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『本療法の原理』

本療法の原理を説くに当って、私は、之に着眼した動機から述べてみよう。

抑々人間なるものは、如何にして造られたかという事である。それに就て、宗教家は、造り主である神が造られたといい、科学的即ちダーウィンの進化論によればアミーバが蜥蜴となり、大蜥蜴となり、類人猿となり、終に人間になったというのである。右の両説の真疑は別として吾々の眼にも耳にも触るる事を得ない遠い時代の説である以上、絶対的に信ずる事は不可能である。

然るに私は、何人と雖も否定し得ない事がある。それは人間は、人間が造ったという事である。即ち親が子を造り、子が又親になって子を造るという――之こそ絶対の事実である。勿論、意識的に作るのではないから、多くの人は右の事実に気付かないまでである。従而、無意識にせよ、人間には人間を造るべき力があるという事は間違いないのである。それは勿論、何ものを以てしても説明出来得ない神秘力の発現である。此意味に於て私は、人間の病気なるものも、それを治癒すべき力は、現実の造り主である、人間になければならないと思ったのである。機械や物質によって作ったものなら、その破損や陣 碍は機械と物質によれば治るべきであると同じ意味によって、人間の病気は人間が治せるべきであると考えたのである。

然し乍ら、右の理論を是として考える時、病気を治癒すべき力が、人間に存在するとして、その力を如何に発現し、応用すればいいかという事が、残された最後の問題である。

然るに私は、右の理論を基礎として研究し、意志と信念と熟練によって、治病力の発揮が可能である事を発見すると共に、実験上、素晴しい効果を挙げ得る事が明かになったのである。それが本療法の発見の動機と完成への解説である。

故に、本療法は未だ嘗てなかった所の一種の治病技術であるといえよう。

『哲学的に観たる本医術』

今日迄、本療法によって偉効を奏した場合、之を批判するその観念が非常に誤っている事である。それは何であるかというと、薬剤も機械も使わないという治病方法であるから、現代人としては永い間唯物療法によらなければ病気は治らないと固く信じている結果どうしても精神的に因る効果と想い易いのである。従而、治療で治ったのではない。信ずるという精神作用によって治癒したというのである。特に、第三者の場合そう思い勝である。然るに、事実はその反対であるから面白いではないか。

今日、本療法は勿論、或種の民間療法に受療に来る患者は、悉くといいたい位、一種の疑惑を抱いている事である。勿論それは、器械も薬剤も用いないで治るという事は不思議に堪えないという観念である。然し乍ら、人から偉効を説かれ、又は近親者等の偉効を見せられているに於て信疑相半ばすというのがその殆んどである。

然るに、医療を受ける者は、治るという既成観念に強く支配されている事は勿論である。而も大病院や博士号等は、特に信頼を強めさせられる。又、医学の素晴しい進歩という先入観念も、より一層の信頼を強めさせられているという訳で、病気治癒に対する精神的信頼は民間療法とは比較にならないものがある。その証左として、医療を受けつつ数ヶ月に及んで、聊かの効果がなくとも信頼は衰えない。否 一、二年に及び病症が漸次悪化すると難も、何等信頼に変りはないのである。実にその信頼の強き事驚くべきものがある。

従而、或場合誤診誤療によって悪結果を喫するも、多くは疑惑を起さないのである。又注射によって致死するも、手術の過誤によって重態となり不幸な結果を来すと雖も同様である。そうして医学の大家が、凡ゆる最新の療法を施すも漸次悪化し畢に不幸の結果を来す場合大方は善意に解釈し、あれ程の大家が、彼程努力しても、斯様な結果になったという事は全く命運が尽きたのであると諦め、些かの悔も不平も漏さないのである。然し乍ら、偶々医家の誤療が余りにも明かであって、その為不幸な結果に終つた場合、告訴の提起など称えるや周囲の者は、今更兎やこういうたところで死んだ者が生きかえる筈はないからという自利的解釈が勝を制して、そのままとなる事が殆んどである。

