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『音曲』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

音曲(おんぎょく)についても少し書いてみよう。音曲といえば以前大阪では浄瑠璃といい東京では義太夫という、それが王座を占めていた事は衆知の事で、忘れもしない大正の初め頃彼の有名な豊竹呂昇が大阪から毎月のように来ては、その頃の有楽座の名人会へ出たが彼〔女〕こそ全く名人の名を恥しめないといえよう。私は元来義太夫はあまり好きではなかったが呂昇のみはどうしても聴かずにはいられないのでその都度有楽座に聴きに行ったものである。実に彼女の美音といい節廻しといい何とも言えない良さで、もちろん艶物(つやもの)が得意であった。彼女ほどの名人は恐らく今後も出でないであろう。彼女の刺戟によって私も義太夫を習いたくなり某師匠について稽古を始め一ケ年くらい通った事がある。それが関東大震災が動機となってやめてしまった。それから間もなく彼女は夭折したが洵(まこと)に惜しいものであった。

その頃東京の寄席などにかかっていた女義(じょぎ)昇菊、昇之助も時々聴きに行った事があった。男義(だんぎ)では朝太夫という艶語りがあったが、私は好きで度々聴きに行ったものである。関西から伊達太夫、南部太夫が時々東京へ出て来た折二、三度聞いた事がある。

近来、筑前琵琶はほとんど廃(すた)れてしまったが以前は仲々人気があった。どうも名人が出なくなると寂れるのは何事にも共通しているようだ。相撲なども非常に強い双葉山のごときが出ると相撲道が隆盛になるとはよく言われるが全くその通りである。大正時代筑前琵琶の名手としては博多の女琵琶師高野旭嵐であった。彼女はまず名人に数えらるべきであろう。従って、彼女のレコードの売れ高は相当な数に上ったであろう。また男では今の映画スター高峰三枝子君の父君である高峰筑風で、独特の節を作り美声とあいまって名声を博したものである。その次としては豊田旭穣であった。薩摩琵琶では今の錦穣の父君〔ママ〕である永田錦心は随分鳴らしたものである。しかし私は筑前琵琶の方が好きであった。

そうして今日の時代としての音曲の司(つかさ)は何といっても長唄であろう。長唄も以前は劇のお囃子(はやし)専門であった。その頃の名人としては芳村伊十郎であろう。彼が広い歌舞伎の場内隅々までも通る力強い美声は今も忘れ難いものがある。ところが現在の四代目吉住小三郎師が出て、稀音家(きねや)浄観の絲(いと)とあいまって、劇以外の演奏会形式のものにしたばかりか、研精会を作り長唄をして今日の隆盛ならしめたその功績は蓋(けだ)し斯道(しどう)の恩人と言えよう。

その他のもので私の記憶に残っているものでは常磐津の林中、清元の延寿大夫がある。新内(しんない)は特に私の好きなもので若い頃どちらも盲目で女では若辰、男では紫朝、別に加賀太夫等も名人とまではゆかないが相当聴かれたものである。その後ラジオが出来てからは岡本文弥、加賀寿々等も相当良いが何といっても私は柳家三亀松の新内が一番好きである。彼は新内の名人といっても決して過言ではあるまい。

次に音曲ではないが講談落語の事をかくのも無駄ではあるまい。私は若い頃どちらも随分聴いたものだが私が好んで聴いたものでは旧(ふる)い所では先代蘆洲、同伯山、同貞吉、松林、伯知、伯円、典山、如燕、邑井一(むらいはじめ)、若燕、燕林等であろう。ところがさのみ有名ではなかったが当時坊主頭の南窓という人があったがまず名人に近かった。この人の太閤記は天下一品で私は二十日間ブッ通しで聴きに行った事がある。また森林黒猿という――これは素人から成った講談師であるが、南窓と同じく名人に近かった。ラジオが出来てからの人では二代目伯山、伯鶴、貞山はまず名人に近いといえよう。この間死んだ伯龍、ろ山もなかなか巧かった。三代目貞山、貞鏡、貞丈等も相当巧いがこれは将来を期待する。以上によってみても講談の衰微は実にはなはだしいものでこのまま行ったら将来楽観し難いとさえ危ぶまれるのである。

