資料『最後の審判』に関する御教え

『三千世界の大清算』

――世界最後の大審判はあるか?――

「著術篇、第一巻」 昭和10(1935)年

昔から、世の終りとか、最後の審判とか言う事が、聖書等にあるが、それを詳しく説いた者は、未だ無いようである。私はこの事について、はっきりとは言えないが、まあ夢物語とでもして、あるとも言えるし、無いとも言えるという位の所で説いてみるのである。易者ではないが、当るも八卦(はっけ)、当らぬも八卦位と思って貰えばよい。しかし無いとすれば、書く必要もないから、まず、有るとして書いてみるのである。

私がいつも言う、夜の世界が済んで、昼の世界、即ち太陽が赫々(かくかく)たる輝きを以て昇るとする。その夜から昼への移り変りの、あらゆる物象の変化を想像してみたいと思うのである。

言うまでもなく、夜と昼との、最も異る所は、暗さと明るさである。由来、罪悪なるものは真昼間、公々然と行わるべきものはない。秘密と罪悪は、暗いところで取引される事は、誰もが知っている所である。しからば、この夜の世界なるものは、何年位の期間であったであろうか。私の推測によれば、とにかく三千年以上一万年位と推定されるのである。故にここでは数千年としておくが、この数千年の歴史を振返ってみても確かに、夜の世界であったであろう事が肯かれるのである。国々、人々は、秘密と罪悪と闘争に係りのない時代は、全く無いと言ってもよい位で、これを正しい神の御眼から御覧になったら、否、我々凡夫の眼から観てさえも、暗黒時代であったと言うより外に、言葉はないのである。波瀾興亡常なき、国と人との姿は、夜の空の月の盈虧(みちかけ)にも比すべく、悪人が、一時的にも時を得、善人が虐(しいた)げらるる、歴史の姿をみては、全く悪魔横行の世界と思われるのである。

かような、罪悪に充ちた世界が、この暗黒時代が、数千年間も続いた事実を見たら、卓越せる、いかなる時代の識者といえども、歴史に捉われて観るのも、無理は無いと思う。少くとも一切の批判にこれを標準として定義を下してしまう。優勝劣敗の言葉も、弱肉強食の言葉も、真理なるがごとき響を与えるのも、こうした事によるからであろう。

しかしながら仮に、この数千年の歴史から、一段も二段も、否数段も飛躍したところの、高い見地に立って見下してみたらどうであろう。それによれば、どうしても、この数千年に渉る罪悪堆積の世界が、一度は、徹底的に、清算されなければならない様に、思われてならないのである。しかしこの事は、人の力では到底、駄目である事は判っている。何となれば、人の方が清算される側に立っているからである。故に、万一、清算なるものが在りとすれば、それは、神より外に行えない事は、自明の理である。そこで神が行い給う、その方法を畏(おそ)れながら想像して、私はみたいのである。それは、再三言うごとく、それが、太陽の輝く、昼の世界になるという事である。光明が照し出すという事である。しかし、私がこう言えば太陽は、毎日出ているではないか。別に、この外に、昼の世界があるはずがないではないかと言うであろう。しかし、私の言うのは、霊界の事である。この霊界と現界の関係は、別の項で詳説するはずであるから、ここでは無条件に、霊界なるものを信じて読んで貰うより外、致し方ないのである。

ここで私は、別方面の事実を挙げて論じてみよう。それは、私が日々病人を取扱っている関係上、医者と異(ちが)う、独特の診断法を以て、各人を査べる時、実に驚愕するのである。それは、あらゆる人の体内に滞溜されている汚物と言えば体裁がいいが、実は膿汁である。この膿汁と毒血が、肉の中にも、血管の中にも驚く程多量に、いかなる人も有しているという、想像出来ない程の事実である。私は今日の人間をみて、能く生命を保っているとさえ思うのである。なる程、患者なればともかく、健康な人も、数多く見るが、膿汁の滞溜は病者と大差無いのである。いつ重患が起るか判らないというだけの話である。この事実をみて、数千年間の、夜の世界に呼吸して来たので、その罪穢による、汚濁の堆積であると思うより外はないのである。即ち、夜の暗黒に相応した人間であるから、今日まではいい様なものの、もしこれらの人が、赫々(かくかく)たる太陽の光明に照らされたとしたならば、一体どうなる事であろう。想像するだに慄然(りつぜん)とするのである。例えば、暗黒内に棲息した黴菌を、太陽の光に晒したら、どうなるであろう。又汚濁も塵埃も、夜では、はっきり見えないからよいようなものの、白昼の明るさは、到底誤魔化し切れる訳のものではない。

