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『乳幼児の健康』

近来日本に於ける乳幼児の健康が非常に悪く、彼のアメリカに較べて死亡率三十五倍というのであるから実に驚くべきであると共に、一日も早く解決を要すべき重大問題である。それには先ず原因が那辺にあるかを発見しなければならないが、現在医学上に於てその原因なる物は殆んど的外れである以上、何程骨を折っても予期の効果は挙げ得られないのである。

然らばその原因はどこにあるのであろうか、それに就て私の発見をかいてみよう。以前私が乳幼児から五、六歳迄の小児の病者を取扱った経験によると、都会児童の弱体なる事驚くべき程で、田舎の子供とは格段の相違がある。処が医学での解釈は、都会は空気が悪く、遊び場もなく、交通機関や騒音の為神経を刺戟する等の悪条件に対し、田舎は右と反対に好条件に恵まれているからだというのであるが、成程それ等の理由も相当あるにはあるが、それよりもモット気のつかない処に最大原因がある。それに就て当時私の扱った病児や弱体児童の母親に斯ういった事がある。「あなたの御子さんは、日本人の子ですか、西洋人の子ですか」と。又、言葉を次いで「日本人の子は、先祖代々日本流の食物で育って来たのであるのに対し、急激に西洋の児童の食物や育て方をするから、それが弱い原因である」との注意を与えたのである。処で最も滑稽なのは、在来の日本菓子を食べさせない、特に餡を嫌う母親がある。「何故餡を食べさせないか」と聞くと「お医者は疫痢の原因になるからいけない」との事で、私は「それは理屈に合わないではないか、小豆は便通に良いとしてわざわざ煮て食う程である、而もそれを精製し、砂糖を混え液体としたのであるから、どこに悪い点があるか」というたのである。又私は言葉を継いで「お医者さんは西洋の本を読んで直訳するので、西洋には飴がないから本に書いてない、それで言うので、従而お医者さんが言う病人の食物なども西洋にある通りの食物、即ち牛乳、オートミル、バター、林檎、ジャガ芋等によってみても肯くであろう」。

以上の理によって成人するに従い、西洋流の食物を漸次的に混ぜるようにすればよい、先ず乳幼児から五、六歳迄は、日本流の食物で育てる方が確かに健康にいい事は、私の幾多の経験によって断言し得るのである。

次に私の経験上、乳幼児に注射を多くすると、発育停止又は発育不能となって首などグラグラで、痩せて力なく貧血状を呈するのである。之等の幼児を二、三年無薬にすれば、普通児の如き健康状態となるのである。

 

『日本人と精神病』

今の世の中で、人々は口を開けば思想の悪化、犯罪の増加、政治の貧困等々を言うが、之に就て私は其原因が精神病と密接な関連のある事をかいてみよう。

先ず精神病なるものの真因は何であるかというと、之が亦破天荒ともいうべき何人も夢想だもしない理由である。勿論真理そのものであるから、真の精神病者でない限り何人も納得し得る筈である。そうして精神病の真因は肉体的と憑霊現象とである。というと唯物主義教育を受けて来た現代人には一寸判り難いかも知れない。何しろ眼に見えざるものは信ずべからずという教育をサンザ叩き込まれて来た以上、そう簡単には判りよう筈のない事は吾等も充分承知の上である。といっても真実はいくら否定しても真実である。眼に見えないから無というなら空気も無であり、人間の心も無という事になろう。

霊があるから在る、憑霊現象もあるから在る――という真実を前提としなければ此の論はかけない。故に霊の実在を飽くまで否定する人は、吾々を目して迷信者とみると同様、吾々から観れば、そういう人こそ気の毒な迷信者である。偖而(さて)いよいよ本文にとり掛るが、先ず精神病者は憑霊現象であるとすれば、何故であるかというと、世間よく首が凝る、肩が凝るという人は余りに多い事実である。恐らく日本人全部といってもいい程であろう。私は長い間の経験によって、如何なる人でも頚肩に凝りがある、稀には無いという人もあるが、それ等は凝りはありながらあまり固り過ぎていて、その苦痛に鈍感になっている為である。即ち体質ともいえる。右の如きこりが精神病の真原因といったら、その意外に吃驚するであろうが、順次説明するに従って成程と肯くであろう。