次に落語については古い所では円遊、円生、志ん生、左楽、小勝、小円遊、小三治、円蔵、金語楼、先代小さん、三語楼、つばめ、馬楽等で人情噺としては円朝、円喬、円右等でこの三人は名人に近かった。ところが当時怪談噺が得意であった燕枝という落語家があったがこの人の芸は名人の中に入れてもいいと思った。そうして今の落語家で是非名人に入れたいと思う人がある。それは彼の金語楼である。金語楼は今まで聴いた落語家の中第一人者と私は思うが惜しいかな彼は劇団人となったので、彼の名落語は聞く由もない。現在ラジオに出現する落語家の中では古い人では柳橋、正蔵、金馬、権太楼、円(まどか)、桃太郎、文治、円馬、右女助等があるが、若手にもなかなか有望なものがある。志ん生、歌笑、柳好、円生、痴楽等も将来期待はかけられる。

その他漫才にも名人はあった。死んだミス・ワカナなどはたしかに名人であった。漫談家としてはまず大辻司郎を挙げていいであろう。

 

『浪花亭愛造』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

俳優以外の名人について語りたい人は二、三に止まらないが私は若い時から浪曲が非常に好きであったからここに書いてみよう。私の浪曲好きは関東節に限るので、今もって関西節に興味は持てない。従って、関東節を主としてかくのである。

ラジオが出来てから浪曲という名称になったが、以前は浪花節と言った事は古い人は知っているであろう。浪曲を語るについて今日まで名人といわるるものは、関東節では初代浪花亭愛造、関西節では桃中軒雲右衛門である事は誰も否めないところであろう。この二名人を除いて次に挙げるものとしては、関東節では鼈甲斎(べっこうさい)虎丸、広沢虎造、関西節では吉田奈良丸、天中軒雲月であろう。

そうして愛造は塩原多助、慶安太平記の安宅強右衛門、雲右衛門は義士伝、虎丸は坂崎出羽守、虎造は清水次郎長と森の石松、奈良丸は大高源吾、雲月は母と子の哀話等が得意の語り物であった。

浪曲界も段々淋しくなるようだ。重友逝き友衛は衰え、楽燕は引退するという。米若も往年の元気なく、鶯童、梅鶯、武蔵等の芸は未だしの感あり、今僅かに気を上げているのは虎造の外勝太郎、若衛、浦太郎、綾太郎くらいであろう。

団十郎と同じく、浪曲界においても愛造に匹敵する名人の出でん事を望むや切なりである。

浪花亭愛造は私が二十歳頃であるから今から四、五十年くらい前の人であったが、彼の節はもちろん声量も素晴しいものであった。その美声たるや、他の浪花節以外の芸人の声でも匹儔(ひっちゅう)するものはなかった。私は彼の声を聞く度に、人間の喉から出る声とは思われない程であった。当時彼は芝の栄寿亭という寄席を本拠として出演し、いつも満員の盛況であった。おもしろい事には雲右衛門が東京において師匠である浪花亭繁吉からある品行上の事から破門され大阪へ行き、次いで九州へ赴き、関西節と琵琶節とを調和させた独特の節を作り、それをもって東京に出て愛造の芸と競おうとした。そこで彼は芝の八方亭という席に陣取り愛造と大いに戦ったが、どうしても愛造には敵わないので彼はついに東京を諦め、大阪において旗上げをしたのであった。しかるに惜しいかな愛造は三十台で早逝したのである。愛造なき後ようやく東京に出た雲右衛門はついにあれ程の人気を博し一時は天下を風靡した事はいまだ記憶に新たなところである。しかしながら雲右衛門は技芸の傑出したのみならず技芸以外の興行的手腕も優れていた。それまで寄席に限られていた浪曲が劇場の舞台に上せた事、また舞台の装飾三味線引(今は曲師)を蔭に隠した事等、いずれも彼の創案である。

そうして今私の記憶に残っているものに浪花亭駒吉、峰吉、先代勝太郎、東家三叟、楽遊等がある。

 

『団十郎の芸』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

昔から世の中には多くの名人が出ているが名人になるには実に容易なものではない事は名人なるものが洵(まこと)に少ないという事実によっても明らかであろう。私は常にこう思っている。ある意味において名人が人類に対する功績はすこぶる大きなものがあり、全く吾々は名人に感謝すべきであると思う。そうして名人とは天才が努力の結果なるのであって、凡才の努力の結果が上手となるのであろう。しかしいか程名人であっても昔の人は知る由もないから、私は今日まで実際見聞した名人を順次書いてみようと思う。

