「アメリカを救う」昭和28(1953)年1月1日発行
この病気の原因は不眠症からであって、不眠が長く続くと危険である。まず不眠の原因からかいてみるが、これは前頭部の脳貧血のためであって、初め延髄部に薬毒が固結し、頭部に送血される血管を圧迫するからで、患者の延髄部を見れば必ず固結があるからよく分る。何よりも眠れるようになれば、精神病は必ず治癒に向かうものである。そうしてこの病気は物質的と精神的との両原因があって、前者は右の通りであるが、後者は霊的、宗教的であるから、そのつもりで読んで貰いたい。これは長い間多くの患者を扱った経験によっても、いささかの誤はないのである。
さきにかいたごとく、人間は見えざる霊と見ゆる体との結合によって成立っており、前頭部が貧血するとその部分へ霊が憑り易くなる。そうして霊の物質化が血液であり、血液の霊化が霊であるから、血液が充実していれば、霊も充実しているから霊は憑れないが、貧血すると憑れる事になる。例えば血液の完全充実を十とすれば、貧血して九となれば一だけ憑れるし、二となり三となればその量だけ憑れると共に、それだけ活動力も増すのである。それが四となり五となるまではまず無事だが、五を越えると危険区域に入る。すなわち憑霊は支配的となるから、人間をほしいままに操る事が出来るので、こうなったのが精神病である。
そうして霊とはもちろん動物霊で、日本では狐、狸、天狗、蛇、犬、猫、牛、馬、鳥類その他であるが、米国でのそれは私はまだ研究はしていないが、大差はないと思う。特に日本の精神病は狐霊が最も多く、狸霊がその次くらいである。ここで注意すべきは頭脳の貧血状態は決して一定せず、一日の中、否一分間の中でも絶えず動揺増減している。しかし普通人は平常二から三くらいであるが、非常に精神的衝撃を受けた場合、咄嗟(とっさ)に五を越す事がある。そのため常軌を逸し、普段アレ程温和しい人がどうしてアンナ事をしたのか、という事があるがそれである。女性のヒステリーもこの部類である。また社会から尊敬を受けている人は、一から二くらいが常態であるが、こういう人でもたまたま思わぬ失言をしたり、失態を演ずる事もあるが、それは何らかの動機によって、一瞬三を越すからである。
右によってみても、脱線をしたり犯罪を冒したりするのは、五を越え憑霊の意のままになり、動物的行為をするのである。よく犯行後「自分はどうしてアノ時、アンナ気持になったのか」といって後悔する人があるが、それである。もちろん自殺者も殺人も同様であるから、人間頭脳の貧血程恐ろしいものはないのである。近来米国に精神病が多いのは、全く薬毒の固結が脳の血管を圧迫するからで、薬さえ廃止すればこの病気の無くなるのは当然である。
御蔭話(精神病)
(1)秋田県N・Y
私が狐に憑かれ「堂に入った気違」と迄言われ、「まだ若いのに可哀相に」と言われた程でありました。普通は脳病院に入れられてしまうところでありましたが、従兄のTさんの奨めで、馬鹿でも簡単に治る救世教で僅か一週間位で救われたのであります。気違当時のことはどんな言動をとったかは全然分りませんので、親兄弟や親戚の方々から聞いて、当時の模様を茲に発表させて頂き、あの当時の私のような状態にある人々に一日も早く一人でも多く正常にかえって頂き、又救世教では奇蹟でどんな病気や災害からも救われるという事を、声を大にして叫びたいのであります。
私は左官をやっておりますので毎日隣町の師匠の処へ行って仕事をして居りましたが、昭和二五年一〇月の初め頃だったのです。仕事が終って家へ帰りましたが買ったばかりの私の自転車がないのに気がつき、早速駐在署へ届け出たのです。巡査は「只今の出来事だったら盗んだ奴はまだそこらをうろついているかも知れないから直ぐに手配して探そう」と言って電話で方々へ手配されました。ところがその自転車が師匠の家に朝おいた儘になっていたとの事です。私は自転車に乗って帰り、途中O新道で泥棒に盗られたとテッキリ思い込んで居ったのです。その時からすっかり頭が変になって居ったのでした。この事が『北鹿新聞』にも嘲笑的記事になって載ったとの事でした。家の人は「Yの為に世間の人に顔向けが出来ない」と言って気まずい数日を過したとの事です。それからは言う事なす事がトンチンカンで本当ではなかったのです。世間の人は「Yも可哀相に堂に入ったのでは中々治らないネ、まだ若いのになア」と同情して呉れたそうです。家の人や親戚一同が非常に心配して方々のイタコ(巫女)やゴミソ(占師)に行って拝んでもらったそうですが、一向にラチがあかないのです。
