな季節をお過ごしでしょうか。

さて、それでは引き続き「文明の創造」より学んで参りたく思います。よろしくお願い致します。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋:

<今月の御教え>

『総論』

「文明の創造、科学篇」昭和27(1952)年

私は之迄病気に対し、詳細に直接的解説を与えて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学が如何(いか)に誤ってゐるかが判ったであらうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡(あら)ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思ふのである。

『手術』

近来、医学は大いに進歩したといい、取り分け手術の進歩を誇称しているが、私から見れば之程の間違いはあるまい。考える迄もなく、手術が進歩したという事は、実は医学が進歩しないという事になる。というと不思議に思うであろうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。判り易く言えば、病気と其機能とは密接な関係はあるが本質は異っている。従って真の医術とは病だけを除って、機能は元の侭でなくてはならない筈である。

処が医学が如何に進歩したといっても、病のみを除り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了うのであるから、此事を考えただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであろう。斯んな分り切った理屈でさえ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥っていたのである。従って何としても大いに覚醒して、初めから行り直すより外あるまい。即ち医学の再出発である。処が今日迄其意味を発見した者がなかったが為、盲目的に邪道を驀進して来たのであるから、何年経っても人類は、病気の苦痛から解放されないにみて明かであろう。

以上の意味に於て考えてみる時、手術の進歩とは、医術の進歩ではなく、技術の進歩でしかない事が分るであろう。そうして尚深く考えて賞いたい事は、造物主即ち神が造られた万物中最高傑作品としての人間であるとしたら、仮にも神として人体を創造する場合、五臓六腑も、胃も、筋肉も、皮膚も、何も彼も無駄なものは一つも造られていない筈である。之は常識で考えても分るであろう。

処が驚くべし、二十世紀に入るや、人間の形はしているが、神以上の生物が現われた。其生物は曰く、人体内には種々な不要物がある。盲腸も、片方の腎臓も、卵巣も、扁桃腺もそうであるから、そんな物は切って除って了う方がいい。そうすればそれに関した病気は無くなるから安心ではないか、と言って得々として、メスを振っては切り除って了うのである。何と素晴しい超人的、否超神的存在ではなかろうか。

処が不思議なる哉、此大胆極まる暴力に対し、現代人は無批判処か、随喜の涙を雫(こぼ)している。而も、人民は疎か、各国の政府迄も有難がって、之こそ文化の偉大なる進歩であると心酔し、援助し奨励迄しているのであるから、其無智蒙昧さは何と言っていいか言葉はないのである。としたら此現実を見らるる流石の造物主も、呆れて唖然とされ給うと察せらるるのである。そうして右の超神的生物こそ、誰あろう近代医学者という人間である。としたら全く彼等の人間を見る眼が強度の近視眼にかかっており、近くの唯物科学だけが見えて、其先にある黄金の宝物が見えないのであろう。

然し私は、唯物科学を敢えて非難する者ではない。人類は之によって、如何に大なる恩恵を蒙り、今後と難も蒙るかは、最大級の讃辞を捧げても足りない位である。といって何も彼もそう考える事が早計であって、唯物科学にも自ら分野があり、越えてはならない境界線がある。ではそれは何かというと、有機物も無機物も同一視する単純な考え方では、駄目であるという事である。つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、である鉱物や植物と混同している錯覚である。

というのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないに拘わらず、どう間違えたものか、入れて了った事である。之が根本的誤謬で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術といふ人体を無生物扱いにする行り方も当然であろう。又斯ういう点も見逃す事が出来ない。それは唯物科学の進歩が、余りに素晴しかった為、何も彼も之によって解決出来るものと信じて了った科学至上主義である。処が実際上動物はそうはゆかない。成程医学によって、一時的には効果はあるようだが、根本が誤っている以上、真の効果が挙らないにも拘わらず、それに気付かず、相変らず邪道を進みつつあるのである。

