御教え『人類幸福の道拓けん』

本紙一年を記念して

「救世」53号、 昭和25(1950)年3月11日

 自観教主感懐を語る

「本教機関紙『光』を発刊して一周年を迎えるに先だって新な使命のもとに改題『救世』となって意義深い一周年をここに迎えました、この一年間を通して『光』『救世』への変転がありましたが、それ以上にずい分数多い感懐があったと思いますが、それに就いての明主様(メシヤ様)の御感想をまづ述べて戴きたい。」

『正しくこの一年は苦労したが、自分としては生涯の歴史のページに刻みつけられるべきいく多の思い出があった、私は筆を執ることは生来の趣味でもあり、仕事の一部ともしてきたが、しかしこの一年間ぐらい真剣に文筆と取組んできたことは稀なことだ、昔は或は趣味としての文筆を執り、詩も、歌も気楽な意味でモノした場合もあったが、この頃では趣味だなんて悠長な気持ぢゃなくてすべて神意の御命令のもと、厳粛、且緊迫した気持で筆を執らざるを得なくなった、要するに『悪』の筆法に対する『善』の筆法をもって闘はねばならなくなったことだ、いかに世の中が変ったといえ、こんにちほど乱暴なジャーナリズムに出会したことはかつて経験はない、いや乱暴というよりもむしろ気狂いじみている、いかに商業新聞の興味本位とはいうものの、他人を傷つけたり、誹謗したりしてトクトクとしている風潮は好ましくない、本教のこの一年はこの悪ジャーナリズムに悩まされとほしてきたが、この通り微塵(みじん)の動揺もない、これこそ本教の正しさが、無言の立証をしているのであり、悪ジャーナリズムも正義の前にはもはや降伏を余儀なくされたのである、そりゃ、新しいものが勢いをもつことは古いものの何処かへ割り込むことになるなら、既成陣営の一部から猛烈な反対や妨害が起きることは必然である、新マイに威張られては気持のよくないのは人情だ、しかし、これもホンのしばらくの間だけで、一応地歩を占めてしまえば、日本人の通有性で、もう文句を云はなくなるものだ、本教のごとく、なんらヤマしいことのない以上、もっと積極的に攻勢に出ればなんでもないのだが、そこが、私の好まざるところで、なんだ、かんだと云はれながらも、遅くとも、確実に、結局の目標に向って歩一歩、進んでゆくわけである、極端な毒舌には私も人間だから腹も立った、しかし、私憤を抑え、ただ神の命令に従ってこの一年間ほんとうに難行の忍耐をつづけてきた、こんな苦労はアプレゲール(戦後派)の軽薄なジャーナリスト輩にとうてい理解できまい。』

 

湧出す情熱

邪心なき神への仕へ

「『光』から『救世』への一年間毎週、あれだけの論旨を全うされたことは神技以上だと思いますが、お疲れではありませんか。」

『泉のごとく湧き出で、未だ筆力衰えずだ、いや、こんご、時に応じ、機に乗じ、多々益々、弁ずるだろう、自分の思想は、そして神への情熱はこんにちまでの著作で一目瞭然であり、疑う者、まづ、私の書いたものを熟読すれば、すべて了解できると思う、一言一句の嘘はないのだ、だい一、私のみか、本教に寸毫の邪心あれば全信徒が承知しませんよ、われわれの仕事はガラス張りのなかで行はれているのだからなんらの不安も疑心もない。』

 

神の力顕現

宇宙に加護の時来る

「メシヤ(救世主)はイエス・キリストにも冠されているが、それとはどんな関係がありますか。」

『西洋では一応キリストをメシヤと称しているが、まだしっかりした定義のもとに謂っているわけではない、救世主といっても、真にその目的を達成したものはない、廿世紀前半まではその実力を顕現するまでにはゆかなかったのかもしれないが、然し、愈々、これからが神の実力が発現される時期に入ってきたといえる、西洋においてはキリストもさぞや本来の実力を発揮されることと思う、而して東洋においてはメシヤがほんとうに御神力を発現されることと確信する、だから従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない、もっと神秘にして幽邃(ゆうすい)な御神力がはじめて登場することになる、私はもちろんメシヤの代行者であるから、今後、如何なる形態によってメシヤの御働きが行われるか、想像だに許されないが、しかし、現在の僅かではあるが、神の御動静から推察してこれはまた大ヘンな御霊力が宇宙に御加護あられるということが申してもよいと思う。』

「メシヤ教になってから特に顕著な事例はありますか。」

『霊界から非常に鋭い反響が現れている、奇蹟(おかげ)がさらに強くなってきた、いままでのおかげは尋常一様なこととなり、想像もできなかったようなおかげが続々と起きている、しかし、一面、善悪の審判はことの他峻烈化し、悪への断罪は厳粛に行われるようになった、『光』と『救世』の差はそこにあるので、たんなる改題や、商標の変更ぢゃないことをよく銘記すべきである。』

