『小児麻痺』

「アメリカを救う」昭和28(1953)年1月1日発行

この病気は霊的と体的とがあるが、米国に多い小児麻痺はほとんど体的のようである。今それを詳しくかいてみるが、生まれながらにして歩行困難な症状は、言うまでもなく親からの遺伝薬毒と、生まれてから入れた薬毒が、足のいずれかの局部に固結するためであるから、よく診査してみると必ず固結があり、圧(お)すと痛むから直ぐ分る。その個所は足の裏の一部、甲の横、踵(かかと)、指等がほとんどであるが、稀には鼠蹊部にある場合もある。いずれも何ら手当せず、そのまま放任しておけば、長くはかかるが僅かずつ治ってゆくものである。ところがそれを知らないから、注射、塗布薬、電気、光線療法等を行うので、反って不治にしてしまうのである。

次に霊的の原因をかいてみるが、これは日本に多い症状で、米国には割合少ないようである。これは半身不随、つまり片方の手足がブラブラになり、智能低下、言語不能等、中風そのままである。これは最初、二、三日間高熱が続いてから発病する場合と、突如としてそうなる場合とがある。よく平常通り通学していた児童が朝起きると右の症状になっており、愕然(がくぜん)とするという全く恐ろしい病気である。この原因は脳溢血で突如として死んだ老人の霊が憑依するためで、中風と同様であるからよく分る。ではなぜそうなるかというと、脳溢血で急死するや、霊界に往(い)っても死に対する霊的知識がないから、自分は相変らず生きていると思うが、肉体がないので遮二無二(しゃにむに)肉体を求めるが、憑霊の原則としては、無縁の者には憑れない事になっているから、自分の霊統を求めるが、その場合小児の方が憑り易いので、多くは孫に憑るもので、これは事実がよく示している。従って霊的小児麻痺の場合、よく調べてみると必ず脳溢血で死んだ祖父母の霊か、稀には親戚の老人の霊もある。この霊的小児麻痺は、信仰より外に治しようがないのはもちろんである。

御蔭話(小児麻痺)

(1)山口県S・K

忘れもしない本年四月一二日の朝、前夜迄何の前触れも無撒く元気だった次女J(満二歳三カ月)が、中逸きませんので、常日頃からよくふざける次女の性質上又かと放って置きました処、本人が母ちゃん起きられんわね」といいますので妻が行って見ますと、両足をぶらぶらして踠(もが)いて居ります。余りの変り方に「これは大変医者だ」と近所の掛りつけの医者に診せました処、首を斜げて「これは大変です、自分の手では責任が持てないから整形外科に」との事で慌てて整形外科医に見せました処、初めの医者と同じ事を言うので全く眼先が真暗になり、最後の頼みと、以前から商売上のお得意であった小児科専門のT医博に相談しました処、T医博は私を診察室の側の別室に招き、部厚い医学の書物を開いて深刻な溜息と共に「Sさん今の世の中にはまだまだ医者で解決出来ない病気が相当ありますが、貴方の子供さんはランドリー氏病という小児麻痺の中でも性質の悪い重症で、医学上原因も、確かな治療も無く、殆どが死の転機を見るという事になっております。併し万一の奇蹟も無い訳でも無く、又新薬も次々と出て居りますから、この際私も全力を尽してやって見ます。だが生きるも死ぬるも一つの運と思って私に任せて戴きたい」との言葉に暗闇に突落された様な気になり乍ら、さりとて外に術もなくその言に従い入院して一家付添いで寝ずの看病をし、T医博も又あらゆる新薬を用いて治療しましたがその効なく、二日目には早くも両腕の自由を失い、三日目には口から涎を出して呼吸は逼迫し、T医の態度も只事ではありません。「医学でも解明出来ない不治の病に取憑かれた事がこの子の悲しい宿命なのだ」と腹の中では諦め妻にも覚悟の程を申し渡しました。