そうして右の如く私は生物と無生物の関係を大体かいて来たが、今一層掘下げてみれば生物の中でも人間と他の動物とを同一視してはならない事である。といっても之は根本的ではないが、相当の異いさがある。例えば人間に対って、結核といえば直に神経を起し、悪化したり、死を早めるが、牛の結核を牛に言っても、何等の影響もないのである。従ってモルモットや二十日鼠を研究して、人間に応用しても、決して良い結果は得られないのである。

茲で前に戻って、再び手術に就て筆を進めるが、成程一時手術によって、治ったとしても、それで本当に治ったのではないから、暫くすると必ず何等かの病気が発生するが、医学は其原因に気が付かないのである。そんな訳で手術後の先には余り関心を持たないのである。然し考えても見るがいい。体内の重要機能を除去したとすれば、言わば体内的不具者となるのであるから、全然影響のない筈はない。

例えば外的不具者で足一本、手一本処か、指一本、否指の頭だけ欠損しても、其不自由さは一生涯の悩みの種である。況んや内的不具者に於てをやである。而も外的不具者なら、生命に関係はないが、内的のそれは生命に至大の関係があるのは当然である。例えば盲腸の手術で、虫様突起を失うとすればどうなるであろうか、元来盲腸なるものは、重要な役目をもっている。

それは人間の背部一面に溜った毒素が、一旦右側背面腎臓部に溜って固結し、少しずつ盲腸部に移行固結するが、或程度に達するや急激な浄化が起り、発熱、痛み等が発生し、溶解された毒素は下痢となって排除され、それで治るのであるから、実に結構に出来ている。処が可笑しいのは、此際医師は手遅れになると大変だから、一刻も早く手術せよというが、此様な事は絶対ないので、手遅れになる程反って治る可能性が多くなる。之は理屈ではない。私は何人も其様にしたが、一人の間違いもなかったのである。寧ろ手術の為不幸になった例は時偶聞くのである。

又盲腸炎潜伏を知るのは訳はない。医学でもいう通り、臍から右側斜に一、二寸位の辺を指で押すと痛みがあるから直ぐ判る。然し原因は其奥にあるので、盲腸部だけの浄霊では全部の痛みは除れない。盲腸炎の場合、右側腎臓部を指で探ると必ず固結があり、押すと痛むからそこを浄霊するや、忽ち無痛となり全治するのである。治る迄に早ければ十数分遅くとも三、 四十分位であって、間もなく下痢があり、それで済んで了うので、再発などは決してない。としたら何と素晴しい治病法ではなかろうか。

処が医学では手術の苦痛も費用も、並大抵ではない。其上不具とされ、運の悪い人は手術の跡の傷が容易に治らず、数年かかる者さえある。稀には手術の為生命を失う者さえあるのだから、我浄霊と比較したら、其異いさは野蛮と文明よりも甚だしいと言えよう。処が手術によって盲腸炎は治ったとしても、それだけでは済まない。

前述の如く盲腸なる機能は、背部一面の毒素の排泄機関であるから、それが失くなった以上、毒素は出口がないから、大部分は腹膜に溜ると共に、腎臓部の固結も大きさを増すから、それが又腎臓を圧迫し、腹膜炎に拍車をかける事になる。之が主なる悪影響であるが、其他の個所にも溜るのみか、手術後腹力や握力が弱り、持久力や粘り強さ等も薄くなり、性欲も減退する。之等は体験者の知る処であろう。

次は腎臓剔出であるが、此手術は腎臓結核の場合であって、痛みや血尿があるので、そう決められ剔出するが、此成績も面白くない。大抵は何かしら故障が起る。その中で一番困るのは、残っている一つの腎臓は二つの負担を負わされるから、病気が起り易いと共に、剔出する事も出来ず、どうしていいか判らないという惨めな人もよくある。というのは誰しも保有毒素が相当あるから、残った腎臓へ溜結するのである。その外全身的には弱体化し、歩行にも困難があり、腰を捻ったり、正坐すら出来ない人もあって、先ず半分廃人である。処が最初から浄霊によれば、手も触れずして簡単に全治するのである。

