研鑽資料no.8(2018年11月)

1月の学び はじめに

責任者:

10月26日清々しい秋晴れの中、定山渓での『伊都能売大御神様御出世奉祝記念大祭』をお許しいただきましたことを、感謝と共に御報告申し上げます。「岩戸観音堂」は小さな観音堂ですが、今回は大勢の方が参拝されました。私も含め皆さんが其々の想いを持ち大御神様に御力をいただかれた参拝になったことだろうと思います。

 

さて11月は、この「十一」という数字の経(霊、善)と緯(体、悪)を結んで(伊都能売、完成)始る(統一する、神様に通じる)という意味合いを持った月になります。そこで私達は「一体、何を始めるのか。又は何を統一してどう神様に通じていくのか」ということに付いて、共に再度学びを深め考えていきたいと思います。

 

「メシヤ講座no.188浜松(平成28年10月)」より抜粋:

復興の御神業に本腰を入れる

(前文割愛)

楳木代表

だから、やはり、このみんなには公表できない体験記も自分で整理して、時々娘と一緒に読み直すとかするようにして、原点を忘れないようにしていかないといけないので、そういうのを大事にしておいていただきたいというふうに思います。

 

そういうことも含めて、私は「世界救世(メシヤ)教を復興しないかぎり、メシヤ様がなされようとした御神業が推進できない・」ということで、いろいろな発信をしてきた訳なのですが、私の心の中では、やはり教師の立場である人とか、それぞれの会長とか理事長とかに“気づくようになってもらいたいな”と思って、そういうことを含めて発信をしてきた訳ですが、6月15日に御垂示賜ったことは、『立場のある人はあてにならない。』と。だから『メシヤ様の教えを求める、あるいは真の浄霊を求める人でないと、これからの御神業は担えないので、この世界救世(メシヤ)教復興事業に本腰を入れるように。』というのが、今年の地上天国祭の最大の御垂示であった訳です。

 

それで、そういうことを期待できないのなら本当に難しいな、と思いながらの地上天国祭だったので、あのような話になったのですが、こうして皆さん方と「覚りを啓いていきましょう。」と話をしても、急に言われてもなかなか難しいところがありますよね。

 

しかし、実は皆さん方は毎日善言讃詞を奏上していますよね。その、善言讃詞を奏上することによって皆さんが方は毎日お願いをしているのです。

 

『妙智を賜ひ眞覺を得さしめ』

 

と。しかし、日常生活の中で、『眞覺』を得るということについて実践していなかったのです。だから・・・、本日も善言讃詞の中の『大千三千世界』の意味と『実相世界』ということについても、このようにメシヤ様が御解説くださっています。私達は日々善言讃詞を奏上するときにはこういうことを“神様に向かって奏上しているのだ”ということの自覚に立って、より一層臨んでいただかなくてはいけないなと思いますね。」

 

責任者:

代表は「メシヤ様の教えと真の浄霊を求める人でないとこれからの御神業は担えない」ので、私達メシヤ教信徒と共に「世界救世(メシヤ)教復興事業」に本腰を入れるように御垂示をいただかれ、そして「世界救世(メシヤ)教復興事業」を進めていく為に必要な『眞覺』を得る為の「覚りの旅」を始められました。

 

○日常生活の中に於いて『眞覺』を得る為に「覚っていく(はっきりと理解していく)」ということが重要だということですね。

 

それから、皆さんはどのような想いで「善言讃詞」を奏上されていますか。

 

○私達が善言讃詞を奏上する時は『妙智を賜ひ眞覺を得さしめ』とお願いしながら「“神様に向かって奏上しているのだ”という自覚を持って欲しい。」と仰っています。私達の姿勢としては神様にお願いするだけではなく“妙智を賜ひ眞覺をいただけるように”行動するということですね。

 

平成28年10月のメシヤ講座は、『仏滅と五六七の世』を基にお話しをされていますので、以下に御教えを掲載させていただきます。

 

