研鑽資料no.91(2022年7月)

7月の学び

はじめに

責任者:

今年は、あっという間に梅雨が過ぎ真夏日が続いています。連日、熱中症情報で厳重警戒と出ておりますが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。

さて、今回も「文明の創造」より学びを続けて参りたいと思います。よろしくお願い致します。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋:

<今月の御教え>

『救い主と贖罪主』

「文明の創造、総篇」昭和27(1952)年

本文は「文明の創造」55ページに記載されています。

私は之迄悪に就(つい)ての根本理論として、悪が必要であった事、悪によって今日の如き文化の進歩発展を見た事をかいて来たが、茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならない。それは有史以来今日迄幾多の宗教が生れ、其(その)説く処は例外なく善を勧(すす)め、悪を極力排斥したのであった。勿論(もちろん)之は悪其(その)ものを除くのが宗教の建前であるから勿論(もちろん)当然であるが、それに就(つい)て私はよく斯(こ)ういふ質問を受けたものである。

“一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍(なが)ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか”といふのである。成程此(この)質問は尤(もっと)も千万(せんばん)で一言もないが、実をいふと私にしても同様の考へ方であるから、其(その)都度私は斯(こ)う答へる。“成程それには違ひないが、元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから、何(いず)れ神様はそれに就(つい)ての、根本的理由をお示しになるに違いないから、それ迄待つより仕方がない”と曰(い)ったものである。

処が愈々(いよいよ)其(その)時が来たので神は其(その)事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪(た)へないのである。そうして右と同様の疑問を有(も)ってゐる人も多数あるであらうから、之を読んだなら、暗夜に燈火を得た如く豁然(かつぜん)と眼を開くのは勿論(もちろん)であらう。では何故今迄の宗教開祖の悉(ことごと)くが悪を非難したかといふと、曩(さき)にも詳しくかいた如く、或(ある)期間悪が必要であったから其(その)深い意味を主神は知らさなかったのである。従って仮令(たとえ)正神と雖(いえど)も知り得る由はなかったので、正神は何処(どこ)迄も正義のみによって天国世界を作らんとするに反し、邪神は何処(どこ)迄も目的の為手段を撰ばず式で、悪によって野望を遂げんとしたのである。

処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。それといふのは今迄の各宗開祖は力が足りなかった。其(その)最もいい例としては彼(か)のキリストである。キリスト自身は贖罪主といったが、救ひ主とは曰(い)はなかった。贖罪主とは読んで字の如く、罪の贖(あがな)ひ主である。つまり万人(ばんにん)の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦(ゆる)しを乞ふ役目である。早くいえば万人(ばんにん)の代理者であり、赦(ゆる)される側の神で、赦(ゆる)す方の神ではなかった。其(その)為罪の代償として十字架に懸(かか)ったのである。

此(この)理は仏教に就(つい)てもいえる。彼(か)の釈尊が最初は仏教によって、極楽世界を造るべく数多くの経文を説き、専心教へを垂(た)れたのであるが、どうも予期の如く進展しなかった処へ仏典にもある通り“吾七十二歳にして見真実を得た”と曰(い)はれた通り、此(この)時自己の因縁と使命を本当に知ったのである。そこで之迄の誤りを覚り、極楽世界出現は遙かに先の未来である事が分ったので、之迄説いた処の経説には誤謬(ごびゅう)の点少なからずあり、之から説くものこそ真実でありと告白し、説いたのが彼(か)の法滅尽経であり、彌勒(みろく)出現成就経であり、法華経二十八品(ぼん)であったのである。一言にしていえば釈尊は仏滅即ち仏法は必ず滅するといふ事を知り、其(その)後に至って現世的極楽世界である彌勒(みろく)の世が来ると曰(い)はれたのは有名な話である。

