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『湯西川温泉』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

私は、ある年の夏であった、目的は以前行き損なった奥日光と塩原の中間にある湯西川温泉に遊ぶべく、途中上州の川治温泉で昼食をなし、そこから一里半山に入り、渓流に懸った橋を渡り、かねて用意さしておいて牛車に乗り、全く牛の歩みの通り四里の途を六時間かかってやっと夕暮れ湯西川へ着いた。ここは渓流に添った平凡な温泉で書く程の事もないが、この湯西川村の存在理由についてかかねばならない事がある。

元来この村は大家族主義で戸数六十戸、人口九百余人くらいある平家村である。その時給仕に出た宿の娘に種々な事を聞いたが、この宿屋はこの村の宗家で、この家の主人が村の行政一切を管掌している。娘の話の中、そのおもなるものを書いてみるが、元来この村は源平の戦の時平家方が敗北と共にチリヂリバラバラとなり、その中の三十人ばかりの一群がこの山奥へ逃げ延びて来たというのである。何しろ源氏の追手の追跡が激しいので山また山を越え、追手の来られそうもない所としてこの地を選んだのである。それが数百年かかって現在の村となったのであるから、実に辺鄙(へんぴ)なところで、都人士はほとんど来ないとの事である。

最初一族がここへ来た時は食糧がなく、仕方なしに葛(くず)の根を食って僅かに露命を支えていたそうである。そうして驚くべき事はこの村には病人が全然ないという事で、現在大酒のため中風になった爺さんが一人あるだけだとの事である。結核などはもちろん一人もない。彼女の言うにはこの土地のものは近くの日光から先へは絶対縁組をしないそうで、まして東京などには行く者はほとんどないとの事である。それらは何のためかというと東京などへ行くと肺病になるからだという。ところがおもしろい事にはこの村は無医村で絶対菜食である。付近の川に山女(やまめ)や鮎などいるが、決して捕ろうとはしない。なぜなれば先祖代々魚を食った事はないからで、別段食いたいとも思わないというのであるにみて、いかに徹底した菜食村であるかが知られるのである。以上の事実によってみても無医薬と菜食がいかに健康に好いかという事実で、全く私の説を裏書しており非常におもしろいと思った。

それについてこういう事がある。それは時々県からチフスなどの予防注射に来るが、村民はみんな逃げてしまう。というのは注射を受けると三日くらい高熱が続き苦しむからである。なお聞いてみるとチフスなどは何年にもないそうである。にも拘わらず注射に来るというのは県の衛生規則のためで、これによってみても伝染病皆無の村へわざわざ注射を強要に来るとは、規則一点張りで無益の事のために費用かけ、村民から嫌がられるというお役所仕事なるものは、変なものだとつくづく思った事である。

 

『奥日光から塩原へ』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

私は四十歳頃から山が好きになり、機会ある毎に各所の山に登ったのである。もっともその頃から健康快復のためもあった。関東付近の主なる山は大抵登ったが今その中で最も興味ある経験を一つかいてみよう。

大正十二年すなわち関東大震災のあった時の八月半ば頃、奥日光から塩原温泉へ抜けようとしてプランを立てた。その頃奥日光の山案内として有名な宮川という男に案内させた。ところが最初予定のコースは、湯本から五里の川俣温泉で一泊、それから七里の湯西川温泉へ一泊、塩原へ抜けるのであった。予定通り川俣温泉へ昼頃着いたが、ここは鬼怒川上流の最も静寂なところで宿屋が一軒あるだけで外に人家はない。そそり立つ岩壁青き渓流等、全く塵外の仙境である。途中草鞋(わらじ)ばきで岩を這い上る程の所があるので都人で行く者はほとんどない。温泉はもちろん男女混浴で、最初私一人湯に浸っていると暫くして三十前後の三人の女連が入って来た。彼女達は私のいる事など知らぬ気に、湯槽(ゆぶね)に浸ったので私の方がキマリが悪かったくらいだ。ところが彼女の方から言葉をかけた「旦那はドチラからです」。私「東京からだ。君達はどこから来たのか?」。彼女達「私達は栃木県の○○村の者で、この温泉は子供が出来ると聞いて来たんです」という。そんな事をキッカケに種々世間話に花が咲いたが、これも山奥の温泉巡りの一人旅の淋しさを癒してくれた忘れ難い一挿話でもある。

