アーカイブ

『結論』  

「世界救世教奇蹟集」昭和28 (1953)年9月10日発行

私は以上の如く百二十に上る色々な奇蹟の実例〔略〕を載せたが、これを見たら如何なる人でも驚異の眼を瞠(みは)らない訳にはゆくまい。一言にしていえば、これこそ最高神威の表現であり、空前の救世的福音である。成程小奇蹟は昔からその時代時代の宗教によって示されている事は文献等によっても明らかであるが、これ程超奇蹟が数多く、然も普通人でも短時日の修得によってその力を与えらるるとしたら、この事自体が己(すで)に大なる奇蹟である。即ち凡人であり乍らキリストと同様の奇蹟を顕わし得たり、何等医学の素養のない者でも、医学博士以上の治病力を発揮出来るとしたら、到底真実とは思えないであろう。只私が憂慮する点は私という人間を通じて行われる以上、余りの不可解さに反って一種の疑問が起り、躊躇逡巡する人もなきにしも非ずと思うからである。

次にこの著を読んだ人々が、最も知りたいと思う事は私という人間の本体であろう。私と難もこれを詳しく知らしたいのは山々だが、時期尚早の為今暫くは発表出来ないのが遺憾である。そうして特に言わねばならない事は、客観的にみてこれ程偉大な神力を発揮されるとしたら、救世主以外にない事は推察されるであろう。これに就いては昔から俺は救世主也と自分自身そう思うのかも知れないが、堂々と名乗りを挙げた者も幾人かはあったが、何れも一時的でいつしか消えてしまったのは知る人は知っているであろう。然もキリストの予言にもある通り、後世偽キリストが現われるから注意せよとの警告さえあった程で、今日では最早それに惑わされる者は一人もあるまいから今更自分は救世主などと言ったところで仕方がないであろう。

然も文化の進歩した今日智性の発達した現代人に向っては、只嘲笑を買うのみに過ぎまい。併し乍ら厳乎たる事実を見せられるとしたら、何人と雖も信じない訳にはゆくまいし、私が現わす奇蹟そのものは、如何に冷静に見てもメシヤ的価値は充分認め得る筈である。この意味に於て私を以て救世主又は再臨のキリスト、下生〔の〕弥勒としても敢えて不思議はないと思うが、それはその人の自由に委せるとしても、最後に至れば万人に分る筈である。それは世界人類は私の救いによって真の幸福を得られ欣喜雀躍は勿論、既成文明は百八十度の転換となり、病貧争絶無の地上天国は愈々出現の順序となるからである。

(世界救世教教主岡田茂吉)

(『世界救世教奇蹟集』了)

 

 

 

 

御教え『医は果して仁術か』

「世界救世教奇蹟集」昭和28(1953)年9月10日発行

昔から医は仁術と日われているが、これは医学の根本を知らなかった為、止むを得なかったが、それこそ反対の考え方である。これを分らせたい為吾々は随分骨折っているのであって左の御蔭話を見れば、霊界から霊がいうので間違いではない事がよく分る。これによってみても仁術どころか寧ろ恐るべき逆行為である事である。これに就いて思い出されるのは、医師の子孫には不幸不運の人の余りに多い事を以前からよく聞くのである。従ってこの事を医師諸君が知ったなら、悲観せずにはおれないであろう。つまり医業とは多くの人を不幸にし、自分も不幸になるのであるとしたら、斯んな割に合わない話はあるまい。これを救うのが我救世教であるから、医師諸君はこの事を知って大いに考えてみて貰いたいのである。

 

御蔭話 島根県Y.M.(昭和二八年二月二七日)

明主様

昭和二四年三一月一三目入信以来、明主様の厚き御守護によりましてこの濁世にありながら何の不安もなく、毎日を楽しく明るく過させて頂いて居りますことを衷心より感謝申し上げて居ります。