頚、肩のこりは頭脳に送血する血管を圧迫するので、それが為前頸部内に貧血を起す。処が之が問題である。というのは頭脳内の貧血は貧血だけではない。実は血液なるものは霊の物質化したものであるから、貧血は頭脳を充実している霊細胞の貧血ではない貧霊となる事である。此貧霊こそ精神病の原因であって、憑霊は霊の稀薄部を狙って憑依する、その霊とは何であるかというと、大部分は狐霊で、次は狸霊、稀には犬猫の如き霊もある。勿論何れも死霊で、又人霊と動物霊との共同憑依もある。

茲で人間の想念を解剖してみると、先ず理性と感情とそれを行為化する意欲である。その理由としては、前脳内の機能は理性を掌り、後脳内のそれは感情を掌る。此証左として白色人種は前頭部が広く発達しているのは、理性の豊富を示し、反対に黄色人種は前頭部が狭く後頭部が発達しているのは、感情の豊富を示しているにみて明かである。白人が智的であり、黄人が情的であるのは誰も知る処である。故に人間は常に理性と感情とが相剋しており、理性が勝てば失敗はないが、そのかわり冷酷となり、感情が勝てば本能のままとなるから危険を生ずる。要は両様相調和し、偏らない事が肝腎であるに拘らず、人間はどうも片寄りたがる。そうして理性にしろ、感情にしろ、それを行為に表わす場合、大小に関わらず意欲が要る。その意欲の根原こそ、腹部中央臍部内に位する機能である。所謂、行為の発生源であって、右の三者の合作が想念の三位一体である。

処が前頭内の貧霊は、不眠症を起す、不眠の原因の殆んどは、後頭部右側延髄付近の固結でそれが血管を圧迫するからである。不眠は、貧霊に拍車をかけるから、得たりかしこしと動物霊は憑依する。前頭内は人体の中枢である為、その部を占有する事によって人間を自由自在に操り得るのである。特に狐霊は此人間を自由にする事に興味をもち、而もそれによって狐霊仲間で巾が利く事になるので、到底人間の想像だもつかない訳である。此狐霊に就ては私の実験を本とし近く詳細書くつもりだから読者は期待されたいのである。

以上の如く、人間の本能である感情を常に制扼(せいやく)し、過ちなからしめんとする本能こそ理性の受持で人間が兎も角普通常態を保ちつつあるのは、此理性という法規の力で感情を抑えつけているからである。従而、此法規の力を失うとすれば、感情は自由奔放脱線状態となる。それが精神病である。

右の如く法規の力が前頭内に光っているとすればそれを識っている憑霊は、そこを占有することが出来ないが、一旦霊が稀薄になった場合邪霊は得たりかしこしと憑依する。稀薄といっても厚薄の差別があり、その差別通りに活動する。例えば、前頭部の霊の充実が十とすれば、憑霊する事は全然出来ない。九となれば一だけ憑依出来る。二となり三となり四となり五となり六となった場合憑霊は六の力を発揮し得るから、四の理性では六の感情の力に負けるから、自由に人間を支配し得るのである。

最初に述べた如く、凝りの為血管が圧迫され貧霊する、その割合だけ憑霊が活動し得るとすれば現代人に凝りのないものはないから、霊の充実が十ある人など一人もないと言っていい。社会から尊敬されるような人でも、二乃至三位の欠陥はある。あんな偉い人がアンな間違いをするとか、彼(あれ)位の事がなぜ判らなかったとか、どうして失敗したのかなどといわれるのは右の二、三の欠陥ある為である。然し乍ら此欠陥は一定不変ではない、常に動揺している。非常に立派な行為をする時は二位の欠陥の時であるが、何等かの動機にふれて邪念が起り、罪を犯す場合は四位かそれ以上の状態になった時である。之は世間によくある事だが、大抵は罪を犯してから後悔するがその時は二か三位に還った時である。よく魔がさすというのは此事を指すのである。