翌朝八時、そこを出発し湯西川へ向かったがこれからが種々の話題を生む事になった。それは行けども行けども山また山で、越す程に行くほどに反って山は深く、道もはっきりしなくなって来た、というのは幾歳かの落葉が積りつもって路を埋め人の通った跡もない。宮川がいうには「旦那これは道を間違えやした、先刻道標(みちしるべ)を見た時、湯西川行きの文字の棒杭が倒れかかっていたため間違えたのです。申し訳ありません。生憎地図を忘れて来たのでもしかすると今晩は野宿になるかもしれません」という。私も当惑したが後へ戻る事も出来ず、ママよ行く所まで行けと肚(はら)を決めた。暫くすると宮川はフト立止り、「ハハー熊が出やがった、この足跡は熊で、まあ相当大きい。二十貫以上ありやしょう」というので私は吃驚した。宮川に「君大丈夫か?」と訊くと、彼は「このナイフがありやすから(海軍ナイフ)大丈夫です」というので、私もやや胸を下した。「それじゃ用心のため肚を拵(こしら)えておこう」と道端の石へ腰かけ、弁当をつかい始めた。その辺一帯熊笹が繁茂しているので時々ガサガサと音がする。熊じゃないかと聞くと、「あれはこの辺に沢山いる山兎でガス」というので安心した。昼食後当てのない途をまた歩き出した。二、三時間後、急に喉が涸いて我慢が出来ないが山が高いため水がない。アノ山を越したらキットあるだろう。と、水を楽しみに山を越しても水の影もない。また見はるかす山を越しても駄目という訳で、四つか五つの山を越すうちにだんだん低くなって遂に道端に滴(したた)り落る山水を認めた。ヤレ嬉しやと思い切り呑んで渇きが医(い)えたので元気恢復し、歩き続けたその頃、ちょうど西山に夕陽が舂(うすづ)き始めると共に、四辺霧に蔽(おお)われた。その時は朝の八時から十時間、約十里を歩いたのである。その間、道を聞きたくも一人の人間にも遇わなかったのであるから、いかに人跡未踏の土地であるかが判る。今一息行って人に遇わなければ野宿と決心していたところ、幸い遥かの木々の間に藁屋根が見えた。ヤレ嬉しやとその小屋へ近づいてみると、一木樵(きこり)小屋で三、四人の荒くれ男がいた。事情を話すとそれなら今晩ここへ泊りなさいというが、どうも気味が悪くて泊る気にはなれないのでよく聞くと、「これから一里下ると○○村というのがある、そこは宿屋はないが村長の家に頼んだら泊めてくれるだろう」というのでその村へたどり着き村長に頼んだところ、「病人がいるので応じられない」と態よく謝られてしまった。村長は言葉をつぎ、「これから一里半行くと湯の花温泉というのがある」というのでヤレ有難いとくたびれ切った足を再び引ずり引ずり幸い月夜でもあったので、やっと湯の花温泉へついた。足の裏をみると一面豆で埋っている。それもその筈で都合十三里歩いたのである。しかしともかく一風呂浴び、生き返った心地になった。何しろ都会人なんかはほとんど来た事がないそうで、言葉もよく判らない。宮川の和訳でヤッと意志が通ずるという訳で、女中は座敷へ入ると立ったまんま話をするのである。「サイダーはないか?」と聞くと、「そんなものはシンネー」というのだから推して知るべきだ。膳が出たのでみれば、名も知れない数種の茸でほとんど箸が着けられないから、鶏卵を貰ってヤッと夕飯を済ましたという訳である。「汽車に一番近いところはどこだ?」と聞くと、「ここから二十三里ある、そこは会津若松だ」というのでガッカリした。「会津まで何で行くか?」と聞くと、「馬車がある」という。「では塩原まで何里か?」と聞くと、「十七里だが馬車がない」という。私は迷ったが最初の予定通り塩原行きに決め、翌朝になると、足の裏の豆の痛さで歩く事が出来ないから馬を頼み、馬上裕(ゆた)かにといいたいが、馬は初めてなのでヘナヘナ腰でともかく歩き始めた。ところが大きな馬蠅や虻が幾十匹となく群がり、馬は絶えず尻尾で追払うが、人間には尻尾がないから困った、というのは、靴下の上から刺すので掻くて仕方がない。一計を案じ、木の枝を折って足の廻りにつけたので、幾分効果はあったが今度は馬の背中へ群がって来るので、馬はハネようとする。私は扇子で引っきりなしに叩いては殺しつつ、ようやく六里の途を進みある小村へ着いた。これから道が登りになるから馬はここまでだというので、やむなく馬を返した。あんまり蠅や虻を叩いたので扇子は血だらけになってバラバラになってしまった。

