以上説くところの三段階のその上に坐すのが、独一真神即ち万能の神とも申し、大宇宙の主神であらせらるるのである。この主神に対しては、これを表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである。
(「信仰雑話 昭和二十三年」)
それは経文には三千大千世界とあるが、これも逆であるから、私の善言讃詞の中には大千三千世界と直してある。というのは三千世界とは、神幽現の三界であるに対し、これを纏めて一つにすれば大千世界となる。大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され給う意味である。
(「文明の創造」 昭和二十七年)
そもそも、世界には大中小種々雑多な宗教があるが、いずれの宗教といえども、それぞれ神仏諸霊が人類救済の意図のもとに、 霊界から御手を差し伸べており、現界における因縁ある人間を通じて、救済の業を行なわせらるるのである。もちろんその根本は主神の御経綸による事であって、ある時代、ある民族、ある地域、ある期間、救いの業を委任され給うたのである。
(「信仰雑話」 昭和二十三年)
そうして今日まで最高神として崇められて来た神といえども、実は二流以下の神であって、最高神は遥か雲の彼方に座し、ただ人類は遠くから礼拝していたに過ぎなかったのである。では最高神とは何ぞやというと、主神に外ならないのである。エホバ、ロゴス、ジュース、天帝、無極、再臨のキリスト、メシヤ等の御名によって、各民族各国家の人民が称え来った神である。主神の御目的は真善美完き理想世界を造るにあるので、それにはすべての条件が具備しなければならないので、神はその時を待たれ給うたのである。その時とは即ち現在であってみれば、人類はこの事をまず認識しなければならないと共に、自己自身の精神革命こそ喫緊事である。
(『世界救世教早わかり』 昭和二十五年)
ところがいよいよ時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、本教を機関として驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄を覚ますのであるから、いかなる人といえども信ぜざるを得ないであろう。
(「世界救世教奇蹟集」 昭和二十八年)
ところがいかなる宗教でも、その拝む的といえば、エホバ、ジュース、ロゴス、天帝、無極、天照大神、国常立尊、キリスト、釈迦、阿弥陀、観音等が主な神仏で、その他何々の尊、同如来、同大師等々色々の御名はあるが、もちろん立派な神仏には違いはない。中には稲荷や天狗、龍神など、低俗な信仰は別として、その根本に遡れば、独一真神すなわち主神一柱で在す事は論のないところである
(「地上天国 二十八号」昭和二十六年)
以上の如く主神は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、その結果遂に邪神の方が九分九厘まで勝ったのが現在であって、茲に主神はいよいよ一厘の力を顕現され、彼らの大計画を一挙に転覆させ給う、これが九分九厘と一厘の闘いであって、今やその一歩手前にまで来たのである。(『悪と守護霊』文明の創造 昭和二十七年)
主神の深甚なる御目的や、その御経綸は、到底人間の想像だも及び得べからざる事は固よりであるが、ただ御経綸の上において、神はその時代々々に必要なる人間を顕わしそれぞれの使命を遂行させ給う事は吾々と雖も想像し得らるるのである。
(「明日の医術(再版)」昭和十八年)
主神が何の為に宗教を造られたかと言うと、宗教は弥勒出現までの世界人類をして、ある程度以上の堕落をなさざらしめんが為の必要的限定的の経綸であって、主神は一方悪の活動を許容され、物質文化を開き、一方その悪に因る弊害を甚だしくせざらんが為に諸々の人傑を出し、宗教なるものを弘通せしめ、善悪を巧妙に織られたのである。故に今日までの経綸は善悪、明暗、美醜、相交りつゝ流転活動し、進歩し発達し来たのである。
所が主神が今回伊都能売大神に命ぜられて日本を基点として、大光明世界を作らせ様となさって居られるのである。
帰一、一とは元の神様則ち主神の事である。それに帰する、主神に帰することであります。
