御講話(昭和27年6月7日)

「御教え集」11号、昭和27(1952)年7月15日発行

(前略)

それから、今日はすべてが間違いきっているわけですね。それを治すのがわれわれの仕事なんだから、たいへんな仕事には違いないですね。

それからまた話が違うけれども、大本教のお筆先にうまいことが書いてあるんですよ。「人間が見て解る様なちょろこい仕組ではない。神の奥には奥があり、 その又奥に奥がある仕組である」ということがある。それから「神界が解らないと思う人は解りたるのであるぞよ」こういうのがあるんですね。それはどういう わけかというと、人間的の考えで判断するのは、これが一番怖いんですね。とにかく人類を救う――新しい文明世界を造るというくらいの非常に大きな深い仕組 みなんですね。だからして人間的の判断なんかでとうてい解るものではないです。そうかといって、それをはっきり言うことができないですね。やはり時代に ――時期によりますからね。私は先から少しずつだんだん近い所を説くようにしてますが、まだまだその深さというのはどこまでもありますからね。時期の進む に従って、説いていくわけですね。だから人間は、奥の奥――深い所、神秘な所を分かりたいのは誰でもそうですが、それを分かろうと思うだけならいいが、ただ上っ面の所で――自分の小智小才をもって善悪を判断するというのが一番具合が悪いんですよ。それがまた、分かるようならやはり神様と同じなんだから、分 からないのがあたりまえで、ただ素直に時期を待つという態度でいるのが一番良いんですね。

それからもう一つは、人からいろんなことを聞きますが、それを正面(まとも)に信ずるということが、これがまた危ないですね。だからいろんなことを聞いても、なるほど良い、しかしこれは神様の御趣旨に合っているかどうかということをまず考えてみて、どうも神様の御趣旨に合わない点もあるようだという場合 には、御神書を見るんです――読むんです。そうするとたいていなことはどこかにありますから、それで判断をするということにしなければならない。そういうことで聞違えることがよくありますからね。最近こういうことがあったですね。ある信者で、メシヤ教は天国を造るんで、家庭も天国にしなければならない。そうするとお金は、つまり余ってからあげる。あげても経済的に差し障りがないだけの金をあげる。そうすれば金の苦しみがないから、それが本当のやり方だ。苦しんで金をあげるということは、やはり一つの苦しみを作るのだから、それは神様の御趣旨に合わない。昔からいう「信心は徳の余り」というわけですね。それを聞いて、ある信者は感心したんですよ。それがだんだん広がって――苦しんで金をあげるから、だから家庭が天国にならないんだということにまでなった。そうするとまた一方神様は今非常にお金が御入用だ。人間は少しは苦労をしても神様の方にあげなければならない。という両方の説が対立した。しかしどうも後の説が負けるんですよ。最初の方が勝っていくんですね。どうもゴタゴタしているので、私が呼んでよく話してやった。私の話はこういうわけです。最初の、家庭 が困らないようにするということも合っている。確かにそれに違いない。それから、神様はお金はたくさん必要だから――はやく地上天国を造って救わなければならないので、どんなことをしても金をあげなければならない――どんなに苦しんでもあげなければならない、ということも合っている。両方とも合っているんだ。ただ大乗と小乗だ。最初の方は小乗的考え方ですね。後の方は大乗的考え方ですね。じゃ、後の方は金をあげて苦しむかというと、決して苦しまない。金を あげてそんな苦しむような神様だったら拝むのを止めたらいい。だから試しにあげてご覧なさい。苦しむようにあげてご覧なさい。十倍になって返ってきます。 苦しむどころじゃない。たいへんな金にだぶついてくる。そう言ってやったので、両方とも――小乗的の方はよく解って、ついこの間、謝りに来ましたがね。そういうことがあるんですよ。ですからそういうことも心得ておかなければならないということを、今話したんですがね。