次は胃癌の手術であるが、之も仲々厄介である。之に就て遺憾に思う事は、切開してみると、癌が見当らないという過失をよく聞くが、患者は全く災難である。幸い予定通り切り除つても、大抵は時日が経つと僅かでも残った癌が広がってゆき、再度の手術をするようになるが、三度目になると不可能で、最早致命的である。そうして手術が成功しても、縮小した胃と腸と繋ぎ合すので、食物も少しずつ何回も摂らねばならず、而も医学の統計によれば、手術後の寿命は平均二年半とされている。

それに就て医学は斯ういうのである。どうせ半年か一年で死ぬべきものを、手術によって一年でも二年でも延びるとしたら、それだけ有利ではないかと。成程其通りにゆけばいいが、事実は放って置けば三年も五年も生きられるものを、手術の為に縮められる例を、私は幾人となく経験したのである。又医学は癌の治療にラジウムの放射をするが、之は反って悪化する。というのはラジウムは癌を破壊すると共に、組織迄も破壊して了うからである。

右の解説は真症胃癌に就てであるが、実は真症は少なく、大部分は擬似胃癌であり、擬似は勿論薬毒が原因である。それは薬の性質にもよるが、一旦吸収された薬は、時を経て毒に変化し胃へ還元し固まる。それが癌とされるのであるから、之は浄霊によれば非常に衰弱していない限り、必ず治るのである。

右の外卵巣除去、乳癌の手術、中耳炎、瘍疔(ようちょう)、眼科、肋膜炎の穿孔、痔疾、横疲(よこね)、睾丸炎、瘭疽(ひょうそ)、脱疽、整形外科手術等々種々あるが、之等も大同小異であるから略すが、茲に二、三の書き残しをかいてみよう。それは各種の腫物であるが、之は手術をせず放っておけば、腫れるだけ腫れて自然に穴が穿き、そこから血膿が出て完全に治って了うものである。処が患者は痛みに堪え兼ねるので、医療は早く治そうとして手術するが、之が大変な誤りである。というのは手術にも時期がある。充分腫れてからなら左程の事もないが、そうならない内に行うと、今迄一ヶ所に集中していた膿は、其運動を止めて了い、他の近接部へ腫れ出すのである。之は手術処か、一寸針で穴を穿けた位でも、ヤハリ集溜が停止されるので、之は知っておくべき重要事である。

之に就て斯ういう例があった。以前私は頼まれて某外科病院へ行った事がある。患者は四十歳位の男子で、よく訊いてみると、初め頚部淋巴腺に鶉の卵位の腫物が出来た。早速医者へ往って穴を穿け、膿を出して貰うと、間もなくお隣へ同じような腫物が出来た、それを切ると又お隣へ出来る、という具合で、遂には反対側の方にも出来、それも次々切ったり出たりする内、遂には腫物の数珠繋ぎとなって、私を招んだのである。そんな訳で外部には腫れる場所がなくなったので、今度は内側へ腫れ出した。恰度其時であったので、私と難もどうする事も出来ず、断って辞したが、其後数日を経て、咽喉が腫れ塞がり、窒息で死んだとの知らせがあった。之等は全く手術の為の犠牲者である。というのは最初腫物が出来た時、放っておけば段々腫れて、恐らく赤子の頭位に大きくなったであろうが、それでも放っておけば、終には真ッ赤にブョフョになって穴が穿き、多量の血膿が出て、完全に治って了い、痕跡も残らないのである。

次は、近来一部の医師で、脳の手術をするが、之等は勿論癲癇とか、脳疾患等の場合行うのであるが、之は何等の効果もない。何故なれば頭脳の機質性病患でなく、精神的のものであるからで、つまり霊的原因である。之に就ては霊の項目に詳記するから、茲では略す事とする。次は近頃流行の結核に関する手術療法で、之は肋骨を切り除ったり、空洞のある患者には、合成樹脂の玉を入れたり、横隔膜を手術したりするが、之等は一時的効果で、反って後は悪いのである。要するに再三言う通り、手術なるものは、如何に有害無益なものであるかは、医学が一層進歩すれば分る筈であるから、最初に述べた如く手術の如き、野蛮的方法は、是非全廃して貰いたいのである。