御教え 『仏滅と五六七の世

『其(そ)の後釈尊は素晴らしい予言をされた。それは今より数えて五十六億七千万年後仏滅の世となり、次いで彌勒菩薩下生され、彌勒の世を造り給う。彌勒の世というのは、居ながらにして千里の先まで身を運ばれ、居ながらにして千里の先の声を聴き、居ながらにして千里の先から欲するものが得られるというので、其の頃としては想像もつかない夢の世界である。処(ところ)が現在の世界は最早右の予言通りになって来てゐるではないか。としたら物質的には已(すで)に彌勒の世となっているのである。処(ところ)で今まで仏者が迷ったのは、此(この)五十六億七千万年という数字であった。然(しか)しこれは一寸考えただけでも直ぐ判るはずである。何となれば如何に釈尊と雖(いえど)も現実的に、五十六億七千万年などといふ、途方もない先の世の中を予言される訳ないからである。それ程先の世の中を予言したとて、何の役にも立たないではないか。言う迄もなく、それ迄に地球はどうなるか、テンデ見当もつかないであろう。之(これ)は全く五、六、七という数字を知らせんが為である。というのは彌勒の世とは、私のいふ五六七の世界であって、此の五六七を解釈すれば、五は日であり、六は月であり、七は地の意味になるからで、即ち順序正しい世界という事である。之に就(つい)て一層深い意味をかいてみよう。

今迄夜の世界というのは、日が天に昇っていなかった時の事である。勿論霊界の事象ではあるが、之を小さく地球にたとえてみればよく分る。夜は月が上天にあって照らしていたが、段々地球を一周して、西の涯から下って地球の蔭に隠れる。すると太陽が東から昇って、中天に輝くとすれば、これが昼間の世界である。そうなれば天は火であり、中界は水素の世界で水であり、地は依然として地であるから、これが五六七の順序である。右を一言にしていえば、昼の世界とは、今迄見えなかった日が、中天に輝く姿で、それが五六七の世である。

又釈尊は或(ある)日弟子から、仏教の真髄を訊かれた事があった。世尊は「左様一言にしていえば真如(しんにょ)である」と仰せられた。真如とは無論真如の月の事で、其時既に仏法は月の教えである事を示されたのである。そうして真如という文字は、真の如しとかくのであるから、真ではない訳で、此点もよく考えなくてはならない。それから仏典では、実相真如と言われてゐるが、之は逆である。何となれば実相とは、真実という意味で、即ち昼の世界である。真如は夜の世界であるから順序からいって真如が先で実相世界は次に生まれるのである。今一つ同じような事がある。それは経文には三千大千世界とあるが、之も逆であるから、私の善言讃詞の中には大千三千世界と直してある。というのは三千世界とは、神幽現の三界であるに対し、これを纏(まと)めて一つにすれば大千世界となる。大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され給ふ意味である。

次に釈尊は斯ういう事ももう曰(い)はれた。此世は厭離穢土(おんりえど)であり、火宅(かたく)であり、苦の娑婆(しゃば)でもある。又生病老死の四苦があるとも云(い)はれ、諸行無常、諸悪滅法などとも言はれたので、どれもこれも世を果敢(はか)なんだ言葉である。又一切空とか空々寂々(くうくうじゃくじゃく)とか、無だとも言はれた。そこで右の意味を総括してみると、どうせ此世は苦の娑婆(しゃば)だから、苦は脱(のが)れられない。人間は生まれながらにして、苦しみを背負ってゐるのだ。いくら藻掻(もが)いたとて仕方がないから覚るのが肝腎だ。つまり諦(あきらめ)である。人間が如何(いか)に大きな望みを抱いたとて無駄であり、一寸先も分らぬ闇の世であるから、安心など出来よう筈(はず)がない。そうして此世は仮の娑婆だから、いくら骨折って造ったものでも結局は無になり、空になって了(しま)ふので、何事も永遠性はない。だから一切の欲望は結局一時的煩悩にしか過ぎないのだから、諦める事だ。諦め切って了へば、真の安心立命を得られるのだと説かれたのであって、これが仏教の真髄であるとしたら全く夜の世界の姿をよく物語ってゐる。此意味に於て万事は昼の世界迄の運命でしかない事を、遺憾なく示されてゐる。従って人間は実相世界が来るまで待つより仕方ない事で、それが今日迄の賢明な考え方であったのである。(『文明の創造』)』