処が一般人は先ず平常三乃至四位であって、動機次第で何時五の線を突破するか判らない。此の場合思いもよらぬ罪悪を犯すのである。此例としてヒステリーであるが、此の原因は殆んど狐霊で、其際前頭内に蟠(ばん)居する。此原因は嫉妬、怒りの為五の線が破れる。そうなると心にもない滅茶苦茶な事をいい、狂態を演ずるが長くは続かない。というのは五の線が再びそれ以下に還元するからである。従而人間は三の線を確保すべきで、それ以上では危険である。今日犯罪者が多いというのは右の理を知ればよく判る。憑霊とは勿論獣霊である以上五の線を突破すれば形は人間でも、心は獣類と何等異らない事になるから獣的行為を平気でするのである。此点人間と獣類との差別の著しい事は人間には愛があるが、獣類によっては親子夫婦の愛はあるが、隣人愛は極めて薄い。反って鳥類虫類の方がある。然し大抵の獣類は夫婦、親子の愛すらないので、人間が獣性を発揮するや到底考えられない程の残虐性を表わすのである。

以上述べた如く、十の霊保持者がないとすれば、それ以外は憑霊に多少なりとも犯される訳で、それだけ精神病者と言い得るのである。随って忌悼なくいえば日本人全部が多少の精神病者であると言えよう。

之に就て私の経験をかいてみるが、私は毎日数十人の人に遇い種々の談話を交換するが、些かも破綻のない人は一人もないといっていい。如何なる人と難もいくらかは必ず変な処がある。世間から重くみられている人でも、普通では気のつかない位の欠陥はあるに鑑て、軽度の精神病者は先ず全般的といえるのである。

今一つは言語ばかりではない。行為の点も同様である。勿論行住座臥誰でも出鱈目ならぬは殆んどない。道法礼節など全然関心をもたない。大抵の人は部屋に入りお辞儀をする場合でも殆んど間違っている。壁へ向ってするもの、障子や襖へ向うもの等、実に千差万別である。又馬鹿丁寧な人があるかと思えぱ簡単すぎる人もあり、之等悉くは軽度な精神病者であろう。

最後に当って根本的解決方法をかいてみるが、それには頭脳への送血妨害であるこりの解消である。こりを解消するには勿論本教浄霊による以外、世界広しと難も他にない事は茲に断言する。故に本教信者は普通二か三で、三の線から逸脱する者は先ずあるまい。何よりも本教信者の品性をみればよく判る。以上の意味によって、今日の社会悪防止に、本教が如何に大なる功績を挙げつつあるかである。又こりの本質は何であるかというと、言う迄もなく薬毒である。

 

『坊ちゃんを作る健康法』

現代医学の衛生法や健康法は、換言すれば坊ちゃんを作る方法である、というとおかしな話だが、それは斯ういう訳である。

現代医学の健康法として言う処は人間は無理をしてはいけない、睡眠不足もいけない、消化の良い物を食え、物をよく咀嚼せよ、寒い思いをするな、腹巻をしないと腹が冷える、外出から帰った時は必ず含嗽をしろ――等々である。

処が、仮に右の通りの健康法を実行するとすれば果して健康になり得るであろうかというと私は反対である事を明言する、それは必ず虚弱者になる事で、今簡単に解説してみよう。

先ず無理であるが、人間は無理をするだけ健康になるのである。その証拠にはスポーツマンがレコードを作る場合、極端な無理をする。その為技能が発達する。水泳の古橋君の如きはその最たるものだ。此理にまって無理をすると無理の出来ただけ健康が増すのである。何よりも私は今年六十七歳になるが、山野を跋渉する場若い者は私に敵わないのである。勿論原因は無理をするからである。

睡眠不足は、結核の原因になるなどというがこれも反対である。その訳は最も睡眠不足の階級としては宿屋、料理屋、待合の女中、芸妓等を見ればよく判る。事実此階級は結核が一番少いということは医学でも言われている。故に私は成可(なるべく)睡眠不足の方針をとっている。

消化の良い物を食うと、胃の活動力が鈍る。よく噛む事も同様で、造物主は消化の良い物悪い物を多種多様に造られてある以上、それ等を適当に食えという意味である。故に烏賊、海鼠、蛸、沢庵、梅干、茄子、豆等何れも不消化物と思えるが食いたい物は何でも食うのが本当である。

風邪を引く事を恐れるが、風邪は最も簡単な健康増進法で、神が与えた唯一の恩恵である事は私が常に唱える所で私は常に風邪を引くように心掛けている。

腹巻をすると、腹部の皮膚が軟弱になるから、偶々外した場合冷えるので、腹巻を用いないと腹の皮膚が丈夫になるから冷っこない、故に私も家族も決して腹巻はしない事にしている。