只(ただ)茲(ここ)で時期に就(つい)て注意したい事は、釈尊は五十六億七千万年後ミロクの世が来ると曰(い)はれた。併(しか)しよく考えてみると、いくら釈尊でも其(その)様な途轍(とてつ)もない先の事を予言する筈(はず)はない。第一そんな先の事を予言したとて、何の意味もないではないか。何故ならばそんな遠い時代、地球も人類もどうなってゐるか、到底想像もつかないからである。之は神示によれば五六七の数字を現はす為で、此(この)数字こそ深い意味が秘めてあった。即ち五は日(火)、六は月(水)、七は地(土)であり、之が正しい順序であって、今日迄は六七五の不正な順序であった。之は後に詳しくかく事として、兎(と)に角(かく)キリスト、釈尊の二大聖者と雖(いえど)も、真理は説けなかったのである。何よりも経文やバイブルにしても明確を欠き、何人と雖(いえど)も到底真理の把握は不可能であったにみて明かである。勿論(もちろん)時期の関係上止むを得なかったのである。

処が茲(ここ)に主神は深奥なる真理を愈々(いよいよ)開示される事となった。此(この)著に説く処明快にして些かの疑点なく、何人も容易に真理を掴み得るのである。そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘迄掌握し、後一厘といふ間際(まぎわ)に来て、意外にも茲(ここ)に一厘の力が現はれ、邪神の謀略を一挙に覆(くつが)へすのである。つまり悪主善従であった世界が、善主悪従となるのである。そうして之を具体的にいえば斯(こ)うである。即ち九分九厘の悪とは現代医学であって、之も曩(さき)にかいた通り必要悪であるから、今迄はそれでよかったのである。然(しか)し其(その)結果として人間の最大貴重な生命を完全に握って了(しま)った。若(も)し医学が誤ってゐるとすれば、生命の危険は言語に絶するといってもいいであらう。之程世界人類から固く信じられてゐる医学を是正するのであるから、容易な業でない事は言う迄もない。

 

思春期に感動した御教え-なぜ神様は悪をわざわざおつくりになられたのか

楳木先生:

私が御教え拝読を本格的に始めたのは中学二年生の時だったのですけども、その中学二年生の時に拝読した中で、今日拝読して頂いた一番冒頭の部分ですね、

『一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍(なが)ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか”といふのである。成程此(この)質問は尤(もっと)も千万(せんばん)で一言もないが、実をいふと私にしても同様の考へ方であるから、其(その)都度私は斯(こ)う答へる。“成程それには違ひないが、元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから、何(いず)れ神様はそれに就(つい)ての、根本的理由をお示しになるに違いないから、それ迄待つより仕方がない”と曰(い)ったものである。』

この部分が非常に中学二年生の思春期に感動をしたところであります。

若く純粋でしたから、なぜ“悪”をわざわざ作ったのか、ということが大変な疑問点であった訳なのですけれども、それをメシヤ様がこの様にお説きになられたということが、非常に感動しまして、当時の心境としましてはこの様に解説されるという教え方とかそういうものは、それまで読んだことがないし聞いたこともないので“これは素晴らしい教えだ”という、この部分で強く思って、それからズーッと御教え拝読を続ける動機に繋がりました。

だから中学の頃から人生とは一体何かということと、その人生にどういう意味があるのか、ということを御教えに求め続けながら、ズーッと御教え拝読をいたしました。参考にして頂ければと思います。

そしてメシヤ様が長年そういうふうに答えてきましたけども、『処が愈々(いよいよ)其(その)時が来たので神は其(その)事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪(た)へないのである。』 

これが昭和元年の主神様からの御啓示の一番中枢の部分であろうかと思います。こうやって拝読していくと“なるほどな”ということがわかるのではないかと思います。この具体的内容は、今までの『文明の創造』の中でズーッと拝読して来た通りであります。その拝読して来た内容をメシヤ様はこの『救い主と贖罪主』というところで御解説して下さっておられるということです。

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

○楳木先生は、‶人生とは一体何かということ”と、‶その人生にどういう意味があるのか”ということを中学生の頃からズーッと(答えを)求め続けながら御教えを拝読されておられたので、私達も楳木先生の拝読の仕方を参考にすると良いのではないかということ。

◎御教え中の『処が愈々(いよいよ)其(その)時が来たので神は其(その)事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪(た)へないのである。』 という部分が、昭和元年の主神様からの御啓示の一番中枢の部分であろうということ。