それから途は登りになったが、有難い事には足の裏の豆が大分治ってどうやら歩けるようになった。一時間くらいで峠を越し、後は坦々たる山道である。夕暮近く戸数二、三十戸くらいの三依村という寒村に着いた。聞いてみると宿屋が一軒あるというので、そこを訪ね、「部屋はあるか?」と訊くと、「満員だ」というからガッカリしたが、野宿する訳にもゆかないからよく事情を語り頼んだところ、「それでは……」といい、蠶(かいこ)が散らばっている部屋を片づけて案内されやっとくたびれた足をさする事が出来た。私は「満員だというのに馬鹿に静かではないか」と質(き)くと、妻君らしいのが、「客席は一間で、一人のお客で満員になった」というので思わず吹き出した。全く便所みたいだ。おもしろい事には「お客様これから肴を採ってくるべえから」といって下男らしいのが出て行った。暫くすると、「カジカをとって来た」というので、見ると鯊(はぜ)のような魚で、早速煮てくれたが、なかなか味は良かった。客の顔をみてから溝川へ肴をとりにゆくという呑気さは山村なるかなと微笑を禁じ得なかった。

翌朝塩原へ行くべく昨日の経験から馬を頼んだ。おもしろいのは馬子がこの家の妻君であった。私は馬に乗りボツボツ歩き始めると、白馬で馬鹿に老馬らしいので、妻君に訊くと、果してよほどの老人じゃない老馬で、何だか危ないような気がした。それから一里ばかりゆくと左手が岩磐で、道巾は四尺くらい、右手は千仭(せんじん)の谷川があり一目見てゾッとした。妻君いわく。「これから少し行くと危ない所にかかるから馬に気を付けてくれ、馬が驚くと谷へ落ちる危険がある」という。私は驚いて「今まで落ちた者はあるか」と訊くと「三年ばかり前、馬諸共人間が二人落ちて全部死んだ」と言うので、これは大変と馬を降りて歩いた。一里ばかり行くと、二間幅くらいの道へ出たのでまた馬に乗ったが、数丁歩くと少し急な坂になり、そこを下りかかると馬は膝をついたかと思うと、私は一廻転し、もんどりうって道端へ転落し、腰をイヤという程打った。なる程これが道幅が狭かったらお仕舞いだったかも知れないと思って慄然とした。そこで「塩原まで後何里か?」と聞くと、「一里半だ」という。彼女は再び馬に乗る事を勧めたが、「約束だけの料金をやるから勘弁してくれ」といって馬を返し、一里半歩いて昼頃塩原へ着き、塩の湯の旅館で昼食をしたため帰京したのであったが、この旅行の中二度危ない事があった。一つは前記の馬の転んだ時で、この路の一方は数丈の岩壁の下が渓流であったからである。今一つは湯の花温泉へ行く時会津田代山を通ったのである。ところが宿屋で聞くと、田代山は時々熊が出るので、土地の人も恐れて容易には行かない所なので、私等の無謀に驚いたというわけで、知らぬ事とは言いながら、話を聞いて冷汗三斗という訳であった。

