資料「善言讃詞について」

「善言讃詞は観音経を縮めたもの」

『(前略) 善言讃詞は観音経を縮めたものです。この経はもと印度の言葉である梵語(ボンゴ)で書かれ、二千数百年前の印度人の生活に合ってゐた。所が今日の日本人がこんな長ったらしい御経を上げてゐたんでは会社も遅刻だし「クビ」になって了ひます。現代には現代に適応する方法でなければならない。それで善言讃を作ったのです。所で日本の祭典は古来神の形式をとってゐた。千三百年前仏教が入って来たが、その前まではすべて神の形式であり、本来は祝詞であった。仏教のよい点を神式にしたのが善言讃詞なのです。』

「御光話録(昭和23年8月18日)」

 

『(前略) 祝詞にして且つ経文である善言讃詞と称するものを奉誦するが、之は私が作ったもので、観音経を出来るだけ圧縮し、祝詞の形式にしたものである。どういう訳かというと、観音経を奏げるには、三十分以上を要し、日本の今日の社会生活には適合しない。どうしても毎朝の礼拝は五分以内で済ませなければ、電車事故などあった場合、勤先が疎かになるという懸念もあるからである。』

「第三宗教(昭和25年1月30日)」

 

『(前略) 私が作った善言讃詞は観音経の深意をエキスとし、日本的に祝詞の形式を採って数分間で読了なし得るやうにしたのである。(後略)』

「時代と宗教(昭和23年4月)」

 

「(前略) さっき「善言讃詞」というのは?」

『あれは仏教の観音経を土台にして、和歌の様に作ったもんですよ。(後略)』

「NHKアナウンサーとの御対談(昭和24年7月17日)」

 

『観音経を縮めたものである。字の通りである。観音経の善い所を唱えたもので、五分位以内に唱えるようにした。観音礼讃と五六七世の状態である。』

(昭23年12月11日)

 

『祝詞にも、メシヤとならせと入れた』

『(前略) 祝詞にも、応身彌勒と化し、メシヤとならせと入れた。観音様はメシヤとならせられ、観音様のお働きはメシヤになる。(後略)』

「中島氏帰幽に関するお言葉(昭和25年2月)」

「大千三千世界について」

本教祝詞の中に、大千三千世界という文字があるが、之が仏教では三千大千世界というように、反対であるのはどういふ訳かと、不思議がる人がよくあるから、茲に解説してみよう。

先づ、此両者の意味を、文字によって解いてみるが、大千世界の大の字は、宇宙全体という意味である。大とは無限大の意味で言い換へれば全大宇宙という事である。又大という字は五つの棒でなっているから、五は火であり、火は霊であり、霊は天であるから天は上になるのが本当である。

処が三千世界とは、神幽現の三界を指したもので、大千世界が、三つに分離されたそれを称えたものであり、三の数は水であって、水は体である。又文字から言っても、大は一の字を引くから始めであり、三は二の次に位するものであるから、下に附くのが本当である。又霊主体従の法則によっても、霊は上に体は下になるべきである。

又今一つの解釈は、大は火であり三は水であるとしたら、大は昼の世界であり三は夜の世界となるから、仏教は夜で月の教へとしたら、今迄は夜の世界であったから、三が上になっていてよかったのである。本教は昼の世界の宗教である以上、大千三千世界というのが本当である。

「大千世界と三千世界(昭和26年1月1日)」

 

『(前略) 今度の祝詞の中にある大千三千世界と書いてあるのも、今迄の三千大千世界となっていたのを逆にしたのであって、これは非常なる意味がある。大千のセンはスとなる、オスの意味にして男の事である。又、大のオオは王ともなる。三千はミスとなり、メスとなり、女の意味である。これは今迄女が上で男が下であった事になるのだ。嬶天下の意味にして今迄の逆の世の言葉である。いよいよ時節が来て大千三千世界となり、男が上になったのである。(後略)』

「御講話(昭和10年2月11日)」

 