◎神様(主神様)がメシヤ様に御啓示なさった具体的な内容が、前回まで拝読してきた「文明の創造」の御教えなのだということ。

◎私達が前回まで拝読して来た「文明の創造」の内容を、この『救い主と贖罪主』というところでメシヤ様は、解説して下さっているのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

教祖になる人は人を救う言葉を身につけると同時に真理の御啓示を神様から受ける

楳木先生:

それから2ページ目になるかと思いますが、

『処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。それといふのは今迄の各宗開祖は力が足りなかった。』ということでありますので、メシヤ様が前段の御啓示をいただくと、信仰読本の「祈りの栞に寄せて(現「入門と奥座敷」)」の中にですね、「教祖」という項があります。

教祖はどうして教祖になれるかということが書いてあります。そこを参考にして、ここを読んで頂きたいと思います。教祖というところとこの部分を繋げてここを拝読して頂きますと、教祖になる人はいろんな苦労をしながら人を救う言葉を身につけます。それと同時に真理が神様からの御啓示として下ります。神様から御啓示が下ると同時に力を授けて頂きます。(中文割愛)これが客観的に見た教祖の誕生の仕方ということであります。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎教祖になる人は、色々な苦労をしながら人を救う言葉を身につけると同時に、真理が神様からの御啓示として下り、それと同時に神様から力を授けて頂くのだということ。これが、客観的に見た教祖の誕生の仕方なのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

主神様から根本義を示されたのはメシヤ様だけ

楳木先生:

しかし、私達はメシヤ様を絶対の御存在として仰ぐことができるのはこの、『主神の直接的力の発揮と処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。』という御記述の内容であるからです。この根本義を開示されたのはメシヤ様だけですので、主神様から開示されたのはだからメシヤ様には主神様からの直接的力が…直接的力がくるのでメシヤ様から我々に。霊線を通して浄霊力として授けられるわけです。

この関係が明確にわかっていないとメシヤ様の御力をさらに世の中に宣べ伝えて行くということになかなかなりにくいのです。

とりわけ若い方々はそういう宗教の構造というのをね、キチッと頭の中で理解して、そして主神様とメシヤ様の関係を持って信仰というのをズーッと育んで頂きたいと思います。

次の世代でメシヤ様のお役に立つ子育てをしよう

楳木先生:

特に三十代、四十代の方々はね。そして、その思考の形態を持って子育てをして頂きたい訳ですね。子供が学校へ行き始めていろんなことを学んで行く、節目節目にそうした思考形態ということを教えこんであげて頂きたいと思います。こういうとをやっていかないと、次の世代で真にメシヤ様のお役に立てる人間が育って行きませんので。

ユダヤ教の家庭では、正しいか正しくないか、真実かそうでないかということは別にしてね、

毎日そういう教育を親が子供にしていっている。しかも、それを何千年前のことを昨日のことのように語り聞かせている、というのが教育の根幹の中にありますのでね。

そういう姿勢をぜひ育てていって頂きたいと思います。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎私達が、メシヤ様を絶対の御存在として仰ぐことができるのは 『主神の直接的力の発揮と処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。』という御記述の内容であるからなのだということ。

◎前記にあるように、‶(善と悪との)根本義”を主神様から開示されたのは、メシヤ様だけなのだということ。

◎主神様からの直接的力がメシヤ様にくるので、私達はメシヤ様から霊線を通して浄霊力を授けていただけるのだということ。

・私達が主神様とメシヤ様との御関係を明確に理解していないと、メシヤ様の御力をさらに世の中に宣べ伝えて行くということになりにくいので、そのこと(主神様とメシヤ様との御関係)をキチッと頭の中で理解して信仰を育むのだということ。

・特に三十代、四十代の方々は上記のような思考形態を持って子育てをして頂きたいのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

メシヤ様の教えによってこそ、十字架の形を真に理解できる

楳木先生:

それで次に、『キリスト自身は贖罪主といったが、救ひ主とは曰(い)はなかった。贖罪主とは読んで字の如く、罪の贖(あがな)ひ主である。つまり万人(ばんにん)の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦(ゆる)しを乞ふ役目である。早くいえば万人(ばんにん)の代理者であり、赦(ゆる)される側の神で、赦(ゆる)す方の神ではなかった。其(その)為罪の代償として十字架に懸(かか)ったのである。』とあります。だから、この十字架の形を真に理解できるのはこのメシヤ様の教えによって理解できるのです。

キリストがなぜ磔になったかということは聞いたことがあるでしょう。最近の映画では十字架をかつがされて丘へ登っていって、そして丘の上で十字架を立てて、立てる前に手首に太い釘を打ち込まれるでしょう、それで吊るされるわけだから、どんなに手が痛いか想像しただけでも打ち込まれるだけで痛いので、そこへ今度は体重がかかる、生半可な痛みではないですね。キリスト教の信者さんでさえ、その理由について真剣に考える機会はあまり無かったのではないかなと思います。」

キリストは主神様に謝罪をし赦しをこう役目

楳木先生:

十字架にかかったという事を、実はメシヤ様は『主神様に謝罪をし赦しをこう役目である』というふうに仰っておられます。それはその時もそうだっただろうし、その十字架をズーッとお祈りし続ける現在のキリスト教も実は赦しをこう祈りを本来し続けなければいけない、ということです。

その赦しをこう中身は何かというと、いわゆる聖域である日本を侵略した素戔嗚尊の蛮行と、それから今度その素戔嗚尊が聖域を乱したところへ神武天皇が中国から来て制圧して覇権主義を日本に根差してしまった。そして、その結果ズーッと武力で日本を治めて来て最終的に第二次世界大戦まで繋がったということですね。第二次世界大戦まで繋がってその時に神風が吹いて日本は敗戦を迎えたと。この敗戦を迎えたからこそ世界救世(メシヤ)教は生まれたわけですね。

このおおよそ三千年間の流れと、今回の御論文というのはくっつけてぜひ拝読をしていってただきたいと思います。

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎メシヤ様の御教えによって、‶十字架の形を真に理解できる”のだということ。

◎メシヤ様は、キリストが十字架にかかったという事について『主神様に謝罪をし赦しをこう役目である』というふうに仰っておられるのだということ。

・ズーッと十字架をお祈りし続けている現在のキリスト教も、本来は‶赦しをこう祈りをし続けなければならない”のだということ。

○今回の御論文は、聖域である日本を侵略した素戔嗚尊の蛮行からの約三千年間の流れをくっつけて拝読すると良いのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

仏教の根っこは伊都能売神皇様の教え

楳木先生:

すると日本の神様が素戔嗚尊が来て皇位を譲れと迫って来た時に、絶対平和主義の伊都能売神皇様が密かに日本を抜け出て、そしてインドまで下っていってインドの補陀落山で結跏趺坐する中で、お釈迦様が訪ねて来てお釈迦様に日本の考え方を教えたわけです。これが仏教の根っこになったわけです。

そして、お釈迦様はいろんな人を済度しながらズーッと伊都能売神皇様から教わった事を構築して来たのですけども、やっとその中身が七十二歳の時にわかったということです。それが見真実なのです。七十二歳になってこれから本当のことを説いて行くというのが弥勒出現成就経であり法華経二十八品であるわけです。

で、ある教団から『文明の創造』の英訳発刊の時に、仏教界に配慮してこの部分については明確に書く事ができなかったわけです。仏教界は真実を知らないから今の仏教で意義を唱えるわけです。その意見を聞いてしまうと真実にならないのです。

ですからどうしてもこの『文明の創造』を創り上げるということは「禁断の木の実」のことと弥勒出現成就経と法華経二十八品というのが見真実を得た後の真理に気付いたということでお釈迦様が発奮したということが世に出ていかないことには、世界を救うということにはならないのです。ズーッと止められて来たのだということです。(後文割愛)

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎伊都能売神皇様が、お釈迦様に日本の考え方を教えたのが仏教の基なのだということ。

・お釈迦様は、72歳の時に伊都能売神皇様から教わったことの中身がやっとわかられ(見真実を得られた)、これから本当のことを説いて行くというのが「弥勒出現成就経」と「法華経二十八品」なのだということ。

