「信仰雑話」 昭和23(1948)年9月5日発行
宗教と科学とは今日まで別個の存在のように扱われて来たが、これは大なる誤りである。実は万有は科学に漏れるものはないと共に、宗教に関係のないものもない。何となれば科学といえども、宗教とは切っても切れない存在だからである。それに気付かなかったという事は、今日までの宗教の説き方があまりにも浅かったからであるという事は数百年または数千年以前には、今日のごとき文化の進歩がなかったからで、その時代の人間に深遠なる理論を説くといえども、到底理解出来得ない訳で、総て神の意図は無益なる事を人をして行なわせないのである。しかるに、現在科学の進歩程度は、今一歩で神霊の分野に突入せんとするまでに到っている以上、神霊問題に対し科学的説明をなすとも、現代人に理解させ得る事はあえて難事ではないからである。以上の意味において、今日まで長年月の間固く鎖されていたところの神秘の扉を、私は開扉しようとするのである。
私は科学者ではない。いわば科学のアマチュアである。その私が科学を説くのであるから誤りがあるかも知れないが、多少の参考になり得るとすれば幸いである。
そもそも近代科学の中で、電気程人類文化に貢献しつつあるものはないであろう。実にあらゆる方面にわたって、電気の恩恵は今更呶呶(どど)を要しないが、もし電気が停止されたならば文化が停止されたと同様であろう。全く現在は電子時代である。しかるに今次大戦の終末に際し、突如として米国によって発明せられたのが、彼の原子爆弾である。世界はこの一大怪物にあって瞠着〔若〕したのは申すまでもないと共に、これによって終戦を早めた事ももちろんである。実に原子破壊の偉力を最初に表わしたものは、多数の生命を一瞬にして奪う事であった。がこれが進歩によって、反対に人類文化にいかに役立つべき偉大なる発明となるかも、予想し得らるるのである。そうして、電子時代の次の時代を画すべき運命を持って生まれたのが、この原子破壊であろう。とすれば、その原子時代の次に来たるもの、それは何であるか、私のとなえる霊子時代または神霊時代ともいうべき、最高度の文化時代であろう事も、想像し得らるるのである。右について私は左に解説してみよう。
まず火と水の原理について述べてみるが、最も端的にいえば、火は水によって燃え、水は火によって流動するという事である。もし火がなければ万有は一瞬にして氷結する。それと反対に水分がなく火のみとなれば、一瞬にしてこの大地球も爆破する。この原理こそ原子爆弾のそれである。すなわち原子核に向かってウラニウムまたはプルトニウムのごとき元素を放射する時、原子核にある水素が零となると同時に爆発する。その小さなる爆発が周囲の元素を誘発させ、次から次へと大きな拡がりとなり、大爆発となるのである。この理によってウラニウムでなくとも、水素を零とすべき強力なる放射線でさえあれば、同様の効果を奏する事は当然である。そうして、今日原子核破壊の原理は、一個の原子核を取り巻いているエレクトロンなる元素に向かって、放射能が攻撃破壊するというのであるが、私の考えによれば、原子核は放射能によって原子核にある水素を零とするので、これが破壊の原理である。しかしながらこの原子破壊の原理も、停止することなき科学の進歩によって、近来プロトン説となり、アルファ粒子の発見にまで進んでいるそうである。
次に霊子時代であるが、それはまず宗教が中心とならなければならない。ここで私は右の三時代を宗教的に解釈してみるが、まず電気であるが、電気にも霊と体があって、体は電光で、電灯の光がそれであり、霊は無線として活用され、ラジオもテレビジョンもそれであって、人間の声が何千里先まで音波となって到達するということは、言霊界の力動にほかならないのである。
次に原子界であるが、この界の体は原子核破壊という発明によって発見されたが、霊は科学的には未知であり、宗教的に言えば想念界である。
次は霊子界であるが、この界の体は中位以下の諸神諸仏の霊が活動し給う所であり、この界から発現したものが既成宗教である。宗教に種々の段階あるのは神霊仏霊に段階があるからである。
次は霊子界の霊界(私は幽玄界と名づける)である。この幽玄界こそ、最尊最貴の神々が御座(おわし)まし枢要なる経綸を行なわせ給うのである。以上説くところの三段階のその上に坐(ましま)すのが、独一真神すなわち万能の神とも申し、大宇宙の主神であらせらるるのである。この主神に対しては、これを表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである。
次に私は、神仏の救済と罪穢の本質について科学的説明を試みてみよう。そもそも、世界には大中小種々雑多な宗教があるが、いずれの宗教といえども、それぞれ神仏諸霊が人類救済の意図のもとに、霊界から御手を差し伸べており、現界における因縁ある人間を通じて、救済の業を行なわせらるるのである。もちろんその根本は主神の御経綸による事であって、ある時代、ある民族、ある地域、ある期間、救いの業を委任され給うたのである。畢竟(ひっきょう)するに、それはその地域に罪穢が堆積し、文化の進歩に支障を及ぼすべき程度に立ち到ったからである。そうして昔から宗教の建て前として、人間不幸の原因である罪穢の除去をされたのであるが、しからば罪穢とは何ぞやといえば、霊的には、個人としては霊の曇りであり、社会的にいえばその地域の霊界の曇りである。また曇りとは何ぞやといえば、水素中に発生し、生活している一種の毒菌であって、これは常に増減しつつある極微の粒子で、到底顕微鏡によっても見得ない程のものであるが、これら毒微粒子は、悪の想念と悪の行為によって発生し、増量し、それが人間の苦悩の原因となるのであって、反対に善の想念、善の行為によって滅減するものである。曇りがある程度増量するに従い、自然浄化作用が発生する。それが小にしては人間の災厄や病気となり、大にしては飢病戦の小三災、風水火の大三災ともなるのである。しかしながら右の災厄を出来るだけ小にし、または無災となし、不幸をより軽減せしめんとする活動が、神仏の大愛から発する霊光であって、その媒介者として出現されたのが聖者、聖雄、宗祖等で、その下の取次者が各宗の宗教家であり、天使でもある。そうして救いの場合、神仏はそれぞれその時代の人間に適応せる教義や方法を採らせ給うのである。
前述のごとき毒微粒子を消滅する元素はもちろん火素であって、眼に見えざる光であり、それによって浄化作用が行なわれるのは、ちょうど日光によって殺菌するのと同一の理である。この事を今一層徹底すればこうである。宗教の教えまたは祈りによって光明を受け、今まで眠っていた魂が目覚め悔い改め、善を想い善事を行なうに至り、魂の輝きによって毒微粒子の衰滅となるのである。
以上は宗教の科学的説明であって、ここに到っては唯物科学もなく、唯心科学もなく霊体一致の科学であり、今や来たらんとする高度の文化時代の科学の真相を、私は簡単に説いたつもりである。