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『三度目のプタ箱入り』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

前項に述べたごとく、復活した私は一年有余の空白を埋めようとして一生懸命治療に励んだ。すると三年目の昭和十五年十一月またまた玉川警察へ召喚された。その時は物々しく警官二名が付添い自動車で警察へ送り込まれた。私は何事かと思ったが、署へ入るや主任らしい者がイキナリ、「君は医師法違反をやったね」というので、私は面喰いながら、

「ソンな事はあるはずがない、違反になっては大変だから、充分注意している」

――という言訳を聞くどころではなく、彼は私を抱えるようにして留置場へ打(ぶ)ち込んだ。私は何が何だか判らない、すると三日目であった、主任は私を一室へ呼び訊問を始めたが、その時彼が言うには、

「君はある病人に対し、医者へ行かなくても自分の方で治ると言った覚えがあるだろう」

私は「それは確かに言いました、嘘ではない、事実だからです」というと

彼「ソノ言葉が立派に医師法違反ではないか」と言うので、私は唖然とした、そこで

私は「ソノくらいの事は療術業者は誰も言いますよ」というと、彼は、

「ソレは小規模でやっている者は大目に見るが、君のように堂々たる門戸を構えてやっている以上、社会に害を及ぼす事は大きいと見るから、看過する訳にはゆかない」というので、私はどうも彼の態度から見て、

「キット営業禁止までもってゆくに違いない」と推察したので、

「ヨシ先手を打ってやろう」と、私は、

「そんな事で医療妨害の罪に問われるとしたら、到底持続してやる事は出来ないから今日限り廃業します」と言い放ったので、今度は彼の方が唖然としたようであった。それが十一月三十日である。

ところが彼は先手を打たれ、よほど口惜しかったと見えて、それから数日経たある日私を呼出し、「誓約書をかけ」と言うので、私は

「何の誓約書だ」と訊くと、

「君は療術行為はいかなる事情があっても一生涯やらない事を誓うという事を書いて出せ」というので、

「実に御念の入った事だ」と驚きながら、言うがままの誓約書を入れたのである。ところが、これについておもしろい事が起こった、というのは翌年であった。それは某大臣、某将軍、某大実業家等が私の治療を乞いに来るので、私は、

「今は廃業して治療は出来ない事になっているから、是非治療して貰いたければ、警視庁の許可を得なさい、そうすればいつでもやって上げる」といったので、それらの人は、警視庁へ許可を受けにゆくので、同庁でも当惑し私に向かって、「療術行為の届出」をして貰いたいと要望するので、私も仇を討てたような気がしてその通り届出をし、それからやむを得ない人だけ治療をしてやる事にしたのである。それが終戦までの経路であった。

『豚箱入り』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

忘れもしない、昭和十一年八月四日の事であった。突如埼玉県大宮警察から呼出し状が来た。翌五日その頃玉川上野毛の今の五六七教会集会所になっている私の住宅から警察へ赴いたのである。

その訳はこうである、当時、大日本観音教会(創立は昭和九年十月)の会長をしておった私は当時支部が埼玉県大宮市にあり、その支部長として武井某なる者が、大宮市にあった片倉製糸で女工千人くらいを収容していた大工場があった。その女工連中の病気を多数治した事から医師法違反に引掛り、武井が警察へ留置されると共に、その会長たる私が調べられる事になったので、その時の経緯は次のごときものであった。

警察へ到着、しばらく待った後、その頃の一大勢力であった特高と呼ばれた主任の前に呼出された。主任いわく

「お前は大日本観音会の会長か?」

私「ハイ、さようであります」

主任「お前はいつも簾(みす)の中にいて生神様になっているんだろう」

私「トンでもない、そんな事はありません」

主任「虚言うな、お前が生神様なら罰をあてる事が出来るだろう――」と言って傍にいた刑事と名乗る二人の男に眼くばせした。その頃の私は頭髪を相当伸ばしていたので右の二人は左右から髪の毛をイヤという程引張るので、痛さに堪え兼ね詫びたので、彼らもようやく手を放した。

