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『進歩的宗教』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

「光」34号、昭和24(1949)年11月5日発行の同文に加筆掲載

つくづく現在社会を見る時、日進月歩の今日いかなるものといえども、進歩から外れているものは一つもない。ところが不思議な事には、人類に最も関連の深い宗教分野のみは、いささかの進歩もみられないで旧態依然たるどころか、むしろその逆でさえある。何よりの証拠は既成宗教がよくいう言葉に、本道に帰れ、すなわち開祖の出発点へまで戻れというのである。とすれば横道へ外れたから元の道へ戻すという訳で、仮にこれを繰返すとしたら何らの進歩もない。実に文化の進歩と矛盾する訳である。既成宗教に何ら人を惹きつける力がなくなり現状維持に汲々たる有様は、それをよく物語っている。

なるほど、今日現存するいずれの宗教といえどもキリスト教は別とし、その開教当時は、新宗教としての宿命ともいうべき迫害や圧迫に逢いつつも、ともかく新しい息吹によって溌剌たる発展があり、華やかな時代も通っては来たが、年を経るに従って漸次沈滞の気運に陥りつつあるのはそのほとんどであろう。とすれば、これは何によるかを検討する必要がある。

それはいうまでもなく、時代の進歩に沿わないからで、教祖の教えを金科玉条として堅持する中いつか時代と掛離れてしまうその結果、漸次溝が大きくなり、ついに今日のごとき無力の非難を浴びせられるようになったのであろう。一切は原因があって結果があるとすれば、既成宗教たるもの大いに反省すべきであろう。いつまでも超然たり得るはずがないからである。これに鑑(かんが)み、本教の根本義とするところはすべてが進歩的である。時代に即している事である。本教が既成宗教的形式を度外視し、形式のために要する時間や費用を避けるという事も右の点にあるからである。実際上形式のための負担は何らの利益とはならないからで、神仏といえども喜ばれるはずはあるまいからである。

以上の意味において現代人の生活をよりよく改善し、指導的役割を遂行する事こそ真の宗教の使命であるべきで、一言にしていえば、進歩的宗教こそ現代人を救い得る価値あるものというべきであろう。

 

『方法論と結果論』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

「光」19号、昭和24(1949)年7月23日発行の同文に加筆掲載

今日、本教によって行われている病気浄霊療法は、とかく世間から誤解されやすい憾みがあるから、ここにその点を詳説してみよう。

本教浄霊法が治病効果の素晴しい事は近来大分世間に知れ渡って来たが、いまだ大部分の人、特に専門家の一群には相当誤解があるように聞いているから、その蒙を啓くべく、この文を書いたのである。

今日まで非難する者の言を聞くと、医療よりも効果が少ないという点は一つもない、しからば非難の点はどこかというと、方法が間違っているというのである。その方法が間違っているという事は非科学的、迷信的だというのである。私はそれについて反駁してみるが、彼らが非科学的迷信的であるというのはどういう訳かというと、機械や薬剤のごとき物質を使わないからだとしている。ところがそれも無理はない、何となれば療法の対象物である人体を彼らは動物となし、物質と見なすに反し吾らは人体は物質のみではない、眼には見えないが精霊があり、霊体両様の原素から成立っているのが人間であり、しかも霊が主であって、霊の動きすなわち意志次第で体は動かされるというのであるから、いうまでもなく唯物的解釈と唯心的解釈の相違であって、一口に言えば体主霊従と霊主体従の差別である。

これによって、彼らは物質を治すには物質をもってするに反し、吾らは霊を治すには霊をもってするのである、しからば右の二様の観方はいずれが是であり非であるかを決定するとしたら、それは何によって正確な断案を下し得るかという――その事こそ問題解決の鍵であらねばならない。とすればその条件として絶対誤りのない方法としては、実際的効果による外はあるまい。

その点について、唯物的解釈は眼に見える物質を対象とする以上、何人にも認識されやすいに反し、唯心的のそれは眼に見えない空に等しきものである以上、簡単に認識させ難い不利がある。この点を利用し彼らがいつも非難を浴びせる場合、毫(ごう)も結果には触れないで、方法のみによって批判するのであるが、これは眼に見ゆる以上耳裡(うち)に入りやすい訳である。ところが事実は治病方法が、機械と薬剤をいかに応用するも治癒せざる病患に対し、吾らが機械も薬剤の力も借りないで、ただ人間手掌の操作によって驚くべき治病効果を発揮するのであるから、一言にしていえば一方は理屈に合って治らない、一方は理屈に合わないで治る、一方は方法を主とするに反し、一方は結果を主とするという、その異いさの点に注目すべきである。もちろんこの方法論と結果論はいずれが是か非かはあまりにも判り切った話である。