これらによって見ても、太陽の光は、白昼の明るさは、あらゆる汚濁を浄めずにはおかないのである。欺瞞は蔽(おおい)隠す事が出来ない。秘密は忽(たちま)ち暴露させる。罪悪は行い得ない。不正は影を潜め、闘争は打断られてしまう。そうして、あらゆる物の狂いは、是正され、社会の機構は合理的に動き、人は、公平なる時所位を得、善は栄え、万人生を楽しむ時代になるであろう。

ただしかし、この光明世界を信じられない人は、この時代に適合しない為に、その時までに、没落の運命を辿(たど)るより致し方ないであろう。近くかような時代が、信ずると信ぜざるに拘わらず、好むと好まざるに係らず、迫って来るとすれば、それを信じ得ない人々の状態は、どうであろう。今まで隠し蔽(おお)せた罪悪が、秘密が、不正が、どしどし暴露して来る。又罪穢に充ちた身体は、崩壊するより致し方がない。黴菌が、太陽の光に死滅する様にである。かように、今までの夜の世界とは、全然勝手が違う時代が来る事は、予期し得らるるのである。国と国とは、闘争の結果、それが双方悪である場合、どちらも滅びるであろう。正なるもの神の意志に適合する者のみが残存し、そうして栄える事になるであろう。今日の、国際間の関係をみれば、全世界は、一大争闘と、動乱の渦を起さんとし、それに捲込まれない国は無いと、断言し得られない状勢である。全く、夜の世界の崩壊の、前奏曲とし、観られない事はないと思う。

私は、夜から昼に移るという、世界的大清算が、もしあるとすれば、崩壊や滅亡などという、忌わしい事の無い様に、平和に、より安穏に、光明世界の来らん事を、念願してやまない者である。

 

『本紙再刊に就て』

「栄光66号」昭和25年8月23日

(前略)朝鮮問題が勃発したのである、今は朝鮮という一区域に限られてはいるが、どちらも米ソの二大勢力の冷たい戦争が熱の戦争になった前奏曲といえよう、これも無論世界的大浄化の最初の表われであって、最後の審判の予告篇ともいえよう、かような状勢を見るにつけても、吾らの救世的活動舞台は刻一刻と近寄りつつある事を意識せずにはおれないのである。(後略)

 

『本教の誕生』

「世界救世教早わかり」昭和25年11月20日                                            (前略)ゆえに神は天国の設計を時々刻々私に対(むか)って啓示され給うので、私はその命のまにまに経綸を行いつつあるのである。それと共に旧文化の中からも役立つべきものは残され、そうでないものは革正して役立つものにされ給うという事である。それが神の大愛である。それ以外のものは遺憾ながら永遠に滅びるより外はない事になろう。これが最後の審判でなくて何であろう。実に有難くもあり、恐るべきでもある。(後略)