 

「メシヤ講座no.188浜松(平成28年10月)」より抜粋つづき:

楳木代表

そういうことを考えていくと、本部の一日祭のときに、「何故、先達がもう少しメシヤ様の御教えを信者さん方に適切に取り次いで、実生活の中で、みんなが実践できるようにお世話をしてくれなかったのかな。」と、多少私は神様に対して、「何故、神界からもう少し適切に当時のメシヤ様のお弟子さんたちに指示をしてくれなかったのですか。」と、ある程度の不満をもってお祈りしたら、その日に、即、答えが返ってきたのが、この後ろの文章です。

 

それは「強制と自然。」というところに書いてありますが、『それをしてしまうと強制になってしまうのだ。』と。自然な形でできないといけないので、強制してしまうと駄目だという理由は、これも先月、先々月と拝読をしてきた学びのように、『向上すれば神となり、堕落すれば獣となる。』という、中間体が人間なので、この人間がそのことがわかって向上しようとすれば神様にどんどん近づいていきます。しかし、怠惰になり、手を抜いていけば獣となっていく訳ですその中間体が人間に与えられている『最大の自由だ。』とメシヤ様に教えていただいているので、この『最大の自由』ということを私自身が重く受け止めていなかったので、ついつい神様に対して“もっと60年前から先達に厳しく言っておいてくれれば、今、ここで我々メシヤ教が苦労することなかったのに・・・”と思っていたのですが・・・。そのように言われたので、“しまったな。自分がもう少し深く考えて、神様に不満をぶつけるようなことをしなければよかったな”と思いました。しかし、その時点では少しイライラしている部分があったので、ぶつけてしまいました。」

 

責任者:

○「自然な形でできないといけない。強制してしまうと駄目だ。」ということは『霊主体従』が自然であり『体主霊従』では強制になり駄目だということですね(御教え『自然無視の文化』へ)。

 

御教え『悪と守護霊』より一部抜粋:

『そうして本霊と副霊とは常に闘ってをり、本霊が勝てば善を行ふが、副霊が勝てば悪を行ふ事になるから、人間は神と動物の中間性であって、向上すれば神の如く、堕落すれば獣の如くになるのは世間を見てもよく分るであろう。…(「文明の創造」)』

 

「メシヤ講座no.188浜松(平成28年10月)」より抜粋つづき:

楳木代表

しかし、今回は一言ですが、適切な御指示をいただいたので、それに基づいて、そして今月その答えとして40ページの最後の行に

 

『真如といふ文字は、真の如しとかくのであるから、真ではない訳で、此点もよく考へなくてはならない。』

 

と書かれている通りです。

 

まだ三千年来の『夜の時代』の《真如のくせ》がずっと先祖から残っていた訳です。いくらメシヤ様が真理を説いてくださっていても、浄霊の奇蹟ばかりを追い求めて、本来『昼の時代』へ進むためにはどうしたら良いかというような、細かいお世話というのはこの《くせ》でできなかったということであります。その答えが今月の御教えになっておりますので、驚くとともに、これから一層取り組まなくてはならないなと思います。」

 

責任者:

60年前、先達がいらした時は、未だ「夜の時代の癖」が残っていて細やかなお世話が行き届かなかったということを『善言讃詞』を奏上する時の想念を例にしてお話されていますが、メシヤ様をお迎えさせていただき『昼の時代』になった今の私達は、御教えから『真理』を覚った(はっきりと理解した)上で信仰出来るということです。

 