以上の論理を更に徹底してみる時、こういう事になろう。結果の非である方法がたとえ科学的であっても、実際に役立たないとしたら少なくとも正しい科学ではないという結論になり、右に反し結果が是であるとすればそれは、実際に役立つべき正しい科学という事になろう。ただ可視と不可視の相違だけであって前者は可視的非科学となり、後者は不可視的科学という事になろう。

以上の理によって、私のこの論旨がもし誤謬でありとすればそれを反駁すべきであると共に、万一反駁出来難いとすれば、今後は方法論を撤回し、結果論のみによって唯物医学と唯心医学との論戦を戦わすべきが本当ではあるまいか。かくして真に人類に役立つべき新文化の発展を期待し得られよう。

 

『科学が迷信を作る』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

相変らずジャーナリストは、馬鹿の一つ覚えのように新宗教は残らず迷信邪教と決めている。曰く、終戦後の人心混乱に乗じ迷信邪教が横行して、人心を惑わすとは怪しからんと言うだけで、何の為にそういう現象が表われたかという事などには言及せず、何等の検討を加えようともしない。新宗教は十ぱ一からげに邪教と見做し、世間の噂や自己判断のみで頭から断定するというのであるから、彼等の物の考え方の単純さには呆れざるを得ないのである。故に吾等の責務の一面として彼等に対しても、一大啓蒙の必要を痛感するのである。

然し乍ら右に対し、吾々は彼等の態度を一概に否定をしようとは思わない。何となれば、彼等の根本観念が唯物主観を通じて観るのであるからである。彼等は勿論眼に見えざる悉くは迷信と断ずるのであるが、吾等雖も彼等と同じ立場にあれば勿論そういうであろう。然し乍ら仮に不可視的存在を否定するとしたら、世の中は一体どうなるであろう。唯物主観の結果大変な事になろう。それは人間間の情愛も恋愛も親子兄弟の関係も、利害と打算で決めて了うからで、石の牢獄の如き冷い社会となるであろう。そのような社会はマサカ彼等と雖も希望する筈はあるまい。としたら彼等の考え方は中途半端で、徹底味がない事になる。

次に実際面を客観してみるが、それは案外にも高等教育を受けたインテリ層に案外迷信の多い事実である。以前世界各国の迷信の種類を調査した表を見た事があるが、彼の最も科学教育の盛んとされているドイツが、最も迷信の数が多いという事であった。此様に迷信は科学と正比例しているという事に注目さるべきである。然らば之等は何に原因するかというと、吾等の見解によれば斯うである。長い間学校で唯物教育を叩き込まれたので、唯物教育とは理屈が基本であるから、一度学校を出て社会人となるや、現実は余りにも理屈に合わない事ばかりで、大抵は怪疑に陥る。勿論理屈通りやったもの程成績が悪いからである。そこで賢い者は考える。即ち新しい社会学という学問を学ぼうとするが、そういう学校はないから独学で始める。処が早くて数年、遅いのは数十年かかって卒業するのである。いわば第二の学問である。折角習い覚えた第一学問とは凡そ反対であるが、実際的であり、確実性があるから処世に応用すると今度はうまくゆく。優れた者は社会学博士となる。そういう人は酸いも甘いも噛み分けた苦労人となる。然し此苦労人博士になる頃は老年期に入るので、多くは今一歩という処で大方は平凡に畢って了うのである。然し中には傑出した大博士もある。今の吉田首相などはそれで、彼の苦労人的、人を食ったような態度も、老練な政治的手腕もその表われである。

以上によってみても迷信の原因は判ったであろう。一言にしていえば、絶対信じた学理を実行して失敗し怪疑に陥る。その時多くは迷信邪教に走り易いが、本当に解決してくれる宗教は先ずないと言ってよかろう。してみれば実際と遊離した学理に罪がある訳である。此理によって迷信を作る者は、実は現代科学教育の一面といっても否とは言えまい。