『文明の創造、序文』                                               「文明の創造、総篇」 昭和27(1952)年                                    この著は歴史はじまって以来、いまだかつて無い大著述であり、一言にして言えば新文明世界の設計書ともいうべきもので、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルでもある。というのは現在の文明は真の文明ではないので、新文明が生まれるまでの仮の文明であるからである。聖書にある世の終りとは、この仮想文明世界の終りを言ったものである。また今一つの「あまねく天国の福音を宣(の)べ伝えらるべし。しかる後末期到る」との予言も、この著頒布(はんぷ)である事言うまでもない。そうしてバイブルはキリストの教えを綴った物であるが、この著はキリストが繰り返しいわれたところの、彼の天の父であるエホバ直接の啓示でもある。またキリストはこうも言われた、「天国は近づけり、爾(なんじ)等悔改めよ」と。これによってみれば、キリスト自身が天国を造るのではない、後世誰かが造るという訳である。                                             処が私は天国は近づけりとは言わない。何となれば最早天国実現の時が来たからである。それは目下私によって天国樹立の基礎的準備に取り掛かっており、今ははなはだ小規模ではあるが、非常なスピードをもって進捗(しんちょく)しつつあってすべてが驚異的である。それというのも一切が奇蹟に次ぐ奇蹟の顕われで、人々は驚嘆している。そうしてこれを仔細に検討して見る時、神は何万年前から細大漏すところなく、慎重綿密なる準備をされていた事である。これは明瞭に看取出来るが、その根本は旧文明の精算と新文明の構想にあるのであって、私はそれに対し実際を裏付けとした理論を、徹底的にこの著をもって説くのである。そうしてまず知らねばならない肝腎な事は、旧文明は悪の力が支配的であって、善の力ははなはだ微弱であった事である。ところがいよいよ時期来って今度は逆となり、ここに世界は地上天国実現の段階に入るのである。しかしこれについては重大問題がある。というのは旧文明は当然精算されなければならないが、何しろ世界は長い間の悪の堆積による罪穢の解消こそ問題で、これが世界的大浄化作用である。従ってこれによる犠牲者の数はいかに大量に上るかは、到底想像もつかない程であろう。もちろんこれこそ最後の審判であって、また止む事を得ないが、神の大愛は一人でも多くの人間を救わんとして私という者を選び給い、その大業を行わせられるのであって、その序曲というべきものが本著であるから、この事を充分肝に銘じて読まれたいのである。                                       そうして右のごとく最後の審判が終るや、いよいよ新世界建設の運びになるのであるが、その転換期におけるあらる文化の切換えこそ、空前絶後の大事変であって、到底人間の想像だも不可能である。もちろん旧文明中の誤謬の是非を第一とし、新文明構想の指針を与えるものである。それをこれから詳しく説くのであるが、もちろんこれを読む人々こそ救いの綱を目の前に下げられたと同様で、直ぐにこれを掴めば救われるが、そうでない人は後に到って悔を残すのはもちろんで、時すでに遅しである。以上のごとく罪深き者は亡び、罪浅き者は救われて、将来における地上天国の住民となり得るのである。そうして来るべき地上天国たるやその構想の素晴らしさ、スケールの雄大さは到底筆舌に尽せないのである。その時に到って現在までの文明がいかに野蛮極まる低劣なものであったかがハッキリ判ると共に、人類は歓喜に咽(むせ)ぶであろう事を断言するのである。

 『一の世界』                                                   「栄光111号」昭和26年7月4日                                                (前略)ところがここに残された厄介な問題がある。それは何千何万年も掛って、今日のごとき文化を作り上げたのであるから、これまでにはいかに多くの罪悪が行われたか分らない。罪悪とはもちろん霊体の汚穢で、それが溜り溜っている以上、このままでは新世界建設に障碍(しょうがい)となる。ちょうど家を建てる場合、木屑、鉋屑(かんなくず)、その他種々の塵芥(ちりあくた)が散らばっているようなものであるから、ここにその清浄作用が行われなければならないが、これもまた止むを得ないのである。キリストの最後の審判とはこれをいわれたのであろう。(後略)

 『神に愛される』                                                 「地上天国、4号」昭和24年5月25日                                            信仰の妙諦を一口に言えば「神様から愛される」事である。「神様の御気に入られる」事である。しからば神様はどういう人を愛されるかという事であるが、それは後にしてその前にまず知っておかなければならない事がある。それは本教団の使命である。この使命たるやキリストのいった世の終り、または最後の審判、釈迦の言われた仏滅の世という時節がいよいよ迫り来った事である。これに対し神様や仏様は大慈悲心を発露させ給い、この世の大峠を一人でも多く無事に乗越させようとなさる事で、その方法として神様はどういう方法をお採りになるかというと、もちろん人間を通して行わせられるのであって、その重大な任務の担当者として選ばれたのが私であると思っている。(後略)

『巻頭言』                                                    「地上天国、16号」昭和25年8月15日                                              (前略)右はまず、常識的判断であるが、いずれにせよ無軍備日本は、その間にあって、いかなる歩みを続けるべきや、下手をすれば未曾有(みぞう)の窮地に陥るのは必定である。と言って運命のまにまに委す訳にもゆくまい。実に危機は迫っている。しからばこの世紀的大災厄をいかに切り抜けるかで、吾々は大なる覚悟を要するのはもちろんである。基督(キリスト)の世の終りの聖言も最後の審判の警告も最早一片の空文ではない。眼の前の現実となって来たのだ。ただいかなる様相と経路をとるかが問題である。吾らはこの時こそ神を信じ神に縋っていた者と、その反対であった者との差別が万人の眼にも明らかに映る時の来る事を確信している。                       以上のごとく、空前の大惨禍はいかなる悪人といえども悔改めざるを得ないところまで押詰められるであろう。これが最後の審判である、吾らが叫んでいる大浄化である。かくして汚穢は清められ、地上天国は出現するであろう。