金のある親戚は、「こうしておってはいけないから大学病院に行ってよく診てもらい、電気をかけてもらえば治るそうだょ」とすすめてくれるのです。「金がなければ貸すから」と言ってくれるのです。「神様も神様だが、医者にも見せなければ」と言うので公立大館病院に連れて行かれました。ところが「つける薬はないから」と言われ、ていよく帰されたのです。親戚の人々の相談で、弘前の大学病院に行く事に大体話が決った時でした。従兄のTさんが、「弘前へ行く事もよいが、私達の入っている救世教は、馬鹿でも何でもよく治りますから、一度K町の支部に行って先生によく診てもらったらどうですか」とすすめて下さいました。中にはそれに反対する親戚もありましたが、「もし救世教でも治らない時は弘前へ行く事にして、K町に行ってみよう」という事になり、五、六人に連れられてK町の支部へ参りました。Tさんが前もって先生に事情を話してくれて居ったので早速御神前でお浄霊頂く事になったのです。S先生が大光明如来様の前で祝詞を奏げられ、霊査をして下さいました。その時私は逆立ちしてひっくりかえったそうです。又わけのわからないドドドーと言う馬鹿声を出したり、気味の悪い変な眼つきで、先生をにらんだりしたそうです。先生は私の母をかいして霊を確めたそうですが、狐と猫が邪魔しているとの事でした。方々の神様も「年功の深い狐が三匹も憑いているから、中々手強いよ。本人をつれて来て、七草よせでもして払わなければ」と言っていたそうです。先生は、「気違の殆どは狐ですね。御浄霊で霊体のくもりがとれれば、狐もついておれないで離撤れますよ、そしてなおるんですよ。だから何も脳病院なんかにとじこめて苦しめる必要はないんです」と付添いの人々に教えてくれたそうです。又「馬鹿は寒中裸になっても滅多に風邪を引かないようです。どんなものを食べても腹をこわして下痢するという事もないようですね。若し下痢したり、風邪を引くようになったらしめたものですよ、まず治りますネ。Yさんも御浄霊頂いている中に下痢するようになるかも知れませんから、そうなっても心配しないで下さい。なおって来た事ですから反って喜んで下さい」と力強く教えて下さったそうです。次の日も、又その次の日も御浄霊に通いました。その度に馬鹿力を出しては暴れ、わけのわからないことをどなっては騒ぎ、先生方をはじめ付添の方々をもさんざん困らしたとの事です。或時は余り暴れて大の男が五、六人がかりでも押え切れなかったとの事でした。その私が御浄霊三、四回目頃から大量の下痢をするようになりました。それからは何となく物事が分って来たような感じがして来るのでした。支部に御浄霊に来た翌日教修会が開かれて居りましたので、兄が早速教修を受けお守様をおさずけ頂き、家へ帰っては一生懸命私を御浄霊して下さいました。御浄霊頂いてより約一週間ばかりで正気の人間にならせて頂きました。堂に入ってとても治るまいと言われた私が、救世教によってこんなにも早くお救い頂くとは全く夢の様な気がして、只々有難涙にむせぶのみでありました。一週間目に正気に還った私が御礼参りに支部に上った時は、みんな吃驚して居りました。私の家は貧乏で、その日暮しの有様でありましたが、何とかして絶対の有難いお守様を頂きたいものと正気に還つた健康体で毎日毎日仕事に励みました。御守護により間もなく教修も受けられ、絶対力のお守様をお授け頂きました。それからも数々の大きな奇蹟を頂き、本当に心配のない毎日を送らせて頂いて居ります。本当に果報者の私です。或時は仕事の帰りに、道具を積んでトロッコで来ましたが、途中で車が急停車して一八人乗っていた人が一七人も夫々重軽傷をおいました。私だけがカスリ傷一つおわず、安全な場所にチャンと立っているではありませんか。全く自分でも不思議でたまりませんでした。又、学校の高い所の壁を塗っている時でしたが丈余もある高い足場に壁土と道具をのせて、今や塗らんとした時足場の縄が切れて足場が解体し、道具も壁土も一瞬に落ちてしまったのですが、私は二階の窓枠に無意識の中に掴まっておったのでした。又足場の真下で仕事をしていた兄も余り一瞬の出来事だったにもかかわらずその場をさけて助かったのです。気違いを治して頂き、入信さして頂き、しかもその上生命にかかわるような数多の危難からこうして無事に救って頂いて居る私達であります。「明主様」とお念じすれば大きな奇蹟によってお救い頂ける私達救世教の信者であります。この御恩は明主様の地上天国建設の御手伝させて頂く事によってお報いさして頂きたいと思って居ります。(昭和二七年五月一五日)