 

医者の現状

楳木先生:

今回も非常に長い御論文ですけれども、最初の225ページ(書籍「文明の創造」P.225)に『総論』として、先月まではずっと病気に対して詳細に直接的解説を与えていたけれども、『病気なるものの真原因と、既成医学が如何(いか)に誤ってゐるかが判ったであらうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡(あら)ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思ふのである。』というところから、『手術』について触れているということであります。

昭和27年当時の手術の現状ですけれども、このときにメシヤ様が御指摘されているのは、『まだ医者が気づいていないことがある』ということと、『医学の説明において、日本人が錯覚に陥っていることがある』ということを、今回、御指摘されているのです。それが平成26年になった現在でも、まだ続いている状況があります。

例えば、肝臓がんと去年の秋に言われて、「手術をしても来年の(今年のこと)4月までしか生きることができません」と、余命宣告をされた70代後半の方がいます。この方は「手術をしても春までしかもたないのであれば、手術はしません。」と医者に告げて手術を断ったわけですが、医者からは「検査に定期的にきてください」と言われたので、「それには行きます」ということになりました。それから徹底して浄霊をしたのですが、暮れの検査のときに、〈がん症状が治まっている〉という結論がでたわけです。

それで「来年4月までしか生きることができないと言ったではないですか」とその人が言ったら「稀にそういうことがあります」と。医者はこんなにいい加減なことをしているというのが現状としてはあります。

それからもう一人は、年末いろいろなところから電話がかかってきたのですが、四国の方で、こちらは乳がんの人です。この人も70代前半の人ですが、乳がんの治療を重ねてきて、最終的に医者から「抗がん薬の新薬ができたのでこれを試してみましょう」と言われたので、子供たちは「これ以上もう治療をしないほうがいいのではないか」という結論を出したのですが、その人は、「親切に医者がここまで治療を続けてくれたので、この治療に賭けたい」と言うので、その新薬を入れたら体力が急激に落ちてしまいました。

それまでは車も運転し、いろいろ家のこともできていたのですが、その新薬を入れた途端、動けなくなってしまい、入院が長期化し、遂には腕がパンパンに腫れあがってしまい、動かすことができなくなり、腋下からリンパ液まで出てくるようになってしまいました。医者が慌てて「この新薬はあなたには合いませんでした。もうやめましょう。これ以上あなたにできる治療はないので、緩和ケアに移ってください。次の病院を紹介しますから」と手をひいてしまい、緩和ケアのほうに移してしまったのです。

このように無責任なことをしてしまうので、そのお子さんから電話があって、「こんな現状なのです」と。「あなた達は医者に言ったでしょう。もう治療をやめてくれと。しかし医者が治療をやってしまい、腕が動かなくなり、しかもリンパ液が腋から出てくるような状態にしてしまった、その医者に何故責任を取れと言わないのか。やるだけやって、こんな状態にしてしまってもう病院を転院させるような、そんないい加減な医者にどうして責任を問わないのか」と言ったのですが、お母さんが「もう仕方がないので、今までよくしてくれたので、次の病院に移って何とかこの状態が治まるようにしたい」と言ったのです。

今は腋に紙おむつのようなものをいつもはめて、ずっと体液が出るような状態で、今年になって「反対側にもがんが転移しているようなので、どうしましょうか」というようなことを次の医者が言い始めるようなことが起きているので、この機会にそこまで医療、薬を使ってきているので、今後どうなるかわからないけれど、浄霊をしっかりして手が少なくとも動いて、自分のことができるようにしていけると良いねということが今の状態です。医者の対応というのは非常にいい加減なものだな、と思います。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎前回の御論文迄、メシヤ様が病気に対して詳細に直接的解説を与えてこられたことによって、病気の真原因と、既成医学が如何(いか)に誤っているかが判ったのだということ。