最後に今一つ言う事がある。それは彼等の言う如き、今日迷信邪教の氾濫も確かに事実であるのは吾等も認めるが、全部が全部そう決めてかかる処に誤りがある。多くの迷信の中にも幾つかは必ず迷信でないものもあるに違いない。とすれば迷信ならざるものを迷信と断ずる事も、一種の迷信である。此点を吾等は警告したいのである。故にジャーナリスト諸君に要望したいのは、迷信邪教に対しては大いに筆誅するを可とするが、迷信邪教ならざるものを迷信邪教と誤認する事の危険を言いたいのである。それは文化の進歩の阻害者となるからである。

『私というもの』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

曩に、「私の観た私」という論文を書いたが、先の客観論と違い、今度は主観的にありのままの心境を描書いてみようと思う。

現在私ほど幸福なものはあるまいと熟々(つくづく)と思い、神に対し常に感謝で一杯だ。之は何に原因するのであろうか。成程私は普通人と違い、特に神から重大使命を負わされ、それを遂行すべく日夜努力しており、それによって如何に多数の人々を救いつつあるかは、信徒諸士の誰もが知る処であろう。処が私のような特殊人でない処の普通人であっても、容易に行われる幸福の秘訣があるから、それを書いてみるが、書くに当って先ず私の常に抱懐している心裡を露呈してみよう。

私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、殆んど道楽のようになっている。私は常に如何にしたらみんなが幸福になるかということを念っている。之に就て斯ういう事がある。私は朝起きると先ず家族の者の御機嫌はどうかという事に関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。此点は世間と反対だ。世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかに就て、何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で、罵書怒号のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりする事が何よりも辛いのである。又一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこ迄も平和的、幸福的で執着を嫌う。之が私の本性である。

以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって、私は、「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない。」と常に言うのである。

私の最大目標である地上天国とは、此私の心が共通し拡大される事と思っている。此文は些か自画自讃的で心苦しいが、聊かでも稗益する処あれば幸甚である。

 

『私の観た私』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

此題をみて読者は不思議に思うであろうが、順次読むに従って成程と肯くであろう。

先ず私というものほど不思議な存在はあるまい。何となれば、人類の歴史の上に私のような人間の記録はなかったからである。この記事をかくにあたっては出来るだけ主観を避け、客観的にかくつもりで あるから、そのつもりで読まれたいのである。

先ず私の仕事からかいてみよう。勿論私の目的は人類救済にあるのであるから、一挙一動その線から はずれる筈はない。そうして今、私の仕事の中で一番主力を注いでいるものは、紙へ文字を書く事である。即ち書である。それは多くの信徒から乞わるるままに、出来るだけ満足を得させたい為に努力して いる。処が信徒はそれをお守りとして首にかけ、懐に入れ、病者に向って数尺隔った場所から掌をかざし霊の放射を行うのである。これによって例外なく病苦は軽減する。而も難病として数人の博士から見離され、死に瀕した病者が入信数ヶ月経た信徒によって治癒され、健康人となって再び社会生活を営むようになるのである。此ような例は日々無数に上っている。この起死回生的奇蹟を眼の当り見る限りの人は、驚歎するのは無理はあるまい。実に古往今来、何人と難も不可能とされていた人間生命の延長が 可能となる事である。恐らく之は世界の大問題であろう。この様に教われた者の感謝感激は日々数知れない程で、その報告や礼状が机上に山を成すのである。私はそれを読む毎に、眼頭が何度熱くなるかしれない。そればかりではない、お守を懐に入れて掌をかざす、此方法を浄霊と名づけているが、この浄霊に依て今や戸を開けんとする盗賊を逃走さしたり、中には断崖から落ちた者、汽車、電車に跳ね飛ばされた者、車に轢かれたりした者が、何等の疵もなく生命が助かったり、又火災を免れたりする等々の例は枚挙に遑(いとま)がない程である。特に農業に就ての奇蹟である。今や枯れなんとする麦畑が浄霊によって 復活したり、浄霊によって虫害を免れ、例外なく増産の成果を挙げ、獣医から死と断定された馬や牛が蘇るというような例も抄くないのである。其他貧困者が貧苦から解放され、陰欝な家庭が明朗化するというように、お守を懐へ入れる刹那から運命の好転が始まるのである。之等無数の奇蹟は『光』新聞や 雑誌『地上天国』に掲載されているから、一読すれば想い半ばに過ぎるであろう。昔から大聖者、大宗教家の事蹟を見ても一人対一人の痛患を救い得た奇蹟はある。又その宗教に帰依し、御利益によって治病された例も、取次者が治病の力を表わした例もあるにはあったが、今私によって行われる取次者の浄霊の顕著な力とは、恐らく比較にならない程の異いさがあろう。