(2)福岡県A・T
謹んで明主様の御前に感謝の御報告をさせて戴きます。私の家は、私共夫婦と養子の三人暮しにて仲睦まじく暮して居りました。ところが昭和二四年二月頃より息子(養子十七歳)の様子が少し変だと思い乍らも、二カ月程たっての或日、私は温泉に行って居りました。すると養子の里から「息子が精神異常だから早く帰って来て呉れ」と電報が来ました。驚いて急ぎ家にかえりますと、常とは全く異って居り、男の事故乱暴をしますので病院へ入院させる事に親族会議で決めました。その診断の結果は「精神分裂症」とかで、「一カ月入院すれば正気になり、二カ月位で退院になるでしょう」との事でしたが、二カ月過ぎても、三カ月過ぎても常人に還らないばかりか、却って体は衰弱して参り、四カ月もたちますと衰弱激しく、生命さえ危篤となりました。それで又親族と相談しまして退院させ、牢を作って入れて居りました。丁度その時です。知合のM様達が見舞に来られて、「私共が信仰している救世教に御縋り申し上げるより外に道が無い」と熱心にすすめられますので、私と妻と二人早速御教修をお受けさせて戴き、御守様を拝受させて戴きました。そうして早速息子に御浄霊の御取次をさせて戴きますと、急激に変って行きまして、一五日位で牢より出しても良い状態に迄なりました。この時の嬉しさ、僅か三日間の御教修を受けた丈の私達がこれ程迄の御力を戴けますとは想像だにしませんでした。全く何と御礼申し上げてよいか言葉もございません。それから一カ月位致しますと、悪い事もしなくなり、言う事を良く聞く様になりました。一一月項より、農家の事とて稲刈に忙しくなって来ましたので、一緒に田に連れてゆきますとよく手伝もするのです。そうして現在迄に随分変らせて戴き、只今では普通人と大差ない程に御救い賜わりましたので御座います。只時折当時の注射の薬毒の為、少しずつ御浄化を賜わる程度で・御蔭様で不治の狂人、廃人同様の人間一人を完全に神様は御救い下されたのでございます。
明主様、有難うございました。只々感謝感激で一杯で御座います。この上は地上天国御建設に拙い者ではございますが、天国の福音を世の皆様にお伝えさせて戴く念願でございます。有難うございました。御礼申し上げさせて戴きます。(昭和二七年一月一日)
(3)広島県Y・S
妻H事昭和二五年一〇月二二日に次女Mを出産後四〇日目の夜中、突然大声を発し、以後精神病となり、歌うやら踊るやらでしたが段々悪化致し、夜中でも一寸の隙を見て戸外に飛出したりする事も度々でした。又家の中では障子襖を破り、目もあてられぬ程あばれ廻り、私は一睡も出来ぬ夜が続き、泣いて日を送りました。その間付近の医者はもとより、精神病院等人が良いと言われる事は全部致しましたが何の効果もない許りか、病人は益々悪化致し、氏神様やお墓等へ行っては色々悪い事をして平気で笑う様な有様でした。ああこの様に手を尽しても治らないのか、世の中に神や仏はないものかと一時は世を呪い神を恨む様にさえなりました。その時に親類のおばさんが来て「こんな病気は一晩で治す人がある」との事、これこそ神の数の言葉と信じ、見て貰う事にして翌日来て貰ったのが七〇過ぎのおばあさんでした。その人と家族皆で一晩中お祈りをして後、言われるのには「気の毒ですが駄目です。この人は産後の穢れし身で風の神という大切な神様を足で蹴散らしているから、その神様の立腹は大したものだから助からない」と。その時思わず私は大声で泣きました。凡ゆる事をしてそして最後に神の救いの言葉と信じてやった結果「助からん」という言葉。「鳴呼、私の真心が神に通じないのか」と一時は暗黒の底に落された様でした。