12月に向けての学び
はじめに
責任者:
ちょっと前まで日中は、まだ汗ばむ陽気で秋とは思えないような気候でしたが、今週の始め頃より朝夕はめっきり冷え込むようになりました。皆様におかれましては、お変わりございませんでしょうか。
前回申したことと重複しますが、こうしてコツコツと「文明の創造」を学び続けることによって、メシヤ様の御教えが以前より肚におちたと思えるように、今回も学んで参りたく思います。どうぞよろしくお願い致します。
「メシヤ講座no.159浜松(平成26年4月分)」より抜粋:
<今月の御教え>
『擬健康と真健康』
「文明の創造、科学篇」昭和27(1952)年
今迄詳しくかいた如く、病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来た意味は判ったであろう。之に就て今一層徹底的にかいてみるが、世間一般の人が健康そうに見えて、兎も角働いている人の其殆んどは毒素を保有していながら、強く固結している為、浄化作用が起らない迄である。従って何時突発的に浄化が発生するか判らない状態におかれているので、何となく常に不安があるのは此為で、恰度爆弾を抱いているようなものである。
少し寒い思いをすると、風邪を引きはしないかと心配し、伝染病が流行すると自分も罹りはしないかと案じ、一寸咳が出たり、身体が懈(だる)かったり、疲れ易いと結核の初期ではなかろうかと神経を悩まし、腹が痛いと盲腸炎か腹膜炎の始まりではないかと恐怖する。風邪が拗(こじ)れると結核を心配し熱が高くてゼイゼイいうと、 肺炎を連想する。一寸息が切れたり、動悸がしたりすると心臓病を懸念し、足が重いと脚気じゃないかと想う。眼が腫れボッタイとか、腰が重いと腎臓ではないかと疑う。
女などは腰や下腹などが痛かったり、冷えたり、白帯下(こしけ)が下りたりすると、子宮が悪いのではないかと苦労し、子供が元気がないと大病が発る前兆ではないかと心配する。というようにザットかいただけでも此位だから、今日の人間が如何に病気を恐れ、怯えているかは想像に余りある。
そうして一度病気に罹れば医者に行き、薬を服むという事は、常識となっているが、よくも之程迄に医学を信じさせられたものと感心せざるを得ないのである。とはいうものの私としても昔の自分を考えたら、人の事など言えた義理ではない。斯ういう事があった。確か三十歳前後の頃だと思うが、信州の山奥の或温泉場へ行った時の事だった。旅館に着くや否やイキナリ女中に向って「此温泉場にはお医者が居るか」と訊くと、女中は「ハイ、一人居ります」。私「普通の医者かそれとも学士か」。女中「何でも此春大学を出たとかいう話です」。それを聞いた私は、之なら二、三日位安心して滞在出来ると、腰を落着けたのである。
処が其後世間には私と同じような人もあると聞き私は変っていない事を知った訳である。又斯ういう事もあった。人間はいつ何時病気に罹るか分らないから、そういう場合夜が夜中でも電話一本で飛んで来て呉れるような親切なお医者さんを得たいと思っていた処、恰度そういうお医者さんが見付かったので、出来るだけ懇意にし、遂に親類同様となって了った。現在の私の妻の仲人は、其お医者さんであった位だから、如何に当時の私は、医学を信頼していたかが判るであろう。
従って、今日一般人が医学を絶対のものと信じているのもよく判るのである。処が其医学なるものは、実は病気を治す処か、其反対である事を知った時の私は、如何に驚いた事であろう。然し之が真理であってみれば、信ずる外はないが、そんな訳で現代人が医学迷信に陥っているのも無理はないと思えるのである。忌憚なく言えば自分自身の体を弱らせ寿命を縮められ乍ら、医学は有難いものと思い込み、それに気がつかないのであるから何と情ない話ではないか。従って此迷信を打破する事こそ、救世の第一義であらねばならない。といっても之を一般人に分らせる事は実に容易ならぬ問題である。
前述の如く医学迷信のコチコチになり切っている現代人であるから、実際を見聞しても、自分自身や近親者の難病が浄霊によって治ったとしても、直に信じ得る人と、容易に信じられない人とがある。だが大抵な人は医学でも凡ゆる療法でも治らず、金は費うし、病気は益々悪化する一方で、遂に生命さえも危い結果、中には自殺を計る者でさえ、偶々浄霊の話を聞いても、容易に受入れられない程、医学迷信に陥っている現在である。然し絶体絶命の断末魔とて、茲に意を決し、疑い疑い浄霊を受けるが、其時の心理状態は最後に載せる報告にも沢山あるから、読めば分るであろう。
以上は、現代人が如何に病気を恐れているかという事と、医学を如何に信頼しているかという事で、前者は全く医学では治らないからでよくある事だが、一寸風邪を引き、熱でも高いと之は大病の始まりこれではないかと案じるが、其半面之しきの風邪位が何だと打消そうとするが、肚の底では万一の心配も頭を擡げて来る、というのは誰しも経験する処であろう。之は全く医学そのものに、全服的信頼を措けないからである。
