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『神霊医学は民主的医学なり』

現代医学は、人々はあまり気がつかないが、実は頗る差別的、非民主的であるという事は、貧乏人では高価な薬は買えない、病院に入院する事もむずかしい、又永く療養を続ける事は、経済的負担に堪えられない、従って療養の機会均等は望み得べくもない、それがため政府においてもやむを得ず健康保険法によって解決しまうとしているが、之が又思うようにゆかない。被保険の患者が、病気に罹った場合、保険医へ行っても、保険医は普通の一般患者と扱い方が違うという声はよく聞く処である。それがため被保険者でありながら、普通患者の如く装い普通料金を払うという馬鹿馬鹿しい結果になる。とすれば、現代医学は凡そ民主的とは掛け離れた存在といえよう。然し、之も現代社会の経済的実状としては、またやむを得ない処で、差当って改善の方法は見つからないからである。

然るにわが神霊療法は金持も貧乏人も何等差別がない。何となれば、物質は一切用いないからで、ただ眼に見えざる霊の作用で、人体から放射する光波を以てする体当りである。それで医療の何倍かの効果を奏するのであるから、全く理想的である。以上の如くであるから、本療法こそ、文字通り民主的医学といえよう。

最近の毎日紙上日本医師会理事古畑積善氏の言によれば――「普通の患者であればフトコロと相談の上の治療であって、ある者はちょっとの事でも之を注射し、ある者は是非注射しなければならない場合でも、フトコロ具合でそれが出来ないというのが多い、此の場合医師として採るべき態度は、残念乍ら患者が決めてくれるので容易である場合は少い云々」以上は全く前記の説の裏付であろう。

 

『此事実を何とみる』

前項に述べた如く、おかげ話の全部は事実ありのまま書くように厳重に注意を与えている以上些かの誇張もない事は言う迄もない。此おかげぱなしの感謝、感激の報告は日に月に漸増しつつあり、最近は一ヶ月数百通にも及び、全部の掲載は困難になったので、目下方法を講じている実状であるにみて、如何に救われる人の殖つつあるかが知らるるのである。読者も見らるる通りその感謝に溢るる文章を見ては眼頭が熱くなり、滲み出る涙を幾度拭うか分らない程である。然し驚く事はあらゆる病気に対する治病成績で、これに就て種々の角度から検討してみるが例外なく医療其他現在行われつつある凡ゆる療法は大雑把ではあるが、大体三分の一は効果なしという事、三分の二は反って悪化したという事実であるが、之程の大問題はあるまい。此の報告を見た専門家は勿論の事、一般人に於てもあまりの意外に撞着しない者は一人もあるまい。

今日全世界の文化民族といわれるその悉くは、現代医学の進歩を信じ、これに生命を托す事を以て最善の方法と信じ、殆んど常識となっている事である。然るに、私は既成医学を是正せんとして十数年以前から、此事を徹底的に世に知らしめん為終戦前三種の著書を著わしたが三種とも発禁となったので諦めたのである。今日は余程緩和されたが、以前は医学の医の字を言う事すら許されない、例えば患者に対し医療でなくとも、私の方で治るといったその言葉だけで医師法違反に問われ、私は三日間留置場に容れられた事もあり、又パンフレットに、現代医学が行う手術は病気の患部を除去する方法として肉を切り血液を消耗し、病苦を与える以上野蛮的方法であるに比し、吾等の療法は些かの苦痛も与えず、肉体を傷つける事なくして、如何に深部の病根をも除去し得ると言う事を書いた処忌講に触れ、警察へ召喚され、永々と御説教の末、罰金を取られた事さえあった位であるから、他は推して知るべきである。斯様な時代であった為、止むを得ず一切沈黙を守り、ただ事実によって天下に示すより外に方法がなかったのである。

処が最早沈黙を破るべき時期となったので此著によって世に公にする事となったのである。

事実、神意は人類の病苦は最早や打切られなければならない時期となった事を示されるのである。勿論苦悩の根本は人間の痛患にある事は、私が常に繰返し言う処で人間が霊肉共に健康になったとしたら、他の凡ゆる苦難の大半は解消する事である。その暁こそ、吾等の目標たる地上天国の出現は何等疑う処はないのである。

キリストの唱えた、天国は近づけり、の大予言も、釈尊が唱えられた弥勒の世も此の事に外ならないのである。私は医学者でもなく、医学を学んだ事もないに拘わらず、病気に関する一切は神示によって根本的に知り得たので、前述の如く現代医学が如何に邪道に陥っているかが明かに判った以上、その是正こそ人類救済の第一義として私をして病無き世界を造るべき大使命を神から委任された事を深く思うのである。