しかしどうしても病人を全快さすのが私の務だと元気を取戻して、又銭、灸、マッサージ等をやりましたが、何の変化もない。この上は時期を待つより道はないと思って居る時、隣村のSさんが来て言われるには、「今私の家に来て居られる先生は手をかざして如何なる病気も治されるから一度見て貰っては」との由、私も迷いに迷い続けていたので何がそんな事で治るものか、真平だと一時は思ったのですが、妻の病気を全快させたい許りに、もう一度迷って見ようという気になり、来て戴いたのがK先生でした。早速に御浄霊をして戴き、その夜はお泊り願って救世教の偉大なる話を承り、私も入信させて戴く気になり昭和二六年四月三日に入信致しました。以後K先生に熱心に御浄霊を戴き、入信間もない私も熱心に浄霊して居る中に、あれ程悪化していた病気も、日に日に良くなるではありませんか。私は妻の良くなる様子を見るにつけ鳴呼偉大なる御力と頭が下る許りで、最初疑った事が申訳ない様になりました。そして御蔭で四月の末には大体正気になった様子でしたが、その後も一生懸命御浄霊をさせて戴いている内、猫の手も借りたい様な農繁期には全快致し、その上手伝って呉れる様になった姿を見た時は、思わず「明主様有難うございました」と大きな声で叫びました。思えば発病以来半歳有余の間、暗黒の世界より光明の世界へ御救い戴きまして、私の喜びは言うに及ばず、家内一同只明主様の偉大なる御力に感謝致して居ります。有難うございました。この上は微力乍らもこの教えの光の道に粉骨砕身努力致す考えで御座います。この偉大なる明主様に私の如き浅学なる者は何と御礼の言葉を申して良いか判りません。只々有難く有難く感謝致しております。明主様、有難うございました。(昭和二七年一月七日)
(4)富山県A・T
明主様、日々の御守護有難う御座います。この度は既に絶望の境地より御救い頂き、尊い御神業を分らせて戴いた喜びを、包み切れぬままに世間の人に告げたいと思い、拙い筆を執らせて頂きました。
私がこの家へ嫁いでから七年になりますが、日頃主人はとても体が弱く、毎年毎年季節の変り目には、必ず一週間乃至二週間、長い時は一カ月余も床につき、医者の絶間のないくらいでした。昨年暮から又も床につき、毎日三十七、八度の熱が四週間余続き、医者は「結核の熱だから注射もあるが、これくらいならバスをのめば大丈夫でしょう」と言われ、三週間もぶっ続けに一日五回ずつのませ、その外に明神様へもお参りして居りましたので、そこから下して戴きました薬と一日に十数回ずつのませて居りました。
それには皆お金が要りますので、父に話しましたら、「そんなに薬のんだばかりが良いものでない、医者に掛って居ればそれで良いだろう」と言われたので、母が心配をして又お参りに行きますと、「もう一〇日間のみなさい、もう一週間と言われますので、神様のおっしゃる事には間達はなかろうと、又心を持直し、無理して父にお願いしたり、私としては看護の傍から、内職をして少しずつ蓄えたお金を出しては、どれ位の薬を買ってのませた事でしょう。それでも熱は少しも下りそうにもありませんでした。
「一方の医者に掛って居ても治るにきまった事がない。医者を替えて見れば」という事になり、医者を替えました処、熱は一日で下りましたが、今度は一晩一晩と一睡も出来なくなって仕舞いましたので医者に話しましたら「お薬でよくして置きましょう」と言われました。
明神様へお参りしますと「神経衰弱ですから本人にいろんな思いをさせない様にして、世間話等してあげなさい。今が一番おもりの大事な時です」と言われますので側で色々話して見ましたが、本人は胸をつかれる思いで私の話等耳にも入らなくなりましたので、又お参りしましたら「この上は神経衰弱症の注射が出て居りますからそれでもして見られましたら」と言われましたが、近くにその薬がなく、主人は「胸をしめつけられる様に苦しい、もう生命はない、死んでも助けて呉れ、畜生道へおちなければならない、ああ恐ろしい、最期だ、最期だ」と獣の様な恰好をし、御飯の食べ方は人間なみではなく無我夢中、家の者は皆御飯も咽喉を通りません。母は前々から噂に救世教のことを聞いて居ましたので、「最後となれば一度だけでもM先生に見て戴いて、それで駄目なら諦め様もある」と言って見にいって来て下さいました処、先生は快く来て下さいました。