主任「武井の家の部屋に懸っていたお前の霊写真という変な写真はアリャ何だ、お前が作ったのだろう。それを詳しく話せ」

私「あれは作り物ではありません、一昨年十月一日東某という人が訪ねて来て、種々宗教上の話を取交し、最後に私を写した。ところが御覧の通りああいう不思議な霊写真が出来たのであります」

その時私の周りを取巻いていた警官の中大きな男が二人、イキナリ剣術の竹刀を執って身構え、

「きさまは吾々を騙す気か、今言った事は嘘だ、もう一遍言ってみる、きさまの腰骨をブッ砕く」――と言って脅すのである。私は吃驚した――本当の事を言えば腰骨を砕かれ、どんな眼に遇うか知れない、あるいは不具にされるか分らない、といって私は嘘を言うのは嫌だ――という訳で、一言の言葉も発する事も出来ず、やむを得ず沈思瞑目していたので、彼らも手の施しようがなく再び訊問は開始された。その時不思議なるかな、先刻髪の毛を引っ張った一人が、「俺は頭が痛い、変だな」と言う、すると、傍の二、三人は、「ソレはきさまの神経だ、そんな馬鹿な事があって堪るもんか」と言ったが痛みが去らないと見えて、スゴスゴ室外へ退散した。ところが今一人の男も間もなく退散したので、私は「神様にやられたな」と思った。そればかりではない、いつの間にか主任一人を残して全部消えてしまったのである。主任は暫くして聴取書を作って読上げた。その中の霊写真に関する項は、「私が作った美術写真」とかいてあるのだ。私は、「事実と異(ちが)う」と言おうとしたが、また拷問されては堪らない――と自棄的となり、言うがままに捺印してしまった。意外にもその書類が警視庁へ廻ったので、警視庁では、「岡田という奴はインチキ野郎だ怪しからん奴だ」という訳でブラックリストへ載せてしまった。全く拷問によって虚偽の聴取書を作り良民を悪人にしてしまったので、実に恐ろしい世の中と思ったのである。これによってみても当時の官憲がいかに横暴で、封建的であったかが知らるるのである。そのブラックリストのために、その後私は事毎に苦しめられた。私が住居を変える毎に、その管轄の警察へ通報が行くので、その警察は私の看視を怠らず、何とかして私を罪人にしようと専心したので、私はどうする事も出来なかったと共に、いつブタ箱へ入れられ、家宅捜索を受けるか判らない心配で、枕を高くして寝る事すら出来なかったのである。故に終戦までは新宗教は共産主義とほとんど同様の扱いを受けたといってもいい、右のような訳で私が常に思っていた事は、

「自分は人類社会のため、これ程立派な行いをしながら、これ程圧迫されるという事は、実に残念である、しかしこれも神様から修行させられるのだ」――と思い直しては腹の虫を制えつけたものである。これについては大本数のお筆先に――

「コレ程、善い事を致してこれ程悪く言われるのも都合の事じゃ、時節を待て」という事が、私の胸に強く焼きついていたためもある。

大宮警察の調べは前述の通りで、一晩ブタ箱に容れられ、翌日釈放されたのである。

大宮警察の事から、私は警視庁からインチキの烙印を捺された結果、とうとう所轄警察玉川署へ引致(いんち)され、十一日間のブタ箱入りとなったのである。もっともその当時大本教を脱退した元幹部級の者を取調べる方針のためもあった。そこで入念な家宅捜索などをされたが、別段法規に触れる点がなかったので、無事にケリが着いたのである。しかし弱った事には治療禁止という大鉄槌であった。その頃私は宗教と療術行為と両方やっており、しかも療術行為の方が私の経済を支えていたので、たちまち収入の途が杜絶え、一時は前途暗澹たるものであった。