「メシヤ講座no.188浜松(平成28年10月)」より抜粋つづき:

霊の曇りは重みとなって霊籍を下げる

楳木代表

古い方は入信教修のときに、幸不幸は霊界の魂が高いところに位置すれば幸せですが、それが下の方に行くと悲喜こもごもで、つらい思いをすることがあるという話を聞いたことを思い出していただきたいと思います。その魂、霊界にある魂を「幽魂」と言います。我々の身体にある魂を「現魂」と。そして “「幽魂」はどうしたら上がっていけるのか”というと、霊の曇りがなくなっていけば上がっていけます。それは何故かというと霊の曇りは重みとなって霊籍が下がっていくので、それで「現魂」、我々の魂に反映してくるのです。

 

だから、浄まらなければいけないので、『霊主体従(御教え『霊主体従』全文へ)の法則』で浄まるためには《心言行》を正していくということです。そうすることによって魂の曇りがとれてあがっていくということです。しかし『霊体一致の法則』でいうと、まず薬を服んでいくと下降していくということです。血液が汚れるので。血液が汚れると霊に曇りが発生するのでその重みで下がっていく、と。その次に添加物や化学肥料、農薬が入るとそれも血液が汚れるので、霊に曇りが発生し、また下降していきます

 

ですから、先月お話ししたように、北海道の方に今年3つも台風が上陸し、農作物に大変な被害を受けたけれども、これはいつまで経っても日本人の身体を汚すような生産方法をずっとやっているので、気付かせるための大浄化だったのだというふうに受け止めていけば、自然栽培をやっていこうという動きになっていくのではないか、ということが言える訳です。

 

それから、豊洲市場の件にしても、生鮮食品を扱ったり、野菜や果物を扱ったりするところの下の土壌のことをあれほど不充分なままに建物を建てるという、そういうことをしてしまっている現状を正すために、猪瀬、舛添という知事を辞めさせて、小池という知事にした、という大掛かりな改革を主神様がなされたというふうに受け止めていけば、そうしたことを改革していく、そういう時期を迎えているということであります。それを受けると、我々の生活も改革をしていかないといけないので、少なくとも買ってくるものが添加物だらけのものだったら、「今日は添加物だらけだから、自然農法のお米だけで夕食にしましょう。」というように思い切った改革をしていかない限り、我々の身体は汚れ続けているということです。

 

身体が汚れ続けているということは『霊体一致の法則』で魂に曇りが発生して、どんどん下降してしまうということになりますので、そういうことで、私達は生活の改革に一層取り組んでいかなくてはいけないということを、神様からは迫られているというふうに受け止めていって、覚りを啓くためには、「そういうことも大事ですよ。」ということをこの文章から理解いただければ大変ありがたいと思います。」

 

責任者:

前文に「代表は私達が善言讃詞を奏上する時は『妙智を賜ひ眞覺を得さしめ』とお願いしながら“神様に向かって奏上しているのだ”という自覚を持って欲しいと仰っています。」と書きました。そして「自覚を持つ」「覚る」為には浄まって、幽魂の霊籍を上げなければならないということですね。

 

幽魂の霊籍を上げる為には、

○「薬を服むと血液(霊)が汚れ、霊(血液)に曇りが発生し幽魂が重くなり下降する。」

その次に、

○「添加物や化学肥料、農薬が入るとそれも血液が汚れるので、霊に曇りが発生し、また幽魂は下降していく。」

このようなことを私達は意識しながら、生活の改善に一層取り組んでいかなくてはいけないということです。

 

「メシヤ講座no.188浜松(平成28年10月)」より抜粋つづき:

楳木代表

そうしてくると、私達の様々なものが洗練されてきて、メシヤ教が中心となって、世界救世(メシヤ)教という動きが起きてきて、その動きの中で、さきほどの東京に支部が生まれて、次もこの○○地方に生まれてくるということが、これからどんどん起きてくるわけです。この動きがさらに高まっていくと、キリスト教の世界や、イスラム教の世界が洗練されてくるのです。洗練してくると、