私が今も忘れ難い名人としては、劇壇では九代目団十郎であろう。彼が名人である事はあまりにも有名で、今更私が云々するまでもないが、ここではただ私としての見たままの感想を書くのである。忘れもしない私が二十歳前後の頃であった。団十郎としての最も円熟した時代であったろう。私が多く観たのは彼の御家芸である歌舞伎十八番物のみであったといってもよい。彼は恐らく晩年は中幕(なかまく)以外はあまり出ないようであった。彼の名人としての特徴は他の俳優の芸とはあまりにも異(ちが)う点で、舞台に表われた場合実に動かない。よく彼の芸を評して腹芸師というが全くそうである。ほとんど動きがなく芸らしい芸をやらない。それでいて観客を魅了する事百パーセントというのであるから彼は全く名人である。また彼ぐらい舞台を引締める俳優はないと言われているが、これらもその通りで彼の舞台について私は今日なお記憶に残っている二、三の印象をかいてみよう。

彼は好んで英雄や偉人に扮する事で、これも彼の性格の表われであろう。そうして私が見た狂言の中で忘れ難いものは、勧進帳の弁慶、「酒井の太鼓」の酒井左衛門尉、菊畑の鬼一法眼、紅葉狩の鬼女、地震加藤、為朝、水戸黄門、毛剃九右衛門等々である。その中でも酒井左衛門尉に扮した時などは敵の大軍が城外にひしひしと押寄せ危うい真只中にありながら、彼自ら太鼓を打つのであるが、その太鼓の音のいささかも乱れざる事と、城門を開いて明々と灯火を点けなんら平常と変りない状態をみて、敵将はなんらか深い計略あるに違いないと思い、ついに退却するのである、左衛門尉は右のごとき大胆な計略の下に泰然として時を待つというその場面であるが、それを知らない家来の頻々(ひんぴん)たる危機の迫れる注進を聞いても眉一つ動かさず、ただ黙々として時の推移を待つという訳である。彼は舞台の真正面に唯一人端座瞑目(たんざめいもく)し、やや下を向いていささかの動きも見せない。故に最後に到っては家来の注進もなく、彼一人生ける人間と思えざるまでに静まりかえっておよそ四、五分に及んだであろう。その不動の沈黙者を観客は固唾(かたず)を呑んで観ている、左衛門尉がいかなる事を為すやと次の行動を憶測なしつつ魅了されてしまったのである。その時私はつくづく思った。歌舞伎のごとき大きな舞台の真只中に一個の俳優が端座し、一頻〔顰〕一笑の動きもなく一言の声も発せずして、かくも観客を魅了するという事は、全く技芸の極致である。実に名人なるかなとつくづく感歎したのであった。また菊畑の場面において鬼一法眼に扮した彼は、当時平家の軍略家として優遇されつつあるに拘わらず、胸中深く源氏の再興を念願していた。たまたま牛若丸が鬼一法眼が所蔵せる六韜三略(りくとうさんりゃく)の巻を奪い、源氏再興を画(はか)るべく虎蔵と偽名し、自己の家来智恵内と共に下部として住込んだのである。しかるに鬼一法眼の息女皆鶴姫は牛若丸の虎蔵に恋慕したのを、法眼は胸中窃(ひそ)かに喜んだのはもちろん、虎蔵に三略の巻を皆鶴姫の手によって宝蔵から盗み出させたのである。法眼は内心満足しつつも己が平家方に属している以上悟られまいとし、皆鶴姫の虎蔵に対する好意を見て見ぬ振りをするという腹芸であるが、その時の彼の演技の好さは何とも言えなかった。また水戸黄門が彼の藤井紋太夫の希望によって手討にするという場面であるが、紋太夫を一刀の下に切捨て、刀を拭(ぬぐ)い鞘に納めるや、紋太夫の屍を見ようともせず、龍神の舞の謡曲を音吐(おんと)朗々と歌いながら、悠然として高欄の続ける縁側を静かに歩みながら引込むというその呼吸は息詰る程で、廻舞台とあいまって今でも忘れられない感激であった。また為朝の舞台で、彼為朝は危難迫れる我子を逃(の)がすべく、大凧に身体を結びつけて空高く上昇させ綱を切って放すのであるが、遥かの空を見つめつつ泰然たるその時の彼の表情は無類であった。親子の情が無表情の面に沸(たぎ)っている。全く腹芸である。彼の不思議な迫力と観客を魅了し尽すその演技は到底筆や言葉では表わせないのである。当時聞く所によれば彼が演技中観客が拍手喝采する場面があると、翌日はそれを変えてしまうという事である。察するに彼の演技の目標は大衆ではなく、一人の識者にあるのであろう。私は団十郎歿後歌舞伎劇に興味をもてなくなってしまった。それは団十郎の芸を観た眼には他の俳優のあまりに見劣りがするからで、そのため歌舞伎劇に愛着を持てなくなった私の淋しさは今日もなお続いている。しかしながら団十郎歿後の名人といえばまず中村雁次郎であろう。彼の演技の中で「紙屋治兵衛」と「藤十郎の恋」だけは今もって忘れ難いものである。ここで私は歌舞伎に対してなぜ興味を失ったかを率直に言えば、根本において精神的方面の欠如にあるのではないかと思う。一言にして言えば形のみで見せようとし見物に媚びたがる。それが芸のレベルを低くするからであろう。今日の俳優ことごとくといいたい程芸をし過ぎ動き過ぎる。ところが団十郎は形を無視しどこまでも心で見せようとする。それが最高にまで芸のレベルを上げるのである。また別の面から観る時、傑出した人物を描き出す場合その人物そのものになりきってしまう。特に昔の日本人は喜怒哀楽を表わさない事を本意とする以上無表情が本当であろう。従って、彼の描き出す人物それ自体俳優の扮装とは思われない。その時代における英雄豪傑の再生を思わしむるものがある。私は彼くらいの名人が一生の中に今一人表わるる事を冀(ねが)ってやまないものである。

