『黄泉比良坂の戦』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

この標題について、時々たずねられるから概略解説してみよう。これはもちろん古事記にあるものでそれを如実に私が体験した経緯をかくのである。

今からちょうど二十年くらい前、ある日青山から明治神宮参道から神宮の入口に向かって二、三丁行ったところのちょうど参道ダラダラ坂の三分の二くらいの地点で、一番低いところのその横町にその頃某子爵がいた。そこへ私は招かれたのである。その子爵というのは大分落ちぶれて、生活にも窮しているような有様で、一種の神道的信仰を始めて間もない頃であった。まだ少数の信者で、なかなか経費をまかなう程には行っていないようであった。神様は国常立尊(くにとこたちのみこと)を中心としていたので、この時私は何か神秘がありそうな気がすると共に、種々信仰談に花を咲かせ、私も相当の援助をすべく約束した。その時霊感によって知り得た事はその家が黄泉比良坂(よもつひらさか)になるという事である。黄泉とは世を持つすなわち天皇である。しかも世を持っていた幕府が倒壊し、それを継承したのが明治天皇であるから、明治神宮の参道は平らな坂で、世もつ平坂という事になる。おもしろい事には右の子爵と懇意になってから互いに数回の往き来をして、最後には私は彼を晩餐に招いたので夫婦揃って来た。その時土産にもって来たものが、実に神秘極まるもので、子爵の家の宝物となっていたものである。またその時までの間に彼と私と一種の争いが起こった。それははなはだ複雑しているのでここでは略すが、とにかく争いの結果和解の形に なったため招いたのであった。

最初から最後までの経路を考えると、どうしても黄泉比良坂の戦の小さな型であったとしか思えない。しかもその晩戦に勝って、敵は賠償金か貢物のような意味で、右の宝物を持って来たものであろう。

以上のごとく、最初から最後までの経路を考える時、どうしても黄泉比良坂の戦の型としか思えない。

その後数年を経た昭和十三年不思議な事があった。その起こりというのはこういう訳だ。私は昭和九年に麹町平河町に信仰的民間治療の営業所を借り、開業したが、それが一年経つか経たない中に非常に発展した結果、宗教専門にすべく、玉川上野毛の今の宝山荘の土地家屋が売物に出たので買入れたのであった。というと馬鹿に景気がいいが、実は先方の言い値十万円というのに、私は五千円しか金がないのでどうしようもないが、しかし欲しくて堪らない。売主へありのまま話をすると、おもしろい事には売主は借金だらけで、一日も早く逃げ出したいのであるが、今と違ってその頃は買手がほとんどない。借金取りには責められるという訳で、とにかく一万円の金を入れてくれればすぐ立退くとの事、後金は分割払でいいというので、私も他から五千円借り都合一万円の金を入れ、昭和十年十月一日引っ越したのである。

引っ越したとはいうものの、それからが大変だ。何しろ十万円の買物に一万円しか払ってないので、三月後第二回の払二万数千円を七所(ななところ)借りしてやっと払ったという訳である。ところがその土地家屋は勧銀に担保に入っていたが、右の売主はほとんど年賦金一文も入れなかった。先方はそれを秘密にしていたので、買ってから判ったのである。私もあまりの軽率に後悔したが今更仕方がない。そのうち勧銀は競売の挙に出でた。負債は元利積って五万円くらいあったと思う。まず第一回の競売の時、勧銀の指定値は五万五千円で、札の入れ手がなかった。第二回が四万五千円であったが、私としては第三回はもっと安くなるから、その時札を入れようと少し欲張りすぎたのである。ところが思いきや第二回の四万五千円の時入札者が現われたのでそれへ落ちてしまった。その通知を受けた私は愕然としたが、もう取返しがつかない。弁護士に相談すると、競売決定までに一週間あるから、その間に異議の申立をすればいいというので一縷の望みが出来た。ここで奇蹟が起こったのである。それは右の一週間目の期日に弁護士が私の家へ来た帰りがけ某所へ寄った。ところがその人いわく、「岡田さんの競売決定の期日は一週間とすると、今日あたりではないか」との事で弁護士も気がつき、「コレは大変だ、確かに今日が期日だ」という訳で、急速事務所へ帰り、書類を作り裁判所へ持って行ったが、その晩の十一時であった。後一時間過ぎれば右の不動産は永遠に先方の所有に帰するのである。何と重大な一時間ではないか。本教の基礎を造ったのはこの家であるから、その時失敗したら今の発展はあり得なかったであろう。その時思った事は競売異議申立に要する保証金は相当の額であったが、奇蹟的に間に合った。もちろん百円札であったから、百はモモと読む、すなわち百円札は桃の実になる。黄泉比良坂の戦いに一旦は破れた神軍が、伊邪諾尊(いざなぎのみこと)から下されて桃の実を魔軍へぶっつけたので、勝いくさに転換したというその意味であろう。