私は聞き初めで、見初めの事故、目を丸くして見て居りましたが、今迄の経緯をお話してから、先生の顔色を伺いました。先生は「主人は必ず治る」とはっきりとおっしゃって頂きましたのでその時の私の気持、何と申し上げてよいのか胸が一ぱいです。今日まで、こんなにはっきり「治る」と言われたことは、未だかつてなかったので本当に嬉しく、早速夫の父に話しましたが入信は許されませんでしたが、治ってさえ貰えばそんなお金位ではないと思い、実家に飛んで行き話しましたら「それ程一生懸命に頼むなら貸さない事もないが、救世教(当時は観音教)は昨年ひどくやられたそうだょ。人の耳に入るような事はしてくれるな」と言って、貸して下さいましたので、早速先生に御願いし、主人と二人入信させて戴く事になりました。
先生は「高岡の本部迄お守様をお受けに出て戴かなければならないのですが、止むを得ない場合は本部の先生に来て戴きますが」と仰言いましたので、お願いして副会長先生に家迄足を運んで戴き、二月二三日に入信させて頂きました処、先生が駅にお着きなさいました頃よりそこら辺にある手拭や細紐等で二、三回も首をしめる動作等をし、先生からお守様をお受けしてから御浄霊をして頂きました処、「住吉大明神に悪い事をしてしまった、あやまりに行かなければいけない」と益々動作がはげしく、わからない言葉をわめきたて、夜中になるとよけいに激しく、自分等には何を言って居るのか少しもわからず、どんなにか困った事でございました。M先生に来て頂きさえすれば、その私共のわからない言葉を本人の気のむく様に話して下さいますので、段々静まりますのでほっとしましたが、数時間も経てば又同じ様な動作が始りますので夜も眠れなくなり、子供に手が要りますので、先生の前でつい「ああ辛い」といいましたら先生は笑いながら「ここ三ヵ月か半年と一生とを代えられますか」と仰言いますので、本当にそうだと思い直しました。
先生は父に「姉さんは子供もあるし、親である以上入信して一生懸命に御浄霊をして上げて欲しい。私も家庭を持つ以上家へ戻らなければならない」と言われましたが、父は頑として聞いてはくれませんでした。実家の父が来てくれましたので話しましたら「それは一生懸命になって賞いたいものですね」と言ってくれましたので、父もその気になってくれました。早速入信して御浄霊をしてくれましたが、中々良くなる処か悪くさえなる様な気がしましたので、家中尚不眠が続き、父が親戚へ行き話しましたら、「それは昔の事だ、こんなに医学が進んで居るのに病院へ入れた方がよい」との事で、或日病院へ聞きにまで行かれましたら、本人は又々より以上の動作が始り、「もう病院へ行くのだ、お前等はだますのだ」と言い出し、中々落着きませんでしたが、先生は「もう一週間もしたら少しは落着くでしょう」と言われましたので、私は父に「せめてもう一週間乃至二週間程辛抱して下さい」とどんなにお願いした事でしょう。
それからは少しは機嫌のよい日もありましたので、M先生のお宅の大光明如来様の前に二、三日宿泊させて頂き、御浄霊をして頂きました処日一日と恢復に向い、初めてくらやみの中に光明の射しこんだ気持でございました。田植前よりようやく田の手伝もして戴けるようになり、只嬉しいやら有難ういやら、神様の偉大なお力に感謝感激の日を送らせて戴いて居ります。
入信後一〇ヵ月になりますが私の実父も医学で手術しなければいけないという腸癌の手術もせずに済み、入信させて頂き御浄霊をお受けし、今ではとても良くなったと喜んで居ります。一一月には御屏風観音様をお肥りさせて頂き、種々御利益を頂き、私がこの家に住むようになってから初めての幸福な日が、春の陽光の如く訪れて参りました。世の不幸な人々も、一人でも多くこの尊き御教にお縋りなさらんことを祈って止みません。
明主様御守護有難う御座いました。謹んで御礼申し上げます。(昭和二六年一二月一人日)
(5)岡山県T・T