『アルプス紀行』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

今から二十数年以前私は登山熱の上っていた頃、日本アルプスの槍ケ嶽を目標にある年の八月半ば妻を連れ、汽車でまず信州松本に着き大町を通って中房温泉に行き着いた。おもしろい事には中房の一里くらい手前から妻は女の事とて山間(やまあい)の険路を登るのは無理だから人夫の肩を借りて行った。そういう専門の人夫があったからで、それは木の四角い箱に後向きに腰かけ、目の前に出ている棒がありそれに掴まるという訳で随分奇妙な恰好で吹出したくらいであった。今一つおもしろいのは大町から有明を経て山麓まで二、三里の道を人力車で行くが、それが綱引きが先頭に立って駈出すのである。その綱引たるや何ぞ知らん大きな犬である。

中房温泉はほとんど登山客ばかりでよく訊いてみると、槍へは婦女子では無理だというので妻を旅館に残し、私一人山の人夫を連れ単身登山すべく朝早く出発した。まず午前十時頃海抜五千尺の燕(つばくろ)岳の茶店に着いた。見渡す限り岩石の連山でその山襞(ひだ)に皚々(がいがい)千古の雪をたたえ、日に照り映ず景観は初めてみる素晴しさに絶讃どころか驚嘆したのである。それまで私は随分方々の山に登ったがアルプスとは比ぶべくもない。形容の言葉さえない。

それから道は漸次登りになり、常念、大天井岳を左に見、昼頃一軒の山小屋に着いた。そこで昼食をしたため登る程に行く程に道はいよいよ険を加え、通称喜作新道という途へ出た。その頃有名な喜作という山案内者が拵えた近道である。それ故か随分危ない所があった。ある個所などは右が直立した岩磐で左はと見ると眩暈のする程深い千仭(せんじん)の谷底で、道幅はまず一尺くらいとみればいい。それが九尺くらいの長さではあるが、私は暫く躊躇(ちゅうちょ)したが、ここを渡らなければ行けないというので今更引返すにはあまりに遠過ぎる。全く進退きわまるというのがこの時の事だ、と思いながら勇を鼓して渡り始めた。無論岩磐へ手を拡げたまま蝙蝠(こうもり)のようにピッタリクッツキ、そろりそろりと蟹の横這いをやってようやく通り過ぎた時は死線を超えたような気がした。若い学生などは帰りはどんなに遠くても二度と再び俺は通らんよ――というにみても想像されるであろう。それから山はいよいよ険しくなったが、私の目的である槍ケ岳は遥かの夕空にそびえている。今一息というので全身の力をこめ歯を喰いしばりながら薄闇こめた頃ようやく頂上の人となった。間もなく私は殺生小屋という山小屋へ着いた時はくたびれて死んだ様になってしまった。それもその筈で中房から槍の頂上まで十三里の行程であったのである。普通二日の行程のところを一日で登ったという訳で、その頃スポーツの宮様秩父宮でさえ二日かかったところであるからまず無茶といってもいいくらいだ。それから弁当を食い寝についたが八月の半(なかば)というに、あたり一面積雪で冷える事おびただしい。しかも地面から五寸くらいの高さの板敷である。丸太の上へ板を並べその上へ茣蓙(ござ)を敷きそこへ煎餅蒲団を敷き、その上へ一枚の薄い蒲団をかけたきりであるから寒くて眠るどころではない。もちろん火は焚き通したが何程の足しにもならず、そればかりではない四(よ)の蒲団くらいの大きさの蒲団へ三人寝るのだから大変である。私は真中で左右は学生であったが三人共眠れないため動くから余計眠れないという訳で全く苦行であった。一睡もしない中夜は明け放れた。窓の外が白々として来たので起床、朝の洗面に外へ出たが近くの岩石の間に粗末な洗面所があったが、何しろ一万尺以上の高山であるから水など一滴もない。雪を溶したその水で洗うのだからまず猫が顔を撫でるくらいと思えばいい。私は澄みきった朝の山気を心ゆくばかり吸いつつ遥か東天をみれば、今まさに雲間を出でんとする朝日の光に広々とした雲海の上遥かに浅間から木曽の山々の線がくっきりと浮び、遠く連山を圧して王者のごとき富士の偉容の何というすばらしさだ。私はその後富士の頂上でみた御来光よりもアルプスの方が勝(まさ)っていたと思えたのである。おもしろい事には宿帳を書いた時の事、みると二十歳台の者が大部分で三十歳台は稀で、私のような四十幾歳というのは一人もなかったので私もいささか誇りを感じたのであった。