本当に罪多い私ではございますが、日々頂きます御守護の世界救世教奇蹟集中から二、三拙筆をも省みませず御報告させて頂きます。

私結婚後間もなく主人が満一年七カ月と、生後四ヵ月の二人の男の子と、八〇歳になる祖母を残して結核にて昭和二四年二月に亡くなりましてより、身体の弱い子を心配しつつ貧と争に悩みながら淋しく暮して居りましたが、市から戴く扶助料では乳の無い子をかかえてどうしてもやって行けず、その年の八月実家の母に来て貰い勤めに出る事に致しましたが、弱い子供はかわるがわる発熱下痢等にて病院へ連れて行かねばなりませんので、勤め先は始終遅刻、或は早退をしなければならず、その辛かった事何に譬え様もありませんでした。そうしている内に一一月実家の兄よりこの尊い神様の御話を聞き、やはり何かに頼らねばならないからというので三月一人日のE町支部の月例祭にお参りさせて頂きました。丁度その頃下の子供が中耳炎をしていましたので早速I会長先生より御浄霊を頂きました。ところがそれまで膿がじくじく出ていましたのが翌日からはピッタリ止ってしまいました。これは不思議と思い二、三日通わせて頂き、S支部長先生より御浄霊を頂きすっかりなおして頂きました。それでこれは不思議だ、有難いと思い兎に角入信させて頂こうと一二月一三日支部にてS先生より教修を頂き有難い御守様を拝受させて頂きました。これよりは子供も病院通い等一切止め唯御浄霊一筋にて参りました。御蔭様にて度々御浄化を頂き乍ら、その都度元気にさせて頂き、その頃は子供の検査に連れて出てもいつも栄養失調と言われていた二人の子供はすっかり元気にさして頂き、毎日いたずらをして遊んで居り、私も安心して勤めに出させて頂いて居ります。これも明主様の御守護のお蔭と感謝申し上げて居ります。

ところが罪多い私には未だ未だ試練がやって参りました。それは二四年の末項から家を出てくれと家主より矢の催促です。この家の不自由な時代にどうして替る家がありましょう。おまけに子供連れは嫌われます。仕方がありませんのでとうとう実家の一間を借り受けて住む事になり現在の所へ移りました。兄も熱心に信仰させて頂き、御神体、御尊影、御屏風観音様を御奉斎させて頂いて居ります。私も一日も早く御奉斎させて頂きたく思い乍ら未だお許しが頂けず、御神体は御奉斎させて頂いて居りませんが、御屏風観音様は一昨年五月御奉斎させて頂き、毎日御讃歌、御論文を拝読させて頂いて居ります。処が明主様の御教えの如く御屏風観音様を御奉斎させて頂き、毎日御論文等を読ませて頂く事によって如何に霊界にて先祖の霊が早く救われるかという事を覚らせて頂きました。

その一つは昨年五月、私に憑霊現象がありまして生死不明であった主人の生母が憑り「自分は二〇年余り前朝鮮にて自殺し、その罪と元看護婦をして居た罪とによって地獄に落ちて苦しんで居たが、光明如来様に救われて今は天国に上り、又私の主人ももういい所へ行って皆楽しく暮して居る。これも貴女が信仰するお蔭だ」と大変よろこび「御恩返しをしなければ」と言って居りました。

その二は九月初め、仏前にて御神書『霊界叢談』を拝読させて頂いて居りますと急に頭から肩の方が重くなった様な感が致しそれが二、三日続きました。兄より御浄霊を受けさせて頂きますと、はたして憑霊現象あり、主人の祖父が出て参りました。それによりますと「自分は今地獄に居る。この人(私)がこの信仰に入って毎日拝んでくれるけど何糞と思って居た処が、この間から霊界叢談を読むのでわしの気持も変って来た。初めはあんな事を言ってと思って居たが、だんだん聞いて居るうちに成程わしが悪かった。これではいけない。これからぅんと聞いて一心に修行し、よくなろうと思っている。処がわしは今地獄の一番下の方に居るのでなかなか上れないが、その中きっといい所へ出させて買えるだろう。わしが地獄に居るのは昔医者をして居たからなッ、それでだよ。わしはそんな積りじゃなかったが仕方がない。やはり医者は駄目だ」とその後いろいろの事を言い「最後にこれからわしも一心におすがりするから毎日よく拝んでくれ、わしの願いはそれだけだ」と言って居りました。これによりましても医は仁術なりと言って人助けをしていい様に思って居ましたのに、霊界に行けば豈計らんや罪作りにて地獄行きとは……