>しかし、私達は『まだ知らなければならない点が種々あるので、凡ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみよう』とメシヤ様は思われて、この『手術』について触れているのだということ。

◎『手術』では、昭和27年当時の手術の現状をお書きになっているのだが、この御論文でメシヤ様は、『まだ医者が気づいていないことがある』のだということと、『医学の説明において、日本人が錯覚に陥っていることがある』ということを御指摘されているのだということ。

◎前記の状況が平成26年でも、まだ続いている状況にあるのだということ。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

脳梗塞も浄霊で治る

楳木先生:

その反面、私事ですが、私の兄が66歳なのですが、年末に脳梗塞で倒れてしまいました。

12月29日に会社の忘年会をやって、帰って仕事を・・・。小さい会社ですが代表者をやっていますので、仕事をして、少し飲み足りなかったので自分の家に帰って飲んで、そのまま眠ってしまったようです。しかし、次の朝、目が覚めたら体が半身、動かなくなってしまっていたので、里帰りする予定だったのですが、帰ってきませんでした。トイレにも行けないので、いわば汚い話ですが、垂れ流しの状態になってしまい、近くに弟がいたので、連絡をとりながら、こういう対応をしてくれということで、一応年を越すことができました。

年を越してから、私も片付けて、行って浄霊をしてみると、だいたい脳梗塞のあとは片付いたようなので、そこをよく浄霊しながら運動をすれば、何とかなるだろうと思いました。仕事始めに連れて行って・・・。請求書とか資料とかを作らないといけないので、私がパソコンで代わりに処理をして、仕事始めができるようにしておいて、それからまた浄霊をして、部下の営業部長とかといろいろ話をしました。営業部長からは、これを機会に精密検査をしてもらいたいとかいうような要望があったので、私が一旦実家の方へ連れていって、家と付き合いのある医者に精密検査をしてもらうので、3日間ほど会社を留守にするのでその間のやっておかないといけないことを打ち合わせをして、それに対して私が対応する書類を作っておくからということで、朝の8時から12時まで、そういう経理上のこととか、様々な資料をつくりました。

そして、あとは部長に頼んで、連れて帰りました。連れて帰って、そしてそれから私が出張に出ないといけないので、私の母に3日間浄霊する場所と酒とタバコを飲んだり吸ったりしているので、これを機会に酒とタバコを全部断つように約束をして、浄霊とご飯をしっかり食べることを約束しました。会社でも 「酒とタバコに手を出したら、私は即刻捨てて帰るから」と話しましたが、手が動かないので書類を書くことができず、私が代わりに書いていると、ついついタバコに手を出して吸おうとするので、「それを吸った瞬間、ここで仕事をやめてもう帰るから」と脅すというか、その位言わないとやめることができないので、「たばこを吸った瞬間、帰るから」ということで、何とか「これ以上吸ったらいけないな」と思ったようで、帰るときに部屋にあったたばこと酒を捨ててしまって、着替えだけを持って実家に帰りました。

母が朝昼晩とよく浄霊をしてくれて、運動を。そういう場合には運動を、右手右足が動かなくなっているので、それを動かす方法というのは、とにかく持ってでも足を上げたり下げたりしないといけないので、階段のそばに行って、まず動く足から上げて、逆の足を引っ張り上げ、それから動く足を下げて、もう一方の足を下げるというような運動をするのと、手を動かすということを、毎日ゆっくりでもいいから動かしていけば、3日あれば必ずよくなるからということで浄霊を続けていたら、3日目に何とか2階の御神前まで上がることができるようになりました。