朝飯を終るや二、三丁登ると槍の穂先という、その名のような切ったての十米(メートル)くらいで円筒状の岩石がそびえ立っている。私は頂天へ向かって三分の一くらいの高さまで這い登ったがそれから上はほとんど垂直で鎖がブラ下っている。それへつかまって登るのだが、何しろ寒いので手はカジカんでいるし、岩へかけている足がもし外れたらブラ下ってしまうという程、岩が直立よりもむしろ逆線を描いているといってもいい。聞いてみると昨年仙台高校の生徒が落ちて死んだという話で、とても登る気にはなれない。で諦めて引返したがまず登る人は五人に一人くらいしかない。それから昨日に引かえ今日は下りであるから大いに楽だ。ところがここでも死線に出合った、というのは一里ばかり下った時雪渓に出た。そこで雪面へ杖を立てては徐々に下って行くと、どうしたはずみか足を踏み外した。何しろ万年雪で下界の雪と違いすこぶる固く、急坂と来ているから滑り出すや漸次勢が増す。私は刹那に観念した。無論死である。ところが約二、三十秒滑ったかと思うと天いまだ吾を身捨てざるか、やや平地になってちょっとした岩があった。それへ足がつかえて止ったのである。その時の嬉しさは一生忘れる事の出来ない感激であった。いまだ少し雪渓が残っているので今度は慎重の上にも慎重にし、蟻の這うように足を運んだ。その時足下(もと)をみて驚いた事には積雪の所々に大きな亀裂がある。その亀裂を恐る恐るのぞき込むと何しろ何千何万年か前から積った雪で文字通りの万年雪であるから、その深さは想像もつかない程で底の方は真っ暗でみえない。万一その亀裂へ落ちたとしたら何十丈の雪下に永遠の眠りについた訳であると思うと慄然(りつぜん)時を久しゅうしたのである。

昼頃、槍沢の小屋へ着いて昼食をしたためやや下ると梓川のほとりに着いた。ところどころ川岸の彎曲した所に丸太一本をかけた橋がある。そこを渡るのだがこれがまた慣れない者には危ない事おびただしい。下をみれば川面(かわも)まで二、三間の距離があって急流が渦巻いている。私は仕方がなく丸太に跨(またが)り、両手で丸太を抱きつつ僅かづつ虫の這うように渡ったのである。そんな個所が四、五ケ所あったと思う。それがすむといよいよ憧れの上高地に出た。上高地は千古斧鉞(ふえつ)を入れざる大森林で、山気身に迫り、みた事もない木や草が繁っている状(さま)は全く人間界を遠く放れた別世界で、今にも白髪の仙人が忽然と現われて来そうな気がする。まずこのくらいの形容詞で想像がつくであろう。しかし今日はホテル等も出来、余程開けたらしいので私の行った時のような仙境気分は余程減殺されたであろう。ここで忘れたが、梓川の風致(ふうち)もまた捨て難いものがある。川のところどころに洲があり、それに緑さやかな柳が生い茂っていて遥かの空をみあぐれば赤土色の焼岳がゆるやかな線を画(えが)いている。

