『順序を過る勿れ』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

昔から「神は順序なり」という言葉があるが、これはすべてに渉って重要事であり、心得おくべき事である。まず森羅万象の動きを観れば分かるが、すべて順序正しく運行されている。四季にしても、冬から春となり、夏となり、秋となるというように、梅が咲き、桜が咲き、藤が咲き、菖蒲が咲くというように、年々歳々不順序(くるい)なく生成化育が営まれる。かように大自然は順序を教えている。もし人間が順序の何たるを知らず、順序に無関心であるなら、物事が円滑にゆかない。故障が起こりがちで、混乱に陥りやすいのである。ところが、今日までほとんどの人間は順序を重要視しないが、これを教えるものもないから無理もなかった。私は一般が知っておかねばならない順序の概略を書いてみる。

まず順序について知りおくべき事は、現界のあらゆる事象は霊界からの移写であると共に、現界の事象もまた霊界へ反映するのである。そして順序とは道であり、法であるから、順序を紊(みだ)すという事は道にはずれ、法にもとり、礼節にかなわない事になる。仏語に道法礼節という言葉があるが、この事をいうたものであろう。

まず、人間が日常生活を営む上にも、守るべき順序があって、家族の行動についてもおのずから差別がある。例えば部屋に座る場合、部屋の上位は床の間であり、床のない部屋は、入口から最も離れたる所が上座である。上座に近き所に父が座し、次に母が、次に長男が、長女が、次男が、次女がというように座るのが法であって、こうすれば談話も円満にゆくのである。いかに民主主義でも、法に外れてはうまくゆくはずがない。例えば、ここに一人ずつしか渡れない橋があるとする。それを数人が一度に渡ろうとすれば混乱が起こり、川へ転落する。どうしても一人ずつ、順々に渡らなければならない。そこに順序の必要が生まれる。又客が来るとする。客と主人との間柄が初対面の場合と、友人、知人の場合と、上役や部下の場合、座るべき椅子も座席もおのずから順序がある。挨拶等も、その場に適切であると共に、相手によって差別があるから、それに注意すればすべて円満にゆき、不快を与えるような事はない。又女性、老人、小児等にしても、態度談話にそれぞれ差別がある。要は出来るだけ相手に好感を与える事を本位とすべきである。

次に、子女や使用人を二階三階に寝かせ、主人夫婦は階下に寝るという家庭があるが、これらも誤っており、こういう家庭は、子女や使用人は言う事を聞かなくなるものである。又妻女が上座に寝、主人が下座に寝る時は、妻女が柔順でなくなる。その他神仏を祭る場合、階下に祭り、人間が二階に寝る時は、神仏の地位が人間以下になるから、神仏は加護の力の発揮が出来ないばかりか、かえって神仏に御無礼になるから、祭らない方がよいくらいである。仏壇のごときもそうである。祖先より子孫が上になる事は非常な無礼になる。何となれば、これらは現界の事象が霊界に映り、霊界と現界との調和が破れるからである。

この理は国家社会にもあてはまるが、最も重大な事は産業界における資本家と勤労者の闘争である。特に、最も不可であるのは生産管理の一事で、これ程順序を紊す行動はあるまい。ここに一個の産業がある。それを運営し発展させるとすれば、すべてに渉って順序が正しく行なわれなければならない。すなわち、社長は一切を支配し、重役は経営の枢機に参画し、技術家は専門的技術に専念し、勤労者は自分の分野に努力を払う等、全体がピラミッド型に一致団結すれば、事業は必ず繁栄するのである。しかるに、生産管理はピラミッドを逆さにするのであるから、倒れるに決まっている。この理によって資本家と労働者が闘争するにおいては、その結果として勤労者も倒れ、資本家も倒れるという事になるから、実に愚な話である。故に、どうしても両者妥協し、順序を乱さず、和を本位として運営すべきで、それをよそにして両者の幸福は得られる訳がないのである。私は産業界から闘争という不快なる文字を抹殺するのが、繁栄の第一歩であると思う。しかしながら、以前のごとく資本家が勤労階級を搾取し、利己本位の運営が行き過ぎる結果は、共産主義発生の原因となったのであるが、今日は反動の反動として、共産主義の方が行き過ぎとなり、産業が萎靡(いび)し、生産が弱体化したのであるから、一日も早くこれに目覚めて、あくまでも相互扶助の精神を発揮し、新日本建設に努力されん事を望むのである。これが私のいう「順序を正しくせよ」という意味である。

戦時中東条内閣の時、東条首相は社長の陣頭指揮という事をとなえ、又自分も先頭へ立って活躍したが、これ程の間違いはない。何となれば、昔から事業を行なう事を経綸を行なうというが、経綸とは車を回す事である。即ち首脳者は車の心棒にあたるので、車がよく回るほど心棒は動かない。又車は心棒に近いほど小さく回り、外側になるほど大きく回り、心棒が躍るほど、車の回転の悪いのはもちろんである。

右の理によって考えるとき、こういう事になる。すなわち心棒に近いところほど少数者が担当し、漸次遠心的に多数者となり、最外側のタイヤに至っては、道路に接触するため過激の労働となる事によってみても、順序の何たるかを覚り得らるるであろう。故に、すべて主脳者たる者は、奥のほうに引っ込み、頭脳だけを働かせ采配を振っておれば事業は発展するのである。