とは言うものの病床に横たわる愛しいJの顔を見れば、何とか救ってやりたいと思案はしますが施し様も無く、茫然として居ります処へ同業者のYの奥さんが来て、「こうなれば神様にお縋りするより外はありません。私は石槌大権現さんを信仰して居りますが中々よく言うことが当ります。明日是非行ってその先生に見て買ったら」との親切な言葉と子供への愛情にひかれて翌日御参りしてその先生という人の話を聞きましたが、どうも要領を得ない話で腑に落ちぬ処があるのです。病院に帰って見れば子供は愈々脳を冒され始めたらしく、歯ぎしりをし虫の息で、もうこれ迄かと思う程でした。この時私の頭にサッと閃いたものがあるのです。実は商売の取引先で小倉市のCという陶器問屋の番頭さんでAさんというお道の信者さんが前々から商用で来られる度に救世教の話をして居られました。私も師範学校時代、軍隊生活時代に「信仰と人間」という事には、かなりの関心を持ってはおりましたし、或程度宗教の本等読んだり聞いたりしておりましたが、どうもAさんの言われる事が全幅的に賛成も出来ず余り取り上げて居りませんでした。しかし危篤のJを眼前に見てあらゆるものから見放された私としては、「溺れる者は藁をも掴む」の譬の通り、早速Aさんに連絡しました処、出張中との事に落胆しましたが、更に勇を鼓し吾身に鞭打ってAさんから話を聞いて居たUさんを通じ、H支部のM先生に連絡を取って戴きました処、御親切にも早速その晩病院迄来て御浄霊をして戴きました。「必ず御守護が戴かれます。だがこの侭では薬毒が入りますからよくありません」との御言葉に一寸ためらいましたが、「どうせ医者の方から見放された病気だ、同じ死ぬなら家で死なした方がこの子も喜ぶだろう。御浄霊とかで治るか治らないか判らないが、まあ一つお縋りして見よう」と妻にも決心させ、近親の猛烈な反対(特に妻の妹の主人が外科医です)とT医の再三の熱心な引止めも押切り、翌一七日退院(発病六日目)一人日にB町の中教会にお参りさせて戴き、K先生のお話を聞いて御浄霊して戴き「大丈夫治りますょ」との判然とした御言葉に、実の処六分の希望と四分の不信を抱き乍ら毎日M先生の御慈悲に溢れた御道の話と御浄霊を戴きました。四月二〇日頃大浄化が起り、泡を吹いて呼吸困難となりましたが、慌てて驚く家中の者に「これは御浄霊に依る大浄化だ」と言い聞かせ、一心に明主様にお縋りしました処不思議にも治まり、その晩からはよく眠る様になり、二、三日後には食欲も少しずつ出て参りました。「もう大丈夫です」とのM先生の御言葉に力を得、四月二八日妻Rに御守様を戴かせて貰い、更に私も五月八日に入信させて戴き、御浄霊を続けて居りました処段々食欲も増し、涎は止り、泡も自然と治まって発病後一カ月目には両肩が、四〇日目には両手が、五〇日目からは両肢が少しずつ動き出し、二カ月目を過ぎた今日では、もう指先と足先に力が入ればいいという段階に迄ならせて戴き、近所の人も皆吃驚して居られます。二、三日前にT医と妻Rが偶然に会う機会があったのですがT医もJの容態を見て大変驚いて「何故こんなに治ったのでしょう。全く奇蹟ですね。お灸かマッサージでこんなに治ったのですか」「いいえ別に」「兎に角不思議ですね。これは医学上の研究問題です。学界に発表したいですから。時々来て見せる丈で良いですから」と話をされたそうです。又妻の妹の主人のY外科医も先に申し上げた通り退院大反対論者で、当時私と大議論をした程でしたが、最近ではこの厳然とした事実の前に「奇蹟だ、奇蹟だ」と不思議がり、「救世教の医学の本を兎に角一度見せて下さい」と迄申して居りますので、M先生に御願いして置きました。更に天理教の長年の信者であった母も、この事以後は御道の話を聞いて大変熱心になり、只今乳癌の御浄化を戴いて居りますが、中教会支部にも御参りさせて戴き御浄霊も戴いて居りますので、必ず御神徳戴けることと確信致して居ります。こうして暗雲低迷の私の家も、明主様の御光燦然として希望と喜びに満ち溢れ、商売の方も又今迄の無理を是正して狭く貧しい乍らも楽しい家として、安心立命の日々を送らせて戴いて居ります。この上は一家共々に益々明主様の御教通り精進致しまして、地上天国建設の御神業の万分の一をも輔翼し奉り、以て御高徳に御報いする所存で御座います。

明主様有難う御座いました。今後共益々御守護を賜わります様謹んで御願い申し上げます。(昭和二七年七月一五日)