また左の空を眺むれば、徳本峠の後ろの方に遠くそびえている突兀(とっこつ)たる山がある。前穂高、奥穂高でアルプス中一番遭難者の多い事で有名な山である。ようやく清水屋こと一名五千尺温泉という宿屋に着いて、前日からのくたびれを医(いや)す事が出来た。温泉といっても鉱泉を沸したものである。翌朝早く梓川へ洗面に行ったが、氷のような冷たさで震え上った。しかしその水のうまさにもまた驚いた。恐らくこんなうまい水は生れて初めてだ。聞く所によると花崗岩を通過して流れて来るからという事である。それから徳本峠を越えて、途中山の工事用のトラックに乗せて貰い、黄昏(たそがれ)頃島々につき、筑摩鉄道から汽車に乗り再び中房に引返し、待っていた妻を伴い帰京したのであった。

 

 

『二人の盲の話』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

私が十二、三の頃浅草の千束町に住んでいた事がある。父は古道具屋をしていたのでその仲間であった、当時浅草一といわれた道具屋で花亀という人があった(この名は花川戸の亀さんだからである)。この人は六十位の時に両眼つぶれ完全な盲目となってしまった。その話を父からよく聞かされたので今でも覚えている。その話はこうである。

花亀が盲になったのは全く罰が当ったんだ、という事で、その訳は花亀が中年の頃当時静岡県の有名な某寺の住職が相当大仕掛で浅草の観音様の境内を借りて、開帳をした事がとんでもない運命となったのである。それは予期に反し非常な損をしたので帰山する事が出来ず、止むを得ず本尊の観世音菩薩の像を花亀に抵当とし金を借りてようやく帰る事が出来た。その後数ケ月経て金を拵え、約束通り花亀へ行って返金すると共に本尊の返還を求めた。すると花亀は「そんな覚えは全然ない、何かの間違いだろう」といってテンデ取り合わないので、住職は進退きわまり花亀を恨んだ末軒先で縊死したのである。もちろん花亀はその仏像を非常な高価で外人に売り、それから店も一段大きくなったという話である。右のごとくその住職の怨恨が祟って盲目者となったのはもちろんで、しかもその一人息子の跡取りが大酒呑みで数年の間にさしもの財産も飲み潰して家出をし行方不明になったという事である。その結果赤貧洗うがごとく、親戚等の援助で辛くも露命を繋いでおったような有様で、その頃よく老妻に手を曳かれ町を歩いている姿を私は度々みたのである。

今一つはやはり私の近所に渡辺銀次郎こと、経銀という表具師があった。これがまた六十歳頃から盲となった。ここへは私はよく遊びに行って可愛がられたものである。盲の原因としてはこういう訳がある。この経銀というのは表具師の名人でしかも贋物を作るのが特技であった。彼は某絵師と結托した。その絵師は古人は元より応挙、抱一、是真等の偽筆が巧みで私はよく遊びに行っては書く所をみたものである。その絵を経銀が古びをつけるがこれがまた彼の得意で、特に虫喰いなど本物としが思われない程で、私が遊びに行くとある部屋は締め切って誰も入れなかった。聞いてみると虫喰いを作るのを人に見せないためである。この様な訳で全く贋物で人の目を眩まし大儲けをした天罰と聞かされ私は子供心にも天罰の恐ろしさをつくづく知ったのである。