『おかげ話から何を掴んだか』

本教出版物に載せられた今日迄のおかげ話は無慮千数百に上ったであろう、而も益々増加の傾向にある事によってみても、本教特異の信仰療法が如何に絶大な効果を挙げつつあるかは、事実そのものが証明して余りある。処が茲に見逃すべからざる医療の功罪がある。

成程、現代医学の進歩の恩恵に随喜し、文化民族悉くが何等の疑惑なく信頼している事実は知らぬものはないが、斯様に文化面の最重要位置に不動の存在である医学に対し、忌悼なき意見を発表する吾等の行為こそ、殆んど例を見ないと言ってもよかろう。勿論吾等と難も現代医学が一般の信ずる如く的確なる効果を挙げ人間の健康に対して真に役立つとしたら、何を好んで非難の筆を揮うであろうか。而も現行法規に照らし、兎もすれば医療妨害に問わるる危険さえあるに於てをやである。

処が、吾等は神授の医学を基礎とし、実地に当って深く研究を進めれば進める程、現代医学が如何にしたがって 邪道に進みつつあるかを痛感するのである。随而之に目覚めない限り医学が如何に努力し研鑽を積めるとも、結果からみて何等の進歩もなく百年一日の如く堂々めぐりしているに過ぎないのである。何よりも現在見るが如く病者の氾濫と健康状態の不良である。即ち一方の病気が減れば他の一方に新しい病気が発生するというような現実は常にみる処である。

以上の如きは全く医学の根本に一大誤謬が伏在しているからである。然るに吾等の神霊療法が如何に実際、効果を挙げつつあるかは生々しい現実としてのおかげ話の報告で、之以上の実証はあるまい。言う迄もなく体験者自身の筆である以上、一点の疑惑を挿む余地はないからである。

先ずおかげ話中の報告を見て驚くべき事は、発病するや例外なく速やかに医療を受ける、処が医療を受ければ受ける程漸次悪化する事実である。勿論大病院、名医凡ゆる薬剤等生命に関する以上、金銭の負担も時間もその人の最大限にまで続けるに拘らず、前述の如く悪化の結果死の手前まで追詰められて了うのである。全く之以上の大問題はあるまい。右の如くに医学の理論と結果とは殆んど逆である。例えばおかげ話中にある如く医家が治るといい、請合うというに拘らずその結果が余りにも予期に反する事である。

斯の如く学理と実際の逆効果は、医家と難も常に経験する処であろう。又大病院に於ての診断と解剖法の結果との相違の甚だしい事はよく聞く処である。その場合医家はその原因を医学の誤りとは夢にも思わず、反って医学の不進歩の為と解するので、医家は一層医学を促進させるこそ人間を救う事と解釈するのであるから、吾等から見れば余りの過誤に言うべき言葉を知らないのである。それが為徽菌発見に動物試験に、新薬の発見に光線放射に栄養改善にありとあらゆる医病力の発見に専念するのである。その現われとして医学の分野は益々複雑多岐に渉り病名も数も増すから科目も増加し、微に入り細に渉って研究され、学説も治病方法も素晴しい進歩を挙げつつあるように見えるので、世人は幻惑され今日の如く極度に信頼を払うのであるが、肝心の治病結果に対しては些かの進歩もなく、ただ一時的苦痛緩和の対症療法が巧妙になったに過ぎないのである。

而もそれを進歩の道程と過信するのであるから、冷静に現代医学を批判する時、全く長歎息の外ないのである。一言にしていえば実際と游離した学説を実際に当嵌めようと努力するのであるから、予期の効果を挙げ得ないのは当然である。それが為ただ研究のみに耽る結果、モルモットだけならいいが、幾何(いくばく)の人間が犠牲になりつつあるか計り知れないものがあろう。学理が真理とすれば、予防医学によって寄生虫も結核も伝染病も中風も小児麻痺も漸次解決の道程に入り、今日の如く続出氾濫する筈がない訳である。之を要するに現代医学の誤謬に目覚めしむる事こそ真の救済である。

以上の如くであるから、神の大愛は世の終末に際し、吾等を駆って此是正を遂行せしむべく真の医術を啓示され給うたのである。何しろ数十世紀以来続いて来た処の医学であるから、一朝一夕に覚醒させる事は頗る困難であるが、神の絶対力を信ずる吾等としては、何等疑念なく前途の光明に向って邁進しつつあるのである。

 