処が、本当に治る医学としたら、風邪や腹痛などは簡単に治るし、名の附くような病でも適確に診断がつき、其通りになるべきで、如何なる病気でも、之は何が原因で今迄の療法のどの点が間違っているか、どうすれば治るか、予後はどういう風になるか、命には別状ないかあるかも手に取るように判り、病人に告げると其言葉通りになるとしたら、誰しも医学に絶対の信頼を払い、病気の心配などは皆無となるのは勿論、病気は浄化作用で、体内の汚物が一掃され、より健康になる事が分る、としたら寧ろ楽しみになる位である。というのが真の医学である。
では此様な夢にも等しい治病法がありやという事である。処が驚くべし之が己に実現して偉大なる効果を挙げつつある現在である。そうして吾々の方では病気とは言わない、浄化という、何と気持のいい言葉ではあるまいか。然し事実もそうであるから言うのである。茲で標題の真健康と擬健康に就てかいてみるが、擬健康とは前述の如く、固結毒素があっても浄化が発生していない状態であり、真健康とは毒素が全くない為、発病しない状態である。然し後者のような人は恐らく一人もないであろうし、健康保険制度も其不安の為に出来たものであろう。
右の如く現代人の殆んどは擬似健康者であるから、大抵の人は何等かの持病を持っている。少し仕事をすると、直に頭痛や首肩が凝ったり、一寸運動が強いと息が切れたり、微熱が出たりする。又風邪を引き易く、一寸した食物でも中毒したり、腹が痛んだり下痢したりする。年に数回以上は病臥し、勤めを休み、何年に一度は入院するというような訳で自分自身の健康に確信が持てず、常にビクビクしている。
酷いのになると矢鱈に手術をする。少し金持の中年の婦人などは、盲腸を除り、乳癌の手術をし、卵巣も除り、廃人同様な人も少なくない。又一般人でも瘭疽や脱疽で指を切ったり、片方の腎臓を剔出したり、喘息で横隔膜の筋を切ったり、脳の切開、手足の切断や、近頃は結核の手術も流行している。というように虐(むご)い事を平気でやっている。処が医学は斯うするより外に方法がないから致し方ないが、今日の人間程哀れな者はあるまい。従って之程の文化の進歩発達も、其恩恵に浴する事が出来ず、病床に悩んでいる人も少なくないのである。右の如く病気の種を有っている擬健康を無毒者となし、真の健康者を作り得るとしたら、之こそ真の医術であって、人類にとって空前の一大福音であろう。
『病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚していた』
楳木先生:
文明の創造をずっと拝読してまいりまして、来月拝読するとこの『科学篇』が終わります。ですから今回はこの『科学篇』のまとめ的な御論文でありますので、どのようにまとめてくださっているか、○○さんに説明してもらおう。
参加者:
『病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚していた』というところが一番大きなことだと思います。
病気が治るとか治らないということではなくて、御教えからすると病気が長引くということは浄化が続いていて生かされているということで、毒素があるのに浄化が止まってしまっていると毒素が排泄されないので、今までの生活や薬などのことを考えるととてもその浄化がありがたいということだと思います。長い浄化でもありがたいと受け止めさせていただくようにと考えました。今、拝読させていただきまして、浄化という言葉は素晴らしいというところで、またありがたいことだと考えさせていただきました。
楳木先生:
そうするとさっき新聞の記事を見て、「私もこれに当てはまるのでしょうか?」というふうに考えたことは…。」
参加者:
新聞にうつ病の人は・・・と書かれているのを見て、私はうつ病ではないのに「えっ」と思ってしまったことは、明らかに自分自身を病気のほうに進めてしまっていたということでした。みんながいつも朗らかでいることができるというのではなくて、いろいろなことがあって生かされているというふうに思わせていただいたのですが・・・。
楳木先生:
が・・・?」
参加者:
いただきましたので、病気が早く治ろうと思うのではなくて、今までの薬や注射があったり、電気をかけたりとやっていたことが、浄化につながっているので、浄化をありがたく受け止めさせていただいて、霊界に往くときにはきれいな身体で往かせていただきたいと思いました。
楳木先生:
はい。お母さんがこのように話したけれど、子供として何か足りないと思ったことは。」
参加者:
母が御教えをいただきながらも病気ではと思ったことは、『医学は有難いものと思い込み』ということがあるように、有難いとは思っていないと思いますが、まだ医学というものが残っているので、本を読んだり新聞やテレビを見たりして「病気かも」と思ってしまうということは、まだまだ・・・。まだまだと私が言える立場ではないのですが・・・。
楳木先生:
まあ、娘だから言えることだから。私がそこまで言うと、「何で私のことばかり言うのだろう」ということになるのでね(笑い)。」
参加者:
母がそのように言ったそのとき、私もすぐにこのように言うことができなかったので、私もまだまだ未熟だと思います。
楳木先生:
まあ、そういうことでこの1行目、2行目に書いてあるように、『今迄くわしくかいた(この科学篇で説明してきた)如く、病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来た意味は判ったであろう』
