『行詰り』

「栄光」180号、昭和27(1952)年10月29日発行

世の中の人ばかりじゃない、信者でもそうだが、よく行詰りという言葉を発するが、これは物の真相を弁(わきま)えないからで、何事も行詰りがあるから発展するので、つまり行詰りじゃない訳で、ちょうど駈出しすぎては息が続かないから一休みするのと同じ訳でいわば節である。これは竹を見ても分る通り、伸びては節が出来、伸びては節が出来るから丈夫に育つので、伸びるばかりで節がなければ、アノ強靱な竹とはならないのである。従って節の少ない竹程弱く、節の多い程強いのはそういう訳である。このようにすべては自然が教えているから、何事も大自然をよく見つめれば物事は大抵判るはずである。

右は自然の行詰りについてかいたのだが、困る事には人為的に、行詰らせる人も少なくないので、これこそ叡智が足りないためで、こうすればこうなるという先の見通しがつかないからである。こういう人こそ壁に突当って二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなるのであるから、これを読んだらよく心の奥に蔵(しま)っておき、行詰った際、振向いてよく考えてみれば分るはずである。それによってどこかしら間違っている点に気がつけばいいので、人間は普段から精々智慧を磨いておくべきでそれには出来るだけ御神書を拝読すべきである。