(「観音講座」昭和十年七月十五日)
一方伊都能売大神様を印度にお降しになり、布咀落迦山にて南海大士観世音菩薩として仏教をお始めになり、この山にて仏教を釈迦に伝えられたのである。その時の釈迦の名は善財童子と申されたのであるが、未だ若かりし時既に教を受けて居られたのである。皆これは主神様が準備をなされたのである。(「観音講座」昭和十年七月二十五日)
世界は仏教、キリスト教、マホメット教とこの三大宗教であって、これを主神が御申付になって造られたのであります。
主神が素盞嗚尊に命ぜられユダヤ民族を造られ、物質を始められる様になられたのであるが、皆これは今まで来るべき道程で主神の御経綸であった。
(「観音講座」 昭和十年七月二十五日)
我日本の天皇は万世一系で天照皇大神の御霊統である事となるならば日本の天皇陛下の古代に遡って行くと神様ということになる。神様がなければ外国と同じになるが日本は天照皇大神様の御系統である。神を認めなければ日本の国は成立しないのである。一有って二つとない日本の天皇である。現在まで厳然と生通しである神様である。主神様が絶対に有ると認めなければこの説は成立しない。
(「観音講座」 昭和十年九月十五日)
しかるに、それら聖者達が、今日まで主神より委任される場合、その時代とその地方とによって限定された事であって、それは主神の御意図であるから、止むを得なかった事である。
ここで吾々は、現代を凝視する必要がある。それは、一切の機構が世界的となった事である。しかるに釈迦も、基督も、マホメットも、あらゆる聖者の出現した時代は、未だ一切が世界的までには、到達していなかった事である。故に、彼らの教や努力は、いかに価値があったとしても、それは、地方的であり、暫定的でもあった事は、止むを得なかったのである。
(「新日本医術書」 昭和十年)
生という字は「主」という字の右の肩に「ノ」を書くので「主神」の御事であります。
「生」という字は、神様がお坐りになって「右の御手で命令される形」で、その命令を奉じて人間がこの世へ出て来るんであります。その命令を奉じて活動する。――それが魂であります。
主神の御命令とは――「人間それぞれの天職使命を完全に遂行する」事であります。畏多くも主神の表現であらせられるところの天皇陛下の御命令を奉じて国家社会に尽す事であります。それが人間として、日本人としての天職使命であります。故に「死」とは「御命令の解任」という事になるのであります。
(「岡田先生療病術講義録」 昭和十一年七月)
遠き神代の時代に、主神が既に定められてある事が、愈々出て来るのであって、どうする事も出来ない、時期になったのであります。ですから、一日も早く、悪を捨て、善に立還るより、仕様がないのであります。
(「光明世界」三号、昭和十年五月二十一日)
時機の到来と共に、主神(エホバ)の神意の発動は、これ以上の遷延は許されないからであり、最後の審判は目睫に迫りつつあるからである。そこで神はまず第一番に医学に対し、審判を開始されたのであって、この事がまず私に命ぜられた使命である。というのはさきに述べた如く人間生命の解決こそ、文明の根本条件であるからである。従ってこの問題を解らせるためには、今日の人間に解し得らるべく、時代即応の説き方でなければならないのである。しかも前人未開の真理であってみれば、尚更そうでなければならないので、これをもってみてもこの著は、有史以来の偉大なる文献であって、この大任を負わされた私としても、責任の重大なる、到底筆舌に表わす事は出来ないのである。
(「文明の創造」 昭和二十七年)
人間を造られた、主神の御意図は、本来、健康人体であって、人間が、天地の法則を破り、又は破らんとする、その意志や行為を、警(いまし)め給うその為に、止むを得ず、病気なるものを存続せられているのである。主神の御意志としては、天律を破らない、従って、病気をしない人間であって欲しいという事は、間違いない事である。言い換えれば、病気とは、人間の不正行為に対する刑罰である。
(「日本医術講義録」 昭和十年)
というのは時期来たって地上天国建設の大任を負わされた私としては、ある程度主神の真意が感得されるからで、読者はこの点よく心に止めて読んで貰いたいのである。
(「文明の創造」 昭和二十七年)