次にこの罪多い私も永い間の念願が叶い、この度明主様の御西下に際し御面会のお許しを頂きました事を深く感謝致して居りますが、その時頂きました御守護も御報告させて頂きます。

それは今の祖父の憑霊より少し以前から頭が重く延髄後頭部が一日五、六回宛浄化し脳天は締め付ける様な感が致して居りましたが、御面会によりましてすっかりなおして頂きました。これによりまして明王様の御霊光が如何にお強く、御面会させて頂く事によってますます浄められ、御面会させて頂く事の如何に大切な事かという事も覚らせて頂きました。

明主様本当に有難うございました。厚く厚く御礼申し上げ今日の御報告を終らせて頂きます。

御教え『発疹チフスに就いて』

「世界救世教奇蹟集」昭和28(1953)年9月10日発行

毎年発疹チフスによる当局の予防施設や、国民の不安は砂なからぬものがあるのは、衆知の事実である。ところが幸いにも、左記の体験による報告があったので載せる事にした。これによると、本数浄霊による治癒率は、医療と比較にならぬ程の素晴しい成績であると共に、注射が反って病気を悪化させる事実は、大いに注目すべき要があろう。本年も旧臘からの状況によると、相当流行の兆しが見えるというのであるから、大いに注意すべしというよりも、この記事を参考にされん事を忠告するのである。

 

御蔭話 静岡県S.T.(昭和二六年一月一日)

私は九年程前教修を受け、爾来幾多の奇蹟的な御守護の許に数々の人助けをさせて戴いている者であります。

今回は在満当時、終戦後体験致しました発疹チフスに就き世界救世教奇蹟集まして御報告させて戴きます。

終戦直後昭和二〇年暮頃より満州には満人も驚く程の悪性発疹チフスが蔓延し、私の居りました奉天市は時恰も北滴地区より避難して来た数万にのぼる日本人の為、市内は混乱して居る際とて、その恐怖は大変なものでした。瞬く間に数千名が発病し、学校等を応急隔離病院として数百名の医者、軍医等が凡ゆる方法を施しましたが殆んど効果なく、毎日数十名(或はそれ以上)が無断な狂死をして行きました。私共の社宅は二五家族ばかりおりまして、一同胸々として居りましたが、遂に二十七、八歳位の某氏が発病しました。病院は無論一杯でしたので、毎日医者、軍医が来て注射や氷冷を行いましたが一向効果なく一週間位で狂ったまま死んでゆきました。私も一度見舞に行き、御浄霊をと思いましたが、何せ医者看護婦がつききって居り、全然手出しが出来ませんでした。

それから数日後、今度はNと言う若夫婦が殆んど同時に罹病致しました。三、四日前の某氏の無断な死を見た社宅の人々は、私とG君一(年ばかり前に肺病にて喀血しましたが数回の御浄霊にて治り、結婚の為内地に帰った時数修を受けて来た)以外は見舞にすら行きませんでした。

私は最初発疹チフス何物ぞ、たかが高熱が一寸続き発疹する浄化ではないか、今までの体験より考え、如何なる高熱でも三日もすれば必ず治る自信をもって始めました。ところが三日過ぎましても依然として熱は下らず、一日三、四回宛御浄霊致しましたが、浄霊直後は一応熱が下りますが、三〇分もすると益々高熱が出て来て、五日目には遂に脳障害を起し、完全に頭が狂って仕舞いました。五日間全然食事は摂らず、僅かに水を飲むのみにて、夫婦枕を並べて共に狂い、奥様は子供の頃の歌を唄い、主人は訳の分らぬ事を喋り、目は全然見えぬらしく、空な目付で天井をみつめているのみでした。床の中には虱が大分見える様になって来ました。虱のわいた床の上に何回となく坐りますので、或は自分も誘発するのではないかと思いましたが、その時は教修受けているG氏が居るからと安心して続けて居りました処、そのG氏夫婦が又々共に発病してしまいました。残るは私と妻のみ「若し自分が発病して狂っても決して医者に見せるな、誰が何と言っても御浄霊さえして呉れればよい」と妻に話して悲壮な決心を致しました。