昭和二六年一月に娘を嫁入させました。娘も平素から元気で仕事も良く致しますので、先方の皆様の御気に入りでしたが、突然九月一七日の朝先方の父親がおいでになり、お話しなさるのに、「Fは良く仕事をして居りましたが、一六日朝の事一人で元気よく山へ草刈りに行きましたが、しばらくして帰ってきました。その時の様子が大変です。どうした事か朝の元気は全然有りません。顔面蒼白となり一家の者が非常に心配致し、何を言っても返事もせず無言のまま頭を下げ、何か考え込んで居る様な素振りをして坐ったまま動きません。こんな有様ですから、早く来て下さい」と申されます。そのお話を聞き、私は何かに突き当った思いで大きな息が出ました。胸に手を当て、ああこの時です、神様にお願いすれば何でも御守護を戴かれるのだと、思わず知らず胸を撫で下しました。私は「それでは早速参ります」と先方の父親に申しました。近所で御熱心な信者さんのKさんに相談し、Kさんと二人で行きました。午後二時頃中鉄バスにて三里半程の道を行きました。先方に行って様子を見ますに、御話の通りの娘の様子ではありませんか。私とKさんとは何回となく御浄霊を続けさせて戴きました。娘も私を見た時は母という事が判ったようです。又急に実家へ帰り度い様子を見せますので先方の皆様が見られて「本人もお母様が参られてから帰り度い様ですから、一緒につれてお帰り下さい。そして神様にお願いして早く御蔭を戴いて下さい」と申されます。私はKさんに相談致しました。Kさんが申されますには「お宅の皆様が、あの様に申されるのですから此処ではいけないと思いますから、神様の前で御浄霊をさせて戴くのが一番でしょう」と申され、「それでは」と娘を連れて帰る事に決めました。一九日朝の事です。なんにも判らない娘を連れ帰途につきました。歩こうとしない娘を皆様の手で何丁かの道を列車の時間に間に合う様にと念じつつ出掛けましたものの、中々歩かない上に、履物はぬぎ、後へ後へとつっぱり前に行きません。右手と左手の下に二人の者が手を入れ、娘の身体をつり上げる様に致し、後の人は背中を押しますが中々思う様に行きません。仕方なく背負っても見ましたが重くて長くは行けません。そうして居る内に時間が過ぎそうになりますので、どうして良いか判りません。「列車の時間に間に合いますでしょうか」とKさんに申しますと、Kさんは「神様にお願い致して有るから大丈夫です」とおっしゃいました。そうする内に、とうとう駅に着きました。時計を見ますと、七時前を示しております。神様に有難うございますと心の内でお礼を申し上げました。その時は車内が非常に込み合っておりましたが、御守護を戴き娘の坐る席だけが有りました。やがて汽車はA駅に着きました。中鉄バスまで行き時間を見ますと、自動車が五分間すれば来ます。自動車の中も、又お蔭で腰を掛けさせて戴きました。御守護に依り、道中を無事に帰らせて戴きました。娘も生まれた家に帰ったという事は判っておる様でした。一寸休みましてKさんがこれから御神体にお参り致しましょうと、娘の手を取り、行こうとしましたが、中々行く気になりません。無暗に引張り神様の前にて御浄霊をさせて戴きました。その日からKさんの御宅で娘と私は神様の前に寝泊りさせて戴き、毎日皆様の御浄霊を何回となく戴きました。有難い事です。そのうちに少しずつ水やお茶を飲んでいましたが、何も咽喉を通らなくなりました。夜は盜汗でびっしょりです。何回となく着物を取りかえる日が七日続きました。愈々昏睡状態になってしまいました。顔の頬骨は立ち、胸の肋骨が何本ある迄ありありと判ります。腹はぐっと落ち込み腰骨が立ち、カマキリの如く足は細く骨に皮を張った様です。顔色は青ざめ、丸でこの世の人とは思えません。私のかわいい娘もこれ迄の一生か、ここ迄の命であったのかと思いました。九日目の事です。口をもぐもぐ動かしておりますので、何か欲しいのでは無いかと思い、小さい匙にて水を少し口に持って行きますと、その時初めて神様が水を通させて下さいました。その時の有難さは何とも言えませんでした。それが元となりお茶や水ばかりで無く、少し宛果物や食事迄も食べさせて戴ける様になりました。段々と量も増えて行きます有毅難さを神様に御礼を申し上げました。K様に何回となく夜昼御浄霊戴きました。身体も一日一日元気が出て参ります。骨ばった体も少しずつ見よくなって行きます。家の中を此処彼処と歩む様に元気づいてきました。夜も段々と休ませて戴く様になりましたが、そうかと思うと夜中に立ち上り、両手を前に出し手首を下におろし、手をピリピリとふるわし、寝衣のままで此処彼処と歩いた時は、幽霊そっくりの姿でございました。物凄い夜も御座いました。教われていない祖霊が憑ったものと思われます。ブツブツと何か申します日が何日となく続きました。そうかと思うと畳に指で、くねくねと線を引く形を致すようなこともありました。その中に月日の流れは早いものです。一ヵ月近い日は過ぎ去りました。