 『恐怖時代』                                                    未発表(昭和23年4月28日)                                                     前項に述べたごとく、世界が夜から昼に転換する結果として、人類に対しいかなる変化が起こるかという事である。それは現界の昼夜と等しく「暗黒は全く消滅し、明々白々たる世界となるのである」――という事は、霊界における火素の大増量である。それは人間霊体に対し徹底的浄化力の発現となり、霊体に堆積固結せる毒素が固結の力を失い、剰(あま)す所なく溶解作用が行われる事になるので、すなわち肉体的には病気発生となる事は言うまでもない。しかも夜の世界の期間は浄化作用は局部的であるが、昼の世界におけるそれは全部的であるから、大多数の人間は全身的極度の浄化作用発生し、到底堪え得られずして罹病後短期間、恐らく数日を出でずして死亡するであろう。この場合医学的浄化停止方法を行う時は、反って逆効果となり死を早める結果となる。人々は恐れおののき、戦争や飢餓以上の恐怖時代出現は最早免れ得ない決定的運命であって、その前夜としての現在の時である。この結果として、全人類は何分の一あるいは何十分の一、またはそれ以上に減少するかもしれないであろう。キリストの予言せる「世の終り」または「最後の審判」とはこの事であると私は信ずるのである。(後略)

『御講話』                                                     (昭和10年12月1日)                                                              今晩の御讃歌の中に、大審判ということがありましたが、あれは、あの御讃歌の通りなんで、昔からいう世の終わりとか、最後の審判とかいうことを言いますが、もうそろそろ始まりかけてるのであります。それはどういうことかと言いますと、今度すばらしい光明世界ができるにつき、世界的大掃除をせられる。大掃除するとは、ご承知の通り汚いものをなくし、きれいにすることですが、それは物と事柄によって、いろいろな形式で行なわれる。そのうち一番判りやすくお話すれば、人間にしますと、人間がいかに汚れているかということについて、私が実見してるところをお話いたします。      毎日ここで病人の方を扱っていますが、まずどんな方でも私がみると、実に汚いものがたくさん溜まっている。勿論、汚いものが溜まっているから病気になり、病気になるからここへ来られることになりますが、ここが悪いという所、病気の所だけが汚いのじゃなく、なんでもない所にもたくさんにある。大人によらず子供によらず、一様にある。ちょっとみて健康そうにみえていても、触ってみると、とてもよく判る。してみると、本当の意味からいうと、百%の健康の人は一人もないでしょう。上等の人として、九十%の人が一番上で、これもごく少ないだろうと思う。遠慮なく言ってみれば、よく今日の人が生命を保っていられると思う。実に体中が毒血と膿で埋まっていると言っていいくらいです。これは全体ですから、お互いで、お腹の立つこともなかろうと思います。これが本当に審判が始まれば、ほとんど助かる人はないと思う。                                                    審判とは、どういう意味かというと、神様の御光りがだんだんに強くなる。つまり、東方の光がだんだん強くなって出る。それは、ちょうど太陽が黎明からだんだん天の中心へ上って行く形で、天心へ上って行くほど太陽の光が強くなる。一遍に昇ってはたいへんですが、神様の大慈悲によって、だんだん昇っている。そのなによりの実例としては、観音様を祭るとおデキができる。おデキが出るというのは、汚いものが光に照らされるために浮いて出る。そして、排除されるために皮膚へ出るのです。それでいまはごく緩慢に穏やかにされているのですが、だんだん日が経ち、光が出ると、汚いものはいよいよ出てくることになる。そうなると汚れが多いと堪えられぬ。それに堪えられるのは、よほど汚れの少ない人でないといけない。倒れてしまう。                           それでまず、それが一番最初始められるのが観音会の人だけで、そのために観音会の人だけは軽くすまされるわけで、いまから掃除をされる。ここで掃除されなければ堪えきれず倒れるのです。         このことを考えただけでも一般人は光が強くなったときはたいへんだと思う。今度は本当の真善美の光明世界ができるんですから、立派な家を建てるには、どうしてもその辺を浄めて、雑草など刈りとらなければならぬ。それがまず土台であります。そういうことはきっと行なわれるわけで、そう考えると今後は、早く観音会へ入り、少しでも浄めておかなければならぬ。少しでも浄められてた方は安全ですが、そうでない方は、生命の安全は期せられぬ。ですから、神様は一人でも多く助けられるんで、そのために観音運動は発展となるんであります。                            東方の光、すなわち太陽は一つしかない。太陽の光は観音会が照らすだけで、これ一つなんですから、観音会へ入らなければ陽に照らされぬから、掃除ができないことになっている。これは決して手前味噌ではない。そうなっているんであります。これが最後の審判であります。            世の終わりは、夜の暗が終わるということで、今度は昼間の世界になる。ちょうどいまその境目になって来たから、一人でも多く観音会へ入れて、救い上げなければならない。それが観音運動の根本なんで、だいぶその時期が近づいてきたんであります。そしてちょうど、観音会の発展が、日が上へ昇って行くことになるんです。(後略)