右の如き医学に対する絶対的信頼は如何なる訳であろうか、私の観察によれば、現代人は事物を観察する場合、事実よりも外形・理論・伝統等を重んずるという傾向が、あまりにありすぎる為と思うので ある。之に就て私は若い頃哲学に興味を持ち、特にフランス人の有名な哲学者アンリー・ベルグソンの説に、憧憬した事があった。

それは、同氏の哲学中に、私の心を強く捉えたものがあったからである。それは直観の理論と万物流転という説であった。然らば、それはどういう訳であるか、その要領を出来るだけ簡単にかいてみよう。抑々人間は、総ての事物を観察する場合、多くは事物そのものの直観は為し難いものである。何となれば、如何なる人間と難も、現在有する観念なるものは決して無色ではあり得ない。即ち教育、習慣、伝統等、凡ゆるそういう類のものが、綜合的に潜在し、それが想念中に、棒の如く固形化しているものである。従而、事物を観察する場合、その捧なるものが大なり小なり必ず影響する事は免れ得ないのである。

故に、ともすればその綜合観念が、事物の実体其儘を把握させないのである。一層判り易くいえば、 右の棒が色眼鏡となるのである。此意味に於て、誤りなく事物の実体を把握するというには、綜合観念の棒に微塵も煩わされない境地に吾を置かなければならない。然らば、其様な境地の吾とは如何なるものであるか、ベルグソンはそれを名付けて刹那の吾というのである。それは過去も未来もない否思惟しない所の現在の吾、虚心の吾である。その様な刹那の吾にして事物を観る場合、はじめて邪魔の入り得ない直観そのものであるというのである。故に先ず人間として、事物の正しい観方は之以外にはないとしているのである。

次に、万物流転とは如何なる意味であるかというに、それは森羅万象一切の事物は常に流転しつつ、 一瞬と雖も止まる事がないというのである。即ち昨日の世界も昨日の日本も昨日の吾も、勿論今日の世界でもなく、今日の日本でも今日の吾でもない。昨日の文化も政治も経済も芸術も医学も、勿論今日のそれではない。

此意味に於て、昨日は真理であったと思う事も、今日は破壊されているかも知れないと共に、破壊されていないかも知れない。それは、もし破壊されているとすれば、それは真理ではなく似而非(えせ)真理であったからである。又、破壊されていない真理は真理そのものであるか、少くとも似而非真理よりも真理に近いものである事は確実である。

又、斯ういう事もいえるであろう。それは真理の時間的表われである。仮令ば幾十年、幾百年無上の真理であるとしていたものも、それが逆理であった事が明かになるというような例も幾多の歴史が物語っている。

以上説いた如きベルグソンの哲学を通してみれば本医術と西洋医学との真相を把握する上に、尠からぬ便利があると思うのである。

爰に、注意すべき事がある。それは此項の始めにかいた如く、患者が絶対信頼をする医療によって治らない結果、本医術の治療を求めるのが大多数であるから、斯ういう訳になろう。

それは信頼する医術で治らないで反って疑惑を以て受ける医術で治るという洵に奇なる結果となるのである。此一事を以てみるも、全く治病力の差違の然らしむる処であろう。故に本医術の治病力は、精神作用を超越するという事になるであろう。

 

『病気に感謝せよ』

私は曩に「病気は神の最大なる恩恵である」と言った。その理由は最早読者は充分認識されたであろう。然るに世間、闘病などの文字を使用し、病と闘い、病を征服する事を以て治病の要諦と解しているが、之等が如何に誤りであるかは、爰に言う必要はあるまい。