斯ういう事がある。私が書いた文字を見ていると、その文字通りの形が光となって無数に分散、空間 に躍動するという事で、之は常に多くの人から聞く処である。又私の腹中に小さいゴム鞠位の光の玉を見る人もある。私の掌から光が出るのを見た人も多数ある。此光の玉から光波となって噴出した状態が写真に映った事もあり、此玉の光が部屋一ぱいに拡充した状態も写真に映った事もある。

私は毎日一時間を定めて数百の信徒に面会している。前以て信徒に対し、如何なる難問、疑問でも質問せよと言ってあるので、多い時は右の一時間内に質問数十に及ぶ事さえあるが、私は答え得ない質疑は殆んどないと言ってもいい。勿論毎日異った質問である。然し私の知らない事も偶にはあるが、その質問に対うや、即時その答が頭脳に閃き、口を突いて出て来る。それによって私が私に教わるという奇現象もある。

次に信徒でない第三者は、私の生活を豪奢だとよくいう。今日の物質不足を見ては無理もないが、私としても何もそのような生活を欲した事はないが、何にしろお蔭を蒙った多くの信徒が、感謝の印として凡ゆる物質を献上して来るので、その誠を出来るだけ汲みとるべく努めている。金銭に於ても、救業に必要な場合は必要だけ自然に集ってくるから不思議である。教線は日に月に進展しつつある状況は、 信徒諸君の見らるる通りである。此様な訳で、一切は私の意図の下に、私がやっているのではなく神の意図の下に神が私を自由自在に駆使しているという訳である。云わば私というものは、神の操り人形に過ぎないと思っている。であるから、此次には神は私にどういう事をさせるのかと思って、興味深く私は私をみつめているという、世にも不思議な事実である。

又私の行っている諸々の業と、それに伴う趣味である。趣味の多い事も先ずあまり例はあるまい。それを以下かいてみよう。

私は宗教家である事は言うまでもないが、実は宗教家とは思われない。では何かというと少々変な言い方ではあるが、救世業者とでも言う方がピッタリするように思う。そうして私の多くの弟子は、日々無数の人を救い、奇蹟を表わすので、彼等は生神様のように尊敬されるという事をよく聞くので、「それでは私は生神製造業者という訳になる」と大笑いする事がある。

私は絵を描き、書もかき、歌も作り、川柳も作り、書籍を著わし、小説も歌詞も、雑誌も新聞の原稿も書き、編輯(へんしゅう)もしている。又地上天国の小模型を造る目的を以て、私の設計監督の下に、建築、庭園、 花井栽培、室内装飾、農作等もやっている。箱根強羅の神苑や熱海に目下造営中のそれを見た者は肯くであろう。

次に私の趣味である。美術を好み、新古を問わず、優れた芸術家の作品を鑑賞する事は十四、五歳頃より今日に至るも変らない。其他音楽に於ても日本西洋の両方に趣味を持ち、一家中私が一番多くラジ オを聴くのである。特に政治、経済、教育、哲学、文学、社会問題等にも興味を持ち、常に研究を怠らないので、之等の蘊蓄は順次著書を以て発表するつもりである。

之を要するに、私というものを職業別にすれば宗教家、政治、経済、教育の研究家、文筆家、文明批評家、特殊医学者、歌人、画家、書家、建築設計家、造園業者、農業者、美術音楽批評家等々実に多彩である。

千手観音は手が四十本あって、一本の御手が二十五種の働きをされ、合計千本の御手にまって凡ゆる救いをなされるというから、私は千手観音の働きを神様からさせられているのではないかと常に思って いる。未だ種々書きたい事もあるが、余り長くなるから後は読者の想像に任せて筆を欄く事とする。

以上が私の観た私の実体である。