◎『文明の創造』を創り上げるということは、これまで止められて来た「禁断の木の実」のことと(お釈迦様が見真実を得られ真理に気付かれた後に発奮されて説かれた)「弥勒出現成就経」と「法華経二十八品」を(世に出ていかないことには、世界を救うということにはならないので)世に出していくのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

我々は一厘の力を持って御神業をする

楳木先生:

三ページ目になると、『処が茲(ここ)に主神は深奥なる真理を愈々(いよいよ)開示される事となった。此(この)著に説く処明快にして些かの疑点なく、何人も容易に真理を掴み得るのである。そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘迄掌握し、後一厘といふ間際(まぎわ)に来て、意外にも茲(ここ)に一厘の力が現はれ、邪神の謀略を一挙に覆(くつが)へすのである。』

この御神業が私達の御神業だということですね。ここはもうギュウギュウに線を引いておいて下さい。我々は一厘の力を持って御神業をするのだと。だから自分達も本当に世界人類の中の一握りのいわゆる御神業の発起人なんだ、と。実はもうメシヤ様が六十年も前に打ち出しては下さっているのですけども、当時の弟子の方々がそのことを真に受け止めることができなかった為に六十年間ズーッと延ばされて来たのですけども、今もう一回メシヤ教としてやろうとしているので、それを支える、あるいは共に御神業に臨むということは、ここなんだ、というふうに繰り返し繰り返し読んで見て下さい。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎私達は一厘の力を持って御神業をするのだということ。

・私達は、自分達も本当に世界人類の中の一握りのいわゆる‶御神業の発起人なんだ”と受け止めて御神業に臨ませていただくのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

医学を是正-容易ではないからこそ、やり抜かないといけない

楳木先生:

それから一番最後に 『之程世界人類から固く信じられてゐる医学を是正するのであるから、容易な業でない事は言う迄もない。』 確かに容易な業ではない為に、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団の中でも最終的には医者に罹るように罹るように指導してしまっています。容易ではない、ということを、もうここでメシヤ様は予言されておられるわけです。

昭和二十七年にね。しかし容易ではないからこそやり抜かないといけないという意義がここにありますので、私達はこれをやり抜くんだという決意をより一層膨らませて頂いて、御神業に臨ませていただきたいと思います。ということをお願いしておいて、いつものように質疑応答に移りたいと思います。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎私達は、‶医学を是正することは容易なことではないからこそ、それをやり抜かないといけないのだ”という意義を理解した上で、(これをやり抜くんだという決意をより一層膨らませて)御神業に臨ませていただくのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

九分九厘の悪とは現代医学-九分九厘と一厘のことがわかっていかないと御神業とは言えない

受講者:

即ち九分九厘の悪とは現代医学であって・・・とハッキリと現代医学を悪だとお書きになっておられます。ここをしっかりと我々はわかっておかなければいけないと思います。

楳木先生:

そうね。御神業そのものの姿勢が違ってくる。このことがわかっていると。このことがわかった上で信仰していかないと、信仰している意味が全くないということになります。

普通の信仰だったらやっている意義があるのですけども、メシヤ様の信仰としてやるからにはこの九分九厘と一厘のことがわかっていかないと御神業とは言えないのです。

受講者:

ここを読んでいると、お釈迦様よりもキリストの方が贖罪主としてメシヤ様に赦しをこう意味合いがハッキリ出ているので先に書かれたのではないでしょうか。

楳木先生:

それはそうでしょうね。」

(後文割愛)

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎‶九分九厘の悪とは現代医学であるのだ”ということをわかっていると、御神業そのものの姿勢が違ってくるのだということ。

・メシヤ様の信仰として(御神業を)やるからには、私達はメシヤ様が仰っている‶九分九厘の悪とは現代医学であるのだ”ということをわかっていかなければ御神業とは言えないのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

メシヤ様の教えの根本がわからないと、医学科学は『錯覚』に気付かない

受講者:

『医学を是正する』とメシヤ様が仰っておられますが、今までは必要あって医学も残されてきた。それをわかって見識を持っていなければいけないのですけども、科学も医学も物凄く進歩が早いですね。何年か先にはいろんなことが解明されて行くのだと思えますが。そうした時にその進歩発展した科学は、御教えを良く自分の中で吟味して科学が正しいのだろうなというところまでいけるのでしょうか。

楳木先生:

行けますが、メシヤ様がお説き下さっている根本がわかっていないと行けません例えば手術は、肉体的な不具者を作ってしまうから間違っているということです。そして、それで病気が治ったと錯覚しているということです。

病気が治るということは、肉体が健全化するから治るわけで、切り取ってしまって症状が治まったことを治ったと勘違いしているわけでしょう。メシヤ様はそのことを指摘されておられるのです。

だから医者が手を加えて肉体が完全に治れば、それは評価している。その考え方でみて行けば間違いないでしょう。

そして歯医者はそれは大工仕事みたいなものですから、脱いたり入れ歯を入れたりするのはこれは良いのだと。

歯と一緒でカルシウムに関係のある骨折とかはある程度きちんと繋いであげないと、骨は自分でくっ付いて治って行くのですけども、曲がってくっ付いてしまいますから。骨接ぎは必要なわけです。曲がったままくっ付いてしまうと歩けなくなくなるから。ですからそういうことを是正するということは、これは必要なことだから。

だから何でもかんでも医療が駄目だという事ではなくて、人間の持っている力によって、自分の体を修復して行く時に、それが元の形に修復するように補助するということはこれは必要な事です。

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎(例えば)手術は、肉体的な不具者を作っているのに、それで病気が治ったと錯覚しているのだということ。

◎肉体が健全化するから病気は治るのに、医学は切り取ってしまって症状が治まったことを治ったと勘違いしているのだということ。

◎メシヤ様は、上記のような医学の勘違いや錯覚をご指摘されているのだということ。

○人間の持っている力によって、例えば歯医者や骨接ぎなどの医療が、自分の体を元の形に修復するように補助するということは必要な事なのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

医学の必要性

楳木先生:

だから怪我してボコボコに血が出ているのにね、浄霊だけするというのはこれは無謀でしょう。

ですから一応止血しつつ浄霊した方が浄霊する方も安心できるでしょう。それから受けている人達も安心でしょう。一応縛って血を止めてという事は、やったって悪い事ではないのです。

救命について

受講者:

人工呼吸もそうでしょうか。

楳木先生:

人工呼吸もそうですね。それから今はあちこちに備え付けられている電気でバーンとやる。

受講者:

AEDですか。

楳木先生:

AEDは人体の仕組みがわかっているからできるわけで、それで生き返った時に体に損傷は全くないから。電気の流れを作ってやるという事においてね。

可能性においては私達は浄霊をするけども浄霊を知らない人達はあれを当てるというのは命が助かればね、その方が良いわけですから。

(後文割愛)

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

○怪我をして出血している時は先ず止血してから浄霊を取り次ぐのだということ。

○救命にする上に於いて、人工呼吸やAEDは悪いことではないのだということ。

 

「メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)」より抜粋つづき:

真の祈りとは-参拝について ダイジャスト版

楳木先生:

(前略)それで、先達が一人で祝詞を奏上して皆がお祈りをする、形式はまだ何回も経験していないかもしれませんが、なぜこのような形になったかと言いますと、今までの参拝の先達はね、「みろくおおみかみ まもりたまえさきはえたまえ」「おしえみおやぬしのかみ まもりたまえさきはえたまえ」と言ったあとにお祈りをする時間があったでしょう。するとそのお祈りと善言讃詞はどうかと比較して見た時に、善言讃詞こそ祈りであるわけです。

後ろの方をズーッと拝読すると 『仁慈の御胸に抱かれん  吾等が日々の施業にも』 吾等が日々の施業にもというと施術ということなので、施術の業というふうに解釈するというのが、浄霊を中心とした救いの業というのと、もうひとつは仕事職場での仕事ですね。

『吾等が日々の施業にも 妙智を賜ひ眞覚を得さしめ 家は富榮え』 これこそが人間の生きていく上においての最大の祈りでしょう。この祈りをきちんと響かせないで、いくら頭を下げてお祈りしたところで大した祈りにはならないのです。メシヤ様が我々信者に対して代りにつくって下さった祝詞だということなのです。