 

まずキリスト教を見つめていると、キリスト教については『文明の創造』の最後のところに『基督教と善悪』という未定稿の御論文が載っています。本来、イエス・キリストは〈天の父〉ということを信仰していこうとしたわけです。しかし、そこで『基督教と善悪』で書かれているように、あとの形態は十字架を祈らせるような形態になってしまいました。しかもその十字架はイエス・キリストの手のひらと足首に杭を打ち込んだものであり、そういうものが信仰の対象になったのです。普通の人ならば手のひらと足首に杭を打ち込まれて、血がしたたっているような姿を見れば、すぐに十字架を外し、杭を抜くということが普通の人間のすることです。しかし、その普通の人間のやることをせず、拝み続けているという、これが大錯覚なのです。そのように仕組んでいる訳です

 

その大錯覚が何を起こしていくかというと、良い方向に働くと、人間は生物のトップ、霊長類であるので、トップとしての生き方をしていかなくてはいけないということです。地球を汚してはいけないとか、そういう働きを目指していく訳です。何故目指していくかというと白人には弱いところを与えている訳です。今、フロンガスがあまり言われなくなりましたが、温暖化の最大の原因はフロンガスが充満し成層圏が破壊され、直接紫外線などという有害光線が入ってくると、その影響を一番受けるのは白人なのです。メラニン色素がないので、皮膚がんを引き起こしてしまうのです。これに対して黒人が一番強いのです。黄色人種もある程度は強いので、それ程温暖化には真剣になりません。しかし、白人は自分たちの命にかかわってくるので、一生懸命、なんとかフロンガスを削減し成層圏の破壊を止める、または元へ戻すということを必死に考える訳です。その考える母体をキリスト教が担っているのです。

 

しかし、一方では悪い方向へ向かっていくと、全てを支配するという方向になってしまうので、十字軍を結成し、他の異民族を支配するという方向に向いていくのです。だからプラスに働けば、科学の発展や地球が汚れないようにするという働きになりますが、悪い方へ働くと支配ということがおきてくるのです。

 

そういうことがキリスト教の中には含まれているということに気づいたマホメットは約1400年前にアラーの神として主神様をお祈りし、アラーの神としてイスラム教ができあがってきたのです。

 

しかし、イスラム教はそういうことに気づいてできあがってきたのですが・・・、今のイスラム教はどうなっているのかというと部族宗教になっています。部族長の言うことは絶対で、部族長の言う通りにやらないとジハードを受けるということが起きてくる訳です。アラーの神を信仰しておきながら、部族長中心とした宗教ができあがってしまったのです。ですから、女性が目だけしか出せないという服装をひたすら守っている部族もあれば、緩い部族もあります。その服装から解放されようという動きが女性の中に出てきていますが、それはイスラム教の教義に則った運動ではない訳です。

 

何故、目しか出さないような服装にしているのか、と言うと・・・。女性の魅力的な、よく最近ダイエットでくびれを取り戻そうと深夜のテレビでやっていますが、その魅力的なところをあまりにも見せると男性はおかしくなって襲ってしまったり、○○大学の学生が集団暴行をしたということが発覚していますが、そのように男と言うのは狂っていく部分がありますので、女性はそういう悩ましい部分は一切見せないようにということで、目だけ見えるようにした訳です。ですから、その服装を日本の女性のようにするためには、男性教育しかないのです。女性がいくらシュプレヒコールをあげても、イスラム教の教えに沿った運動にはならないのです。弱い男性を・・・。キチンと道徳性を持った男性にきちんと教育していけば、女性は解放されるのです。そういう論立てがまだイスラムの世界ではできていません。

 

しかし、洗練されてくれば、「本来のアラーの神の御啓示は何だったのか」ということに気づき、アラーの神の本体は何かというと主神様ということに気づいていく訳です。

 

キリスト教も天の父とは何かということを求めていくと、主神様ということになっていきます

 