私は、病と闘うという其観念は、病に対し如何に作用するかという事を考えてみるのである。そうしてこれまでは、病それ自体が苦痛の代名詞となっている。従而、闘病(心)とは苦痛と闘う意味である。苦痛を敵視する事である。言い換えれば自国内に敵軍が侵入蟠居している――その敵を征服し、排撃しようとするのである。然るに、予期の如くならない場合、病苦以外の敵に勝てないという煩悶や焦燥感が起るのは当然であろう。其結果、病苦の外に苦痛を排除せんとしようとする苦痛が加わる訳である。

然るに、私の言う病気なるものは、神の恩恵であって、病気なる浄化作用によって、体内の毒素が軽滅又は排除さるるのであるという意味を思う時、洵に感謝に堪えない気持が湧くであろう。寧ろ病気の一層強烈であれかしと願う心にさえなるものである。又病気恢復後、毒素軽減による健康増進の希望も起る以上、それが亦一の楽しみとなるのである。

右述べた如き二様の解釈は、精神的には如何に影響するやというに、闘病観念は病に対する恐怖と、不安焦燥の悩みを生み、天恵観念に於ては、感謝と希望と楽しみを生むという事になろうから、本医術を知るに於て、人生の幸福圏内に一歩踏み入ったという訳である。 以上の如き病気の真諦を、日本人全部が認識し得たとしたらどういう状態になるであろう事を想像されたいのである。いうまでもなく、最大不安の焦点であったものが、その反対である事を知るに於て、国民全般が如何に安易な気持を持ちつつ職域奉公に邁進さるるかである。能率増進は固より、社会的明朗感は素晴しいものがあろう。之によって日本が二十世紀の蓬莱島となるであろう。と私は信ずるのである。

『此事実』

私は、本医術が現在如何に国家に貢献しつつあるかという事を書いてみたいのである。勿論私は現在直接治療に従事してはいないのであるが、各方面に於て、私が養成した処の多くの治療士及治療士以外の弟子達が治病報国に如何に専念努力しつつあるかという事である。大病院に於て見離され、大国手(こくしゅ)や医学博士に匙を投げられたるもの即ち死に直面した際、本医術によって忽ち起死回生の歓びに浸ったり、一生不治と諦めていた永年の痼疾(こっしつ)、不具者等が完全人と復活したり、子女を失わんとして悲歎のドン底に沈みいる際、短時日にして生命を取止め、新しく子女を恵まれたと喜ぶ親達等、斯様な実例は実に枚挙に遑ないのである。特に私は此重大時局に対して、皇恩の万分の一なりとも御報恩の誠を尽すべく念願しつつあるのであるが、その現われとしての一端をかいてみようと思うのである。

現在国家の枢要任務に鞅掌しつつある陸海軍人、将官級佐官級尉官級等の将士、傷痍軍人諸君の重難病は元より右の御家族の病患を全治させ、健康を全(まっ)たからしめ、安心して軍務に尽しつつある幾多の実例や、国務大臣又は大臣級の諸賢、其御家庭、各重要産業会社の重役技師、産業戦士諸君等、社会各層の枢要部門に携わりつつある人士にして、本治療によって健康を恢復し、又はされつつある方々は無数に上るのである。之を言い換えれば、本医術によって国家の枢要部門に当る人士を新しく産みつつあるという事を言い得るのである。何となればもし本医術を知らず、受療の機会に恵まれなかったとすれば、無論生命を失われたであろうからである。勿論、嬰児を出生する事も肝要ではあるが、それよりも今現実に此重大時局に当っている処の成人者を産む事の如何に重要であるかは贅言(せいげん)を要しないであろう。私は、此事実を当局が一日も早く認識さるる事ほど、今日の緊迫せる時局に対し重要事は他にないとさえ思うのである。

然るに当局は現在に於て、民間療法を極度に圧迫している事実であって、洵に遺憾の極みであるが、それ等は全く右の如き実際的効果を知らないからであろうと思うのである。言う迄もなく現在の保健機構が西洋医学を基本として作られたる法規によって取締る以上民間療法は第二義的のものとして扱わるるのも致方ないのであるが、兎もすれば医療妨害という法規を楯に、些かの過誤にも眼を光らせ罰則を課するので、民間治療士は実に戦々兢々としている実状である。鳴呼、国家の為右の如き功績を挙げつつあるに拘わらず、恵まれざる事斯の如しとすれば、罪何れにありや、識者の考慮を求めたいのである。従而、此際何とか当局の覚醒を促さなければならない事を痛切に思うのである。