(2)長崎県T・S

今年八歳八カ月(小学三年生)の三男の子供が、ニニ年八月より急に小児麻痺を患い、両脚歩行不能となり、立つ事も出来ない有様となりました。以後一年有余入院加療するもその効認められず、世の人々の噂の名医を探し求め、或は神仏に縋り、遠くは鹿児島方面に、近くは市内を歩き廻るもその効空しく徒らに迷い、二五年度より自然療養の外に道は無く、小学一年は毎日背負って通学し、二年生から松葉杖に縋り通学し今日にいたり、親心に子供の姿を見ては毎日暗涙に咽びました。処が娘の嫁ぎ先のM様が「子宮癌で入院寸前に御浄霊にて御救い頂いたので貴方も是非」との御奨めにて、五月一八日初めて御参り致しました。その日は佐世保支部が開かれた初めての御目出度い日で、半信半疑のまま御浄霊を御願い致しました。一五分位たった頃「オヤ、動く様ですね。前に出してごらんなさい」との先生の言葉に、子供はスッと足を前に出しました。なんと驚くではありませんか。五年間動かなかった足でしたのに、あまりの不思議さに真実であろうかと我が眼を耳を疑った位でした。並いる参詣者も「マアー」とか「フーム」とか驚きの声を発しない者はありませんでした。

御世話下さいましたM様は涙を流して喜ばれる有様でした。私よりも本人自身がどんなに嬉しかろうかと、嬉しさに胸も一杯になりました。その後四、五回位の御浄霊頃よりアグラも出来る様になり、現在では相当足にも力が入り、ひとりでに立とうとする傾向にあります。尚寝たままで足を上にあげ得なかったものがグッと上にあがる様になり、又立つたままで膝が上にあがる様になりました事は、如何に力がはいりつつあるかを立証するものです。そして非常に冷い足が、御浄霊中は焼ける様に熱をおびて来ました。本人は御浄霊を頂くのが何よりも楽しみらしいのでございます。私が何時も背負って御参詣に連れて行きますが、私の帰るのを待てず、一人で松葉杖に縋りつつ御参り致します事が再三でした。更に以前は寝る時えびの様な恰好で眠って居りましたのが、最近ではさも楽しそうに大の字になって眠って居ります。
これらすべてを綜合する時、衷心ょり神様の深き御恵の難さに感謝申し上ぐると共に、如何に御神業の偉大なるかに感激致して居る次第であります。
明主様、誠に有難う御座います。厚く御礼御報告申し上げます。(昭和二七年七月一七日)

(3)島根県U・M

明主様、御恵を頂きまして御礼の御報告申し上げます。私は妊娠三カ月目より血色が悪くなり、足はダルクなって来ましたので、お医者の診断を受けましたら心臓脚気の病名をつけました。毎日毎日薬を服用致しますけれども一向良くなりません。外の仕事等は全然出来ず家の中でようやく動いている程度で御座いました。これではとても安産は出来にくい事と思い心配していました処、案外にもたやすく男の子を出産致しました。けれども一カ月後より乳が出なくなりましたので、その当時の配給のミルクにて育てました。私が妊娠中から薬浸りで居りました為に、乳が出なくなったものと思っています。産後の私も病身となり、子供も発育充分でなく、親子ともに暗い月日を過して居りました。それまで健康な一家でありましただけに、余計に家内中が途方に暮れてしまいました。年月の経つのは早いもの、三歳を迎えましたのに子供の足は立たず、言葉はわからず、これではと早速医者の診断を受けましたけれども、病名は付けて呉れず「治る見込みは難かしい」とのことでした。これで一生の不具者になるかと思うと、心配やら可哀相やらで寝ても起きても居られません。スッカリ心身が弱くなってしまいました私には、並大抵の苦労では御座いませんでした。そういう状態のある日、親戚から見舞に来て呉れました叔母が、「救世教という有難いお蔭の宗教が、出雲にも大変広まっていて、医者でなおらない病気がどんどんなおるそうだが信仰して見たら」と申され、それならと早速お願い致しました。昭和二四年三月十五日、叔母の知人で熱心な信者さんであるI様の道案内でS先生がおいでになりまして、救いの道のお話を詳しくお聞かせ下さいまして、早速入信の手続きを取って貰いました。そして五月一七日の月並祭に、出雲市のO支部へ母子共主人に連れられ参拝致しました。K先生より御講話をお聞き致し、お光のお守様を頂きまして御浄霊をお受け致しました処、背の方を御浄霊下される時何か延髄辺がスーッと風に当ったかの様な感じが致しますと、後は温くなって参りました。実に気持がよくなりました。これなら屹度二人とも御神徳が頂かれる事と確信致しました。次に子供の病気については御親切に教えて下さいました。「妊娠中から服用された薬毒の為の小児麻痺だと思いますから、毎日根気よく御浄霊を受けられましたら、必ずお二人共全快致されます」と力強く申されましたので、毎日御浄霊を続け、又教会の月並祭毎に親子共参拝を続けさせて頂きました。お蔭様に依り私は家業の手伝が出来る程元気になりました。

