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『死線を越えた話』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

私が治療時代、某会社重役の夫人、(三十歳)重病のため招かれた事があった。もちろん医師から見放されたのであって、その家族や親戚の人達が、是非助けて欲しいとの懇願であったが、その患者の家が、私の家より十里くらい離れているので、私が通うのは困難であるから、ともかく自動車に乗せて、私の家へ伴れて来たのである。その際、途中においての生命の危険を慮(おもんばか)り夫君も同乗し、私は車中で、片手で抱え片手で治療しつつ、ともかく、無事に私方へ着いたのである。

しかるに翌朝未明、付添の者に私は起こされたので、直ちに病室へ行ってみると、患者は私の手を握って放さない。いわく、「自分は今、身体から何が抜け出るような気がして恐ろしくてならないから、先生の手に捉まらして戴きたい、そうして妾(わたし)はどうしても今日死ぬような気がしてならないから、家族の者を至急招んで貰いたい」というので、直ちに電話をかけ、一時間余経って夫君や子供数人、会社の嘱託医等、自動車で来たのである。その時患者は昏睡状態で脈拍も微弱である。医師の診断ももちろん時間の問題であるという事であった。そうして家族に取巻かれながら、依然昏睡状態を続けていたが呼吸は絶えなかった。ついに夜となった。相変らずの状態である。ちょうど午後七時頃、突如として眼を見開き、不思議そうにあたりを見廻しているのである。いわく、「私は今し方何ともいえない美しい所へ行って来た。それは花園で百花爛漫と咲き乱れ、美しき天人が多勢いて、遥か奥の方に一人の崇高き、絵で見る観世音菩薩のごとき御方が、私の方を御覧になられ微笑まれたので、私は思わず識らず平伏したと思うと同時に覚醒したのである。そうして今は非常に爽快で、このような気持は罹病以来、いまだかつて無かった」というのである。そのような訳で、翌日から全然病苦はなく、否全快してしまって、ただ衰弱だけが残っていた。それも一ケ月くらいで、平常通りの健康に復したのである。

右は全く一時霊が脱出して天国へ赴き、霊体の罪穢を払拭されたのである事はもちろんである。そこは第二天国の仏界である。

『精神病』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

十七歳の女学生の精神病を扱った事がある。これは非常に暴れ、ある時は裸体となって乱暴する。その際三人くらいの男子でなくては制えられない程の力である。また大いに威張り母親を叱りつける事がある。しかるにこの原因は左のごときものである事が判った。すなわち娘の父は数年前没し、現在は母親のみであったがその母親は、数ケ月前ある宗派神道の信者となったので、祖霊を祀り替え、仏壇や位牌を処分した。それがため父の死霊が立腹したのが動機となった。ところが父のまだ生きている頃、その家は仙台から東京へ移転したが、元の邸宅を売却し邸内に古くから祀ってあった稲荷をそのまま残したので、買主は稲荷の祠を処分してしまったため、その狐霊が立腹し、上京した父に憑依し父は精神病となりついに死亡した。このような訳で、父親の霊と稲荷の霊との二つが娘に憑依したためであった。故に発作時父親の霊は母親を叱り、狐霊は常軌を失わせるといったような具合であったが、私の治療によって全快し、その後結婚し、今日は二児の母となり、なんら普通人と異ならないのである。

右のごとく古くからある稲荷を処分した事によって、精神病になる場合が非常に多いのである。今一つおもしろい例をかいてみよう。これは、二十歳の青年で、大方治癒した頃私の家で使用した。いつも庭の仕事などやらしていたが、私の命令に対し狐霊が邪魔するのである。例えばある場所の草を全部刈れと命じ、暫くして行ってみると一部だけが残っている。私は、「なぜ全部刈らないか」と訊くと、「先生が「そこだけ残せ」と言われました」という。私は、「そんな筈はない。それでは「一部残せ」と言った時、私の姿が見えたか」と訊くと、「見えないで、声だけ聞こえました」と言うので、私は、「それは狐が私の声色を使うのだから、以後注意せよ」と言ったが、直に忘れて右のような事がしばしばあった。

 

