「光」12号、昭和24(1949)年6月11日発行
宗教と奇蹟は切っても切れない関係にある事は、昔から幾多の文献によっても明らかである、もし奇蹟のない宗教でありとすれば、それは最早宗教とは言われない、何となれば奇蹟は神が造るのであって、人間の力では一個の奇蹟も造られ得ないからである、ゆえに奇蹟のない宗教は宗教としての存在価値はない訳である、ただ形式だけがいかに宗教的であっても、それは宗教的価値を喪失しているといってもいい。
以上の意味において偉大なる宗教程奇蹟が多く顕われる事は当然である、奇蹟とは換言すれば予期もしなかった利益が現われる事である、それによって衷心から信仰心が湧起し入信し不幸から救われる、これが真の宗教でなくて何であろう、百の理論よりも一の事実に如(し)かない事は今更言う必要はない、今日の世相は、敗戦による結果とは言いながら、社会悪の激増はもちろん、特に将来の日本を担うべき青年層が不健全なる思想に禍いされ混迷裡にある事実は寒心に堪えないものがある、その原因を衝けば唯物思想を金科玉条として教育された結果で、この誤謬に目覚めない限り到底この問題は解決され得るはずがない、しからば唯物思想を打破するにはどうしたらよいかというともちろん宗教心に目覚めなければならないが、それには根本として見えざるところの神を認めしむる事は常に吾らが唱導するところである、とすればその方法はただ奇蹟あるのみである、奇蹟とはもちろん人間業では不可能とされたものが可能となり理論では絶対解釈が出来得ない事実を眼の前で見せられるとすればいかなる疑惑も一遍に煙散夢消するのは当然である。
ゆえに標題のごとく「宗教は奇蹟であり奇蹟は宗教であり」と言い得るのである、したがって奇跡によって神の存在を認識せしめ、唯心思想を育くむ以外、平和日本建設も社会悪追放も、予期の成果は挙げ得るはずはない。
人文史上、本教くらい奇蹟の多い宗教はいまだ見聞した事はあるまい、この意味において世界の大転換期に当って、唯心的魂を喪失した世界に対し奇蹟の息吹によって、眠れる魂を揺り動かすのが本教の目的である。
万能の神は、観世音菩薩またの御名光明如来の御手を通じて、自由無碍なる御活力を駆使し、多々益々奇蹟を示し給い、本教を機関として、救世の大業を行わせ給いつつあるのである。