この頃になって世間の非難はいよいよたかまり、中には親切に「どうせ駄目だろうが、一度医者に見せておいた方が貴男が内地へ帰って親兄弟に遭った時言い訳も立つから」と言って呉れる人もありましたが、「何大丈夫だ」と皆断って居りました。看護疲れのした身体で同時に四名の発疹チフス患者を抱え、それが最初の予期に反し、日々症状は悪化し、人の寝静まった深夜、気が狂った病人を眺めながら「自分の御浄霊は効かなくなったのではないか知ら、或は発疹チフスには効果がないのかしら、若しそうだとすれば、友人四人までもこんな事にしたのは自分の責任だ、狂ったまま四人共死んでゆくのではないか」等と様々な恐怖に襲われた事もありましたが、すぐその後より、そんな馬鹿な事があるものか、誠心誠意御浄霊して居れば、その内に必ず目の前の私が判って「Sさんですね」と言ってくれる時が来るに違いない、ここで挫けたのでは明王様に申訳ないと遇か東の方を念じつつ御浄霊を続けました。時々病人の前に私の顔を突き出してみますが一向反応がありませんでした。

忘れもしません、発病後八日目、朝食をすませて枕許に坐622世界救世教奇蹟集りました。すると力のない目付ですが、私の顔をみつめて「Sさんですね、何だか頭が変だが、家内は何処へ行きましたか。ライスカレーと水を下さい」と言うではありませんか、私の予期していた言葉そのままが病人の口から出たのでした。私のこの時の喜び、幾度かの奇蹟の中でもこの喜びに優るものはなかったと思われます。熱いものがこみ上げて思わず遥かな祖国に向って明王様に手を合わせたのでした。

「もう絶対大丈夫だ」と益々力が湧き一心に御浄霊致しますと面白い様に濃い鼻汁が出て頭は一時間一時間はっきりして参りました。奥様も前後して大体同様の経過を辿り、発病後は体は衰弱して居りましたが、誰の目にも治ったと分る様になりました。最早絶対の自信を持つ事が出来ました。その時は未だG氏夫婦は盛んに頭が狂って居りましたが、もう恐怖感はありません。狂人を相手に戯言を言いつつ笑って御浄霊を致し、同じ経過にて完全に治させて頂きました。 G氏の奥様はその時妊娠八カ月の身でありましたがその後大きな男児を生み、母子共壮健でした。この間私の社宅内にて他に六名発病致し、五名医者にかけ四名死亡、一名は注射をするとどうも死亡率が高いと一般にわかって来ていました後期でしたので、何もせず寝かして置いた様でしたがこの人は助かりました。併し体力が快復するまで二カ月もかかりました。これに引替え御浄霊で治った人達は二〇日間で全治致して居ります。神力の偉大さにただただ驚嘆する外ありませんでした。

注射氷冷を行った患者は結果が悪く、むしろ注射を余り行わない方が遇かに成績がよい事が何千人かの犠牲者を出して、初めて一般も分り、追々注射を減じた為か、医療による死亡率も減じ、最初七〇%以上の死亡率が、末期には三〇%になった様でした。私は発疹チフスの患者を一〇名ばかり御浄霊致しましたが、全部全快一〇〇%の治癒率で、然も病後の体力の快復は医療に比し格段の相違がありました。

当時の発疹チフスの症状は四〇度以上の熱が続き、頭部が割れる様に痛み、二日位後に全身に軽い発疹があり、これが二日位にて消えてなくなり、五日目頃より脳障害を起し、例外なく発狂してしまいました。一心に御浄霊を続けて居りますのに段々悪化して狂ってゆくのを見ている事は実際恐ろしいもので、逃げ出したくもなりましたが、一度体験して脳障害は別に心配する症状ではなく、前頭部の御浄霊により、鼻汁が出て簡単に治る事を事実に於て知らせて頂きました。