しかるに種々運動嘆願などによって一年三ケ月の浪人生活は終り、再び業務に就く事を許された。但しその条件として宗教と療術行為を両方やってはいけない、どっちか一方にしろというので、私は経済上宗教を捨て、療術のみで立つ事になったが、その時が昭和十二年十月二十二日であった。

玉川時代

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

麹町半蔵門での開教以来、日に月に発展し数ケ月経た頃は手狭になったため、どこか大きい家を探し求めたところ、幸いなるかな、東京の西端玉川の畔(ほとり)の高台に、最も適当な土地と家がみつかった。土地の面積三千坪、建坪二百数十坪、しかも眺望絶佳、玉川の流れを眼下に見、遥かに富士の威容を望むのであるから、その時つくづく神様が準備された事を知ったのである。その時こういう事があった。その屋敷の門から入り、庭に降り立つや思わず知らず、「ここだ」という声が出た。帰宅後一首の歌が浮んだ。

月に好く 花にまたよし雪によき

玉川郷(ぎょくせんきょう)は天国の花

その時玉川郷という名をつけたので、それが今の五六七教関東別院である。ところがそこは気に入ったものの、値を聞いてみると九万八千円というのである。しかし私の懐には五千円しかないので、金が足りないから難しいという返事をしたところ、先方は借金に苦しめられていて一日も早く移転しなければならない事情なので、一万円の手金を打ってくれればすぐにも立退くというのである、そこで私も欲しくて堪らないから手持の五千円と借金を五千円し、合せて一万円を渡し、ともかく引移る事となった。その時が昭和十年十月一日である、それからそこを大日本観音教会本部とし、治病を兼ねた宗教活動に発足する事となったのである。予期のごとく漸次発展し、ようやく付近に知らるる事となったところ、翌十一年八月当局の大弾圧が来、一頓挫の止むなきに至った。その模様は順次かく事にする。

 

『麹町時代』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

前項のごとく、私は昭和三年から昭和九年まで六年間、霊的研究とあいまって、神霊療法による病気治療の確信を得るまでに至ったので、これを引揚げて世に問うべく決意した。そこで、その頃の東京市のなるべく中心を選ぼうとして、麹町平河町に、ピッタリ条件の叶った貸家があったので、そこを借りて、信仰的指圧療法という建前で治療所を開業した。そこを応神堂の名をつけ、五月一日から始めたのである。最初は一日数人くらいの患者でしかなかったが、漸次殖えるに従って段々手狭になって来たので、麹町半蔵門に私が経営した大本教の分所を利用する事となった。ちょうどその頃私は大本教を脱退し、右の分所は私の自由になったからで、そこを治療所とし、毎日通って治療に従事していたのである。

