『第三宗教』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

本教が宗教として、既成宗教並に見られているのは致し方ないとしても、実は既存宗教とは比較にないちじるちがらない程の著しい異いさのある事である。第一本数には、神道も仏教もキリスト教も、哲学も科学も芸術も包含されて居り、又左派も右派も、資本主義も社会主義も共産主義も勿論包含されている。之等はなんびと 本数が発行する書籍、雑誌、新聞等をみれば何人も肯くであろう。

本教の礼拝する御神体と称するものは、光明如来の文字である。如来という以上仏名であるに拘らず、しかそれを御神体と呼ぶ。而も祝詞にして且つ経文である善言讃詞と称するものを奉諦するが、之は私が作ったもので、観音経を出来るだけ圧縮し、祝詞の形式にしたものである。どういう訳かというと、観音経を奏げるには、三十分以上を要し、日本の今日の社会生活には適合しない。どうしても毎朝の礼拝は五分以内で済ませなければ、電車事故などあった場合、勤先が疎かになるという懸念もあるからである。

又私の幾多の説には、凡ゆる宗教の滋味、天文、地文、言霊、易経、哲学、文学、政治、経済、芸術、霊界談義から演劇映画に渉ってまで書くので、人は驚くのである。特に神示の霊医学や、神霊の発揮に至っては、古往今来世界に類例をみないと言われてる。之は本数に限って信徒に病者の極めて少い事実によってみても明かである。其他人事百般に渉って、如何なる難問疑問でも氷解され得るのである。

そうして本教に於ては戒律があって無きが如く、善悪無差別的救済であると共に、半面善悪は厳として犯すべからざる建前となっている。又本教は大乗道であるから、資本主義によって産業は興隆され、社会主義によって分配の偏頗は是正され、共産主義によって人民の大多数を占める労働階級の福祉は増進され、民主主義によって特権階級の発生は防遏されるとしており、徳望によってのみ自然的に階級が出来、一切は世界的、人類愛的の思想が根幹をなし、人類共栄の大理想を活動の主体としているのである。勿論本教に於ては、深遠なる宗教哲学も説くと共に大衆にアッピールして、宗教即生活を唱え、実生活を信仰化する事に力を尽している。従而本教には既存宗教の如き窮屈さもなく、宗教的形式はあまり重きを置かない。実に自由主義的民主的で明朗そのものといえよう。勿論祭典の如きも頗る簡素で、現代生活によく適合しているのである。

特に一言したきは、本教に於ては奇蹟が断然多い事である。恐らく此様な宗教は歴史上其比を見ないであろう。

以上は極概略の説明であるが、要するに従来の宗教史観では到底理解なし得ない事で、本教を称して第三宗教という所以である。