『(前略) 私が善言讃詞に「大千三千世界」という事を書いてますが、仏典の方では「三千大千世界」となってます。これはあべこべです。「大」という字は「一人」と書きますが、つまり「一人」とは「主」ですから、これが元です。それで「三千」というと「三界」です。現幽神、或いは天地人で、三つに別けてあるわけです。最初は一で、それが三つに分れるのが本当です。ですから三つの方を上につけるという事は間違いです。それで一は太陽で三は月、一は火で三は水ですから、大千三千世界というのが本当です。ですから私はそう書いたのです。(後略)』

「御教え集25号 (昭和28年8月25日)」

 

『三千世界とは、神幽現――神界、仏界、現界を三千世界といふ。三界万霊といふのはそれである。大千世界は三千世界全体をいったもの、総合称である。』

(昭和23年10月2日)

 

「三毒五濁について」

『三毒は貪瞋痴、五濁は罪穢の五つの種類である。人間の罪悪を分類してある。之を滅する方法は人を助け徳を積む事である。苦しむ事――いろんな苦しみにより滅するのは、骨が折れて効果が薄い。然しもっと楽で効果的なのは信仰で、教修を受けるのは罪穢を消滅する方法を覚える事である。であるから、教修を受けただけではいけない。罪穢を除るといふのは、一人でも人を幸福にするとか、導く事をするのである。』

(昭和24年3月20日)

『経文にある濁の種類である。三毒は貪瞋痴で、悪い心、一種の間違った執着である。』           (年代不詳)

 

「五濁について」

『見毒濁、煩悩濁、命濁、衆生濁、劫濁、いろいろの罪穢を分けたにすぎぬ。』                (昭和23年)

 

「十方世界と七堂伽藍」

『尽十方世界といって宇宙をいふ。東西南北艮坤辰巳戊亥、本当は八方だが天地で十方になる。尽はつきるとかつくす事。七堂伽藍は印度で極楽浄土を造った時、天国の都会は都率天といふが、それの型を地上に作った。七つのお堂と伽藍といふのであるが、お堂を七つ作ったのである。法隆寺などは、五重塔とか金堂などで七つ作ったものである。』

(昭和24年6月22日)

 

「天魔羅刹、夜叉龍神について」

『仏語で、邪神の種類である。天の悪魔。羅刹はとりまいてる邪神の家来。夜叉は女の執着によって悪くなったもの。龍神―悪龍の事。邪神を仏語で総称していったものである。』 (年代不詳)

 

『仏語である。天魔は魔神とか魔王といい、上等の方であり、羅刹は悪鬼羅刹といい、鬼のような悪魔の一種である。夜叉は女の方で、要するに悪魔の形容詞である。』

(昭和23年12月21日)

 

「迦陵頻伽、多宝塔について」

『(前略) 梵語の漢訳である。迦陵頻伽は天国の鳥。極楽にいる鳥。尾の長い綺麗な鳥である。多宝塔といふ塔がある。』

(昭和23年7月25日)

 

「霊を救ふには善言讃詞を上げる」

「死の二、三日前或は数日位前に招かれて御浄霊致します場合、肉体は救へなくても霊を救ふにはどうすれば最も宜しいでせうか。」

『浄霊ですよ、浄霊すればいゝんです。それから、善言讃詞と御讃歌ね、あれを上げるんですよ。そうすると霊界へ行って非常にいゝですよ。地獄に行くべき人が八衢(ヤチマタ)になったり、八衢のが天国に行けたりして、大変な救ひになりますよ。』

「御光話録11号(昭和24年8月21日))

 

「善言讃詞を聞くだけで救われる」

 

「(前略) メシヤ教の信者は、善言讃詞を聞かせて戴く丈で、大きな――」

『救われますよ。てんで較べものにならない。(後略)』

「御垂示録5号(昭和26年12月8日))

 

「葬式等では善言讃詞を奏げる」

『葬式等で善言讃詞は奏げる程いい。祝詞と両方奏げればなほいい。霊がとても喜ぶ。そして霊界で早くよくなるのである。結婚式も両方奏げる方がよい。』

(年代不詳)

 