御浄霊の奇蹟的な効果が漸く一般に認められる様になった頃、さしもの悪病も終焉しましたが、それからは多くの人々の依頼を受け引揚げるまで種々の病人を御浄霊させて戴き、貴重な体験と顕著な効果をあげさせて戴きました。

以上が発疹チフスに対する私の体験であります。私の如き者にこの絶対の御力を下された明主様に御礼申し上げ、又多少にても皆様方の御参考になれば幸いと考え御報告させていただきました。

御教え『嗚呼この奇蹟』

「世界救世教奇蹟集」昭和28(1953)年9月10日発行

本教は奇蹟の宗教としているが、段々神様の威力が増すにつれて、奇蹟が増えると共に素晴しくなりつつあるのは、信者は常に経験しつつあるであろう。左の御蔭話はよくそれを物語っており、この奇蹟だけでも誰も昔から間いた事も、見た事も、文献にもない程のものである。従って遠慮なくいえばこれからの人間は、どうしても本数信者にならなければ、絶対幸福者とはなれない事を、広言して障らないのである。

 

御蔭話 大阪府W.M.(昭和二七年五月二七日)

私昭和三五年二月頃より下腹が脹る様で気持悪く思って居りましたが、大した事もないのでその侭にして居りました処、三月末頃より茶色がかったものが下り出しました。日の経過するに従い段々下り物が多量になり、食欲不振、衰弱して行く様にありますので、近所の医師に診て貰いましたが、はっきりした事は分らず、警察病院へ紹介されました。診察の結果「子宮に小さい出来物が出来ているから取って調べて見なければ分らない。暫く通う様に」と言われ、それからというものは、毎日不安な気持で通いました。

五月一五日出来物を取って貰い「子宮癌」と聞かされた時は、谷底へ突落されて行く様でした。医師は手後れしないうちに手術をと勧められますので、医学を信じ、まくなりたい一心から手術をしました。手術は順調よく五日目に糸を取って貰い喜んで居りましたが、一週間経過し一〇日経過しても、尿道より管を差し込んで買わなければ、尿が出ません。医師は、「手術後尿が出にくくなるが、出来る丈自分の力で出す様に」と申されますので、色々と気分を変えたり、神様に念じ毎日毎日泣く様にして出す様努めましたが、一滴の尿も出ません。手術して一人日夜半、尿の様なものが下ります。若しや膀胱を傷め、そこから尿がもれているのではないかと驚き医師に様子を話しますと「別に心配する事はない」と言われる丈ですが、段々酷くなる一方で、尿道へ管を差込んで貰っても一滴の尿も出なくなってしまいました。

助かりたい一心から手術をしたのに、反って動きの出来ない身体になってしまって、余りの情無さに、手術の時、いつそ知らぬ間に死んでしまった方が良かったと思った位でした。

手術後一カ月の時医師は退院してもよいと言われましたが、どうして、こんな身で退院出来ましょう。その侭入院致して世界救世教奇蹟集居りましたが一向よくなりませんので、手術して五〇日目退院致しました。退院後は、肉体的精神的に苦しみは増すばかりでした。

或る日、知人に勧められて町の医師に診察を受けました処「医者の失敗です。膀胱に二カ所傷穴があります。お気の毒ですが仕方ありません。出来る丈好きな物を食べ、好きな事をして自分の身体の事は忘れるように」と言われます。最後の一厘に希望をかけていた私は、あふれる涙を拭いもやらず、どうして帰宅したのか分りませんでした。医師の無責任に憤りを感じましたが後の祭りの事とて如何様ともし難く、毎日毎日が地獄の様な明け暮れでございました。人月初め義妹が「神様にお纏りしては」と申しますので半信半疑の中にお願いし、信者の方よりA先生を紹介して戴きました。御浄霊を戴くうち今までにない身も心も軽くなって行く様です。先生に有難いお道のお話を承り、唯々教われたい一心から八月一六日妹達に手を引かれ教会に参拝させて頂き、T先生より教修を頂き入信させて頂きました。

