研鑽資料no.61(2021年4月)

5月に向けての学び

はじめに

責任者:

今年の桜は、あっという間に咲き誇り散っていったように思います。例年と比べ気温が高いのでしょうか、家のつつじが満開で一年の内で一番過ごし易い時を迎えているように感じております。さて、今回も引き続き「文明の創造」より学びを積み上げて参りたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

 

「メシヤ講座no.156三重(平成26年1月分)」より抜粋:

<今月の御教え>

『総論』

「文明の創造、科学篇」昭和27(1952)年

私はこれまで病気に対し、詳細に直接的解説を与えて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学がいかに誤っているかが分ったであろうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、これからあらゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思うのである。

 

『手術』

「文明の創造、科学篇」昭和27(1952)年

近来、医学は大いに進歩したといい、取り分け手術の進歩を誇称しているが、私から見れば之程の間違いはあるまい。考える迄もなく、手術が進歩したという事は、実は医学が進歩しないという事になる。というと不思議に思うであろうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。判り易く言えば、病気と其機能とは密接な関係はあるが本質は異っている。従って真の医術とは病だけを除って、機能は元の侭でなくてはならない筈である。

処が医学が如何に進歩したといっても、病のみを除り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了うのであるから、此事を考えただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであろう。斯んな分り切った理屈でさえ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥っていたのである。従って何としても大いに覚醒して、初めから行り直すより外あるまい。即ち医学の再出発である。処が今日迄其意味を発見した者がなかったが為、盲目的に邪道を驀進して来たのであるから、何年経っても人類は、病気の苦痛から解放されないにみて明かであろう。

以上の意味に於て考えてみる時、手術の進歩とは、医術の進歩ではなく、技術の進歩でしかない事が分るであろう。そうして尚深く考えて賞いたい事は、造物主即ち神が造られた万物中最高傑作品としての人間であるとしたら、仮にも神として人体を創造する場合、五臓六腑も、胃も、筋肉も、皮膚も、何も彼も無駄なものは一つも造られていない筈である。之は常識で考えても分るであろう。

処が驚くべし、二十世紀に入るや、人間の形はしているが、神以上の生物が現われた。其生物は曰く、人体内には種々な不要物がある。盲腸も、片方の腎臓も、卵巣も、扁桃腺もそうであるから、そんな物は切って除って了う方がいい。そうすればそれに関した病気は無くなるから安心ではないか、と言って得々として、メスを振っては切り除って了うのである。何と素晴しい超人的、否超神的存在ではなかろうか。

処が不思議なる哉、此大胆極まる暴力に対し、現代人は無批判処か、随喜の涙を雫している。而も、人民は疎か、各国の政府迄も有難がって、之こそ文化の偉大なる進歩であると心酔し、援助し奨励迄しているのであるから、其無智蒙昧さは何と言っていいか言葉はないのである。としたら此現実を見らるる流石の造物主も、呆れて唖然とされ給うと察せらるるのである。そうして右の超神的生物こそ、誰あろう近代医学者という人間である。としたら全く彼等の人間を見る眼が強度の近視眼にかかっており、近くの唯物科学だけが見えて、其先にある黄金の宝物が見えないのであろう。

然し私は、唯物科学を敢えて非難する者ではない。人類は之によって、如何に大なる恩恵を蒙り、今後と難も蒙るかは、最大級の讃辞を捧げても足りない位である。といって何も彼もそう考える事が早計であって、唯物科学にも自ら分野があり、越えてはならない境界線がある。ではそれは何かというと、有機物も無機物も同一視する単純な考え方では、駄目であるという事である。つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、である鉱物や植物と混同している錯覚である。

というのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないに拘わらず、どう間違えたものか、入れて了った事である。之が根本的誤謬で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術といふ人体を無生物扱いにする行り方も当然であろう。又斯ういう点も見逃す事が出来ない。それは唯物科学の進歩が、余りに素晴しかった為、何も彼も之によって解決出来るものと信じて了った科学至上主義である。処が実際上動物はそうはゆかない。成程医学によって、一時的には効果はあるようだが、根本が誤っている以上、真の効果が挙らないにも拘わらず、それに気付かず、相変らず邪道を進みつつあるのである。