その後私が三十歳頃の事一人の女中を傭った。その女は年は十八、九でなかなかの美人であったが惜しいかな片一方の眼が潰れているので、前記の二つの例もあるし私は何かの罪と思ったのでよく聞いたところ、この女の父は明治初年頃ゴムで作ったニセ珊瑚が初めて日本に現われた事があったその時、このニセ玉を地方へ売り歩き大儲けをしたとの話で私はなる程と思った。この女の盲の原因というのは以前奉公をした家の坊ちゃんが、空気銃で冗談にうったのが当って片目が駄目になったとの話であった。

 

『映画』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

私が映画の好きな事は私を知る限りの人はみんな知っている。忘れもしない私が映画を観初めたのは十六、七の時だから、今から五十年位前でまず最古のファンといえよう。その頃が映画が日本へ入った最初であった。もちろん一巻物で波の動きや犬が駈け出す所、人間の動作等で、今から思えば実に幼稚極まるものであった。それでもみんな驚きの目を瞠(みは)ったもので今昔の感に堪えないものがある。そうして一番最初の劇映画はフランス物で船員が航海から帰宅し、家庭内で何か事件があったがそれは忘れてしまった。一巻物で単純なものであった。それらの映画は浅草公園の電気館という粗末な小屋でそれから間もなく説明者が出来たのが、有名な染井三郎である。

一方神田錦町に錦輝館というのがあったが、ここは相当立派な家で、まず大名屋敷の広間の様な建物で、演説会場等に当てられていたので、畳敷で観客は座ってみたのはもちろんである。そこで初めてみた写真はやはり仏画で「浮かれ閻魔」という題で、子供向のものだがなかなかおもしろく大当りしたのである。その時の弁士は駒田好洋といってすこぶる非常と言うのが味噌でそれで売り出したものである。その後神田に新声館というのが出来たがここへも私は度々行った。一方浅草では電気館の外に三友館、富士館、大勝館、帝国館、日本館等が次々に出来、市内にもボツボツ方々に出来て来た。

映画も初めは活動写真といった事は皆様御承知の通りだが、初めの一巻物から二巻物、三巻物と漸次長尺になり、初めの頃は鶏のマークが付いたフランスのパテー会社のものが占めていた。その頃当った写真はジゴマという悪漢映画で、主人公のジゴマが変装しながら逃走するという筋で、それが大いに受けた。またイタリア映画の喜劇でアンドリューという小さな男が敏捷に活躍する、それが非常におもしろく新馬鹿大将という題名さえ生れたのである。その後ドイツウーファー会社の「天馬」という映画が大当りした。

それから間もなく米国映画が入るようになったがこれはすこぶる大仕掛の点と、画面が鮮明で俳優の演技も力強く、大衆はほとんど米画に吸収されてしまったといってもいい。私なども同様であった。当時「名金」という映画は続篇もので大当りした。今でも観た人は随分あるようである。またその頃から西部劇が大いに流行したがもちろん続篇物で俳優としてはロローという日本人によく似た活劇専門のスターが人気の焦点となった。その後活劇物が下火になると同時に米画独特の喜劇が流行した、彼のチャップリン、ロイド、キートン等の映画はその頃大いに歓迎されたものである。

米画の影響を受けて仏、独、伊の欧州ものは影を潜めてしまった。イタリア映画の長巻物も一時は相当来たがこれも圧迫されて米画がほとんど独占してしまった。当時の会社はパラマウント、フォックス、メトロゴールドウィン、ユニバーサル等でそれぞれの特色を発揮していたが今でも忘れられないのは、ユニバーサル映画に「ブリュー・バード」という特作物があったが、これは特筆する必要がある。それまで映画といえば興味本位でケレンに満ちた他愛ない物であったが、これはまたいささかのケレンもなく真実そのままで何かしら胸に喰い入るものがある。ちょうど十八世紀頃ヨーロッバの小説という小説はお芝居から放れなかった風潮に対し、彼のイプセンが深刻な心理描写の小説をかいて一新生面を拓(ひら)いた。それと同じようである。故にその頃「ブリュー・バード」映画といえば映画通の観るものとして識者は大いに歓迎した事はもちろんである。その影響によってそれまでケレンたっぷりの米画も骨のある深味のある傾向となったのである。