私は、利己的小乗観念を捨て、大乗的見地に立って観る時、当局者は固より医師諸君に於ても、あらゆる民間療法と共に本治療の効果を実験されん事を冀(ねが)うものである。

 

『現実無視の悲劇』

現代医学に於ける現実無視は看過出来ないものがある。それに就て私の経験及び其他の例を挙げてみよう。私は二十数年以前慢性歯痛に悩まされた事がある。それは四本の歯が痛み続ける事一年有余に及んだのである。一時は痛苦のあまり頭脳に変調を来し、発狂の一歩手前とさえ思われたのである。終に最後に到って幾回か自殺を企てたるにみても如何に甚だしかったかという事が想像されるであろう。そうして此原因が全く薬毒の為という事が判ったのであるが、それは一年有余苦しんだ揚句、或動機によって判明したのであった。その動機とは、万策尽き藁をも掴みたい心境になっていた際、偶々知人から 病気をよく治す某宗の行者があるという事を聞いたのである。早速そこへ行った。行者は「一週間で治すが、その期間は歯医者に行く事は行に障るから相成らん」というので、それ迄毎日のように通っていた歯医者行をやめたのである。

然るに、意外にも三日目か四日目頃だと思う。僅かながら痛みが軽くなったのを覚えると共に、豁然として眼界が開けたように思われた。それはそれ迄毎日歯医者へ通い、その度毎に薬を用いられていた――その薬の為ではないか――という事である。そう意(おも)って回顧してみると、はっきりと浮び上って来た。それは最初は一本痛み、且(しば)らくして二本痛み、次で三本四本というように、漸次悪化の経路を辿って来た事である。又最初は痛んだ歯のあまりに治癒しない為抜歯した。抜歯すると隣接の歯が直ぐ痛み出すというような訳で、遂に四本まで抜歯したのである。にも拘わらず未だ四本痛んだのであるから、合計八本の歯が悪かった訳である。恐らく私の歯痛位酷いのは、世の中にその例があるまいとさえ思ったのである。従而、一年余というもの毎日歯医者へ行き、薬を注(つ)けぬ日とては無かった。一日二回三回 にも及ぶ事さえあった。東京に於ける有名な歯医者を数軒歩いたが治らないので、帝大歯科にも東京歯科医学専門学校にも行ったのであったが、効果がないばかりか、益々悪化の一途を辿るのみである。其時、前述の行者に赴いたので幸いにも歯科医に行く事――その事が歯痛悪化の原因である事を識って、 驚いてやめ、自然放置によって漸次快方に向うことになったのである。そうして私が薬毒の害を知ったのは此歯痛からであった。

以上の如き、おそるべき慢性歯痛の最初の原因が、標題の如き「現実無視」にあったことを、私は世人に告げたいのである。それは最初前歯一本が齲(むし)歯になったので、その窖(あな)を充填すべく、歯医者に行った。その歯医者は「完全に消毒しなければいけない」といい、消毒すること数回に及んだ。今日考えてみると、その消毒薬が強烈なためと、回数が多くあまりに念入りにやり過ぎたのが抑々の原因である事が判った。それは薬毒が歯根に滲透して痛み出したのである。然るにその痛みが全く治癒しないのにセメントの充填をしたのであったが、充填するや、間もなく強烈な痛みとなったのである。翌日歯科医に赴き、セメント充填の為の激痛と想うから除って貰いたいといった。すると歯科医曰く「そんな筈は絶対にない。充分消毒しての上充填したのであるから」といって肯(がえ)んじなかった。その時私は不思議な事を言うと思った。何となれば、痛みは現実であって、筈は理屈であるからである。いわば、理屈を以て事実を否定する訳である。歯科医又曰く「兎に角、痛む筈がないのだから、明日迄そのままにされたい。もし、明日迄治らなかったら来てくれ」というので、やむなくその通りにした。然し翌日になっても痛みは依然たるばかりか、幾分悪化の傾向さえあった。歯科医曰く「昨夜独逸の或本を調べてみた処、貴方のような例は一つもなかった。どうも不思議である」といって首を傾げるばかりであったが、致し方なく充填セメンを除ったのである。其為に痛みは大いに減少したが、軽痛は依然として治らない。従而その軽痛を治さんが為、前述の如く次々歯科医を取かえ漸次悪化し畢に難症と迄なったのである。