そうして右の如く私は生物と無生物の関係を大体かいて来たが、今一層掘下げてみれば生物の中でも人間と他の動物とを同一視してはならない事である。といっても之は根本的ではないが、相当の異いさがある。例えば人間に対って、結核といえば直に神経を起し、悪化したり、死を早めるが、牛の結核を牛に言っても、何等の影響もないのである。従ってモルモットや二十日鼠を研究して、人間に応用しても、決して良い結果は得られないのである。

茲で前に戻って、再び手術に就て筆を進めるが、成程一時手術によって、治ったとしても、それで本当に治ったのではないから、暫くすると必ず何等かの病気が発生するが、医学は其原因に気が付かないのである。そんな訳で手術後の先には余り関心を持たないのである。然し考えても見るがいい。体内の重要機能を除去したとすれば、言わば体内的不具者となるのであるから、全然影響のない筈はない。

例えば外的不具者で足一本、手一本処か、指一本、否指の頭だけ欠損しても、其不自由さは一生涯の悩みの種である。況んや内的不具者に於てをやである。而も外的不具者なら、生命に関係はないが、内的のそれは生命に至大の関係があるのは当然である。例えば盲腸の手術で、虫様突起を失うとすればどうなるであろうか、元来盲腸なるものは、重要な役目をもっている。

それは人間の背部一面に溜った毒素が、一旦右側背面腎臓部に溜って固結し、少しずつ盲腸部に移行固結するが、或程度に達するや急激な浄化が起り、発熱、痛み等が発生し、溶解された毒素は下痢となって排除され、それで治るのであるから、実に結構に出来ている。処が可笑しいのは、此際医師は手遅れになると大変だから、一刻も早く手術せよというが、此様な事は絶対ないので、手遅れになる程反って治る可能性が多くなる。之は理屈ではない。私は何人も其様にしたが、一人の間違いもなかったのである。寧ろ手術の為不幸になった例は時偶聞くのである。

又盲腸炎潜伏を知るのは訳はない。医学でもいう通り、臍から右側斜に一、二寸位の辺を指で押すと痛みがあるから直ぐ判る。然し原因は其奥にあるので、盲腸部だけの浄霊では全部の痛みは除れない。盲腸炎の場合、右側腎臓部を指で探ると必ず固結があり、押すと痛むからそこを浄霊するや、忽ち無痛となり全治するのである。治る迄に早ければ十数分遅くとも三、 四十分位であって、間もなく下痢があり、それで済んで了うので、再発などは決してない。としたら何と素晴しい治病法ではなかろうか。

処が医学では手術の苦痛も費用も、並大抵ではない。其上不具とされ、運の悪い人は手術の跡の傷が容易に治らず、数年かかる者さえある。稀には手術の為生命を失う者さえあるのだから、我浄霊と比較したら、其異いさは野蛮と文明よりも甚だしいと言えよう。処が手術によって盲腸炎は治ったとしても、それだけでは済まない。

前述の如く盲腸なる機能は、背部一面の毒素の排泄機関であるから、それが失くなった以上、毒素は出口がないから、大部分は腹膜に溜ると共に、腎臓部の固結も大きさを増すから、それが又腎臓を圧迫し、腹膜炎に拍車をかける事になる。之が主なる悪影響であるが、其他の個所にも溜るのみか、手術後腹力や握力が弱り、持久力や粘り強さ等も薄くなり、性欲も減退する。之等は体験者の知る処であろう。

次は腎臓剔出であるが、此手術は腎臓結核の場合であって、痛みや血尿があるので、そう決められ剔出するが、此成績も面白くない。大抵は何かしら故障が起る。その中で一番困るのは、残っている一つの腎臓は二つの負担を負わされるから、病気が起り易いと共に、剔出する事も出来ず、どうしていいか判らないという惨めな人もよくある。というのは誰しも保有毒素が相当あるから、残った腎臓へ溜結するのである。その外全身的には弱体化し、歩行にも困難があり、腰を捻ったり、正坐すら出来ない人もあって、先ず半分廃人である。処が最初から浄霊によれば、手も触れずして簡単に全治するのである。