当時有名な監督ですこぶる大仕掛の映画を得意としたグリフィスは今でも忘れ難いものである。彼の作った「人類の歴史」という映画は内容も深く感激の作品であった。また全世界を唸らした稀世の美男バレンチノは忘れ得ないものがあった、といっても演技ではない彼の美貌である。私が最後に観たのは「血と砂」というカルメンを作りかえたものであった。実に男がみても惚れぼれするくらいで恐らく彼程の美男は今後といえども出ないであろう。当時全世界の女性の憧れの的となったのも無理はないが、惜しいかな天は美を与えて寿を与えなかった事である。

特異の芸風としてダグラス・フェアバンクスも一時は世界的人気を背負ったものである。

以上は無声映画時代の私の記憶をたどってかいたものであるが、大正八年私は大本教信者となった頃から信仰の影響からもあり、およそ十年くらいの間映画をみなかったが、ちょうどその頃トーキー映画が出来たのである。

以上は外面についてのみかいたが、実はそれまでの日本映画はみる価値がなかったのである。そうしてトーキーが生れてから、それまでなくてならない存在であった弁士も失業のやむなきに至った事は誰知らぬ者はない。弁士の中で今も記憶に残っているのは染井三郎、瀧田天範、石井天風、生駒雷遊、谷天郎等で、今現在活躍している人には古川緑波、徳川夢声、大辻司郎、松井翠声、井口静波等がある。

前述のごとくで私は大本教を脱退する頃からまた映画を見始めた。元来私は映画が非常に好きであったから、俄然として映画熱は再燃し始めたのである。それから引続き今日までも出来るだけみる事にしている。

前述のごとく十年の空白を過ぎてから最初にみた映画は「大阪夏の陣」という題名で今の長谷川一夫、当時林長二郎が坂崎出羽守に扮したがこの時は全く驚嘆した。暫く遠ざがっているうちにこれほど邦画が進歩したとは夢にも思わなかった。その時を契機として私は邦画ファンになった事はもちろんである。それ以後みた邦画の中で記憶に残っているものは丹下左膳、大菩薩峠、戦国群盗伝、鶴八鶴次郎、松井須磨子、銀嶺の果等である。

私は近頃の米画からはどうも以前のような感激が感じられない。というのは筋に家庭物が多く、以前のような大仕掛なものや優秀な喜劇がないからである。事実家庭劇は言葉が判らないため複雑した事件などはテンデ判らない。おもしろくないのはそのためでもあろう。その原因としてはトーキーが出来たからで、無声映画のような動きでみせる必要がなくなったからでもあろう。米画で今も忘れ得ないものはハリケーン、シカゴ、大平原等の映画である。数は少ないが近頃の英国にはなかなかみるべきものがあるが、仏画はほとんど恋愛物ばかりで、私はあまり魅力を感じないがこれも年のせいかとも思う。

ところが終戦当時はそうでもなかったが、最近出来る邦画にはなかなか良い物がある。また撮影技術やその他全般的に進歩した事は争えない。しかしいまだ難点も相当ある。例えばトーキーはもちろん大きな欠点は筋にケレンの交じる事である。折角画面の展開によって息も継げない程興味が沸いてくると、馬鹿馬鹿しいあり得べからざる場面が出るので、それまでの興味は一ぺんに吹飛んでしまう。この点映画人は大いに関心を持つべきであえて苦言を呈する。ただ賞めていいのは近頃の俳優の演技である。これは大いに向上した事は認めていい。もっとも以前と違いクローズアップの多くなった事にもよるのであろう。最後に邦画に求めたいものは大仕掛けのものと天然色とでこれは一日も早く実現せん事である。