「結核問題ト其解決策」昭和17(1942)年12月13日初版発行
現代行われている西洋医学における病理はそのほとんどが黴菌説である。あらゆる病気は黴菌によって伝染すると解されている。感冒までも黴菌の作用とされている。そうして感冒菌のごときは顕微鏡でも視るを得ない微少〔小〕なるもの、それは濾過性黴菌と称している。
そうして、医学においての解釈は、感冒、ジフテリヤ、百日咳、麻疹(はしか)、流行性耳下腺炎などの病気は、泡沫伝染という事になっている。これは、戸を閉め切った室内や乗物の中で、患者の嚔(くしゃみ)や談笑の際など、霧のごとく唾と一緒に飛出し、空気中に浮游(ふゆう)しているのを吸込んで感染するというのである。そうして老人は、比較的免疫になっていて、青年特に小児が冒され易いとして、患者に一米以上接近してはならないというのである。かように、ほとんどの病気は伝染するというのであるから、これを信ずるとしたら、現代人は生きてゆく事さえ、恐怖の限りである。
次に、空気以外、最も直接的である黴菌の巣窟は何といっても、貨幣に如(し)くものはあるまい。これについて『北大医学部衛生学教室阿部三史学士が、郵便局、銀行、市場、デパート、食堂、食料品店、個人等多く利用されるところから十円札、五十銭銀貨、十銭白銅、十銭ニッケル、一銭銅貨等取り交ぜ、三百四十五個を集め、その銀貨なり、札なりに付着している黴菌を研究した結果、左のごとく大腸菌、パラチフス菌、腸チフス菌、葡萄球菌、コレラ菌、分裂菌等々、数えきれない程の黴菌が付着していた。これらはいずれも人体に害を及ぼすもので殊に小さな子供等が無心で銅貨、銀貨をなめているなど大いに注意を要するものであり、一方多くの人は、銀貨銅貨に、結核菌が付着していると思っているだろうが、阿部氏の研究では、結核菌は案外少く、人体に及ぼす程の偉力はないと言われている。
「各種貨幣の黴菌数」(昭和十一年六月調査)
まず十円札、五十銭、十銭、一銭各一枚にどれだけの黴菌が付着しているかと言うと
△拾円札には、普通黴菌が最高拾六万九千百五個で、平均、五万二千四百九十一個
△五拾銭銀貨には 平均千五百五拾九個
△拾銭白銅には 二千四百七拾個
△拾銭ニッケル白銅には 二千二百三個
△一銭銅貨には、 千三十二個 ――等である。
「病菌の種類と数」
更に大腸菌、チフス菌、パラチフス菌等がどれだけついているかと言えば―――
△拾円札には 五拾四個
△五拾銭銀貨には 四個
△拾銭白銅には 三個
△拾銭ニッケル白銅には 一個
△一銭銅貨には 四個
――等で、拾銭ニッケル白銅が、他の貨幣より少ない事は、発行されて間もない事によるもので、なお一銭銅貨には比較的黴菌の付着数が少ない事は、銅自身が持っている殺菌性に依るものである。
「場所と黴菌数」
しからば、どこで使われている貨幣に、最も多くの黴菌が付いているかといえば――
一番多いのが市場、次いで郵便局、日用雑貨品店、百貨店、食堂、菓子店、食料品店、個人所有等の順序になっており、個人所有が一番少ないが、これは財布の中に入れられている関係上、空気が外部と異って流通しないため、付着した黴菌が培養されない為である。』
以上によってみても、貨幣にはいかに多くのあらゆる病菌が付着しているかを知るであろう。しかしながら、貨幣を手にする毎に消毒することは、いかなる人といえども不可能である。又、空気伝染が恐ろしいといっても、電車や汽車に乗らない訳にはゆくまい。故に、病菌から全く遁(のが)れ去るには、遥かなる沖合における海上生活か無人島か又は社会と全く交通を絶たれた山奥に一軒家を建てて生活するより以外、理想的方法はないであろう。しかし、そのような事は何人といえども、到底出来得る事ではない。故に、たとえ病菌が体内に侵入しても発病しないという健康体になるより外に、絶対的安心の方法はないのである。しからば、その様な健康は可能でありやというに、私は可能である事を断言して憚(はばか)らないのである。それについて、有力な一つの実例を示してみよう。
それは、昭和十年九月三日の読売新聞の記事によれば、東京におけるバタ屋即ち屑(くず)を扱う人間が一万二千人程居るが、市社会局では昨年十二月中旬、足立区を中心として、認可のある屑物買入所所属の拾い子について、詳細な調査を行ったが、二日その結果を発表した。それによると、あれ程不衛生な仕事に従事していながら、彼らの間に伝染病その他の病人の少い事は意外である、そうして調査人員二千四百拾五人の中、女子は僅かに六拾人の少数であった。調査人員の年齢は三十一歳から五十歳に至るものが一二九九人を数えて、全員の過半数を占めている。健康状態は、慢性胃腸病患者が最も多く、次にアルコール中毒者という順である。そうして伝染病、肺結核、性病が割合少ないのである。即ち二四一五人のうち、健康なるもの二一二三人、虚弱者八十五人、老衰者五十八人、不具者三十五人、廃疾八十五人、その他の疾病三十二人となっている。