次は胃癌の手術であるが、之も仲々厄介である。之に就て遺憾に思う事は、切開してみると、癌が見当らないという過失をよく聞くが、患者は全く災難である。幸い予定通り切り除つても、大抵は時日が経つと僅かでも残った癌が広がってゆき、再度の手術をするようになるが、三度目になると不可能で、最早致命的である。そうして手術が成功しても、縮小した胃と腸と繋ぎ合すので、食物も少しずつ何回も摂らねばならず、而も医学の統計によれば、手術後の寿命は平均二年半とされている。

それに就て医学は斯ういうのである。どうせ半年か一年で死ぬべきものを、手術によって一年でも二年でも延びるとしたら、それだけ有利ではないかと。成程其通りにゆけばいいが、事実は放って置けば三年も五年も生きられるものを、手術の為に縮められる例を、私は幾人となく経験したのである。又医学は癌の治療にラジウムの放射をするが、之は反って悪化する。というのはラジウムは癌を破壊すると共に、組織迄も破壊して了うからである。

右の解説は真症胃癌に就てであるが、実は真症は少なく、大部分は擬似胃癌であり、擬似は勿論薬毒が原因である。それは薬の性質にもよるが、一旦吸収された薬は、時を経て毒に変化し胃へ還元し固まる。それが癌とされるのであるから、之は浄霊によれば非常に衰弱していない限り、必ず治るのである。

右の外卵巣除去、乳癌の手術、中耳炎、瘍疔(ようちょう)、眼科、肋膜炎の穿孔、痔疾、横疲(よこね)、睾丸炎、瘭疽(ひょうそ)、脱疽、整形外科手術等々種々あるが、之等も大同小異であるから略すが、茲に二、三の書き残しをかいてみよう。それは各種の腫物であるが、之は手術をせず放っておけば、腫れるだけ腫れて自然に穴が穿き、そこから血膿が出て完全に治って了うものである。処が患者は痛みに堪え兼ねるので、医療は早く治そうとして手術するが、之が大変な誤りである。というのは手術にも時期がある。充分腫れてからなら左程の事もないが、そうならない内に行うと、今迄一ヶ所に集中していた膿は、其運動を止めて了い、他の近接部へ腫れ出すのである。之は手術処か、一寸針で穴を穿けた位でも、ヤハリ集溜が停止されるので、之は知っておくべき重要事である。

之に就て斯ういう例があった。以前私は頼まれて某外科病院へ行った事がある。患者は四十歳位の男子で、よく訊いてみると、初め頚部淋巴腺に鶉の卵位の腫物が出来た。早速医者へ往って穴を穿け、膿を出して貰うと、間もなくお隣へ同じような腫物が出来た、それを切ると又お隣へ出来る、という具合で、遂には反対側の方にも出来、それも次々切ったり出たりする内、遂には腫物の数珠繋ぎとなって、私を招んだのである。そんな訳で外部には腫れる場所がなくなったので、今度は内側へ腫れ出した。恰度其時であったので、私と難もどうする事も出来ず、断って辞したが、其後数日を経て、咽喉が腫れ塞がり、窒息で死んだとの知らせがあった。之等は全く手術の為の犠牲者である。というのは最初腫物が出来た時、放っておけば段々腫れて、恐らく赤子の頭位に大きくなったであろうが、それでも放っておけば、終には真ッ赤にブョフョになって穴が穿き、多量の血膿が出て、完全に治って了い、痕跡も残らないのである。

次は、近来一部の医師で、脳の手術をするが、之等は勿論癲癇とか、脳疾患等の場合行うのであるが、之は何等の効果もない。何故なれば頭脳の機質性病患でなく、精神的のものであるからで、つまり霊的原因である。之に就ては霊の項目に詳記するから、茲では略す事とする。次は近頃流行の結核に関する手術療法で、之は肋骨を切り除ったり、空洞のある患者には、合成樹脂の玉を入れたり、横隔膜を手術したりするが、之等は一時的効果で、反って後は悪いのである。要するに再三言う通り、手術なるものは、如何に有害無益なものであるかは、医学が一層進歩すれば分る筈であるから、最初に述べた如く手術の如き、野蛮的方法は、是非全廃して貰いたいのである。