『栄養の喜劇』

栄養の喜劇とは、随分変な題と思うであろう、私もこんな言葉を用いたくはないが、外に適当な言葉を見出せないから読者は諒されたいのである。

抑々今日一般に何の疑いもなく信ぜられ実行されつつある栄養学なるものは、全然誤謬以外の何物でもない。此誤れる栄養学が有害無益の存在であるに不拘(かかわらず)、最も進歩せる文化の一面と信じ盛に世に行われているのであるから、それに要する労力や費用の膨大なる事は、実に惜みても余りあると言うべきである。私が此様な大胆不敵にして狂人とも見られそうな理論を発表するというのは今日の現状に対し到底黙止する事は出来ないからで、以下出来るだけ詳細に書いてみよう。

今日栄養剤として先ず王座を占めてるビタミンA、B、Cを初めアミノ酸、グリコーゲン、含水炭素、脂肪、蛋白等を主なるものとし多種多様なものがあり、ビタミンの種類が年々増加しつつあるのは衆知の通りであるが、之等を服用又は注射によって体内に入れるや一時的効果はあるが持続性はない。結局は逆効果となるから栄養剤を服めば服む程人体は衰弱するのである。之は如何なる訳かというと、抑々人間が食物を摂取するという事は、人間の生命を保持し生活力を発揮させる為である事は今更説明の要はないが、此点の解釈が今日の学理は実際と喰違っている。

先ず人間が食物を摂るとする、歯で噛み食道を通じて胃中に入り次いで腸に下り不要分は糞尿となって排泄され、必要分のみを吸収するのである。此の過程を経る迄に肝臓、胆嚢、腎臓、膵臓等凡ゆる栄養機能の活動によって血液も筋肉も骨も皮膚も毛髪も歯牙も爪等一切の機能に必要な栄養素を生産、抽出、分布し端倪(たんげい)すべからざる活動によって生活の営みが行われるので実に神秘幽幻なる造化の妙は到底筆舌には表わせないのであって、之がありのままの自然の姿である。

右の如く、人間が生を営む為に要する栄養素は総ゆる食物に含まれており、食物の種類が千差万別であるのもそれぞれ必要な栄養資料となるからであると共に、人により時により嗜好や量が異ったり、又種類が同一でないのは受入れる体内の必要によるからである。讐えば腹が減れば物を食い、喉が潤けば水を飲み、甘いものを欲する時は糖分が不足しているからで、辛いものを欲する時は塩分不足の為である。という訳で人間自然の要求がよく其理を語っている。何よりも人間が欲する場合必ず美味いという事である。故に薬と称して服みたくもない不味い物を我慢して食う事の如何に間違っているかが判るのである。昔から「良薬は口ににがし」などという事の如何に誤りであるかで、にがいという事は毒だから口へ入れては不可ないと造物主が示しているのである。此の理によって美味である程栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚で栄養分が多い訳である。新鮮なる程魚も野菜も美味という事は霊気が濃いからで、時間が経つに従い味が減るのは霊気が発散するからである。

茲で栄養剤に就て説明するが、抑々体内の栄養機能は如何なる食物からでも必要な栄養素即ちビタミンでも何でも自由自在に恰度必要量だけ生産されるのである。つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機能の不思議な力は所要量だけのビタミンを生産するのである。此様に食物中から栄養素を生産するその活動の過程こそ人間の生活力である。早く言えば、未完成物質を完成させるその過程の活動が生活に外ならないのである。

此理に由って、栄養剤を摂るとすれば、栄養剤は完成したものであるから体内の栄養生産機能は、活動の必要がないから自然退化する。栄養機能が退化する以上、連帯責任である他の機能も退化するのは当然で、身体は漸次弱化するのである。之に就て二、三の例を挙げてみよう。

以前アメリカで流行されたフレッチャーズム(フレッチャーリズム)喫食法という食事法があった。之は出来るだけよく噛み、食物のネットリする程よいとされている。之を私は一ヶ月間厳重に実行したのである。処が漸次体力が弱り、力が思うように出なくなったので驚いてやめ、平常通りにした処、体力も恢復したのであった。そこでよく噛むという事が、如何に間違っているかを知ったのである。それは如何なる訳かというと、歯の方でよく咀嚼するから、胃の活動の余地がないから胃は弱るという訳であるからすべて食物は半噛み位がよい事を知ったのである。昔から早飯早糞の人は健康だと謂われるが、此点現代文化人よりも昔人の方が進化していた訳である。

又消化薬を服むと胃の活動が鈍るから胃は弱化する。従って又服む。又弱化するという訳で胃病の原因は胃薬服用にあることは間違いない事実である。慢性胃腸病患者が消化の良いものを食べつつ治らなかった際、偶々香の物で茶漬など食い治ったという例はよく聞く処である。