一○月一四日、一五日の氏神様のお祭が間近になりました。一カ月ほどK様の宅にてお世話になりましたが、お祭には娘を連れ帰り、お祭をいたしました。帰りましても別に悪くもなりませんでした。教会の諸先生にも何回となく御浄霊を戴きました。一一月五日に光明如来様を御迎えさせて戴きました。皆様が遠路わざわざ御出下さいまして御浄霊を戴いて居ります。「少しも食べなかった娘がここ迄御守護を戴いて元気になった、何でも神様お願い致します」と私は一心でした。Kさんが時々面白い事を申されると大きな声を出して笑う様になりましたが、話は出来ませんでした。便所に行ったら行ったきりで帰る事が出来なかったり致しました。岡山市H教会にお参りさせて戴き、この時が教会のお参りは初めてでした。教会でN先生の御浄霊を戴きました。教会に四回お参りさせて戴きましたが、四回目の時にY会長先生に御浄霊を戴きましてからというものは、今迄鼻から何も出ておりませんでしたが、それを境にねばねばした鼻が出はじめました。
話は変りますが、娘の嫁入先の皆様も初めのうちは神様が有難いと一心でしたから時々見舞って下さいましたが、余り長いので見舞にも来なくなってしまいました。神様を悪く思う様に皆様の心が変りましたから、私はこれではいけないと思いまして、一気に帰らせなければ神様に申訳がないと、二七年一月に役場で籍を戻して戴きました。
その後次第次第に食事も進ませて戴きましたが、家の者と一緒に食事をするのを嫌います。一緒に食べずに後から一人で食べるのですが、早く申しますと盗み食いという有様、それが又二人分位も食べるのですから、私の驚きと心配は大変なものでした。体の為にも余り良くないと思い、食物を他所に隠した事も一再ならずでした。その代り体は大変に肥えて参りまして、腰の辺は日にこもを巻いた如くでした。或日のこと餅搗を致しておりましたら、無言のまま手伝ってくれました。その時は私は何とも言えない気持で只々神様有難うございますと、嬉し涙が流れました。その後も御浄霊をさせて戴く毎に奇蹟を戴き、二〇日間ですっかり御守護を戴き、二月の末には元の精神と身体とに全快させて戴きました。今は御神体も御奉斎させて戴き、一家一同楽しく安心な日々を送らせて戴いて居ります。C村の皆様も神様のこの御力に目をみはって居ります。
明主様、有難う御座いました。拙なき文を綴りましてここに厚く厚く御礼を申し上げさせて戴きます。(昭和二七年七月二九日)
(6)大分県K・A
昭和二六年二月下旬、木炭原木伐採中、過って約十間位の谷間に落ち、人事不省に陥りましたが、一緒に作業中の他の人に救われまして、身体も大して痛みませんので、午前中作業を続けました。昼食後から急に各処が痛み出し、その侭病臥の身となり、発狂状態となりました。五、六日経過後、神様の御導きか御恵みか、突然世界救世教N中教会○町支部のS先生が来られ、御浄霊をして下されました処、大変頭の気持がよくなり何だか自分にかえった様な気持になりました。二、三日過ぎて、又先生がおいで下されまして御浄霊をいただきました処、すっかり良くなりました。その後約一カ月位は頭が重い事もありましたが、精神が分裂する様な事もなく、漸次恢復して家業が出来る様になりました。現代医術では到底かくの如く短時日にては恢復せず、狂った人間として、私は勿論一家は不幸の生涯を送る筈で御座いました。余りの有難さ身にしみまして三月八日入信させて戴きまして、只今毎日家族の者の御浄霊をさせて戴いて居ります。近所の人々も時々して居ります。言い知れぬ数々の御利益を戴いて居りますが次期に報告します。
明主様、大光明如来様有難う御座います。これからは農業の傍ら、病苦に悩む方々を一人でも多く御導きして、御神恩の万分の一にも報ゆる覚悟で御座います。拙文を以て御利益の一端を報告さして戴きます。(昭和二六年一〇月一日)