 

メシヤ様は『医学の再出発を願っておられた』

(前文割愛)

楳木先生:

前半は今回の御教えの要約ですね。そのようにこの資料は読んでいただきたいと思います。

今回は『総論』ということで、ここの箇所(タイトル)は文字をもう少し大きくしておいた方が良かったかもしれません。

メシヤ様は『病気に対して詳細に直接的解説を与へて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学が如何に誤っているかが判ったであらうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思ふのである。』

ということで『手術』ということに触れたのだということなのです。

それで実際『手術』の箇所の冒頭をもう一度確認していただきたいのですが、

『近来、医学は大いに進歩したといひ、取り分け手術の進歩を誇称してゐるが、私から見れば之程の間違ひはあるまい。考へる迄もなく、手術が進歩したといふ事は、実は医学が進歩しないといふ事になる。といふと不思議に思ふであらうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。』

これは考えてみればその通りなのですけども、どうしても私たちは医者の言いなりになってしまって、〝これが治療だと思い込んでしまっている″ということがありますので、メシヤ様はまずこのことに気付いて貰いたいということでお書きになっておられるのです。

それで次に、『判り易く言えば、病気と其機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。従って真の医術とは病だけを除って、機能は元の侭でなくてはならない筈である。処が医学が如何(いか)に進歩したといっても、病のみを除り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了(しま)ふのであるから、此事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白(ひょうはく)する以外の何物でもない事が分るであらう。斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥(おちい)ってゐたのである。従って何としても大いに覚醒して、初めから行(や)り直すより外(ほか)あるまい。即ち医学の再出発である。』ですから、メシヤ様は『医学の再出発を願っておられた』ということなのです。

しかも、『斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら』ということですので、この〝気が付く″ということが大切だということなのです。

『文明の創造』だけでなく、御教え全般にわたって私達信者に願っておられることは、〝迷蒙に気が付いて欲しい″と言うことなのです。

私達は何事に直面しても〝迷蒙に気が付いているか″自分に問いかけていただきたいと思います。〝気が付く″ということが実はメシヤ様を信仰していくということなのだ、と言えるのではないかなと思います。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎「文明の創造、科学篇」で、メシヤ様は『病気に対して詳細に直接的解説を与へて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学が如何に誤っているかが判ったであらうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思ふのである。』ということで『手術』ということに触れたのだということ。

◎メシヤ様は(この御論文『手術』の冒頭にあるように)、まず私達に『手術が進歩したといふ事は、実は医学が進歩しないといふ事になる。』ということと『手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。』ということに気付いて貰いたいという思いでこの御論文を御執筆下さったのだということ。

◎メシヤ様は『医学の再出発を願っておられた』のだということ。

◎メシヤ様が、御教え全般にわたって(「文明の創造」だけでなく)私達信者に願っておられることは、〝迷蒙に気が付いて欲しい″と言うことなのだということ。

○私達は、何事に直面しても〝迷蒙に気が付いているのか″と自分に問いかけていくのだということ。

○〝気が付く″ということが、実は〝メシヤ様を信仰していくということなのだ″と言えるのだということ。

 

「メシヤ講座no.156三重(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

癌が消えている

楳木先生:

年末年始から休む間もなく電話がかかってきておりまして、ある支部で肝臓癌と医師から宣告を受けたご婦人がおります。浄霊をいただくと楽になるので医者からは手術を勧められたのですけども、「手術したらどうなりますか」と聞きますと、「手術しても来年の4月まで持つかわからない」ということなので、「手術しても来年の4月まで持つかわからないのならもう手術はしません」ということで、浄霊一本でズーッとやってきまして、年末に検査をしましたら、〝癌が消えている″のです。