ところが、『奇蹟物語』にかいた霊写真の奇蹟が表われたのが十月十一日であった事と、病気が治った信者の卵のような人が相当出来たので、一つの新しい宗教団体を作るべく計画し、ようやく準備も出来たので、その年の十一月二十三日仮発会式を応神堂で執行し、翌十年正月元旦半蔵門の出張所で、正式の発会式を行ったのである。名称は大日本観音会といった。ここで大黒様に関する奇蹟を一つかいてみよう。 よく人に聞かれる事は、本教の信者は必ず大黒様を祀るが、観音様とどういう関係があるかと訊かれるが、これはもっともな話で、今日までそういうやり方は世間になかったからである。私が大黒様を祭り始めたのはこういう訳があった。確か昭和八年だと思う。数ケ月赤字が続いた事があったので、いささか心細かったところ、時々私のところへ来るある銀行員が古い大黒様を持っているが、差上げたいというから、私も快く貰って、観音様のお掛軸の前へ安置したところ、その月から赤字がなくなって、段々金が入るようになった。そこで、私もなるほど大黒様は確かに福の神だという訳で、それから大黒様を人に頼んだりして出来るだけ集めた。一時は五十幾つ集まったが、観音会が生れて間もなくある日部下の一人が、麻布〔青山〕高樹町のある道具屋に等身大の素晴しい大黒様があるとの報告で、早速私は見に行ったところ、なるほど時代といい、作といい実にいい、売るかと聞いたところ、これは売物ではない自分が信仰しているのだから勘弁してくれると言うのでやむなく帰った。それが十二月の半頃であった。するとおもしろい事には、大晦日の日、道具屋から電話がかかった。「先日の大黒様はお譲りしてもいいが、思召(おぼしめし)があればすぐにお届けをする」というので、私は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。その晩自動車で届けられ、早速御神前へ安置した。その時の道具屋の話がおもしろい。「先生が御覧になった数日後夢をみた。それは大黒様が紫の雲に乗って自分の家からお出かけになったので、眼がさめてから、これはもう自分との縁は切れたものと思ったが、いまだなかなか思い切れなかった。ところが今日の大晦日はどうしても追つかないので、手放す事になったのである」という。私は、「いくらか」と訊くと、「そういう訳だから幾らとはいえない。包金で結構だ」というので、私は物価の安いその頃であったから、三百円包んでやったのである。ところが彼は帰りがけに哀惜の情禁じ難いとみえ、大黒様にすがりついて、ボロボロ涙をこぼしていた。その事あって以来収人が俄然として増して来たという事実は、全く大黒様のおかげとしか思えないのである。お名前は、「みろく大黒天」とつけた。麹町時代、玉川時代来た人はよく知っている筈である。この大黒様を写真に写した事があるが、その際はっきり円光が表われたので、当時信者の乞いにより数百枚頒布したのである。これでみても普通の大黒様ではない事が分る。製作年代は豊臣時代と思われ実に名作である。

 

『大森時代』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

いよいよ全身全霊を打込み、神の命のまま進む事となった。何しろ神の意図が半分、自己意識が半分というような訳で、普通人より心強い気もするが、普通人より心細い気もする。もちろんそれ程の経済的余裕もなく、まず数ケ月維持するくらいの程度しかなく、確実な収入の見込もない、実に不安定極まる生活ではあるが、しかし絶間ない奇蹟や神示のおもしろさで、経済不安など忘れてしまう程で実に、歓喜の生活であった。ただまっしぐらに霊的研究と病気治療に専念したのであった。

病気治療といっても医学を修得した私でもなく、ただ種々な病気にかかり病院へ入院した事三回、医師から見放された重病二回あり、四十歳頃までは健康の時より病気の時の方が多いくらいで、全く病気の問屋であったため、その都度医学書を読み耽ったまでである。ざっとその種類をかいてみると、十二、三歳頃までは、腺病質のいわゆる虚弱児童で、薬餌に親しみ通しであった。それでも小学校だけはどうやら終えたが、子供ながらも、他の健康児童をみると実に羨しかったものである。しかし不思議にも学校の成績はよく、大抵主席か二番より下らなかった。十四歳で小学校をおえ画家の目的で美術学校予備校に入学したが、数ケ月後眼病に罹ったので中退、二ケ年有名な眼科医を巡ったが、ついに治癒せず諦めてしまった。ところが間もなく肋膜炎に罹り、大学病院施療科に入院、穿孔排水したところ、二百グラム余り出た。これは半ケ年くらいで治癒したが、その後一ケ年を経て再発、種々の医療を施したが、漸次悪化し、一年余すぎた頃肺結核となり、当時有名な入沢達吉博士の診断を受けたところ、不治の宣告をされた。それが菜食療法で全治したのである。