ということですので、この意味をわかっていないと、新聞でいろいろな説明があると、“それに自分も当てはまることがあるので大丈夫だろうか”というような気分が起こってきますので、このところは繰り返し口ずさんで、覚えていただきたいと思います。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎『今迄くわしくかいた(この科学篇で説明してきた)如く、病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来た意味は判ったであろう』とメシヤ様は仰っているのだということ。
>この仰っていることの意味をわかっていなから、新聞(雑誌やテレビ等)で色々な病気に付いての説明があったりすると、“それに自分も当てはまることがあるので大丈夫だろうか”というような疑心暗鬼に陥るのだということ。
≫そのような疑心暗鬼に陥らないように、『病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来たのだ』というメシヤ様の御教えを理解しておかなければならないのだということ。
「メシヤ講座no.159浜松(平成26年4月分)」より抜粋つづき:
安心立命の生活
楳木先生:
そして、メシヤ様がこのあとずっと昭和27年当時の日本人が陥っている医学迷信について、ずっと説明してくださって、メシヤ様御自身もやはりこの道を知るまでは温泉場に行っても、「医者がいるかどうか」ということをいつも気にしながら生活していたということを告白されていますので、メシヤ様も見真実に立たれる以前は同じように医学迷信に陥っておられたということがわかります。
そこでメシヤ様は御自身の身体を通して、さらに御啓示をいただきつつ、真理を私たちに教えてくださるようになったのであります。
本来、我々は、信仰をさせていただくということは安心立命の境地に立つために信仰をしているのですが、安心立命の境地に立つことができない最大の不安がやはり病気だということになりますので、この病気の意味さえわかれば、私たちは安心立命の生活が許されていくのではないかなと思います。
先月は私もいろいろあって非常に過酷な日程を送ったので、月末ちょっと動悸がしてしまったことがありました。心臓がおかしくなってしまったかなと思うくらいに動悸がつづいていました。
ずっと御神業に追われて身体を充分ほぐしていなかったので、それが原因だということで、時間を作っては歩いて、歩いて歩いて、腎臓をほぐすことによって段々と動悸がしなくなってきました。
やはりいくら忙しくても散歩というものを心がけて腎臓をほぐしておかないといけないなぁ(御教え『腎臓病と其の他の病』へ)、ということを、こういう御教えを拝読させていただくからこそ、自分の健康管理ができるようになっているので、大変ありがたいと思います。
これがメシヤ様に御縁がないと、心臓が悪いのではないかと病院に行って検査を受けるということに陥ってしまいますので、メシヤ様と御縁をいただいて本当によかったなと思わせていただいております。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。◎本来私達は、「安心立命」の境地に立つために信仰をしているのだということ。
>しかし、この「安心立命」の境地には中々立つことができない。その一番の原因が病気に対する不安な思いだということになのだということ。
≫「安心立命」の境地に中々立つことができないことの原因が、病気に対する不安な思いであるのならば、メシヤ様が御教えくださっている 『病気は浄化作用なのだ』という病気の意味を私達が理解し納得さえできれば、安心立命の生活が許されていくのだということ。
◎過酷な日々を送っている時は、充分に身体をほぐす時間がなく動悸が起こったりすることがあるので、いくら忙しくても時間を作って散歩し腎臓をほぐすということを心がけると良いのだということ。
◎メシヤ様と御縁をいただき、御教えを拝読することが出来るからこそ、大変有難いことに自分の健康管理が出来るようになっているのだということ。
「メシヤ講座no.159浜松(平成26年4月分)」より抜粋つづき:
真健康と擬健康について
楳木先生:
ここでもう一度(書籍「文明の創造」)264ページのところを確認させていただきますと、うしろから5行目に 『茲(ここ)で標題の真健康と擬健康に就(つい)てかいてみるが、擬健康とは前述の如く、固結毒素があっても浄化が発生してゐない状態であり、真健康とは毒素が全くない為、発病しない状態である。』と。ここだけは暗記するくらい口ずさんで覚えておいていただきたいと思います。
それから薬をよく服んでいる人でも浄化をほとんどしていない健康そうな人を見ると、信者さん同士でも「あの人、薬をいつも服んでいるけれど、元気だよね~」という話がでたときには、まさしく、この浄化が発生していない状態だということをそこで分析しておいた方が良いと思いますね。