次に又、一方現在の世界を通観する時、絢爛たる物質文化の発達に因って、世界は日に月に一単位に成らんとする 形勢を睹(み)るのであろう、これを睹る時、創造主たる主神の御意図即ち、宇宙意識の帰趨が洞察され得るのである。なぜなればこの大文化を造らんが為、神は数千年の時と無数の人間の力を費して発達せしめたのであるからである。故にそこに流るる主神の一大御目的が判然と窺われ、その御目的こそ今や実現せんと する大光明世界でなくて何であろう。
故に主神は今日まで時代相応の聖者を出現せしめ相応の教化を垂れ給うたのである。されば、総てが世界的となった今日、世界的救済力の顕現は毫も怪しむに足らざる耳(のみ)か、出ずべくして出でたるまでの事である。しかして各聖者達の足跡をみる時、この事の予言警告のいずれにかあるを識るのである。見よ、釈尊のミロクの世、基督の再臨と天国は近づけりの警告、猶太教の救主降臨、亜細亜民族の弥勒下生、大本教の地上天国、天理教の甘露台、日蓮の義農の世、その他、黄金時代、東方の光の言葉等いずれも悉(みな)それでなくて何であろう。
(「東方の光」三号 昭和十年二月)
要するに、一切は主神の経論であって、文化発展上、正邪相争い、明暗、美醜相混じり、かくして一歩一歩理想に近づくので、これも深奥なる御神意であって、到底人智の窺い知るを得ざる事を知るべきである。
(「地上天国」十九号、昭和二十五年十二月二十五日発行)
そもそも、主神の御経綸は、将来地上天国建設のため、物質文化をある程度まで、進歩発達させなければならない。 この意味において善と悪とを作られたのである。何となれば、この善悪の摩擦によって、現在見るがごとき、絢爛たる物質文化が出来上ったからであって、今や天国出現の一歩手前まで来たのである。
ついに主神の厳罰を受け、一応は悔改め善神に立戻ったのであった。すると○○龍神は、次々、その時代の力量ある人物に憑依しては、世界征覇の野望を達成しようとし、その都度失敗したが、彼らは懲りる事を知らず、今なお執拗に奮闘しつつあるのである。
(「地上天国」二十一号、昭和二十六年二月二十五日発行)
本来主神の御目的とは何であるかというと、それは人間世界をして真善美完き理想世界を造りこれを無限に向上発達 せしめるにあるので、これこそ永遠不滅の真理である。従って今日までの人智では、到底想像すら出来得ない程の輝かしい未来をもっているのであるとしたら、人間はこの前途の光明を胸に抱きつつ楽しんで天職使命に尽すべきである。そういう訳で主神の御目的を遂行すべき役目として造られたのが人間である以上、人間は右の使命を真底から自覚すると共に、生命のあらん限り、その線から離れる事なく働くべきである。
(「文明の創造」昭和二十七年)
そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、これを分ければ大別して三段階になっている。その内の一段が 六十階、それが三分され二十段ずつになって、合計百八十一階級である。そうして一は主神であるから、主神以外はいかなる神様でも、百八十の中のどれかの段階におられるのである。
(「地上天国」三十四号、昭和二十七年)
これこそ宇宙の主宰者たる主神の御目的の一つの現われであって、その理由としては現在の文明に一大欠陥があり、それが文化の進歩に甚大なる障礙となっている以上、これを根本的に除去しなければならないからである。
(「世界救世教奇蹟集」 昭和二十八年)
従って我救世教こそ、最高最貴の主神が経綸し給うところの神科学の具体化であり、それから生れた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。
(「医学革命の書」昭和二十八年)
そうしていかなる宗教といえども、善悪の根本すら徹底的に説破したものは、絶対に無いのに見ても明かである。それはなぜで あるかと言えば、既存宗教のほとんどは、その開祖が第二流以下の神仏である関係上、主神の最奥の経綸が解るはずが無いのであるから、止むを得なかったと云 うべきである。
(「内外公論」昭和十一年)