それからは薬注射一切止めて、妹に連れられ教会へ参拝させて頂くのが楽しみとなり、家では日に二回、三回と御浄霊を頂きました。お蔭で入信後軽い御浄化を度々頂き、食事も美味しく、少しずつ身体も楽にならせて戴きましたが依然として膀胱の傷は治りません。医師に見放された身体をこれ程元気にさせて頂き、有難いと思いながらも、せめて今一度昔の様な身体になりたいと、自分の罪をお詫びして、一生懸命お念じ申しました。「唯一心にお縦りなさい。必ず神様は御救い下さいます」と仲言って下さる先生のお言葉を頼りとし一心にお纏り申しました。三月二二日午前三時頃より右の横腹から腰にかけてひどい痛みです。妹に浄霊を頂いて居りましたが、段々激しくなり、寝ても起きても居られず、夜の明けるのを待って先生に来て頂きました。早速御浄霊を頂き、一時間程で痛みを取って頂きました。

二三日三時丁度前日御浄化を頂いた同じ時間にふと目を覚ましますと、尿の漏れがいつもより少く御不浄へ行きたくなりますので行きますと尿道より尿が出ます。余りの嬉しさに夢ではないかと思い、一時間程たって又行きました。膀胱からも漏れますが、やはり尿道から出ます。余りの嬉しさに思わず明王様、大光明如来様(御神体)有難うございますと嬉し泣きに泣いてしまいました。

この時の嬉しさをお察し下さいませ。半年ぶりに尿道より尿が出るようになったのです。天にも昇る思い、到底拙ない私の筆では書き表わす事は出来ません。それからは嬉しさに寝られず夜明を待ってT先生宅へお電話で御守護頂いた事をお知らせ致しました。T先生、A先生は御自分の事の様に喜んで下さいました。

主人より妹と二人で御面会を頂く事を許してくれました。しかしその喜びの後に今まで一心に御面会を頂きさえすればと思い、他の事は忘れ勝ちになって居りました私が、夢から醒めた様に未だ私は尿が半分漏っている事に気が付いたのでございます。しかも三月一人日春季大祭は真近に迫って居ります。教会の先生方は「御心配いりません。神様は宜しくして下さいます」と。しかし人事ではありません。又も私は「明主様どうぞ御守護下さいませ」と一生懸命念ずるのみでした。処が又々私は大御守護を頂いたのです。

ああ明主様有難うございます。それは三月一五日朝より今度は何事もない様に完全に尿道より尿を出して頂く事が出来るようになりました。然も御面会三日前日であります。

このようにして待望の一人日、初めて思いが叶い、明主様に御面会させて頂きました私の嬉しさは、どう御報告させて頂いてよいのか全く感慨無量でございました。

三月一九日無事御参詣を済まして下さった御礼参りに教会へ参拝し、その帰途、警察病院へ紹介して下さった医師の奥さんに偶然出遇い問われるままに有難い光明如来様のお蔭で教われた事を話しますと、不思議そうに「手術の所がですか?」「本当に良くなられたのですか」と言われ、手術の時医師の失敗で膀胱にも傷つけられ、尿道も切られ、医師達も助かる可能性はないと言われていた事を聞きました。今更乍ら驚き、二の句が出ませんでした。

この時以後今日まで七回コーヒーの様な吐き物を出しましたが、その大浄化の都度神様は私を幸福にして下さる為だと喜んですごさせて頂いております。

明主様に霊体共に救って頂き、真の幸福者にさせて頂き、人様まで御助けさせて頂いて唯々有難さ勿体なさに感激の涙に浸るのみでございます。

明主様有難うございました。

御教え『医学の迷蒙』

「世界救世教奇蹟集」昭和28(1953)年9月10日発行

左の患者は、初め肋膜炎を煩い、それを療養中脊髄カリエスとなったのであるが、これなどは全く医療で段々重症にしたのである。というのは最初胸部に腫物が出来たのは、肋膜の水が膿化し、腫物になって出ようとしたのであるから、全く自然治癒作用が起ったので放っておけば充分腫れて穴が穿き、全部排膿されて快癒するものを、それに無智である医学は切開し、病気とは無関係である肋骨までも削ったのであるから乱暴極まると言うべきである。それが為膿の自然排除を妨げられた結果膿の集中作用が停止され、他の部から出ょうとして腫れる、という訳で、それを脊髄カリエスと間違えられたのであるから患者は気の毒なものである。これなども医学が病気を作る一例である。