その後数年間一切を放擲(ほうてき)し、健康恢復に努めたので、漸次恢復し、ようやく自信を得るに至ったので、二十五歳独立して小間物屋を創(はじ)めた。素人であり、しかも母と親戚の娘と私との三人暮しで、九尺間口の借家で店の事は一切万事私一人でやったのである。当時の模様をざっとかいてみるが、朝起きるや、掃除一切はもちろん商品の仕入れも販売も私一人でやったのだから大変である。しかも全然経験がないから、商品の用途さえ分らない。その都度母に聞くのである。これは何という名前だ、頭のどこにさすものだというような訳で、化粧品から油、元結に至るまで、俗に種類の多い事を小間物店というくらいだから、覚える事は容易ではない。その間客は絶えず買いに来る。当時、スキ油一ケ、元結一束など一銭であったので、一銭の客にも一々有難うをいい頭を下げるのだから堪らない。それがため半ケ年くらい経った頃とうとう重症な脳貧血に罹ってしまった。何しろ電車通りへゆくとその音響のため、眩暈がして倒れたり、また十分も人と談話をすると、口が利けなくなるというくらいであるから、その苦痛ははなはだしいものであった。二、三ケ月医療を受けたが効果がないので、人の奨めで灸療法を受けたところ、やや軽快に向かい、その先生から運動を勧められ、晴天の時は一里以上の歩行をした。それが効果を奏し、二、三ケ月でほとんど全快したのである。ところがその空白を埋めるため馬力をかけた事と、商売の方も相当熟錬したので非常に繁昌した。しかし前途を見る時、小売より問屋の方が有望と思えたので、多少儲けた金で創めたところ、すこぶる順調に発展十年くらいで一流の問屋となったのである。その間にも一年に数回くらい病気に罹った。その中で重症なチブスに罹った時は遺言までしたくらいで、入院三ケ月で全治した。また痔出血で入院一ケ月、その他胃病、リョウマチ、尿道炎、頻繁な扁桃腺炎、神経衰弱、頭痛、猛烈な腸カタル等々数え切れない程である。

それから間もなく失敗、その結果信仰に触れる事になったのは別項の通りである。ここで私の生れた頃の事をかいてみるが、私の生れたのは東京都浅草橋場という町の貧民窟であった。今も微かに覚えているが、親父は古道具屋で店が三畳くらい、居間が四畳半くらいの二間きりであった。そこから十町くらいある浅草公園に毎晩夜店を出しに行ったものである。私が物心がついてから父からよく聞いた話であるが、今夜幾らか儲けないと、明日の釜の蓋(ふた)が開かないというので、雨の降らない限り、小さい荷車へ僅かばかりのガラクタを積んで母は私を背負い、車の後押しをしながら行ったという事である。そんな訳で赤貧洗うがごとく、母は今でいう栄養失調という訳で、乳が碌々(ろくろく)出ないので近所に蓮宗寺という寺の妻君に乳貰いに行ったものである。それから私が小学校を出る頃、家計もようやく多少の余裕が出来るようになったので、美術学校へも入れたのである。従って子供の頃と、世帯を持ってからも、相当期間貧乏の味と金の有難味を充分植えつけられたので、それが非常に役立っており、今もって無駄と贅沢は出来ないのであるから、むしろその頃の逆境に感謝している次第である。

その後の病気をかいてみるが、別項のごとき歯痛や心臓弁膜症、疥癬等も随分苦しんだもので特に歯痛で悩んだのは、大変なもので左にかいてみる。

今から三十五年程前、私は慢性歯痛で苦しんだ事がある。何しろ一本の歯の痛みさえつらいのに、毎日四本も痛むのだから堪らない。当時米国で長く開業していた有名な某歯科医に、一年くらいかかってあらゆる薬をつけたが治るどころか、益々悪くなるばかりだ。ある日右の歯科医はこう言った、「私が知っている限りの薬はみんなつけたが治らないから、これ以上どうしようもない。来月私の友達がアメリカから帰ってくるので、いくつか新しい薬をもって来るだろうから、それをつけてみるより外に方法がない」と言うのである。

この程の歯痛の原因が偶然なある事により、薬毒という事が判ったのでピッタリやめてしまった。ところがそれから段々よくなって今日に至った。右のある事についていずれ詳しくかくが、当時私は余りの苦痛に何度自殺を企てたか判らないくらいで、右のある事は私の生命を救ってくれたのである。