こうみてくると宗教は邪神以上の力をもたねばならない。それでなくては善の勝つ幸福な世にはなり得ないのである。そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、ここに不安なき幸福な世界が実現するのである。しかしそれは容易な業ではないが、不可能ではない。なぜなれば主神の御目的たる地上天国はすでに近寄りつつあるからである。その根本はもちろん小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。すなわち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等ことごとくを包含されたところの超文化運動であり、その指導的役割こそ超人的力と智慧とを有する巨人が出なければ ならない事である。
(「栄光」二四二号、昭和二十九年)
主神の救済委任神で被在らるる伊都能売之大神即観世音菩薩が、人間の生命の延長即ち不自然死滅消をなさしめ給う事は、敢て不思議ではないであろう。
この事によってみても、人類が何千年待望していた光明世界、即ち病無き世界が、今や来らんとしつつある事を覚らねばならないと思うのである。
(昭和十一年)
そもそも人類が棲息しているところのこの大地球といえどもその中心があり、中心には主宰者すなわち支配者がなければならない、それなら一体地球の支配者とは何者かという事であるが、これが主の神すなわち天帝ともいい、エホバとも称えるところの絶対者であって、宇宙意志とはこの主神の意志である、この主神の意志の下に、人類社会をして無限の発展を遂げしめつつあり、未来はいかに善美なる人類社会が出現するか到底想像し得られな いのである、ただ未来世界の幾分かは想像し得られる、というのは何千何万年前の原始時代と、今日の文化と比べてその進歩の道程を振り返る時、その著るしい 発展ぶりにおよその想像はつくはずである。
(「光」七号、昭和二十四年)
この療法の創成は、主神が、人類の最も苦悩とする病気疾患を根絶せんとなし給う御目的に出でたるものにして、その御目的遂行の為表現仏たる観音の霊体を通じ、仁斎の肉体を活用させ、ここに、神人合一的大能力を発揮するに到ったのである。
(「日本医術講義録」 昭和十年)
世間往々、救主と贖罪主とを混同している。しかし、実際は、天と地程の相違がある。
贖罪主とは、罪の贖い主である。彼のナザレの聖者イエスが、世界万民の、罪の贖いの為に、十字架にかかったのはこれであった。これこそ、大いなる贖罪主であった。贖罪とは、罪人の代理又は代表者となって主神に対し奉り、罪の赦しを乞うのである。故に、言い換えれば、謝罪主であり、赦される側である。
それに引替え、救主とは、贖罪者が、赦しを乞うのに対し、その罪を赦す権威者である。しかし、今日まで、贖罪主としては、大小幾人もの聖者が出たが、未だ、赦し主たる、救主は、出現されなかったのである。その点を充分識っておかなければならない。
(『病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?』昭和十年)
ある期間悪が必要であったからその深い意味を主神は知らさなかったのである。従ってたとえ正神といえども知り得る由はなかったので、正神はどこまでも正義のみによって天国世界を作らんとするに反し、邪神はどこまでも目的のため手段を撰ばず式で、悪によって野望を遂げんとしたのである。
(「文明の創造」昭和二十七年)
そもそも、主神の御目的である地上天国を建設する基本条件としては、何よりも大自然の実相そのままを表わす事である。というのはいつも言うごとく、宇宙一切の構成は、日月地が根本となっており、この本質が火水土であるから、この三位一体の力によって、万物は生成され、化育され、世界は無限の発展を遂げつつあるのである。
(「栄光」百三十七号 昭和二十七年)
いかなる宗教といえども、その本源は主神すなわちエホバ、ゴッド、天帝、仏陀等からであって、全世界あらゆる民族、地域、時代によって、神の代行者と してキリスト、釈迦、マホメット等を初めその他の聖者、賢哲を輩出され給うたのであるから、もちろん大小の優劣はあるにはあるが、その本源は同根である。
(「地上天国」十一号、昭和二十四年)
ところが本教の主宰神は主神である以上、揮われる力は絶対力である。何よりもすべての宗教が病院を作っているにかかわらず、本教のみは作っていないにみてわかるであろう。
(「栄光」百九十二号、昭和二十八年)