『家は富榮え 壽は永く無医藥に』 だから薬を用いないで長生きをさせて下さい、と。そして 善徳行を重ねる中で福壽海無量の大功徳を垂れさせ賜へ座せ、と。ですからここに祈りを集中させて祝詞を響かせない限り・・口早に祝詞を唱えてもね。響いているだけですね。自分の祈りが入ってこないでしょう。

そしてそういうふうな文言を唱えて最後に 『念々從心 下座頓首』もう下座から幾重にもお願いしますというふうにするのが、『念々從心 下座頓首』ですから『跪伏禮拜願ぎ申す』とお願するということです。

これが皆でお参りしているとね『跪伏禮拜願ぎ申す』の意味など全くわからなくなる。跪伏とはひれ伏しているわけだから。そして禮拜してお願いたします。というのが『跪伏禮拜願ぎ申す』だからそのことを神様に対してきちんと意味を持って唱えていかないとあまり奏上している意味がなくなってしまいます。まあそういうことを認識して頂きたいためにね、先達者が一人で唱えて、ただその先達者は十人集まったら十人の中で一番立場の高い人がお祈りの言葉を唱えるという姿勢が参拝の度に必要だということです。

最後に御神名を唱える時には御教えから行くと、高位の神様の御神名を唱えるだけで光を頂けると。ですから低い氏神様などの御神名を唱えるとそれなりの光をいただくというわけです。

最高位の御神名を唱えるからこそ強い光を頂けるのです。主神様は181段の頂点の神様ですから、その御神名を唱えるわけなので、「その御神名を唱えさせてお頂きます」という姿勢で御神名が出て来ないといけません。こういうものだからこのように唱えるのだ、というのでは本来の光を頂けない。

一呼吸おいて「最高神の御神格の一番頂点にある神様の御神名を只今から唱えさせて頂きます。」

という気持ちを胸いっぱい膨らませて、『主之大御神 守り給へ 幸倍給へ』 と唱えてこそ、その御神格に相応しい光を頂けるのです。

そういう姿勢を持ち直して頂きたいと、そうしたらその御神名を唱えただけで光を頂けているわけですから、感謝に溢れた気持ちになって 『惟神霊幸倍坐世』 と唱えて頂きたいということですね。惟神(かむながら)というのは「神様の御心のまにまに」なので、参拝するのにここへ座った時に、メシヤ様が御覧なっておられるのは腹の中を見ておられるわけです。『本当に惟神(かむながら)なのか』と。

そういうふうな姿勢で、逆に自分に問いただしてね。そして『霊幸倍坐世』と魂を太くして頂いてね、そして一層幸せに恵まれるようにね、適えられていくんだと。これが参拝の時にもう一度我々が確認しておかなければいけないことなんだという事です。

(後略)

 

責任者:

ここでは楳木先生より、真の祈り方について御教示いただいております。夫々で繰り返し拝読していただき、ご自分の祈り方を確認してみて下さい。

 

編集後記

責任者:

今回は、‶善と悪との根本義を主神様から開示されたのは、メシヤ様だけなのだ”ということに伴って主神様とメシヤ様の御関係を理解することが出来たのではないでしょうか。また、‶九分九厘の悪とは現代医学なのだということ”更に、‶私達は一厘の力を持って御神業をしていくのだということ”などを御教示賜りました。

私達を取り巻く世界が目まぐるしく変わろうとしている今だからこそ、しっかりと御教えを拝読しメシヤ様の教えを肚に落とすように努め、御力をいただきながら日々を過ごしていかなければならないなあと強く感じております。蒸し暑い日が続きますが、熱中症などに気を付けてお過ごしください。有難うございました。

 

追記:

天国の福音書(重要御論文の再録)」を少しずつアップさせていただいております。私達が必要とする重要な御教えばかりだと思いますので、拝読されて下さい。

 

※責任者より

 

引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、()内の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。

 

引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。

メシヤ講座no.127三重(平成23年8月分)

 

 

印刷はこちらからどうぞ