右の如く、現実の痛みを理屈で否定するという事は、甚だ不可解のように思うであろうが、 之に似たような例は抄くないので、私は患者から屢々聞く話であるが、盲腸炎の手術後、全治したるに係わらず、盲腸部に痛みのある事があり、そういう時医家は、盲腸を除去したのであるから痛む筈がないといい、本人は痛いというような事もある。又以前私は面白い例を本人から聞いた事がある。それは五十歳位の男子で慢性眩暈の患者であった。其当時有名な脳神経専門の○○病院に行き診察を受けたる処、二ケ月にて全治するといわれたので、信じて通院したる所、二ケ月経ても何等の効がないので不満を漏した所、 今一週間延してくれるといわれ、それを諾したがそれも更に効がないので、患者は非常に立腹し、院長に詰った処、院長曰く「貴方はもう病気はない。医学上如何に検診するとい雖も、病的症状は認められないから、最早来なくともよい」と曰うのである。終に患者は堪りかねて、あまりに欺瞞も甚だしいと、頗る強硬に出でたので、遂に院長は謝罪し、それまで病院へ支払った費額を全部返還したとの事である。

今一例は、四十歳位の婦人、頭脳がわるくその症状といえば、頭脳の中央に何物かが居て、その者の考えが、本人自身の考える事を断えず妨害をするというので、患者はその苦悩を打消すべく、常に大声を発して喋舌り続けるという訳で、同情に禁えぬものがあった。此患者は、帝大脳神経専門の権威で、今は物故せる○○博士を信頼し、約一年間通院治療を受けたのであった。然るに、一年余経た或日の事、 博士曰く「貴方はもう治ったから、来なくともよろしい」というのである。患者は「未だ頭脳の妨害者は少しも変らない」というと、博士は「今後出来るだけ気を紛らすようにすれば自然に治る」という洵に頼りない事を言われて突放されてしまったのである。それが為、煩悶澳悩している際、私の所へ来たのであった。

右の如き実例は無数にあるのであるが、私はいつも医家に対し同情が湧くのである。何となれば、医家としては、凡ゆる最新の学理や方法を究めて努力するのである。にも係わらず効果がない。患者からは不平不満を愬えられるという訳であるから、医家たるもの悲観せざるを得ないであろう。従而如何に考うるも医家に罪のない事は勿論である。その原因たるや、全く逆進歩である医学を真の進歩と誤り、今日迄その誤謬に目覚めないという結果でしかないのである。故に、以上の如き医家の並々ならぬ努力が、反って患者の不幸を招く結果を来すというのであるから、殆んど信ずべからざる程の悲劇が、常に無数に行われつつあるのである。

以前私は某医学博士から、左の如き詐(いつわ)らざる告白を間いた事がある。それは医家としての最大なる悩みは、病状の悪化や、慮わざる死の転機に際し、如何にして近親者の納得し得べき説明をなすべきかという事を、常に苦慮しているという事である。之は全く有り得べき事であろう。

然るに、本医術の受療者は、例外ないという程効果があるので、患者は固より近親者の感激は絶大なるものがあり、嬉し泣きの話なども、常に弟子から聞くのである。