御教え『第三次戦争は免れる事が出来る』

「栄光、126号」 昭和26年10月17日

今最も世界人類が脅威の的とされているのは何といっても第三次世界戦争であろう事は、今更言う迄もない。現に日本は固より、全世界の識者という識者は、夫々の立場から之を防止すべく、全智能を絞って筆に口に論議しつつあるのは、人皆知る通りである。処がどうした訳か、独り宗教家に至っては、それに対し何等の発言をする者のないのは、実に心もとない限りである。

そこで先ず考えてみて貰いたい事は、一体宗教の目的は何であるかという事である。言う迄もなく、戦争のない平和世界を実現するにあるのは判り切った話である。としたら現在の如き、第三次戦争必至という此危機に直面していながら、手も足も出ないのか、全然沈黙しているという状態は不可解の外はあるまい。成程宗教家たる以上、政府の命令のない限りと、又年齢的にも武器を執る事は出来ないとしたら、宗教家は宗教家なりに、相応した平和的手段を以って、戦争防止の為、一役買うべきではなかろうか、此意味に於て私は、戦争発生の原因と戦争防止、否人類から戦争を絶無にする事の可能である事と、其原理をかいてみようと思うのである。

それに就て、最も判り易くする為、病気と健康に就ての事をかいてみるが、いつもいう通り、病気とは人間の霊に曇りが溜り、其排除作用が肉体に映って生ずる苦痛であるから、人間の如何なる苦痛と雖も、原因は悉く霊の曇り、即ち肉体的に言えば汚濁の排除作用であるから、其苦痛を免れたいとしたら、汚濁を溜めないようにすると共に、既に溜っているそれを排除する以外、解決する事の出来ないのは当然である。

此理によって、集団的苦痛、即ち風水害、火災、地震、社会的暴動等も、悉く病気以外の浄化作用である、としたら之の大きくなったものが勿論戦争である。従って、戦争を起らないようにするには、人間個人々々の霊の曇りを無くす以外方法のない事は余りにも明かである。

万一第三次戦争が起るとすれば、それは全く霊の曇った人間が増え切って、どうにもならない状態となったからで、恐らく世界の殆んどは、現在汚濁人間で充満していると言っても過言ではあるまい、としたら何故此様に汚濁人間が増えたかというと、それこそ悪による罪が堆積したからであって、其根本原因こそ神の実在を無視する教育を受けて来た為であって、之が唯物教育であるから、此観念を是正する事によってのみ解決されるのである。では何故そうであったかというと、つまり唯物教育によって、人間の魂を極度に曇らせ、盲目同様にしたからで、寧ろ当然な結果である。

そうして茲で知らねばならない事は、万有の法則は汚濁の溜る処、必ず自然浄化作用が発生する。例えば伝染病が流行するという事は、病菌発生が直接原因であるとしたら、其原因は何かというと、それは浄化の必要ある人間が出来たからで、相応の理による自然発生である。処が此理は何物にも共通する。即ち地上にある凡ゆる物質、例えば如何なる大都市でも、建造物でも、凡そ物質と名のつくものは、悉くといいたい程、現在のそれは悪によって作られたるものである以上、言わば罪の塊りであるから、いつかは清算されなければならない運命におかれているのである。

としたら人間も物質も、地上にありとあらゆる汚濁分子が一挙に浄化される。それが大戦争であって、之が宇宙の鉄則であるから、どうしようもないのである。此意味に於て第三次戦争を免れんとするには、此大浄化作用発生の必要のない迄に、人間はじめ地上一切のものが、清浄化されなければならないのは分りきった話である。では其様に一切を清浄化すべき方法はありや、というに、私はありと答える。それが我メシヤ教の使命であって、此事の為に我メシヤ教は生れたのである。

茲で別の説き方ではあるが、世界とは個人の集団であるから、個人々々が浄化の必要のない迄に、立派な人間になりさえすればいいのである。立派な人間とは、勿論霊肉共に汚濁のない人間であって、そういう人間を造り得る力こそ、我メシヤ教をおいて世界広しと雖も、決して存在しない事を私は知らせたいのである。之は理屈ではない。本教が現在行っている浄霊法を見ても分る。此方法が如何に絶大な効果があるかは、唯物医学で治らない重難病がドシドシ全治し、死を宣告された者が甦生する等、無数に上る事実である。之だけでも多くを言う必要はあるまい。従って此空前の事実こそ、世界人類が救われ、地上天国出現の時期となった事の示唆でなくて何であろう。我メシヤ教が全世界に拡がるとしたら、最早戦争による浄化の必要がなくなるから、戦争は起らないに決っている以上、茲に人類待望の平和時代が実現するのである。

之で大体判ったであろうが、要するに第三次戦争防止の手段こそ、我メシヤ教を措いて絶対他にない事を断言して憚らないのである。故に万一それが間に合わないとしたら、第三次戦争勃発となるのは、免れ得ない運命として、何人も覚悟すべきであろう。