一〇月には御屏風観音様をお祀りし、段々と家内中が入信させて頂き、二五年一月には光明如来様を御奉斎させて頂きました。それから家内中が一心に光明如来様にお縋り致して子供の御守護をお願いしましてからは、生後四年になっても這う事も出来なかった子供が、いざりばいをする様になって来ました。本当に家内中が声をあげての喜びで御座いました。四月には一人にて立つ様になり、八月には歩き始めました。三月一五日の紐落しには、氏神様へ靴を履いて参詣致しました。その喜びは筆や口には尽されません。家内中で御神前で声をあげて泣き乍ら御礼を申し上げた次第で御座います。
小児麻痺という呪われた病気の為、一生を不具廃人として日蔭者の生活を送る不幸な人が、世界中には如何に多い事で御座いましょう。現代医学もなすすべを知らないこの恐るべき一生の難病が、たった一ヵ年たらずで全快してしまったので御座います。たまたま外国で小児麻痺なんかが特殊な困難を極める治療法で治った例等リーダーズ・ダイジェストなどに報じられていますが、これらの方法はとてもとても一般家庭で出来得る事ではなく全く不可能とも言うべき方法でありまして、しかもそれを完全にやったとしても、全部が全部完全に治療するかどうかは疑わしいと思われましたので・・・・

明主様の御示し下さいます御救のお力と御教は、誰でも簡単にしかも楽しみ乍ら出来、その上に短期間に効果一〇〇パーセントなので御座いますから、その有難さは、又ひとしおであります。ああ!どうしてこんなに有難いお道を、尊いお方を、世の中の人は嘲笑するので御座いましょう。・・・・それはやはり御救い頂きました私達の真心が足りないのだと存じます。本当に申訳ない事で御座います。尚本年に入りましてよりは大光明如来様も御祀りさせて頂き、又愚息(W)事は神仙郷へ御奉仕をさせて頂き、自然農法の上にも大きな御恵頂き、一から十まで誠に御守護の連続でありまして、病気地獄の一家が今では全く天国一家で御座います。まことに有難う御座いました。(昭和二七年二月二日)

(4)岡山県W・T

私は男二人女一人の三人の子持でございますが、末っ子のY(四歳)は上の二人に比べて生まれつき元気でよく肥えていました。処が今年旧正月の二日に風邪引らしい熱を出してぐんぐん熱が昇り、仕方がないので近くの医者を呼んで診て貰いました処「余り熱が激しいから肺炎になるかも知れん。ペニシリンを一本注射して置けば大丈夫だ」との事で、転ばぬ先の杖と思い込んで早速うって貰いました。新薬の効果はてきめん、熱がぐんぐん下ってすやすやと眠り出しました。有難い薬が出来て病気も心配ない、肺炎なんか問題じゃないなあ、と思って安心して寝ました。

ところが朝になって驚きました。熱は無いんですが泣く顔は物凄く、左目はぽかんと開いた儘右の目だけつむっているし、口は右へ引き吊って「へ」の字を逆さまにして曲げたよううな形、右半面は泣き顔で、左半面は無表情、人形その儘の顔、私は暫く見とれて考えこみました。あまりの変化に何が何だか判らなくなったのです。妻は「どうしようか、どうしようか」と言うんですがどうする事も出来ず、矢張り医者に掛るより方法はないと朝食も食べずに医者へ行きました。医者も首をひねって「子供のこんなのは初めてです。大人の顔面神経麻痺というのと同じだ。注射を気長にやっていれば治る」と言って注射をしてくれました。二、三日通いましたが何だか心細くなったので中央病院の診断を受けに行って見ました。そして小児麻痺の病名を付けられ、毎日毎日雨の日も風の日も、やれ皮下注射だ、脊髄注射、電気治療と通いました。朝起きると子供はもう泣いております。お菓子をやっても玩具を見せても釣られなくなりました。「好いベベは着ん。お母ちゃんもベベ脱いでおんぶして・・・・」「背中の注射せずに手々だけ注射する」と必死になって頼む様にまでなりました。そして連れて行く親も連れられて行く子も辛抱出来なくなり、あまり効果もないのに毎日注射代やら電気治療代やら金ばかりが気にかかり、遂に病院も次第に頼りなくなり、或日医者に尋ねた処、医者は「早い子は三週間か五週間で治る。一年も通えば治りゃせんかと思うが、必ず治るとは請合えん」と当にならない返事なので、もう仕方がないと諦めて病院通いをやめました。その当時の病状は泣いたり笑ったりすると顔の半面がゆがみ、言葉もはっきりせず、足もとぼとぼと頼りない歩き振りでした。