 『御講話』                                                     (昭和11年1月21日)                                                         (前略)田谷さんの夢は一月十日の夢で、その夢が火と水とに分かれてる。これが『聖書』にある、火の洗礼、水の洗礼という、それに当たるんであります。                                            観音様のお知らせが始終あるんですが、それはちょうどこういうふうになるんです。ちょうど、遠くのほうから人が歩いて来るのを見ているようで、最初は、向こうから人が来るなという程度に判る。しかし、男か女かどういう人か判らぬ。ところが、だんだん近づくに従って、はっきりして男か女かも判り、どういう目的をもってるものかまで、ぼんやり判ってくる。そして、いよいよ側へ来ると、いよいよはっきりして、先の用件までも判ってくる。あらゆることが、そういう具合に知らされるんであります。でありますから、最初はぼうっと判る。たぶんそれらしいなと思われるくらいに判る。それが時期が近づくに従って、だんだんだんだんはっきりして、終に絶対に目に見えるように判ってくる。                      それはなにかというと、昔から『聖書』にもあるし、経文にもありますが、最後の審判であります。『聖書』でいえば世の終わり、釈迦が言った仏滅の世であります。仏滅は仏が滅するとありますが、仏は物質世界ということになる。そうすると、仏滅ということは非常に恐ろしいことになる。ところが、そういうことが実際あるかないかというようなことはかなり漠然としていた。それがだんだんと時期が近づくに従って、あるか否かがはっきりしてきたんであります。どういうわけではっきりとあることが判ったかというと、この神様の大審判が、私らの想像よりももっともっとずっと激しい、すばらしいことです。それで、私は愕然として驚いた。そしてこの観音会の出現は、そのための使命であることまでが判ってきたんであります。                                                         大審判というものがあるということは、ちょうど田谷さんの夢が万事を物語っていますから、この夢によってすべて想像してもらいたいと思うのであります。でありますからして、この大審判が始まると、滅びる人間がいくらあるかしれぬ。とにかく、一カ国で何千万人、世界中で何億万人か判らぬ。そうして、これは新しく、何千年間の掃除をされるんであります。                                      これは、いつか話しましたが、昨年の九月に閻魔大王がこの世に表われられたとお話しました。その閻魔大王が総大将となってやられるんであります。これは天照大神様が国常立尊に審判の権を委ねられ、伊都能売之大神様には絶対慈悲をもっての救いの力を与えられたということになっております。                                                                   それはそういうわけで、国常立尊という神様は、非常に力のある神様で、むしろ絶対の力をもつ神様であります。また、善悪に対して裁かれるのが、非常に厳重で一歩も仮借(かしゃく)しないという神で、閻魔大王となられて、長らくの間霊界で審判をなさっておられたのです。ところが、今度の大掃除について出現されたのであります。                                                 観音様は、絶対の慈悲をもって、善人だろうが悪人だろうが、差別なく救ってくださるのであります。そうして、観音様は私の体を通じて、慈悲をもって救われるが、閻魔はぜんぜん人の体をお使いにならない。霊で審判されるのであります。                                                 これが、最初は日本から始まって、そして最後に全世界に行き渡る。これについて、新聞や雑誌に出すつもりで、論文を造ったのです。ごく穏やかに書いて、だれにも刺激することではない。温和的に書いたものであります。