もう一つは天照大神様が観音様に化身されることで、この点はっきりしないと万一不敬に渉ることがあってはならぬ。
天照大神、これは主神で全大宇宙は天御中主神の御神体で、これは漠然としてつかみどころがない。
(「御講話」昭和十年)
「主の文化」というのを書いているんですが、今までは丸ですね。ポチ――これが元なんです。というのは、今までの世界は主の力が出なかった。つまり主神は――人間で言えば親父が出なかった。番頭なんです。だから今までの神様は、神様の番頭なんです。キリストだって釈迦だって、 番頭なんです。キリストは天の父と言う。天の父というのは主神ですからね。だから肝腎の中心は、みんな隠されている。丸だけしか見えないし、それだけしか解らなかった。で、メシヤ教というのは、主神の力ということがあるんです。ポチですね。
(「御講話」昭和二十七年三月五日)
それから○ヽの文化、主神とか主と言いますが、丸にチョンを打って、われわれは「ス」と読んでますが、これはあらゆるものを簡単に表わしているのです。それを今ちょっと読ませます。
(「御教え集」十三号、昭和二十七年)
最近はいろんな神様が、お祝いお慶びに随分出てきます。天照大御神様もお祝いに来られたのです。それから月読尊、伊邪諾尊などです。天照大御神は日本では最高の神様としてますが、主神ではないのです。つまり太陽神です。宇宙というものは太陽ばかりではない。月もあるし星もあるし地球もありますから、その全体を握っているのが主神なのです。それで、私は主神の仕事をさせられているわけですから、そこでそういった今までの偉い神様も、これからこのメシヤ教のために大いに働くわけです。そんなような意味のことを しきりに言ってますが、そんなようなわけで、これから本当に現界的に始まっていくのです。現界的といっても、現界の奥の方に始まっていくのです。本当に現界に始まるのは五、六、七と、それが揃ってからが本当の現界です。
(「秋季大祭御講話」 昭和二十七年九月二七日)
この間多賀さんの奥さんに天照大御神様が懸って、私のことを“主神様”と言ってます。良いことがあって御祝いに来たのです。「主神様に御祝い願いたい」と言ってきたのです。最後に「主神様に御守護をお願いしたい」と言うのです。これは本当に懸ったのです。そうすると、天照大御神というと世の中ではたいへんな最高の神様のように思ってますが、しかし天照大御神は伊邪諾、伊邪冊尊の子供になるのです。これは神代史にもあります。天照大御神は伊邪諾尊の娘さんになる。ですから分かりやすく言えば私の子になるわけです。そこで天照大御神様は本当に人を救うという力はないのです
(「御講話」昭和二十七年十一月十五日)
それで伊邪諾尊が主神の代表神です。ですから非常に力が強いのです。それでこの間多賀さんの奥さんに伊邪冊尊様が懸って“自分は非常に間違っていた。だからこれから大いにお手伝いする”というようなことを言われてました。
(「御講話」昭和二十七年十一月十七日)
日に月に霊界ではだんだん変化しつつあるのです。それは実におもしろいのです。その根本だけは話してもよいですが、その根本というのは力の根原です。それはなにかというと太陽の黒点なのです。太陽の黒点が宇宙の支配力の中心なのです。あそこから力が出るのです。それで○ヽ(ス)のヽが太陽の黒点なので す。これがたいへんなものなのです。ですから浄霊の力の元は太陽の黒点から来るのです。だからおもしろいとも言えます。それで学者もやっぱり昔から太陽の黒点を研究してますが、遠過ぎてそれはとうてい分かりません。私はいつか科学博物館で望遠鏡で見たことがありますが、中にいくつも黒点が大きい小さいのが 混じってます。それを総合してみるとチョンになるわけですが、それがなんだということは、学者がいくら想像してみても、それはとうてい分かるはずはありま せん。それで昼間の世界ということは黒点が変化するのです。それで太陽の熱というものは、太陽の黒点から放射されている一つのエネルギーですが、火力というものは太陽よりか黒点の方がもっと強いので、それは神秘なものです。その黒点の代表者が主神です。そこから私の体に光が来ているのです。
(「御講話」昭和二十八年七月二十五日)