丁度この様な時に、十数年来の胃の痛みで苦しんでいた私は、信者のMさんから御浄霊を頂き、たった一回で痛みが軽くなった不思議さに教会へお参りする事になり、その二日目(四月三〇日)に子供の病状を話しました。私のは胃の痛みだから治るだろうが、小児麻痺は駄目なんだろうと思って話したんですが、案に反し「治りますよ。明日から一緒に連れてきなさい」と言われました。その時丁度子供は下痢をして居りましたので、下痢だけでも治して貰おうと思って毎日連れて参りました。自分の胃が日に日によくなるので、その中に子供も必ずよくなると信じられるょうになりました。
五月三日には私が入信、有難い御守様を頂き、朝は教会で晩は家で私が御浄霊させて頂きました。処が子供の下痢は次第に激しくなり、身体は次第に痩せ細って顔色も悪くなってくる。近所の者は蔭口をたたく、度々迷いそうになるんですが、どうしても信ぜざるを得ない事実は私の身体に表われて来ます。私の胃病の苦しさは私の毎日の下痢の度に軽減して行く事実です。どうしても神様はないとは思われません。子供の便も大変な異臭がある。-着 せた着物にまで臭気がうつり、三日と着せて居られない。しかもその臭気が不思議と薬の臭いなのです。「治る、大丈夫治して頂ける」と信じていました。そして母と妻を信じさせるよう薬毒の恐ろしさについて話しました。
悪くなってからO先生が毎日通って下さいました。そして浄霊を受ける度に血色を盛り返し、元気を恢復する子供を見て、又先生の態度、自分を忘れた惟神の真心に家族一同異存なく信じさせて頂けました。その後近所の人が心配して「親は信仰でなおっても、子供だけは医者へ行かんと取返しのつかん事になる。おばあさんはどうしてあんな事させとく?」とか「お母ちゃんはあれ程悪い子供を見殺しにするのか」とか、何度も忠告らしい事を言われますが、動じなくなりました。一時は泣く声も出ず、坐る事も出来ず、眠っているのか死んでいるのかと鼻の穴を耳であたった事も度々でした。二日三日と生死の境を彷う様に思われましたが、四日五日と経つにつれて声も次第に元気になり、顔色も日増に恢復、一カ月後には前よりも元気で、顔の引吊りも半減、言葉遣いもすっかり変って来ました。そして日増に肥えて足の動きも人並になりました。先々月血便の浄化が連続三日続きましたが、血便しながら走り廻って遊んで居りました。現在でも時々下痢の御浄化を戴きますが、その度に健康を増し、小児麻痺の症状は最近すっかり全快、言葉遣いなど大人そこのけで、御神前で御礼をして「かむながらたまちはへませ」と拝んで居ります。そうした子供を見る度に、遠い昔のようにも又つい昨日か一昨日のことのようにも思われ、あまりに大きな御守護、明主様の御恩に熱いものが込上げて来て、御神体の御文字がかすんで拝せられます。
入信以来幾多の御蔭を頂いた中から次男Yの戴いた御蔭を御報告させて頂きました。
明主様有難う御座いました。(昭和二六年三月八日)