そうこうしている間に、「会社からどうしても、戻ってきてもらわないと仕事がどうしても進まないので来てくれ、と言われている」と母親から電話がありました。

状態を聞いたらほぼ脳梗塞が立ち直れるところまできていたので、あとは自己浄霊でなんとかなるだろう、ということで、また会社に行くようになったのですが、会社へ行って一通りのことが終わったら、車の運転ができるまでに右手右足が動くようになりました。このままいけば、あと酒とたばこをやめれば、治っていくとおもうのですが、これが部下の部長のように精密検査を受け、医療にかかってしまうと薬漬けになるので、1ヶ月とか2ヶ月とか入院して、いくらリハビリしても、薬が入ってしまうとなかなか完全に復帰できないというようになりますが、何とか私の出張前に処置ができたのでよかったな、と思います。医療にかからなければ、こうやって完全に復活できますので。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎脳梗塞も医療にかからなければ、完全に復活できるのだということ。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

血圧も浄霊で治る

楳木先生:

それから三重支部まで移動してきたら、三重支部で自然農法をやっていて、今日も野菜をここに届けている方が、血圧が140~50あったのですね。しかし薬とか一切やめて、畑と自分の仕事をしながら自己浄霊しているうちに血圧が130台まで下ったそうです。そして今回の月次祭で初めて、「血圧が正常に戻りました。ありがとうございました。」という報告を受けました。

やはりメシヤ様の教えに沿って、そのように取り組めば、自分の健康は維持できるということがよくわかるので、大変ありがたいな、と、そういう年明けを迎えました。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎メシヤ様の御教えに沿って取り組めば、自分の健康は維持できるのだということ。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

『手術が進歩したということは医学が進歩していないということ』

楳木先生:

ここに226ページにメシヤ様が 『近来、医学が大いに進歩したといひ、取り分け手術の進歩を誇称してゐるが、わたしから見れば之程の間違ひはあるまい。考へる迄もなく、手術が進歩したといふ事は実は医学が進歩しないといふ事になる。といふと不思議に思ふであらうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其(その)ものを除去する手段ではない。』と、いうことです。

ですから、仮に先ほどのように肝臓がんになっても、肝臓がんのがんの部分のみを取り除いて肝臓を維持する医療ができれば、これは言うことはないのですが、肝臓がんにかかったところを全部切り取ってしまうので、肝臓自体は何分の1かになってしまうので、本来の働きができなくなってきます。

また、胃がんの場合には、全摘してしまうと胃がなくなってしまうので、食道と腸をつないでいきますので、1日3回でいい食事を8回とか、そういうふうにわけて食べていかないといけなくなりますので、非常に不自由な生活になっていきます。

それから大腸がんの場合にも、大腸を全摘して直腸までかかってしまうと、人工肛門をつけて、いつもぶら下げていないといけないということが起きてきますので、やはりメシヤ様が御指摘しているように不具者を作ってしまうということになります。

これを治療と言っているから、メシヤ様はこれを治療とは呼べないと今回御指摘されているのです。

肝臓の悪いところだけを取って、肝臓そのものを傷つけなければいいのですが、やはり肝臓の何分の1かを取ってしまうということをやっていくので、これをメシヤ様は御指摘しているのです。

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎ メシヤ様の時代(昭和27年頃)、「医学が大いに進歩したといい、取り分け手術の進歩を誇称しているが、メシヤ様から見れば之程の間違ひはないのだということ。

>「手術が進歩した」といふ事は実は医学が進歩していないといふ事になるのだということ。

>「手術」とは、『病に冒された機能を除去する手段であって、病其(その)ものを除去する手段ではない。』のだということ。

◎例えば肝臓がんの手術で、肝臓そのものを傷つけず、悪い部分だけを切除できればいいのだが、そうはできない。このようなことを治療と言っているから、これを治療とは呼べないとメシヤ様は御指摘されているのだということ。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

日常生活の《気づき》が大変大切である

楳木先生:

ですから、もう少し進んできますと、 『判り易く言えば、病気と其(その)機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。従って真の医術とは病だけを除(と)って、きのうは元の侭(まま)でなくてはならない筈(はず)である。処が医学が如何(いか)に進歩したといっても、病のみを除(と)り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了(しま)うのであるから、此(この)事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであらう。斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥ってゐたのである。』 と御指摘しています。