 

御蔭話 岡山県H.Y.(昭和二七年九月一七日)

限りなき大御心に救われ、あらゆる不幸から甦らせて頂きました偉大なる御守護の数々、常識では到底解し得られぬ大奇蹟の数々を御報告させて頂き、謹みて明主様に御礼申し上げます。

私は昭和二一年の暮南方から復員して帰りましたが、東京の家は焼け出され、家族は散り散りぱらぱらで妻は岡山県の実家に身を寄せて居りましたが、半年前から肋膜を病み四回にわたって洗面器に二杯からの水膿を取り、医師も「これ以上溜ったらもう駄目だ」と言われた位体力は衰えて居りましたが、かろうじて小康を得、自分で用便にだけ行ける様になって居りました。「これで大事に養生をして順調に行けばまあ大丈夫だろう」と、はかない希望を持ちながら兎も角生きて帰った私を囲んでみんな喜んで呉れ、裸一貫で新生活に向う私共を励して呉れたのですが、運命は皮肉なもので、それから三日目妻は右胸部に拳大の腫れが出来、診断を受けますと肋骨カリエスとの事、早速切開手術を受けさせましたが、復員したばかりの私には医療費がありません。然も私の家は複雑な事情がありまして長男でありながら家に帰れない有様で妻の実家に厄介になったので、何時までも医療費までお世話になる訳には行きません。これより私の苦難の生活が始ったのでございます。なんとかして今一度元気にしてやりたい、最大の治療を受けさせ一日も早く良くなって貰おうと、一生懸命医療を受けさせましたが結果は全く反対でした。二回目の切開手術をしましたが良くならず、二二年九月高梁市の某病院に入院し大手術を受け、肋骨を削り取ったのであります。併しこの手術も一時的のもので、只悪い部分を切り取っただけで健康は少しも恢復せず、益々腺病質になるばかりでした。お灸が良いと言われればお灸もやり、色々迷ったのですが元気にはなりません。その内また化膿して再度手術をする様に言われましたが、手術の苦痛と今まで何回手術しても治らないので、一日のばしにのばして様子を見て居りました。ところが二三年一〇月末、突然腰に痛みを訴える様になり、のびもかがみも出来ないと言うので、大学病院へ行きました処、「脊髄カリエスで右の腰に溜膿があり重症だから早速入院する様に」と言われ、翌日入院したのであります。ここで大学病院について一寸お話し申し上げねばなりませんが、重症患者を診察するのに診察室で一時間以上も待たせた上、教授の先生が助手や研究生を一〇名位つれて来られ、先ず先生が一応診察して今度は一人一人の研究生が診察して先生に報告し、ああだこうだと研究すること実に二時間にも及ぶのであります。まるで研究材料たる一個の物体に過ぎない扱いですから、患者は堪ったものではありません。良くなるどころかへとへとに疲れてしまい、二日目には遂に悲鳴をあげ、大学病院を出てカリエス専門と言われる岡山のS病院に移り、一一月六日から翌年一月一人日まで入院し、その間首を吊ったり足を引張ったりしてギプスベッドに寝たり、只管療養に努めました。腰の膿も二回抜きましたが、抜いても又直ぐ溜りはかばかしく行きませんので退院して自宅療養をすることに決め、帰ってからも医者の言うことを忠実に実行して絶対安静を守り、一生懸命養生しましたが結果は全く反対で段々悪くなり、顔は全く死人の様に蒼白で、体は痩せ衰えて背中は曲り、隣れな姿となり治ると言う希望は全く無くなってしまいました。こうした絶望感もそう長くは続きませんでした。遂に神様は偉大なる救いの御手を差しのべて下さいました。