ついでに女優として名人の中へ入れてもいいと思う一人をかいてみよう。それは彼の有名な松井須磨子である。私は彼女の売出した初舞台であるイプセン劇「人形の家」のノラに扮した時である、まだうら若い女優として、その優れた演技には驚歎の目を瞠(みは)ったのである。それ以来彼女の舞台は見逃す事が出来なくなってしまった。そうして最後に観た彼女の舞台は中村吉蔵氏作「肉屋の女房」と「カルメン」の二つの狂言であったが「肉屋の女房」は亭主の嫉妬のため、カルメンはホセのためどちらも殺害される筋であったのも不思議と言えば不思議である。私が見た日から二日目に彼女は自殺したのであったが、何ものかを思わせられるような気がした。しかしながら死の二日前の舞台に立っていささかの破綻も見せなかった彼女は、俳優としての心掛によるものと感心したのである。俳優以外の名人についても語りたいが、あまり長くなるからこの項を終る事にする。

 

『強盗の訴え』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

私は強盗の訴えをされた事があった――と聞いたら吃驚しない者はあるまい。ところが事実であって、忘れもしない大正八年の暮のある日、私は検事局へ喚び出されたがそれはこういう訳だ。

私が小間物屋で成功した絶頂の時であった。その頃私は旭ダイヤという名称の装身具を発明し、専売特許を得た。しかも全世界の特許法の制定されてる国、その頃(大正八年)世界に十ケ国あった。その十ケ国全部の特許権を獲得したのである。ところがそれを売出すや非常に好評を拍し、素晴しくよく売れた。それがために発生したのが、標題のごとき強盗事件であった。右の旭ダイヤを発明するについて私は職人ではないから、林某という職人に一々指図をしては拵え直したりして、ついに完成したものである。そのため林某を工場主として、相当大きい家を借受け、工場となし彼に経営させたのである。一時は女工数十人を使用し相当繁盛したので林もかなりの資産を造ったので、本来なれば私のおかげでそうなったのであるから、大いに感謝しなければならないに拘わらず、彼は欲のため眼がくらみ不届きにも私に対し、特許権の名義書替えを提訴したのである。その理由は「旭ダイヤは自分が発明したのであって、それを岡田が自分の承諾なく、勝手に岡田の名義にしたのであるから不当である」というのである。しかしもしそれが事実とすれば私の名義になって間もなく提訴すべきであるに拘わらず、二年くらい経てから突如として提訴したのだから、欲のために不当利得を目的とした事は明らかである。そこで私は工場倉庫に多額の資材を預けてあったから、そういう悪い奴は横領の危険があるばかりか、そういう奴に一日として製造を委任する事は出来ないという訳で告訴状が来た日のその晩、自動車をもって工場から店員数人で在庫中の資材全部を運んだのである(その時私は不在であった)。

