御教え『悲劇を滅する』

「光十二号」昭和24(1949)年6月11日

此世の中に於て人間が最も厭うのは悲劇であろう、悲劇を全然無くする事は不可能であるが、或程度軽減する事は敢て難事ではない、それに就ては先ず悲劇なるものの正体を検討してみよう。

事実、悲劇なるもののその原因の殆んどが病患からである事は厳然たる事実である、成程病気以外、恋愛問題、物質欲等から生れる不正行為等もあるが、之等もよく検討する時、精神的病患からである事を知るのである、健全なる精神は健全なる肉体に宿るといわれているが、全く真理である、私が永年の研究の成果からみれば、恋愛も不道徳も不正者も短気も大酒癖も怠惰も不良少年も、必ずと言いたい程肉体的に必ず病的欠陥のある事を発見するのである、とはいうものの現代までの医学や其他の方法によっても病患を全治し、霊肉共に健康体になすべき確実なる方法は見当らないのである、仮令(たとえ)その原因は発見し得た処で真に解決すべき方法がなかった、今日迄病原の発見、治療法の確立を完成し得たと誇称するものも現われるには現われたが実は一時的効果を挙げるに過ぎず、何時しか消えてしまう事は、余りにも多かったのである、全く日昏れて径遠しの感なくんば非ずである、本紙のおかげ話中、幾多の実例にある如く難症重症が解決されその喜びと感謝に溢るる心情は涙なくしては読まれない程のものである。

以上の如き病患や不幸の解決は所謂(いわゆる)見えざる力の発現に由るのであって神霊の力の如何に偉大であるかは体験者でなくては知り得ない処である。

一切万事現実と、そうして実証的でなければ納得も得られない現代人であるとすれば如何に巧妙なる理論を説き、教の道を勧めるといえども、現実的効果を見ない限り、結局は空念仏に過ぎない事になり、普(あまね)く人類を救い、社会の福祉を増進する事は夢でしかないであろう。

見えざる力が見ゆるものを動かすその力こそ真の信仰の本質である、本教によって現に行われつつある処のものは之であって、此の意味において私は力の宗教というのが本当ではないかと思う、そうして既成宗教の殆んどはその名の如く教が根本であるから、外部から内面の魂へ向って覚醒を促がそうとするのである、然(しか)るに本教団によって行う処の浄霊法はイキナリ内面の魂に霊光を放射し、一挙に魂を覚醒させるのである、所謂無為にして化する訳で、説教の如きは第二義的のものとするのである、釈尊は即心即仏といい覚者たれば菩薩であるといったがまことにその通りである、本教団における入信者は頗る短期間で等覚を得、正覚に達し、自己の悲劇を顧慮する必要がないばかりか、進んで他人の悲劇を滅消すべき有資格者となるのである。