『癲癇』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

癲癇の例として十数年前私の家に使用している下婢の事を記いてみよう。これはよほどおもしろい例で、最初の頃は発作するや意識を失い所構わず倒れるが、その際の面貌は物凄い程で、顔面蒼白、唇は紫色になり、舌を噛み口唇から血液が流出している。その状あたかも殺害された死人と少しも異ならないのである。それが治療によって漸次快方に趣き、発作は極軽微となり、意識を失う事はなく、多少の不快を伴うくらいにまでなった。その際前額部深部を霊射するや、憑霊は悲鳴を挙げ、「助けてくれー」と繰返す。私は、「助けてやるから、この肉体から出よ」と言うと、「行く所がない」という。憑霊が行く所というのは人間の体である。この場合、全然他人の体へは憑る事が出来ないから始末が悪い。そうして右の下婢を施術するや、前額部へ霊射二、三分にして肩、腕、腹部等へ次々と移動する。おもしろい事にはその局部を圧査すると必ず毒結がある。そうして憑霊の逃げ廻るのを追かけるように一々霊射する結果、霊は極度に萎縮し、苦痛は一時解消するのである。

この下婢の霊は、祖母にあたる者が不義の子を宿し、出産するや圧死させた。その嬰児の霊である。その嬰児の霊へ、祖母に関係ある狐霊が憑依し、同化霊となって活動したのである。

『龍神の憑依』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

ある六歳になる女児、全然歩行が出来ない。片一方の手をつきながら、イザって歩くのである。脚をみれば全然力がなく、軟骨のようでニョロニョロしている。私は龍神の憑依と思ったので、脚を主に治療したところ、半年くらいで全く治癒したので、その龍神を庭へ小さな池を掘り、宮を建てて祀ってやった。それから数日後、右の女児は名をミエ子といい、その年のカレンダーは辰年で、龍の絵がかいてあったので、それをみてミエ子ちゃんは指さしながら、このこわいものはお祭りの時、三枝ちゃんの手から抜け出たという事を、子供ながらに手真似などして親に語ったので、親も先生の仰有(おっしゃ)った通り脚の悪かったのは、全く龍神の憑依であったといって、感謝と共に語ったのである。

右の外、まだ数え切れない程種々の実例があるが、顕著なものは、今までの私の著書に大抵は載せてあるから略す事にする。長い治療期間であったから、忘れた方が多いくらいである。そんな訳でよく人が先生の病気治療はどなたから学んだのであるかと訊かれる毎に、私は、こう答える。私の先生は患者である。患者に聞き、患者から教わる。それで段々病気の原因など識るようになったのだから、私の師は患者であるというのが本当である、といったものである。

 

『間違い信仰』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

こういうおもしろい事があった。私が一番最初の弟子であった山室某なるものに、昭和六年麹町五丁目のある裏へ一軒の家を借り、治療所を開始さした事がある。そこへ近所の風呂屋の親父が脚が悪いので治療に来たところ、非常によくなって今少しで治るという時、パッタリ来なくなった。近所の人が来ての話で、その訳が判ったというのは、その親父は真宗のカンカンの信者であったので、もし観音様ですっかり治るとすると、阿弥陀様の信仰をやめなければならない事になる。そうすると死んでから阿弥陀様の傍へ行けないから、すっかり治らない中にやめたというので、その話を聞いて私は唖然として苦笑したのであった。

これも右と似た話であるが、五十歳くらいの藁麦(そば)屋の親爺で、手首が痛くて曲らないので治療に来た事があった。一週間治療したが更に効果がないので、これは霊的だと思ったので、「あなたは何か信仰しているか」と聞いたら、二十年来不動様の信者だというので、私は合点が行った。なお聞くと、「毎朝不動様へ自分がお盛物を上げる」というので。「それをやめてみなさい」と言ったところ、彼は、「デハ明朝から家内にやらせる」と言って、彼はその日からやめたところ、直に治ってしまったので、驚いて早速観音信仰へ転向したのである、ところが彼いわく、「家の伜が慢性頭痛で困っているが、治して貰いたい」と言うので、彼の家へ行ってみると、天井に何本も釘が刺してあった。これは不動信仰者の家にはよくみるが、私はこれだなと思って、早速釘を抜かしたところ、たちまち治ってしまった。またこういう事もあった。ある自動車屋の主人が、「私は不動様へお詣りに行くと、その後で必ず自動車がエンコするが、どういう訳か」と訊くので、私は、「それは当りまえだ。不動だから動かなくなるのだ」と言って大笑いした事があった。

右の例にみても、何でも拝みさえすればいいという事は考えものである。というのは、その人の身魂の高下と因縁によって、拝む神仏も相応しなければ反って逆の結果になるからで、大いに慎むべきである。