「4月まで持つかわからないと言ったじゃないですか」と医者に食いつきましたら、「希にそういうこともある」と言うのです。こんないい加減な医者は〝何を考えているのだ″と言いたいくらいです。そのご婦人は今浄霊をいただきつつ元気に過ごして今年の4月までと余命を切られていますので、「4月までは体を養生しながらしっかり浄霊をいただいてください。」と言いまして、支部へ通いつつ自己浄霊と家族からの浄霊をいただくことに取り組んでおります。非常に健康な顔をして生活をしてくださっています。余命を切った医者も医者ですが、浄霊をいただくことによって健康を確保して癌の症状も消えていっていますので大変有難いと思います。

それから、信者さんの母親が70代前半なのですが、乳癌を患って治療をズーッと続けていたのですけども、医者から「効果的な新薬が出たのでぜひ試させていただきたい」とお願いされたのですが、「今は体調も復調しているから、これ以上の抗癌治療はやめてもらいたい」と娘さんが言ったのですが、母親が「お医者さんに親切にしていただいたので、もう一回受けてみる」と言うので治療を受けさせましたら、腕がパンパンに腫れてしまいました。そして脇からリンパ液が出始めたのです。それで治療をした医者が慌てて「この治療はあなたに合わなかったのだ。もうこれ以上する術(すべ)がないので、病院を世話するので緩和ケアに移ってください」と言うのです。

「あなたの治療でこんなに腫れてしまったのにこの腫れたのを治さないで退院させるのか」と言うべきなのですが、とても医者に対してそこまでは言えなかったそうです。

それで転院した病院でも「もう片方にも転移しているから治療しましょう」と言われたそうです。それで「これ以上治療したらもう片方の腕もパンパンに腫れて両手が動かなくなるので、充分考えなければいけない」と私はアドバイスをしました。

治療した責任を取ることなくタライ回しで次の病院に送ってしまう〝無責任な医者がいる″という現実に直面すると〝医学とはいい加減なものだ″とやっと気付くのですが、気付いた時には手遅れな状態になってしまうことが多いです。今回メシヤ様がこのように手術について御指摘されておられることは、私たちの日常生活にとっては非常に大切なことですので、そういうことをしっかり受け止めながら繰り返し繰り返し拝読していただきたいと思います。」

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎メシヤ様が「手術」について御指摘されておられること(医学の〝迷蒙に気が付いているか″という点に於いて)は、上記のように〝私たちの日常生活にとって非常に大切なことなのだ″ということをしっかり受け止めながらこの御論文を繰り返して拝読していただきたいのだということ。

 

「メシヤ講座no.156三重(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

(前文割愛)

日常生活で『錯覚』を起こしていないか

楳木先生:

それからもう一つ、メシヤ様は『錯覚』ということを御指摘になられております。

『つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や植物と混同してゐる錯覚である。といふのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないに拘(かか)はらず、どう間違へたものか、入れて了(しま)った事である。之が根本的誤謬(ごびゅう)で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術といふ人体を無生物扱ひにする行(や)り方も当然であらう。』

医学の陥っている『錯覚』を御指摘くださっているのですが、これは医学だけでなく私達の日常生活の中でも『錯覚』を起こしてはいないか、ということをよくよく自分に問いかけて行っていただきたいと思います。御教え『病気と苦痛』へ

どうしてもテレビとかから流れてくる情報を中心に捉えて行ってしまったり、インターネットで得た情報を確かなものと思ってしまいます。これが『錯覚』ということに繋(つな)がってしまいます。

さきほど支部責任者が紹介して下さった資料で「生存率」が出てきます。

それで「生存率」というと読んだだけでは手術してから〝ズーッと生きている″と錯覚してしまいます。しかし、医者達がネット上で言っているのは5年間しか生存していないということです。本来生存というのはズーッと寿命まで生きる筈なのですが、癌の生存率はたった5年間で区切っているのです。こんないい加減な表現なのです。恐ろしいことですね。

例えば60歳で手術して成功と言ったら私達は〝80歳くらいまで生きられるのだろう″と思ってしまいますが、この統計上では5年間生きたことを言っているのです。

如何(いか)に皆生きていないかということです。

支部責任者:

それも100%ではないですからね。

楳木先生:

1期、2期、3期となるに連れて段々下がってくるわけですからね。

こんな恐ろしい現状を私達は平気で受け入れているという『錯覚』です。これが『錯覚』なのだということをよくわかっておいていただきたいと思います。」

(後文割愛))

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎この御論文で、メシヤ様は医学の陥っている『錯覚』を御指摘くださっているが、これは医学だけでなく、私達は日常生活の中でも『錯覚』を起こしてはいないか、ということをよくよく自分に問いかけながら過ごしていくのだということ。

◎私達は、テレビから流れてくる情報を中心に捉えてしまったり、インターネットで得た情報を確かなものと思いがちであり、それが『錯覚』を起こし、間違った認識ということに繋がっていくので情報の捉え方には充分な注意が必要なのだということ。

 

「メシヤ講座no.156三重(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

『科学至上主義に陥っている』

楳木先生:

それから、そういうことをトータルで考えていくと、

『それは唯物科学の進歩が、余りに素晴しかった為、何も彼(か)も之によって解決出来るものと信じて了(しま)った科学至上主義である。御教え『宗教と科学以上のもの』へ)』

『科学至上主義に陥っている』とメシヤ様は御指摘されています。

今年「はやぶさ2号」を打ち上げますね。これは〝生命の起源″・・・どうやって地球に〝生命が宿ったか″ということを探るために探査に行ってくるということですので、無事に戻ってくれば『主神様』が生命を創造した一番〝原点が分かるのではないかな″と大変期待すべき事業です。しかも、無人で行って戻ってくるのは世界の最高レベルの技術だとわかることでもありますので、大いに期待したいことだと思います。

技術で言えばカーブしたテレビなどが開発されたようです。どの角度からも見ることができますので期待できるのではないかと思います。

日本は4K(フルハイビジョンの4倍の画素数)を中心にしてテレビから飛び出て映るようなものを発表していきます。

私達のテレビに対する概念が変わっていくでしょう。大いに期待できますね。立体的投影によって各方面、医療分野などでも変化があるのではないでしょうか。

〝技術が進んでいく″ということは素晴らしいことでもありますので、メシヤ様も『敢えて非難するものではない』と仰っておられるのですが、しかしそういうものがあるが故に私達は錯覚を起こしてその物の考え方だけで自分の体とかを見つめていくと間違ってしまいます。

例えば牛に「おまえ胃癌だぞ」と言っても平気ですが、人間に言えば大変ショックを受けてしまいます。そういうことがわからないような状態に陥ってしまいます。

これは400年くらいまえからデカルトが人間の心と体を切り離して、体の部分は物というように考えてそこから現代の医学はズーッと進んできているために、精神活動と肉体が密接に関わっていることがわかっていないと、『真の医術は生まれない』ということをメシヤ様はここで御指摘されておられるわけです。」(後文割愛)

 

責任者:

ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎近代医学者という人間は、唯物科学の進歩が、余りに素晴しかった為、何も彼も之によって解決出来るものと信じてしまい、〝科学至上主義に陥っている″とメシヤ様は御指摘されているのだということ。

◎メシヤ様も『然し私は、唯物科学を敢えて非難するものではない。』と仰っているように〝技術の進歩″は素晴らしいことだが、そういう(唯物的な)捉え方で自分の体とかを見つめていくと、錯覚を起こし間違ってしまうのだということ。

◎メシヤ様は、ここで(この御論文で)精神活動と肉体が密接に関わっていることがわかっていなければ、『真の医術は生まれない』ということを御指摘されているのだということ。

 

「メシヤ講座no.156三重(平成26年1月分)」より抜粋つづき:

『霊主体従の法則』イメージトレーニング

楳木先生:

ビックコミックという漫画雑誌には「ゴルゴ13」という漫画が連載されています。最新号では「手術が出来ない少年に奇跡が起きる」というテーマです。

ある少年が病院で脳腫瘍の治療を受けてきたけども脳幹にくっついているので手術すると命に関わるので手術ができない。だから「これから君は良いイメージを描いて治療しなさい」と医者が言うわけです。それでその良いイメージというのは「世界の医療の中ではイメージトレーニングで病気を克服した症例がいくつか報告されている」と但し書きがある。それでその子は病院の外で好きなバードウオッチングをして、ゴルゴ13を見つけてしまうわけです。それでゴルゴ13は何百メートルも先のところにコインを置いてそれを打ち抜く練習をしているわけです。それで銃をしまう時にチラッと少年の方を見るわけです。それで子供は〝見られた″と思ってしまって恐くなるわけです。そうするうちにその病院にある曰くありげな政治家が入院してきます。それで玄関に着いた瞬間に狙撃されて死んでしまいます。