(5)東京都I・T

私は昭和二四年田舎に居る頃入信致した者でございます。それが二四年八月現在の地に出て来てより田舎の方の支部とは連絡も絶え、尚東京に来て日浅く、教会の所在も分らぬままに、自然に一人信仰になって、明主様とのおつながりが次第に細くなって来ていました。
去る四月二人日夕方、今迄元気だったHが急に熱を出して苦しみ始め、たった一夜にて無残にも右足がきかなくなって仕舞いました。生まれてより三年半、無事に大きくなって来たのに、この儘不具にして仕舞うのかと思うと夜も眠られず、子供の将来の事など考えては食事も咽喉を通らず、今はきかなくなった子供の足を見つめては心配にて、不安は不安を呼び、目の前が真暗になり、壁に突当った様な気持でした。これまでにも、幾度か有難い尊い御守護を頂いて居りますので、一人信仰とは言え、自分では熱心に信仰して居る積りで居りましたが、いざ大きな浄化を戴きますと、一人信仰の悲しさ、不安が次第に大きく頭をもたげて来て、心は乱れ、迷が起きて来ます。それでも心の一隅から「そんな迷を起してどうするか、一生懸命におすがりすれば大丈夫だ」と励ますものがありましたが、近所の人々は「それは小児麻痺かも知れないから、一時も早く医者へ連れて行った方が良い」と口を揃えて言って呉れます。そして「幸い治った人もある」と聞き、私の気持は次第に邪神の擒(とりこ)となって行きました。そしてとうとう医者へ―。
医者もやはり小児麻痺と診断して、注射をしました。処が、何と野蛮な、そして残忍な現代医学でしょう。粒叫ぶ幼な子を大人が三人四人掛りで押えて、あの無気味な針を何の容赦もなく大根にでも刺す様にブスリ―子供はもはや恐怖の頂点に達し、呼吸もとまるかと思うように泣き叫ぶのです。見るに耐えられなくなった私はとうとう脳貧血を起しそこに倒れてしまいました。かくするうちに注射も終ったらしく、恐怖未だ去らぬHが妻に抱かれて私を起しに来ました。可愛いい吾子をひどい目に合せて自分は何という馬鹿だったのか、と思った時、始めて医学では絶対に歩く様にはならぬと気付きましたが、念の為医者にたずねて見ました。
私「この注射で必ず治りますか」
医「それはハッキリ言えませんが、この子供の体質に合えば治ります」
私「合わなければ駄目だという事ですか」
医「合わなければ仕方が有りません」
私「それでは注射が子供の体質に合った場合には、一体何本位で治りますか」
医「それは今、何本で良いという事はハッキリと言えませんが、やって行く内に様子を見ていて、これ位で良いと思った頃に注射は止めます」
私「はあー、そうですか(ここで私は医学の蒙昧さと不徹底さを痛感しました)。しかし、それでは全治というわけには行かないと思われますが、その後はどうするんですか」
医「後はマッサージを根気よく続けるより仕方ありません」
以上の様な事を聞いて、現代医学の無能をはっきりと知りました。この上は明主様にお縋りしなくてはならない。何とかして教会を見つけ度いと思いました処、何という有難い事でしょう。念ずれば通ずとは正にこのことと思います。図らずも東京新聞紙上に「救世教一家に告ぐ」の記事があるのを見ました。それには丁寧にも新聞記者は番地まで調べて書いてありました。そして其処が私達の望む教会、即ち中教会の会長先生のお宅でありました。早速妻がその記事を切り抜き、それを頼りに訪ねて行きました。途中二度程人に聞いただけで、何の苦労もなく見つかりました。
一〇ヵ月振りで拝ませて頂いた御神体、広野で母に会いし子供の様に、ただ嬉しさに胸は一パイになって、暫くは、大光明如来の御字を、身動きもせず、くい入る様に見つめて居りました。この感激、この嬉しさ、只々涙が頬を伝わるのみです。信者ならでは到底味わえぬ喜びです。会長先生を始め教会の皆様に初の御挨拶をしましたがお道にある人は何処の人も同じです。明るい柔かい気持の方ばかりでした。初対面でありながら、さながら十年の知己の様な親しさを感じました。
早速先生に見て頂きました処、先生はいとも簡単に、「安心しなさい、教われますよ。一〇回位御浄霊をすれば歩く様になります」とはっきりと言われました。ああ、何という力強いそして自信のある言葉でしょう。現代人より絶対信頼されている処の医者でさえ、「治る」とははっきり言えなかったものを・・・・
神に仕える人にしてこそかく言えるものと御神威に只々頭の下る思いでした。「これで救われる」「もう大丈夫だ」と安心を致し、総てを神にお任せしました。時に五月六日、麻痺してより八日目、これまでは良くなる処か注射をして余計悪くなり、一寸動かしても痛い痛いと泣く様になり、小便をする事さえ出来ぬ状態でした。それが一回の御浄霊でその夜は痛いと言わなくなり、大変楽に休ませて頂きました。二回目には坐る様になり、三回目には立っている様になり、自分でも「立った、立った」と言って喜び、親諸共喜びの涙でした。四回目には窓に掴まって歩き始めました。「この分では一〇回にならず共歩くよ」と妻と共に喜びました。五回にて今度は窓につかまる事をやめ、三歩四歩と歩を運ぶ様になりました。ああ良かったなあと思うと共に家の中が明るくなり、丁度赤ちゃんが歩き始めた時の様に、親も子も歩く事に夢中になって喜びました。七回目にはもう家の中をぐるぐると歩き廻り「H歩けるよ」と言って喜ぶようになりました。八、九回と回を重ねる毎に足取りはしっかりとして来て、先生の言われる如く、一〇回目を終了した時は、少しびつこを引く程度にて、外で友達と一緒になって電車ゴッコや鬼ゴッコと、終日遊ぶ様になりました。
何という偉大な御力でしょう。一回目より二回目とぐんぐん変って来て、この間大体一日おき位に通い、僅か一カ月足らずにて、こんなに元気に初夏の日を一ぱい浴びて額に汗を流して遊び戯れる様になったのです。