前述の如く未完成食物を喰い、完全栄養素に変化させるその活動こそ人間生活力であるという事を、機械製造工場へ誓えてみよう。

最初、工場に原料資材を搬入するとする、工場は石炭を焚き、機械を動かし、職工が活動し漸次完成した機械が作られる。その過程が工場としての存在理由である。之を反対に完成した機械を工場に搬入するとすれば、工場は労作の必要がないから石炭も焚かず、機械も動かさず職工も必要がない、という訳で工場は閉鎖するより仕方がない。

以上の如く私は出来るだけ判り易く説明したつもりであるが、此理によって考えれば栄養剤という何等の味もない物に多額の金銭を費し反って身体を弱らせるというのであるから、其愚や喜劇というより評しょうがないのである。之が珍標題を付けた所以である。

 

『薬毒』

前項の如く今日迄、病気の浄化作用を知らず、それを固める事のみ専念したが、固めるという事は勿論浄化発生以前に還元させる事で、本当の事が判った眼からみれば愚の一字に尽きるのである。勿論自然は毒素を排除しようとするのを一生懸命に排除させまいとする事を治る方法と錯覚したのであるから全然反対であった。随而今日までの医学は健康者にしないように一生懸命骨折って来た訳である。然らばどうして其様な誤謬に陥ったかというと、浄化は苦痛が伴うので薬剤を使用すると、苦痛が幾分か緩和するから、之で病気が治ると思ったのである。一言にして言えば、一時的効果に眩惑され、不知不識医の本道を踏違え今日に至ったのであるから、薬剤を唯一のものと思ったのも無理はなかったのである。これが為長い間薬剤本位に進んで来た医学は、真の医道ではないから治りそうで治らない為次々新薬が出来る。此結果現在薬の種類の多い事は恐らく何百何千に上るであろう。而も今以て新薬の出現が絶えないのは右をよく物語っているのである。

右の如く薬剤迷信に陥った医学であるから、今日吾々が病気の原因が薬剤の為である事を説いてもあまりの意外に到底信じ得られないのである。

よく言う言葉に、薬はいくら服んでも注射してもさっぱり効かないとは長い病人のいつもいう言葉であるが、之を聞く毎に私は斯う答えるのである。薬が効かないなどとはとんでもない間違いである。効かないものなら心配する必要はないが、実は効き過ぎる位効くのである。というのはよく効くのではなく悪く効くのである。即ち薬は病気を作るからで、もし人間が薬を用いなくなれば病気は消滅して了うであろう。とすれば人類史上之程意外であると共に大問題はあるまい。之によって私は薬毒を知らしめる事が、先ず人類救済の第一歩であると信じ徹底的に説くのである。

随而、此地球上に薬というものは一つもない。全部毒である。毒によって人体を衰弱させ、浄化停止される程よく効く薬という訳である。私はいつも言うが新薬を造って金儲けをするのは訳はない、それは死なない程度の毒の強い薬を造ればよく効くから最も効果ありとされ、流行薬となる事請合である。以上の理によって今後と雖も何程新薬が出現しても真に病気を治し得るものは一つもない事を断言して憚らないのである。近来注射が流行るが、服めば中毒を起す程の強烈な毒薬であるから服む薬よりよく効く訳である。

そうして薬毒によって一時的苦痛緩和の結果はどうなるかというと、その薬毒は人体に残存するのである。処が医学では副作用のある薬毒もあるにはあるが、薬毒は凡て消失するというのであるが、之程の間違いはない。それは薬毒発見までに医学は進歩していないからである。何となれば、人体の消化器能は天与の食物のみに限定されており、それ以外の異物は処理されないように出来ているからである。実に造化の妙は自然の二字に尽きるので、処理され得ない異物である以上、薬毒は殆んど残存する。それが時日を経るに従い、各局所に集溜し固結する、之が凡ゆる病原となるのである。

何よりも医療を受ける程病気は殖え次第に悪化するにみて明かである。又余病発生という事もその為である。即ち一の病気を治そうとして二となり、三となるというように病気が殖えるのは、医家も常に経験する処であろう。もし真に薬剤で治るとしたら三の病が二となり一となり零となるべき順序ではないか、此判り切った事に今迄気がつかなかった事は実に不思議というべきである。

右の理によって罹病するや、放任しておけば大抵は治るものである。もし容易に治らないのは薬毒多量の為であるから、そのような場合気永にすれば漸次治癒に向うのは当然である。処がその理を知らない医学は、人為的に治そうと骨を折れば折る程逆効果となり、漸次重体に陥り死に迄至るのである。

鳴呼、医学の誤謬たるや何と評すべきか言葉はないのである。今日迄数千年間此理を知らなかった為しか雛 何億の人間が犠牲になったかは計り知れないであろう。然るに私が此発見をしたという事は、時期到って神が人類救済の為、私を通じて公開されたのである、という事はいよいよ人類の理想である病無き世界が薮に実現するのである。