これがずっと溜まりきって一気に溶け出すと大きな病気症状になっていきますので、私たちは日常的に少しずつ溶かしていただきながら健康を維持すると、そういう生活が許されるようになっていただきたいと思います。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎メシヤ様の仰っている『健康とは、固結毒素があっても浄化が発生していない状態であり、真健康とは毒素が全くない為、発病しない状態である。』のだということを必ず覚えておくのだということ。
◎薬をよく服んでいて浄化をほとんどしていない健康そうに見える人は、まさしく“浄化が発生していない状態の人なのだ”というように分析しておいた方が良いのだということ。
>このような人は、薬毒が溜まりきって一気に溶け出し大きな病気症状になっていくのだということ。
≫(上記の症状にならない為にも)私達は、日常的に少しずつ薬毒を溶かしていただきながら健康を維持することが出来る生活が許されるように努めるのだということ。
「メシヤ講座no.159浜松(平成26年4月分)」より抜粋つづき:
楳木先生:
それから前後するのですが、その同じページの前から4行目に 『病気は浄化作用で、体内の汚物が一掃され、より健康になる事が分る、としたら寧(むし)ろ楽しみになる位である。では此(この)様な夢にも等しい治病法がありやといふ事である。処が驚くべし之が已に実現して偉大なる効果を挙げつつある現在である』ということで、メシヤ様がこの『文明の創造』を御書きになったときには信者さんが何十万人と膨れ上がってきていて、その人たちがみんな偉大なる効果を上げていたということを裏づけながら、このような御論文を書かれたということがよくわかるのではないかなと思います。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。◎「文明の創造」は、メシヤ様が 『病気は浄化作用で、体内の汚物が一掃され、より健康になる事が分る、としたら寧ろ楽しみになる位である。では此(この)様な夢にも等しい治病法がありやといふ事である。処が驚くべし之が已に実現して偉大なる効果を挙げつつある現在である』と仰っていることから、昭和27年当時の何十万人という信者さん方が偉大なる効果を上げていたということを裏付けとして御執筆なされた御論文なのだということ。
「メシヤ講座no.159浜松(平成26年4月分)」より抜粋つづき:
これからは文化の進歩発達の恩恵に浴するときを迎えてくる
楳木先生:
最後のページにいきますと、(書籍「文明の創造」)266ページの1行目に 『従って之程の文化の進歩発達も、其(その)恩恵に浴する事が出来ず、病床に悩んでゐる人も少なくないのである』 と。これが昭和二十七年当時の現状だということであります。しかし、これから本来の御神業を進めるということは文化の進歩発達とともに、実は恩恵に浴する時を迎えてくるということであります。
この恩恵に浴することができる時代になるためにこの『文明の創造』を出版したということであります。
(後文割愛)
まあ、最初にそうしたことを確認させていただいて、いつものように、質疑応答、あるいは御守護報告という、そうしたものをしていただきたいと思います。また、このメシヤ講座特選集の中でも聞きたいこととか確認したいことがあったらお聞きしていただきたいと思います。」
(後文割愛)
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎メシヤ様は、『従って之程の文化の進歩発達も、其(その)恩恵に浴する事が出来ず、病床に悩んでゐる人も少なくないのである』と仰っているが、これが昭和27年年当時の現状なのだということ。
>しかし、これから本来の御神業を進めるということは、文化の進歩発達とともに恩恵に浴する時を迎えるのだということ。
≫この恩恵に浴することができる時代になるために、この『文明の創造』を出版したのだということ。
編集後記
責任者:
この研鑽資料を纏めていく中で、改めて「本来私達は、安心立命の境地に立つために信仰をしているのだ。」ということについて考えることができましました。でも、この「安心立命」の境地には中々立つことができません。その出来ない一番の原因が“病気に対する不安な思い”なんですよね。しかし、メシヤ様が御教えくださっている 『病気は浄化作用なのだ』という病気の意味を私達が理解し納得さえできれば、安心立命の生活が許されていきます。
今年も残り少なくなって参りました。悔いのない一年になるよう、この重要な御教えを今回はしっかりと肚に落とし過ごしていこうと思います。暦の上ではもう冬になり朝晩めっきり冷え込みます。どうぞご自愛くださいませ。有難うございました。
※責任者より
引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、()内の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。
引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。
「メシヤ講座no.159浜松支部 2014(平成26年4月分)」