「善言讃詞は世界的」

「キリスト新教徒にして講習を戴き、最期迄浄霊を受けて死亡致し、葬儀はキリスト教的に行ひました霊前にて善言讃詞を奉唱させて戴いてもよろしう御座いませうか。」

『善言讃詞は世界的であるから、何宗でも構はぬ。』

(昭和24年8月9日)

 

「善言讃詞にある通りの世界を造ってゆく」

『(前略) もっと詳しく知らせたいが、今言った処で到底信ずる事は出来ないし、神秘でもあるから、ホンの一部分だけ時に応じ、進むに従い発表するのである。之を要約すれば善言讃詞にある通りの世界を造ってゆくのである。特に一言いってをきたいのは、最大の争いである国と国との戦争であるが、之も私は時が来れば、一挙に無くす事が出来るだけの力も有っているから、安心して貰いたいのである。』

「力(昭和27年4月9日)」

 

「善言讃詞は昼になれば替える」

『(前略) 善言讃詞は神様に奏げていい。応身弥勒は神である。今は夜昼転換の中間期で、観音は神仏両方になるが、今迄は仏の方が多かった。今はどっちへも決められぬ。その為に祝詞と観音経と両方やっている。今に善言讃詞は昼になれば替える訳である。』

(昭和23年7月21日)

 

「惟神霊幸倍座世の意味」

『惟神霊幸倍座世は非常にいい言葉である。昔から神道で惟神の大道とか、神のまにまにという。惟神とは神のまにまに或は神に習う。神に従う事である。日常生活に於て種々取越苦労をする場合、惟神にしておくといって神様にお任せしておく。神のまにまに行くというのは無理をしない事で、非常に楽で結果がよい。霊幸倍座世とは、霊の幸いが倍になる。殖える事である。神道では、恩頼という。之は魂が太る。拡がるというような意味で、同じような意味で、魂の幸が殖えるようにして戴きたいという事である。神は霊であるから、霊の幸を下さる。』

(年代不詳)

 

『「惟神」っていふのは神様に従ふ、神の御心のまにまに、神に倣(ナラ)ふっていふ事で、それから「霊幸倍」は魂の幸ひが倍になる、だから魂の仕合せを多くして、魂をふやして頂き度いっていふ事で、神道で「御霊のふゆを幸ひ給へ」っていふのがありますが、之は魂を大きくふやして頂きたいっていふ事なんで、だから同じ事ですよ。

肉体にも痩せたのと太ったのとがあるように、魂にも痩せたのと太ったのとがあるんですよ。そして魂は太ってなくちゃいけないんです。肉体の太り方とは違って、魂が太ると驚く程非常に大きくなるんです。よく物に怯(オビ)える人や、恐怖症の人は魂がやせて萎縮してるんです。今まで恐怖症だった人がこの信仰に入ると、そういふ事がなくなりますよ。魂が太り、魂の量が殖えるからなんですね。そうすると、外界の影響や刺戟をはねつける力が強くなって、割合に恐怖心も起きず、物に怯える事もなくなるんです。そうすると、あの「図々しい奴」は魂が太ってるのかって言ふ事になりますが、(笑声)これは又違ふんで、あゝいふのは太ってることは太ってるんですが動物的な太り方なんですよ、質が悪いんですね。(笑声)神様の方のは質がよくて太るんですからね。

「御光話録17号(昭和24年))

 

「(惟神(カムナガラ)と惟神(カンナガラ)は何れが正しいので御座居ましょうか。)

『どっちでもよい。カムが正確だが、カンが言い易い。』

(昭和25年3月18日)

 

『(前略) 大自然に逆へば滅び、大自然に従へば栄えるのは言ふまでもない。此理によって人間の師範とすべき規(ノリ)は全く大自然であって、大自然のままに行く、即ち大自然に習ふ事こそ、神意に習ふ事であり、神意のまにまに進む事であり、それがカムナガラである。実に惟神とは玄妙至極な言霊といふべきである。(後略)』

「惟神医術(昭和17年9月28日))

 

『(前略) 「惟神」は神のまにまに――即ち神の命に従ふ事。「霊幸倍座世」とは霊魂をふやして戴きたいといふ事。即ち霊衣を厚くする事である。』

(昭和25年3月20日)