振返って見るとき、一ヵ月前のあの暗かった私達一家も、今はこうして親子共に明るく楽しく過させて頂ける様になりました。これもひとえに明王様のおかげであります。更に会長先生始め教会の皆様方の御尽力にも、深く御礼申し上げます。
この上は、一人でも多くの人にこの絶大なる福音をおしらせし、大御恵の万分の一にもお報い致したいと思います。感謝の余り拙文をも省みずここに御報告させて頂きました。
明主様、有難うございました。(昭和二七年六月二七日)

(6)大分県E・F

二、三日前からKがひどい風邪を引き、早速医師に診て戴くと百日咳との事です。「子供が小さいから余程注意なさい」と言って下さり、毎日注射してもらい、薬も服用させました。割合に早く治りましたが、今度は時々高熱を出してはその為ひどい痙攣を起し、びっくりして医者を呼び、注射や下剤や浣腸等種々手当をしました。
Kも病気をする迄は丸々と太り、順調に進んでいましたのに一寸した事から取り返しのつかぬ身体になりましたのです。度々痙攣が起るのですっかり体力も落ちて何時も顔色は青白く、見るからに病身に見えるのです。それでも案外に足が早く立ち、誕生一ヵ年後には二、三歩歩く様になり、口も利ける様になっていました。五歩一〇歩と歩きます後姿を見ていると、右足を少し引ずって歩く様でありましたが、別に気にも止めませんでした。一カ月程しても矢張り同じ歩き方です。年寄りもなく子供を育てる事もはじめてですし、他所様の子供の歩き振りとは違うのにあわてて地方の医者に診て頂きましたら「カルシウム分が不足です」とか、又「その内良くなりますよ」と言って下さるので気にかかるままに家事に追われていました。
三歳になりましたが前にも増して足取りが悪く、頭も少し振って歩く様になりましたので、直ぐに別府温研で診察して戴きましたら「貴女方が血族結婚だからいけないのです。諦めるより外にいたしかたがないでしょう」と言われて全く生きる希望を失い、それでも勇気を振い翌日は亀川国立病院へ行き、小児科でレントゲンを撮り脊柱注射、温泉療法、マッサージをすれば良くなりますとの診察でした。早速通い始めましたが、脊柱に注射すれば熱を出し、その度にひどい痙攣を起していました。約八カ月程通いましたがやめる時は全く歩けなくなりました。智能もなくなり、元気で歩いていた面影は少しもなく、主人の所持品、私の衣類をすっかり金にして医者に通ったのですが、最後には全く人目にもかけられない不具者となりました。諦め様としても諦め切れず、何とかして治そうと努めましたが、その後はよく泣き、一寸した事にも熱を出し痙攣を起して全く腫れ物に触る思いでした。「医者をやめて丸三年、もうどうなってもいい、お前はそんな身体で生きていなくてもいいから死ね、父ちゃんの所へ行け」と腹立ちまぎれに言った事も度々でした。何かにつけて腹立たしく恨めしい日々を送るうち二六年一月一日よりKも朝から夜寝る迄泣き続けましたが、機嫌も良くなりました時は以前にも増してみにくい身体になりました。これが御先祖のお知らせと言うのでしょうか、一一日裏の叔母さんが来て「今家に手を翳して病気をなおす人が来ているから、貴女もKちゃんを連れておいで」と言って下さいました。又かと思いましたがKを連れて行って見ますと、何と十八、九の青年の方でS先生と言われ、「一二月に御奉仕から帰って来ましたのですよ」と言ってKの顔に手をかざし乍ら、種々と御先祖のお話をして下さいまして、約四十分位で終りますと、お茶菓子に出されたリンゴをKが平気で手に取って口へ持って行くのです。今迄こんな事は一度もないのに全く奇蹟です。只一度の御浄霊でこんな不思議があるものかと驚いて仕舞いました。翌日H町にお参りさせて頂き、T先生よりお道のお話をして頂き「死んだ人も生前の罪穢によって死後もその苦しみを霊界に於てつぐなうのですよ」とのお話に、今此処に目の辺りに見て、何かしら涙が込み上げて来ると共に驚き入るのでした。それから毎日参詣しては御浄霊をして頂く内に、Kも御浄化を頂き始めたのです。先生から「矢張り入れた物は出さねばなりません。そしてきれいになるのですよ」と言われ、お参りしていました。一週間目に三重のU先生にお目に掛り、お道のお話を聞かせていただき、私の胸に何かしらハッと応えるものがありました。一日もはやくお守様を戴き度くなりまして早速お願いして一月二九日、M支部にてU先生より拝受致しました。その時の喜びは何とも言えず、言いしれぬ涙が込み上げて来るのでした。余り外出の好きな方でなかった私が、お道に入ってより時々お参りするのが何よりの楽しみとなりました。