右の例によってみても瞭(あきら)かなるごとく、病菌による伝染病はほとんど無いといってもいい位である。故にいか程病菌に接触する者といえども健康者なるにおいて、容易に伝染するものではない事を知るであろう。
次に、病菌なるものは、今日まで人類に害を及ぼすものとされ恐れられているが、これはあながちそうとのみ言えないのである。あるいは、有益であるかも知れない。何となれば、この世に存在する限りのいかなる物といえども、人間に不必要な物はないはずである。もし必要がなくなれば、自然淘汰されるのが真理である。ただ、無用であるとか有害であるとかいうように、人間が勝手に決めるのは、今日の文化の程度においては、その物の存在理由が不明であるからである。それについて私は、病菌と伝染病について、私の研究の結果を説いてみよう。これによって専門家は固より、読者諸君においても判断せられたいのである。
そもそも、伝染病なるものは、他の病気と等しく浄化作用であって、それが頗(すこぶ)る急性なる為人間は恐れるのである。そうして病菌の活動によって、血液中に存在するある種の毒素を、解消する為の摂理作用である。勿論不浄血者は、不健康で、人生の活動に支障を及ぼすからである。しからば、病菌による伝染とは、いかなる経路といかなる理由に因るかを説いてみよう。
最初、病菌が人体の皮膚、粘膜、食物等から侵入するや、速かに血液中に進行する。しかるに、血液中の毒素なるものは、実は黴菌の食物となるので、菌はその食物を喰う事によって繁殖する。故に、食物が多い程、繁殖するのは当然である。そうして、黴菌が食物を食いながら非常な勢を以て繁殖し、ある数の子を生むや、次々死滅するのであって、その死骸は、血液、糞尿又は喀痰、唾液等に混じて排泄されるので、これによって完全に浄血作用が行われるのである。故に、赤痢、チブス、麻疹(はしか)、天然痘、疫痢、百日咳等、総て伝染病の予後は、発病以前よりも健康になるに鑑み、右の理は明かである。しかし、伝染病恢復後、健康が捗々(はかばか)しくない者もあるが、これは医療によって浄化作用を抑止するから、毒素が残存する為である。又、医学上保菌者というのがある。それは菌があっても発病しないのであるが、これはどういう訳かというと、黴菌の食物が少しあるからである。即ち生存するだけの食物はあるが、繁殖する程はないのである。従って、全く毒素の無い浄血の持主はたとえ黴菌が侵入しても食物がないから直ちに餓死するので、伝染しないという事になるのである。故に私はこういいたいのである。それは伝染という名称は当らない。誘発という名称が妥当である――と。
右の理によって、黴菌の存在理由は判った事と思う。即ち人間に対し浄化作用を行う――いわば“毒素の掃除夫”のようなものであるから、むしろ伝染否誘発をした方が健康上よいのである。故に、実際上からみても、高度の文明国が伝染病の著減を誇りながら体位が低下し人口逓減(ていげん)という問題に悩まされつつあるに対し、伝染病の多い非文化民族が右の反対である状態に思い及ぶ時、右の説の謬(あやま)りでない事を知るであろう。
即ち、高度文明国民は濁血の持主でありながら、病菌を極力防止する結果、伝染病が著減したのである。前述のごとく、浄血者のみになって、伝染病が減少又は絶無になる事こそ理想の健康民族というべきである。そうして勿論血液中の毒素とは、そのほとんどが薬毒である事はいうまでもないのである。
ここで私は、再び結核その他について説明する必要がある。それは医療においては殺菌と称し菌を殺滅せんとして、それのみに熱中している。黴菌さえ殺滅すれば、病気は治癒するように解しているが、これ程誤りはないのである。肺結核のごとき菌のみを殺さんとしても、それは到底不可能である。何となれば、服薬、注射液等が、血液その他を通じて、結核の病竃(びょうそう)部に達するまでには、薬剤の殺菌力はほとんど無力同様になるであろうからである。もし病竃部まで殺菌力が消滅しないような、強烈な薬剤であるとしたなら、そのような薬剤は、使用するやたちどころに生命の危険に及ぶのは判り切った話である。故に、薬剤による殺菌作用はいか程研究しても、それは全く無益の努力に過ぎないと思うのである。
しからば、その殺菌の目的を達成せんとするにはいかなる方法が妥当であるかというに、それは菌の繁殖をして不可能ならしめる事である。即ち、菌の繁殖の原因を除く事である。即ち菌の食物を絶無にして餓死せしむる事でそれ以外に方法はあるべきはずがないのである。そうして食物皆無とは、浄血者になる事である。浄血者になるには、薬剤を使用しないことである。しかるに今日の医療は、黴菌の食物の原料を供給しながら、黴菌の繁殖を防ごうと努力するのであるから、効果は挙らないのは当然である。それでやむを得ず、消極的防止方法に努力する訳であろう。