では、仏教はどうかというと、“仏教はそこまでいかないでしょう”と思うけれど、それは先月の三重支部に行った人、〇〇さんが答えを言ってくれました。挨拶の中で・・・。覚えていますか?〇〇さんが夫婦で一週間仏教講座に出席したという話をしていましたね。そのなかで話していたでしょう。仏教基礎講座の内容。ものすごく良いことを学んできた、と。(一部割愛)それは、ここの仏壇に阿弥陀様がかかっていますね。この阿弥陀様の後ろに光背がありますね。実は仏教徒の祈りの対象はこの光背だ、と言ったでしょ。(一部割愛)

その光背をお祈りしているのだ、と。その前の仏像は宗派によって違うので、その仏像を祈っている訳ではないということを仏教講座で話していたというのです。だから、光背というのは、何かというと、ここの主神様の「〇」なのです。そして仏像の額に「チョン」が打ってあるでしょ。これが「ス」ということなのです。仏教もだんだん目覚めてきているので、お祈りしている対象が光背だと講座で話せるところまできているのです。

 

だからこの取り組みが高まっていけば、〇にチョンがわかってきて、それが何かというと主神様のことなのだ、と 仏教もやがてたどりつけるのです。そのことがわかっていけば・・・。

 

 

だから、三大宗教でさえ主神様ということに気づく時代がやがてくる

 

しかし、その来る時代というのは我々の覚りにかかっている訳なのです。皆さん方非常に大変ですが、まあそう大変ではない。私が覚っていけばみんなも自動的に覚っていく訳だから・・・。だから、私も責任が重いなと思っているのですが、世界の宗教が一つになっていくそのものは、『文明の創造』に書かれている内容から、お互いに高めていけばそこまでいけるという時期を迎えているのです。(御教え『御教え集11号』全文へ)

 

ですから、皆さん方はすごい時代にこうやって生きて、メシヤ講座に参加できている、これが一番幸せなことなので、日常生活でちまちま反省できないでどうのこうのと言っていないの。このことを喜んでいかないと。娘と日々、「今の時代にこうやって生きていて、良かったね。」、「本当だね。」というようにならないと。

 

しかし、日常生活に追われると「もー・・・。」というふうになってしまうので、どうかそういうところに自分たちの気持ちを持っていけるように、今の拝読の仕方も深く、深く拝読していけるようになっていただきたいと思います。

 

時間がきてしまいましたが、そういう気持ちになったときに初めて「今月から御教えを拝読してスタートをきります。」ということの意味がそれだけあるのだ、ということを踏まえて、御教え拝読をしていくということに取り組んでいくと実を結んでいくと思います。」

 

責任者:

まとめ

今回の学びを通して神様に通じる為のポイントは、以下のようになるのではないでしょうか。

 

○日常生活の中に於いて『眞覺』を得る為に「覚っていく(はっきりと理解していく)」ということが重要だということ。

 

○「自然な形でできないといけない。強制してしまうと駄目だ。」ということは『霊主体従』が自然であり『体主霊従』では強制になり駄目だということを常に心掛けること。

 

○「自覚を持つ」「覚る」為には浄まって、幽魂の霊籍を上げなければならないということ。

 

以上のようなポイントを踏まえた上で、御教えを拝読し「覚りを得る」ということを毎日コツコツとしていくことが神様に通じる道なのだということではないでしょうか。

 

最後に、メシヤ教の私達が『昼の時代』に添った(自然を尊重する)やり方で御教えから真理を得、実践し高まっていく事により、世界の三大宗教もより洗練されて「主神様に気が付く」。そういう時に私達は居るのだということまでを御教示いただきました。

 

そのような素晴らしい時代にメシヤ様と出会えたことに感謝ながら、これからもお互いを高めあっていけるような資料作りに努めていきたいと思いますので、皆様よろしくお願い致します。

 

※責任者より

引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。

 

引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。

メシヤ講座no.188浜松(平成28年10月)

 

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