『惟神医術』

「明日の医術、第2篇」昭和18年10月5日

私が創始した此医術こそは、真の日本医術であり、日本的療法と思うのである。それに就て私は、別の方面から観察してみたいのである。 別の方面とは何であるかというと、それは日本神道即ち惟神の大道によってである。そうして、惟神の大道とは、私の考察によれば、日本之道否日本人の道、否々未来に於ける世界人類の道であると思うのである。然らば、惟神とは如何なる意味であるか。之に就て、昔から今日迄種々に説かれているが、私は惟神之道とは、大自然の道というのが最も適切ではないかと思うのである。

元来、天地間の森羅万象凡ゆる物の生成化育、離合集散、栄枯盛衰は自然の理によるのでそれによって無限の進展を遂げつつあるのが此世界であって、その実相を観る時、不自然なるが如くにして自然であり、偶然に似て必然であり、空漠たる如くにして厳然たる法則あり、全く人間の叡智や学理によっても到底窺知(きち)し得べからざるものがある。

そうして、大自然の動きは真理そのものである事は勿論である。そうして真理の具現者であり、宇宙の支配者である者、それを尊称して神というのである。故に、宇宙意志というも神の意志というも同一である。此理によって大自然そのものが神の意志であり、大自然の実相が神意の具現であるといえよう。

此意味に於て、人間なるものは大自然の中に呼吸し、大自然の力によって生育するのである。故に、生死と難も大自然即ち神意のままであるべきである。故に、大自然に逆えば滅び、大自然に従えば栄えるのは言うまでもない。此理によって人間の師範とすべき規(のり)

は全く大自然であって、大自然のままに行く、即ち大自然に習う事こそ、神意に習う事であり、神意のままに進む事であり、それがカムナガラである。実に帷神とは玄妙至極な言霊というべきである。

右の理を人間の健康に当嵌めて解釈する時それは明かである。即ち人間は何が故に生れたかという事である。勿論、神が此土を経綸する上の必要から生れさせられたのであって各人それぞれの特徴を具えているのは、そういう意味からである。故に、生命の命は、命令の命の字である。故に、生命のある間、神の命を奉じて生き活動すべきで、その命を疎かにしてはならないのである。死ぬ――即ち生命が亡くなるという事は、命令を解かれる事である。従而、人間は神の受命者であるから身を浄め心を清めて使命遂行に精進しなければならないのである。昔から人は神の子とか神の器とか、神の宮とかいうが、右の意味に外ならないと思うのである。

然るに、神の最高の受命者ともいうべき人間が、健康を害ねるという事は、大自然即ち神意に背いているからである。従而、如何なる点が反自然であるかを発見すること、それが根本問題である。然しながら、人間の悲しさ、それを発見する事が不可能であるが為、止むを得ず、器械や薬剤を以て、病気を治癒しようとしたのであるから、一時的効果より以上に出でなかったのである。

そうして、前述の如き惟神、即ち自然の侭という事は決して難しい事ではない。洵に簡にして単である。即ち健康に就ていえば先ず人間は生れた以上、幼時は母の乳を呑み、生育するに従って普通食を摂るので、それは大自然は人間の食物として五穀、野菜、魚鳥なるものを、人間の嗜好に適するよう千差万別の形状、美観、柔軟、五味、香気等を含ませ造られてある。故に人間は、其土地に於て生じたるもみのの四季それぞれの季節に稔ったる物を楽しんで食せばいいのである。そうして各自に与えられたる職域を遂行し、教育勅語を範として実践躬行(きゅうこう)、これを勗(つと)むるに於て、不健康など有り得べき筈はないのである。

又、大自然は、天地間凡ゆる物に、浄化作用なるものを行うのである。此事は、大祓の祝詞中にある如く、祓戸四柱の神の担任せられ給う処であって、誓えていえば、地上に汚穢が溜れば風に吹き払い、雨水によって洗い浄め、天日によって乾燥させるのである。また一軒の家に於ても、塵埃が溜ればそれを払い掃き水で洗い拭き清めるので、それ等の事は人間に於ての病気、即ち浄化作用と同様である。従而、此場合、自然に放置すれば治癒するのは当然である。又浄化作用の期間中、発熱や痛苦等によって労務に耐えなければ休養すべきであり、食欲がなければ食わなければいいのである。それが自然である。そうして人間の浄化作用は人間自身の体が行って呉れるから、寔に都合がいいのである。

故に、此意味に於て私の提唱する医術と健康法は飽迄自然を本とし、自然に準(なら)うというので、惟神医術という所以なのである。