観音様は神の化身であり伊都能売大神ですがその上に主神がおられる。それは神道では天御中主大神、キリスト教では天の父、ユダヤではジュー ス、またメシヤ、支那では天帝、インドでは大自在天と言う。キリストは父の命で父の子として現われたと言うが、それはあの時代必要があって出たんです。私のは主神の力が伊都能売大神を経て、さらに私の体を通してみんなに行くんです。私は電灯会社であり、観音様は水力電気、大神様は水を出す源です。御守りは 一つの霊線の中継ぎ、まア電球ですね。この電球は本社は同じですが、人によって百燭光にもなりまた十燭光にもなる、その人の働きしだいです。ふつうの人の霊力とはぜんぜん違う。御守りのない人がやるのはちょうど電灯のない所で手探りしてるようなものですよ。まア修行しても懐中電灯くらいですよ。
(「御光話」昭和二十三年四月八日)
罪穢を赦し給う権能を有(も)ち給う神は、天地間、ただ一柱より在さないのである。それは、宇宙の支配者たる主の神にして、その主の神の表現神で被在(あらせ)らるるのが、畏くも天照皇大神様で被在らるるのである。
天照皇大神様は、独一真神にして、最尊最貴の御神格に被在らるるを以て、直接、人間への御救いの業は不可能の御事が神律なのである。
(「新日本医術書」昭和十一年)
善と悪とについて、徹底的解釈をするとなると、これは仲々難しい問題であって、今日までこの問題を真に説き得た者は、ほとんどないといってもいいくらいである。何となればこの事は大宇宙の主宰者である主の神の権限に属するからで、すなわち哲学的に言えば宇宙意志である。従って主の神以外のあらゆる神でも分り得ないのは当然で、いわんや人間においてをやである。もしこの問題を説く人があるとすれば、それは人智から生まれた想像の範囲内であって、それ以外一歩も出ないのである。ところがそれを私はここに解説しようとするのであるから仲々大変ではあるが、といって私の想像的所産ではなく、神示によるものであるから別段難くはないのである。というのは時期来たって地上天国建設の大任を負わされた私としては、ある程度主神の真意が感得されるからで、読者はこの点よく心に止めて読んで貰いたいのである。
(「文明の創造」昭和二十七年)
この御守というのは私が書いた文字で、光、光明、大光明の三種あるが、これこそ主の神(エホバ)の神霊が、私の霊体を中継として御守に伝達され、御守から信者の掌を透して放射されるのである。
(「結核信仰療法」昭和二十七年)
その最も大いなる奇蹟はこの大偉業が主の神によって、何万、何十万、否何百万年以前から、周到なる準備をされていた事である。
(「地上天国」三十三号、昭和二十七年)
あらゆる既成文化を超越した破天荒的な力が現われなくてはならないのは言うまでもあるまい、ところが喜ぶべし、その力こそ主の神としてのエホバから吾らに与えられ、今現に発揮しつつある事実で、これが本教の真髄である
(「栄光」百十八号、 昭和二十六年)
大神力の発揮がなくてはならない、といっても生神様的個人の力でもむずかしい、どうしても全人類を主宰し給う主の神すなわちエホバの絶対力の発現である、もちろん人類発生以来今日まで、右のような大神力は出なかった、それは地上天国準備だけの力でよかったからである、言わば本教と同様これまでの世界は楽屋であった訳である、ところがいよいよ時期熟して世界はここに一大転換と共に、天国樹立という神の理想実現となったのであ る。
この事が根本であって、これを深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。
(「救世」五十三号、昭和二十五年三月十一日)
(問)「大神、神、尊、命とどういうふうに違いましょうか。」
(答)『人間の一番偉いのは命と言い、ふつう人間が死んでつける。
尊――これは生きてるうちから位のあった人につける、命より上になる。例えば素盞嗚尊などそうである。また神が人間に生まれた場合にも尊をつかう。
大神――これは主の神を言い、ただ神と申すときはふつうの神である。主神は体は持たれぬがただその表現神はある。
すべて神様のことは固定的に考えてはいけない。融通無碍である。しかし国常立尊のような神は大神と言っていい。次に参考に言うが人間の場合一番上が麿で、次が丸、次が雄、男、夫という順序になる。』
(「地上天国」三号、昭和二十四年)