御教え『粘りに就て』

(年代不詳)

世の中には何かの目的を達しようとする場合、粘(ねば)ることを良いと思う人がよくあるが、実は本当ではないのである。というのは、粘ることは根気によって無理を通そうとする、つまり根気で相手を負かすのである。

故に仮にこちらの意志が通ったとしても、相手は心から納得したのではない。うるさいとかやり切れないとかいう、その苦痛を免れるための一時的便法で、腹の底から兜(かぶと)を脱いだのではないから、何れは必ず反対の結果となる。

この理によって、つくづく世の中を見ると、粘り主義の失敗は余りに多く見るのである。これは宗教宣伝にもいえる。よく粘り宣伝をやる人があるが、宗教などは特に悪いのである。

何となれば、本教など最高神の尊い救いである以上、粘る必要などないのである。卑近な例だが、ダイヤモンドを硝子(ガラス)の価で売るのだから、本当からいえば、一寸(ちょっと)見ただけで先方が飛びつくのが当りまえである。値打のない物を高く売ろうとするから、根気よく勧める必要があるのである。従って、極めてあっさり勧めて、先方が応じなければ、縁なき衆生か、または、時期到らないためとして一応はやめるべきである。