すると林は翌日その管轄の警察へ告訴し私は喚び出されたので、今までの経緯を話したところ、主任は諒解し大笑いとなって済んだのである。そこで彼は警察では駄目だからというので、検事局へ向かって強盗の告訴を提起したという訳である。早速喚出されたので逐一訳を話したところ、検事もよく諒解したが、検事が云うには「無論強盗などにはならないがあるいは家宅侵入にはなるかもしれない。しかしその裁判が決定するまでには度々公判を開き、その都度喚び出されるからはなはだ迷惑と思う。よって、今謝罪状をかきなさい、そうすればそれで解決するよう取計うから」というので私は共通りにして済んだが、その時つくづく思った事は法律とは変なものだ、自分名義で借り、自分経営の工場へ自分の品物をとりに行って家宅侵入になるというのだがら、実に訳が判らないものだと思った。

その後ある人に右の話をしたところ、その人は「自分は殺人の嫌疑で喚出された事がある、それはある殺害された者をその数時間前訪問し、名刺を置いてあったため嫌疑がかかった」との事である。

『逆手の法』

自観叢書第5篇、昭和24(1949)年8月30日発行

およそ人間が世に処して行く以上、千差万別種々の問題にブツかるが、その場合適切な対応策が立ち所に頭に浮ぶとすればはなはだ結構であるが、中々そうはゆかないものである。問題によってはいくら考慮しても解決策の発見出来ない事がある。そういう時にこの逆手の法を考えるべきである。その結果非常に好結果を奏する事がある。私はこの逆手の法をよく用いて効果を挙げるのである。しからばこの逆手の法とはいかなるものであるか、一、二の例を挙げてみよう。

ある良家の今嬢が私の所へ相談に来た。いわく「父は母に隠れて某未亡人と不純関係に陥っているが、母はもちろん外の者も知らない。私だけ知っているので、到底黙視する事が出来ない。母や兄に打明けて一日も早く解決したいと思う。そのような訳で、私としても父の右の行為に対し、出来るだけ妨害した方がよいと思うがいかが」との事であった。私はこれは非常に難しい問題だと思ったから逆手の法を教えた。それは絶対に父の秘密を漏らしてはいけないと共に、妨害などももちろんしてはいけない、むしろ見て見ぬ振りをする事で、そうする事によってお父さんはあなたに好感を持つようになるから、そうしておいて第二段の策を考えればよい。また特に男女関係などは妨害があればある程、反って熱度を増すものであり、秘密が暴露すれば自暴自棄となり、いかなる不幸な結果を来すやも知れない事等よく話したので、令嬢も私の言う通りにしたのであった。するとその後予想外に早く良好の結果を得られたとの事で、私のところへ喜びを包みつつ令嬢は礼に来たのである。

彼の有名な四条派の泰斗(たいと)丸山応挙についての有名な話であるが、応挙はある日京都の知合の某料亭に行った。ところがその家の中は何となく平常と異なり、亭主はすこぶる心配気なので質(たず)ねたところいわく、近頃段々稼業が不振になり立ち行き兼ねるため、閉店の相談中であるとの話。そこで応挙は「よろしい俺に考えがある」と言って立ち帰り、間もなくすこぶる見事な女の幽霊の絵を描き上げ持って来て、早速表具をし床の間へ掛けさしたのである。亭主は驚いて「この際、営業挽回のためなら、陽気な芽出度い画でも描いてくれそうなものだが、これはあまりにもひどい」というと、応挙は「マーマー黙って結果を見ろ」と言った。ところが果して応挙の言う通り、その幽霊の絵が洛中の評判となり、以前にも増して繁昌したとの事である。物事は陽極まれば陰に変じ、陰極まれば陽に転ずるという理を応挙は知って、右のごとく逆手を打ったものであろう。

また世の中の種々な事を観察する場合、大方の問題は行きつく所まで行かなければ解決がつかないものである。それを大抵の場合中途で押え元へ戻そうとする。それがため反って解決が遅れるという事がよくある。