村のO様から「喘息だから御浄霊をして下さい」と言われて、何も分らぬままに光明如来様に御守護お願いし一生懸命に手をかざさせて戴きました。中学校に行く子供さんも通学が出来ず、お母さんもおふとんを巻いてじっとより掛って夜を明かす事六〇日間という、その苦しみも一度の御浄霊で楽にさせて頂いたと喜んで頂きました時は、思わずその嬉しさ有難さに、「御明主様有難う御座いました」と御礼申し上げるのでした。
Kは次から次と御浄化を頂き元気にならせて頂いています内、七月初めに主人の母が腎臓の御浄化で倒れ、医者も見放した重態でした。早速お願いし乍ら手をかざしますと、玉の様な汗を出して意識を取戻しました。夜はR先生に来て頂き、共に御浄霊をさせて戴きました。約一週間で起き上れる様になりました。家人達は「効いたのは医者か御浄霊か分らない」等と勿体ない事を申しましたが、早速C中教会に御礼のお参りをさせて戴きました。お話を聞いています内に、私には大きな御使命があることを分らせて頂き、家の人達に一日も早くこの有難いお道を分らせて戴ける日を唯一つの楽しみに念願しています。又昨年九月には、酷いルース台風に見舞われ、大分川沿岸に面した私の家も見る間にどろ海となりました。一心に明主様、光明如来様に御守護をお願いしています内、水も引き水となりましたが、その為田畑三反歩は全く砂河原となりました。私はこの惨状を見せつけられ、ああこれでH家の大きな曇りを取って戴いたのだ、これによって浄まらせて戴くのだと思いつきました時は、有難さに涙が一杯でした。
「井戸水を消毒せよ」と役場の方からカルキが配布されましたが、家では私が井戸の中に向い善言讃詞を二回奏げて一〇分ばかり御浄霊を致し、その後四、五日続いて浄霊しました。僅か一日貰い水をした丈で後はずっと家の水を使える様に澄ませて戴きましたが、家の人達はこのお道に反対ですので如何なる御守護を頂いても奇蹟と思いませんでした。こうして数多くの御守護を戴いて来ました私にも、この台風が温い春の訪れとなりました。いつ迄もお世話になっている事も心苦しく、どこか御奉仕に上り、思い切って御用をさせて頂き度いと常々思っていました。一二月初めにN出張所へお参り致しました。いつにも変らぬ優しい奥様にお浄めをして頂き乍ら「只今M支部にも女の御奉仕が必要ですが、Eさんが行かれるとほんとに良いのですが」と聞きまして急に心が動き、子供を連れて充分の御用が出来るかどうかわかりませんがT先生にお取次をして頂きまして、一四日例祭の前日M支部に御奉仕に上る身の光栄に浴し、慈母にまさる支部長先生又Y先生の特別御指導を戴いて居ります。

急にお光の強い為、Kも私も御浄化を戴き始めました。御奉仕に上る二日前、Kがひどいやけどを右手にしたのです。きっと御先祖がついて来たかったのでしょう。直ぐ御霊紙を張りまして毎日御浄霊をして頂く内に化膿して二〇日間ばかり膿が出ました。一月にはKもお守様を戴きましたが、ぬれ紙をはぐ如く元気になって行きます。真冬の事とて火鉢にかじり付いておれば中々起きる事も出来ません。言葉も何を言っているのか親の私でなければ聞き分けきれない状態でしたが、毎日御浄化を頂き、あれ程死人の如く硬直していた身体がだんだんとやわらかくなりました。いつもこたつを入れて御神殿に寝ていましたKが、僅か五ヵ月余りでもう一寸の事で独り立ちが出来る様になりました。

口も早くなりましてどんな事でも言える様になりました。以前は睡眠時間もほんの少しでありましたのが只今では一〇時間位の睡眠をとる様になり、食事もうんと戴く様になり、その間子供ではありますがよくよだれ等出しいつも下から下り物が出ています。御奉仕に上りまして五ヵ月、変り行くKを見ますと、嬉しさ有難さに一生懸命に御用させて頂き、白紙となって手をかざさせて頂いています私にしましては、全く大きな収穫です。過去七年間苦しんで来たいばらの道を、僅か一年有余で解決させて戴きまして、毎日の御守護に感謝の明け暮れでございます。
世の悩めるお母様方、救世教は邪教ではありません。迷信邪教に迷える人々を救う真の救済宗教であります。私の拙い文では充分書き表わせないのが残念ですが、皆様方の幾分の参考ともなればと思いまして、筆をとった次第です。
只ありがたさに大慈大悲の明主様に御礼申し上げます。
御明主様有難うございました。(昭和二七年六月一日)