含嗽はしない方がよい、何となれば人間の唾は強力な殺菌作用がある。虫類によっては人間の唾で弱るのがある。その証拠には蚤をとる場合指に唾をつけて蚤を制えると蚤は弱る。それ程殺菌力ある唾を含嗽で一時的なくすのは寧ろ含嗽時は危険という事になる。

以上の説明は理屈ではない、実際に即している事ばかりで何人も肯き得るであろう。故に医学の健康法は、人間でいえば苦労をさせないようにして甘く育てる坊ちゃん式で、社会へ出ると抵抗力のない役に立たない人間になるのと同様の理である。

 

『健康による天国化』

キリストの一大予言である「天国は近づけり」の獅子吼は固より、凡ゆる宗教の目的とする処は、より良き世界即ち人間から苦悩を除き、歓喜の世界実現にある事は言う迄もない。此一致した理想に対し、遺憾乍ら現実は実現処か地獄の境界から脱却するさえ前途遼遠の感がある。洋の東西を問わず、昔から宗教、哲学、科学、道徳、教育等によって不断の努力を払いつつあるに拘わらず、今以て何等の進歩も見られないのは何が為であろうか、そうして悲劇の根源とも目すべき人間の健康に至っては、解決の曙光さえ見られないのが現実である。

此事に就ては、我々は常に耳にタコが出来る程説いてはいるが、此問題に限って説き過ぎるとは思わない。何となれば此健康問題が立派に解決されない限り、他の凡ゆる条件が全部具現しても何等の意味をなさないからである。然るに私によって完成された処の神霊療法は、人間の凡ゆる病患を除去し、完全健康体たる事が可能であるのである。

此様な大発見は、現代文化の水準を抜く事あまりにも高い為反って誤解を生じ易いのである。何となれば恰度地上の人間が屋根の上の人間の頭上が見えないようなものであるからである。

見よ、一切の悲劇の根源を探究する時、必ずやそこに病患の原因を見出すのである。若くして結核に倒れる者、今や高等学府を出でんとする真際に同病に犯され、当人は元より其親は唯一の希望を失い、前途暗澹たる運命に投げ出される者、中年者にして事業半途にして挫折したり、漸く基礎が成って大いに勇躍せんとする時、病魔の為進退難に陥る者等々、実に社会悲劇の大部分は病気が原因である。それに対して進歩せる医学も既成宗教も、相変らず努力を続けてはいるが、何等光明を見出し得ないのが事実である。

此様な悲惨極まる今日、突如として現われたのが神霊療法である、此神霊療法が如何に画期的大医学であるか、一度本教に入信し実体を把握した者は容易に納得がゆくのである。

 

『医学に望む』

昭和二十三年八月二十五日発行東京新聞「筆洗」欄中に次の如き記事があった。

「医者が家族の者の診察を嫌がる事は大抵の人は知っている。これは結局診断に迷うからだ」

ただ之だけの事だが、よく考えるとその内面に潜むものに頗る重大性がある。何となれば右は吾々もよく聞く事実であるが、そこには全然科学性がない事である。医学は進歩せりといい而も今日何人と難も医学は科学の埒外であると思うものはあるまい。然るに家族の者を診断する場合、迷いが生ずるというに至ってはそこに科学性がないと共に、頗る危険ではあるまいか。勿論医学に信頼性がありとすれば、家族の者に限って他の医師に扱われる事は不安であり、是非自分が診療しなければ安心出来ないというのが本当ではあるまいか。そうでないまでも家族も他人も同一診断を得べきが科学としての基準である。

斯く観じ来れば医学の診断なるものは甚だ頼りないもので、恰度(あたかも)易者の身の上判断と同工異曲のものと言われても仕方があるまい。吾々は決して医学を非難する意志は少しもないが、どう推理しても前述の如き結論とならざるを得ないのである。

聞く所によれば凡ゆる病気のうち、最も一般的で軽病とされる風邪の原因すら医学に於ては今以て不明とされている。故に吾々が要望する処のものはせめて医師が家族のものを自己が診断せざるを得ない様になり風邪の原因がはっきりするようになるだけでもいいから、其程度にまで進歩されん事を期待してやまないものである。