それで少年は〝自分が唯一の目撃者だ。このために練習をしていたのだ。目撃者の自分は消されるのではないか″という恐怖感に陥り夜もロクロク眠れなくなります。眠るたびにゴルゴ13に頭を打たれる夢を見て起きてしまいます。そういう日を送っているうちに〝脳腫瘍″のことをすっかり忘れてしまいます。

そして脳腫瘍が良くなっていくのです。それで医者に「君は素晴らしいイメージトレーニングをしたね」と言われるという読み切りのストーリーです。

ゴルゴ13の脚本を書く人たちはチームを作って、世界の動向と様々な科学分野で研究をしている人の情報を集めては毎回ストーリーを形成していくわけです。それで、その動向の中には〝病気をイメージによって治す″ということが〝現実的には起きている″ということを収録することができたわけです。

実はこれはメシヤ様の『霊主体従の法則(御教え『霊主体従』へ)』にピッタリ当て嵌(はま)っていくのです。(暗殺そのものは抜きにして)

〝良いイメージを持つことによって浄化が完了する″ということもありますので、科学が進んだとしても『科学至上主義では駄目なのだ』というメシヤ様の御指摘と非常に繋がっていますので劇画の話をしました。

この手術というところだけではなくて、みんな気付いていかないといけない、錯覚に陥っている。科学至上主義あるいは経済至上主義に陥っているために様々な問題が生じて来ます。

そういう御指摘になっておられることをこういう御論文を拝読しながら自分の日常生活の中で自分にいつも覚醒させながら生活していくように今年もぜひお願いしたいと思います。

最初にそういうことをお願いさせていただいて、いつものように質疑応答に移りたいと思います。」

(後文割愛)

 

編集後記

責任者:

私達は事象を見る時、常に〝錯覚を起こして(マスメディアの情報などによって)物事を判断しているのではないか?″ということを自分自身に問いかけながら生活していかなければならないなぁということを(特にコロナ禍ということもあり)ひしひしと感じております。更に、この『手術』という御論文を拝読させていただいた御蔭で、物質文化が発達して来たが故に医学では、人間の体までも機械と同じだと思って扱っているという現状がハッキリと浮き彫りになったように感じられ、これまでとは違った視点から『科学至上主義』という意味合いが肚に落ちたように思います。メシヤ様は今回の学びで、信徒である私達に〝錯覚をおこさない″又、〝科学至上主義に加担しない″というこの2点の確認を促されているのだと思わせていただきました。

「文明の創造、科学篇」も大分読み進んて参りました。この『手術』という御論文でご指摘いただいた内容を基に、今まで学んできたことを振り返り〝錯覚は起こしていないか?″そして、〝科学至上主義になってはいないか?″ということを夫々が確認していただけたら幸いに思います。

若草の緑まぶしい好季節、どうぞお健やかにお過ごしくださいますようお祈り申し上げます。

有難うございました。

 

追記:

下記の御蔭話を「世界救世教奇跡集『病気以外の奇蹟』」を追加致しました。

御蔭話 神奈川県O.T. 「貧乏のどん底に御守護」

御蔭話 大分県T.I.   「排水管の詰まりに御守護」

御蔭話 岩手県S.M.   「故障した発動機が御浄霊で直る」

御蔭話 福岡県S.M.   「ご浄霊で金庫開く」

御蔭話 山口県N.M.  「開かずの銀行金庫開く 」

御蔭話 佐賀県S.T.  「 御気付け」

御蔭話 富山県F.Y.   「反対者32名が吊橋から転落 」

 

 

※責任者より

 

引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、()内の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。

 

引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。

メシヤ講座no. 156三重(平成26年1月分)

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