忘れもしません。二四年の四月一〇日私が仕事から帰って見ますと、妻が嬉しそうに「今日救世教の先生が近所の方の紹介で来て下され、手を翳して下さったがとても気持が良く、有難くて止めどもなく涙が流れた」と言うのです。私は信仰心など無かったのですが別に反対もせず傍観して居りました。四、五日すると「お守様を頂いて呉れ」と申しますので「治ってからにしなさい」と言うと、「どうしても欲しいから貴方が受けて呉れなければ私の着物を売ってでも買う」と言い、また「ギプスベッドを外しても良いと言われた」と言って外すので大変心配になり、「若し悪くなったら何うするか」と言えば「絶対悪くはなりません、私は救世教でなければ教われません」と言い、弱虫に似ず中々強硬です。まあ本人の意志に任せようと思い、四月一七日妻は入信させて頂くべく教会にお参りしたのでありますが、先生は「貴女が入信するより先ず主人に入信して貰い、浄霊して貰いなさい」と言われましたので、私が先に教修を受けたのです。今から考えますと全くこれこそ神様の大慈悲であり、お仕組だったと思われます。若しこの日予定通り家内が入信させて頂いていたら、恐らく私は入信するに至らず、妻も中途で挫折して今日の喜びを得るに至らなかったと思うのです。さてその日から半信半疑の侭私が毎日御浄霊をさせて頂きました。浄霊しますと気持が良いと言い、一週間もたたない内に起きだしてぼつぼつ炊事もする様になり、教会にも毎日歩いてお参りする様になりましたが、それでも私は気のせいではないかと半信半疑だったのです。

その内に私も御神書を拝読させて頂き、初めてこの時目覚めさせて頂き、改めて先生のお話が聞きたくなり、五月一七日進んでお参りさせて頂き、その日家内も入信させて頂いたのでございます。それよりN先生の力強い御指導を頂き、七月には初の箱根御参拝も許され、家内の腰の溜膿について明主様にお伺い申し上げ「膿は溜るだけ溜ったらふっ切って出る。早い遅いは浄霊する人の霊力に依るのだから気長にやる様」との力強き御垂示を賜わり益々意を強くしてお縫りさせて頂き、八月には御神体を奉斎させて頂き、只管御浄霊に励みましたところ、腰の膿もだんだん大きくなり足が引き吊って思う様に歩けず、おまけに神経に響くので一人では教会にお参りする事も困難なので、毎晩自転車の後に乗せて引いて通いました。一〇月には足に御浄化を頂きカリエス特有の神経痛で指一本触れても全神経に響き、身動きも出来ない程でしたが、それも一〇日で良くなりました。二五年になってから右腰だけだった溜膿も左腰にも溜り、右大腿部にも下り、又内股にも拳大に溜結して、もうふっ切るのも間近い事と嬉しくて待ち遠しい思いでした。ところがその年の一〇月突然お腹が大きくなりだし、七日目には妊娠七カ月位になり腹膜症状となりました。同時に毎日五、六回の下痢をし、また寝ると朝まで引切りなしに咳をしてその度に多量の痰を出し、八日目頃からお腹がだんだん小さくなり出しました。下痢と痰は一カ月も続き、この変化が起りましてから腰や股の膿が軟くなり、浄化の進むに連れてだんだん小さくなって行き、浄化が済んだ時には膿は全く無く腰も自由に曲る様になり、顔色もすっかり変って紅をさし誰が見ても驚くばかりです。然も不思議な事にこれだけの御浄化にも左程苦痛を伴なわず、一カ月の間殆んど一睡も出来ない位せき通したに拘らず、昼間は平常通りお洗濯もし、台所もしてお参りもしていた事でございます。予想に反し余りにも安く越えさせて頂きました事は、全く大きな御守護であり、身に余る御恵みであり唯々感激の外ありません。長い間のカリエスもこうして生まれ変った別人の様に元気にして頂き、今では遠い山村に出掛けて行き、二里も三里もの山道を毎日歩いてお救いのお手伝いをさせて頂いて居ります。入信以来今日に至るまで私共の頂きました御守護の数々は余りにも多く、余りにも大きく口や筆には現わし様もございません。唯々明主様に心よりお纏り申し上げて居ります。

ここに謹みて御礼申し上げますと共に今後共何卒御神業の末端にも御役に立たせて頂けます様御願い申し上げます。明王様誠に有難うございました。