「メシヤ教誕生の世界的意義はどんなところにありましょうか。」

『神様の御働きになる範囲はこれまでたんに日本という一局地にとどめられていたが今後これは全東洋に波及するものと思はれる、信仰には国境はないといわれるごとく、神の御働きは宇宙無限、一草、一木にまで御慈悲が加わる、しかも、本教のモットーとしている『病、貧、争』の絶無の境地がいかなるところにも及ぶのであるから『平和世界』の現出は火を見るより明らかである、争いごとは、人類のもっとも忌み、嫌うところだ、どんなことをしても人類はもう争いごとを止めなければならない、まして武器なき日本人は『平和世界』のために先頭に立って働くべき宿命を負はされている、いま国内で、左だ、右だと騒いでいることは『平和への切なる希求』の一過程だとするにはあまりに幼稚すぎる、平和のために真剣にやっている態度とはどうにも思えない、小さな争いごとがだんだん昂ずると民族の分裂が生ずる、ながい間、武家政治の犠牲となり、軍閥の圧制に苦しんできた日本人はもうこのへんで冷静、沈着、ほんとうに国内相剋から脱却したたのしい平和国家をつくり上げるようなおほらかな気持に立還ることができないものか、最近つくづく日本人の狭量さが眼について仕方がない。』

 

可能な世界平和

キリスト教と呼応する

「世界平和が宗教の力で実現可能ですか。」

『絶対可能と信じている、前にも述べた通り、西洋にキリストあり、東洋にメシヤあり、この二大勢力が東西相呼応して平和のために全信徒が、真面目にたたかってゆくなら必ず永遠の平和が齎(もた)らされるものと思う、いかに無神論国といえども、神の怒りに触れるることはきらうからネ、世界救世(メシヤ)教の教義はもちろんこの人類永遠の平和希求に根をおいていることは申すまでもない。』

「世界の何処かになんらかの反響がありましたか。」

『既にあった、先般渡来した参議院議員の中村嘉寿君からも数日前ワシントンから便りがあった、本教機関紙の『光』が同胞のあいだで大モテだったようだ、自由に交通が許されるようになったら『救世』も大いに海を渡って普及されるであろう、また岡本米蔵君という人も、本教の出版物を翻訳して出したらあちらでは大変なセンセーションを巻き起すだろうといっている、アメリカでも最近ババイ教という新興宗教が非常な勢いで発展しているという、キリスト教ばかりでなくいろいろな宗教がやはりアメリカ人間で信仰されているわけである、だがいづれも迷信的なところは少しもなく至極合理化された教義にのっとっているらしい、しかもなんらかの圧迫もないから良心的に自由な活動ができる、本教のごとき現実を対象とした宗教も必ずやアメリカの人達にも理解できる時がくると思う。』

「本教の『おかげばなし』があまり多すぎるので疑念を持つ人が一部にあると聞きますが。」

『いや相当各方面で疑念をもってあれを一々戸別訪問して調べた向もあったらしい、ところが全部が真実で、なんらの粉飾もないので、すっかりびっくりしている様子である、こちらではあのおかげばなしが、あまりにも多く殺到するのでその処理に困っているわけで、現在掲載しているのはホンの一部分で、大半は『ボツ』にしている、そのため信者から何故『ボツ』にするのかと苦情がきて弱っているところだ、まさにあれは御利益の真実を告白する生きたバイブルであり、先日やって来た毎日の或記者は『どれを調べても一つのウソもなく、まさにあれは廿世紀の聖書だ』といっていた、大新聞の記者はウソも書かないだろうし、お世辞も云はないだろうからネ。』

 

聖堂近く竣工

国際親善にも一役

「ただ今熱海瑞雲郷に建設中の本教の聖堂はいつ竣工しますか。」

『当初の規模より壮大になったので、予定よりやや遅れ、本年一ぱいかかるかもしれない、だが、その竣工の暁は東洋に類例のない一大景観を呈するとともに、壮麗極まりないものが完成するものと思う、しかしこうした時代でもあるから一さいムダな華美を捨てて、建築は質素にして優雅なものとする、様式はコルベジュヱのフランス風で、白亜の塗り、熱海では最初の様式で、ちょっとモダンなシックな感じがする、数千人を収容できるし、信者以外の一般の結婚式場にも充てたいと思う、本教団はこんにちまで、この建造のために莫大な費用を投じてきたのであり、これが竣工さえすれば本教の真髄が必ず納得ゆくと確信している、どうも日本人は何か眼で見える一つの物体をつくり上げないうちはいろいろなセンサクをするので弱る、これが大衆の眼前に現れると成程と解ってくるであろう、聖堂の他、信者の宿泊所、温泉場、展望台、それに外客に開放予定の一大美術館もできるから、国際親善にも大きな役割を演ずることともなる。』

「こういうようなことから本教団が熱海市をまるで牛耳るというような風説をまく者があるが。」

『全く驚いたネ、熱海市は自治体であり、市民によって形成されている、本教団はこの自治体のなかの何万分の一の存在しかない、市をろう断することもできないし、宗教の建前からいって市政とも無関係である、熱海市発展のためにはどんなことでもお手伝いはしようと思うし、また今日迄その意味ではやってきている、熱海というところはそんなちっぽけな都市ではないのだから、そんなことを気にする連中は熱海を知らないにもホドがある、熱海は熱海市民のものである、なんぴとにも侵されない立派な自治権がある、ナンセンスをまことしやかにつくるナンセンス頭脳がいる、全く笑止千万だ。』