この『斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかない』ということが今回、非常に大事なことです。

これは病気だけではなくて、あるいは手術だけではなくて、日常生活でも気づかないことが大変多くあります。

例えば、子供のちょっとした変化に気づかないでいくと、先々いろいろな問題が起きてきます。ですから日常生活のなかで、やはり『気づく』ということが一番大事だということを、この御論文は『手術』について書かれていますけれども、私たちの日常生活でも『気づく』ということが大変大切であるということを読み取りながら、拝読していただけるとありがたいと思います。

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎「真の医術とは病だけを除(と)って、機能は元の侭(まま)でなくてはならない筈(はず)である。」という分かり切った理屈にさえ気がつかないことが問題なのだということ。

◎日常生活においても、色々な事に対して『気づく』ということが大切なことなのだということ。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

メシヤ様は『人類から病気を解放する』ことを最大限に願われた。

楳木先生:

更に、 『大いに覚醒して、初めから行(や)り直すより外(ほか)あるまい。即ち医学の再出発である。処が今日迄其意味を発見した者がなかったが為、盲目的に邪道を驀進(ばくしん)して来たのであるから、何年経っても人類は、病気の苦悩から解放されないにみて明かである。』

昭和27年から平成26年を迎えた今日、まだ病気は増えております。しかも、現代の病気は精神面の病気が非常に増えてきておりますので、これをメシヤ様は『人類から病気を解放する』ということを最大限に願って、このような御論文を書いているわけですので、そのこともメシヤ様は私たちに訴えてくださっているということを、これを機会に改めて確認させていただきたいと思います。

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎昭和27年から平成26年になっても、まだ病気は増えているのだということ。

>現代は、精神面の病気が非常に増えてきているのだということ。

◎メシヤ様は『人類を病気の苦悩から解放する』ということを最大限に願って、このような御論文をお書きになられたのだということ。

>メシヤ様は、私達(信徒)に「人類を病気の苦悩から解放しなければならない」のだと訴えてくださっているのだということ。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

現代人が錯覚していること

楳木先生:

それから229ページをあけると、ここには 『つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や食物と混同してゐる錯覚である』と書かれています。

これは、約400年前から、デカルトという人が二原論を打ち出して、人間の体を肉体と精神をわけて、肉体だけを物として捉えるようになってきた考え方が、現在の医学に繋がっておりますので、この錯覚を指摘されているのであります。

ですから私たちは、『手術』に対する御論文だけで理解するのではなくて、現代人が陥っている錯覚というところにも気づいていかないといけないということであります。

例えば、手術でお腹を切ったあと、お腹を縫っていきますね。縫うのですが、切ったところを縫い合わせるのですが、治るのは自分の肉体が治していくのです。医者がくっつけたわけではないのです。医者はパチッパチッと止めただけで、皮膚がきちんとくっついていくのは自分の肉体がくっついていくわけです。しかし、これを上手に医者が縫ったということを評価する、これが錯覚なのです。

自分の肉体を元通りにするのは自分自身の肉体なのです。しかし医者が治したように錯覚しているということが大きな問題点なのです。

仮に悪いところを取り除いたとしても、それは取っただけで治しているわけではないのです。

だから治すという言葉が、どうも錯覚で考えていきますので、治療ということに対して正確にものを考えていくということができなくなっている部分があります。私たちも日常生活で錯覚に陥っていることはないかということをいつも考えてもらいたいと思いますね。

(後文割愛)

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎メシヤ様は、 『つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や食物と混同してゐる錯覚である』と書かれているので、現代人が陥っている錯覚(人間の体を肉体と精神にわけて、肉体だけを物として捉えるようになってきた考え方)にも気づかなければならないのだということ。