それから五、六日前に宮本武蔵の絵を買いましたがね。それはなぜ買ったというと、道具屋に行ったところが脇に掛けてあったんです。見ると実に良く書いて あるんです。これは誰だというと、宮本武蔵というんです。絵の中に「二天(てん)」と書いてあるんですがね。達磨さんの絵ですがね。宋時代の絵に負けないですね。私はぜひ欲しいからと買ってきましたがね。おそらく、今の古径(こけい)、靫彦(ゆきひこ)なんか足元につかないです。技術なんかですね。今度美術館に出しますから、見れば分かります。そこで考えさせられるのは、ふだんこの方(剣術)は始終やってましたが、筆の方はそれほど、そう研究したわけじゃないからね。それはどういうわけかというと、一芸に達した人は他の方もそうなる。たとえてみれば、いろんななにがあるとしますが、一つ飛び抜けて上の方に行きますと、他のものもそれについていくんです。結局は同じなんですからね。だから、武道の奥義に達すれば、絵の方もそこに行っちゃうんです――少し経てばね。結局それによって魂を向上させれば良いわけですね。これが一番はっきりしているのは、私ですが、私はなにも植木屋の手伝いしたわけでもないし、大工の――庭でも、今度の建築でも全部私がやったんですが、一つそこにいくと、なんでもそこのレベルにいきますからね。今度美術館をやりましたが、最高のレベ ルだと思います。今あれだけの設計をするのは、おそらくないです。これが私が宗教の教祖でなければ、なぐられちゃいますよ――馬鹿にしているとね。まあ、実際を見れば分かりますからね。これはホラじゃないんですよ。そういうようなもので、その道理を押し進めていくと美術品ですね。あの良いものを見るんです ね。名人の傑作品を見ると魂がそれにいきますから、目が高くなるんですね。目が高くなると、他のものにまでいきますから、批評眼が高くなるんですね。芸術品ばかりでなく、あらゆるものの批評眼が高くなるから、その人の智慧証覚が高くなるんです。智慧証覚というのは批評眼です。ものを見てそれが善いとか悪いとかね。本当だとか嘘だとか、その判別は批評眼によるんですからね。ですから人間は物を見た批評眼が一番大切ですね。だからああいった美術品の好きな―― 今の美術館はそういった価値はありますね。

この間私は上野に行って「国際美術展」の各国のを見ましたが、実にお話にならない。あれを良いとか悪いとか批評して新聞や雑誌に出てますが、あれは批評できないですね。もし批評するとすれば零(ゼロ)というんです。ひどいものです。ちょうど薬で病気を作っているのと同じです。それから、糞をかけて米を穫 れないようにしているのとね。美術の方もそうなっているんですね。そこにいくと古美術の秀れた高さというものは、たいしたものです。現代人がつまらないも のをたいそうに思うのは、批評眼がないからです。批評眼がないということは、良いものを見ないからですね。その点においても私は美術館はたいへんな役目をすると思ってます。古い良いものを見ると、その人の頭がよほど違ってきます。一番分かりやすいのは、ああいうものが好きな芸術家はみんな上になるんですからね。一番好きなのは吉川英治ですが、三十年くらい前から好きで持ってます。今もって好きで買ってますがね。それから大仏次郎、川端康成――とても好きなんです。それからあれはいつか来て見せてやりましたがね――高見順ですね。このごろだいぶ出世してきました。川端康成の弟子ですがね。だいぶ注目されてきました。油絵の方では梅原龍三郎です。また馬鹿に好きなんです。ですからあの人の油絵は一番良いです。今度の美術館にもあの人の油絵の良い方のを一つか二 つ出します。私は他の油絵を美術館には出す気にはならないですね。出す価値がないです。梅原龍三郎は他の者が持っていないものを持っているんです。ですか ら二、三日前に芸術家の会議で行きましたがね。やっぱりあの人の骨董好きですね。それが影響しているわけですね。それから吉川英治なんか宮本武蔵なんて傑作を作りましたが、あの中に光悦も入ってますが、それから沢庵和尚ですね。あの文芸作品で、ああいう方面に関心を持ったということは、やはりそれだけ違っ ていたわけですね。なかなか、話の方はきりがないから、このくらいにしておきます。