>例えば、手術でお腹を切ったあと、医者は切ったところを縫い合わせるだけで、傷が治るのは自分の肉体が治していくのだということ(医者が皮膚をくっつけたわけではないのだということ)。しかし、このことを「医者が上手に縫った」ということで評価する、これが錯覚なのだということ。

>自分の肉体を元通りにするのは自分自身の肉体なのだが、医者が治したように錯覚しているということが大きな問題点なのだということ。

◎仮に悪いところを取り除いたとしても、それは取っただけで治しているわけではないのだということ。

>だから「治す」という言葉を、どうも錯覚で捉えていくので、「治療」ということに対して正確にものを考えていくということができなくなっている部分があるのだということ。

>私達も、日常生活において「錯覚に陥っていることはないか」ということを常に考えておかなければならないのだということ。

 

「メシヤ講座no.156浜松(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

手術をした方への浄霊

参加者:

手術の件ですが、私くらいの年齢になると、周りに結構手術を受けた人がいるのですが、その方に御取次させていただきたいときにはどのようにさせていただけば良いですか?

楳木先生:

切ったところは、あとで消毒液とか、切る前は麻酔液とか使っているので、そういうところに集溜している部分があるのでそれを浄霊するのと、薬を前後使っているので肝臓と腎臓を痛めていてその周辺に薬毒が溜まっているのでそこを浄霊してあげるといいですね。

そして手術をして何かを取り除いている場合には、その取り除いた部分の霊も欠損しているので、霊界にいったときその切ったところがなくなって、ぽっかりと穴があいてしまっているらしいのです。ですから霊界にいったとき霊界生活で非常に不自由な思いをするという報告がずいぶんあるので、死んだあとのことを思って浄霊をしてあげるということが大事になります。

その切り取った霊が元通りになるように、そういう気持ちで浄霊をしてあげれば、その人の霊界生活が何不自由のない霊界生活を送ることができるのです。そういうことも含めて浄霊というのは、非常にありがたいわけです。そういうふうに話をしてあげてください。

(後文割愛)

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎手術を受けた方への浄霊は、

>消毒液を塗布した部分や麻酔液を打った場所に薬毒が集溜している部分があるのでそこを浄霊するということ。

>薬を手術の前後使っているので、肝臓と腎臓を痛めている(その周辺に薬毒が溜まっている)ので肝臓と腎臓の辺りを浄霊してあげるのだということ。

◎手術をして何かを取り除いている場合には、その取り除いた部分の霊も欠損している(霊界に行った時にその切ったところがぽっかりと穴があいてしまい、霊界生活で非常に不自由な思いをするらしい)ので、亡くなった後のことを思って浄霊をしてあげるということが大事になるのだということ。

>手術で何かを切除した人が、何不自由のない霊界生活を送ることができるように、その切り取った部分の霊が元通りになるような気持ちで浄霊をしてあげるのだということ。

>そうすることによって、その人は何不自由のない霊界生活を送ることができるのだということ。

≫こういうことも含めて浄霊というのは、非常にありがたいのだということ。

 

編集後記

責任者:

今回の学びでは、メシヤ様の時代(約71年前)と同じように現在の医学は、手術の上での技術は進歩しているのだと思いますが、本来の意味での医学は殆ど進歩していないということを再認識することができました。又、メシヤ様は『人類を病気の苦悩から解放する』ということを最大限に願われて、「文明の創造」をお書きになられたのだと御教示いただきました。メシヤ様から御教えいただいている私達は、「人類を病気の苦悩から解放する」のだという強い想いを持ち、日々浄霊をいただきながら(お取次ぎしながら)、色々な錯覚に陥らないように気づく力を持って日常生活を送らなければならないのだと改めて思わせていただきました。

好季節となりました。実り豊かな秋をお過ごしいただければ幸いです。また、昼夜の寒暖差がある時節柄、どうぞご自愛ください。有難うございました。

 

※責任者より

引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、()内の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。

 

引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。

メシヤ講座no.156浜松支部 2014(平成26年1月分)

 

 

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