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『恋愛哲学』

「光」46号、昭和25(1950)年1月21日発行

人間生活の中で、この恋愛くらい厄介な解決困難の問題はあるまい、一言にしていえば恋愛は人生の花であると共にまた茨(いばら)でもある、恋愛に対し至上主義という者もあるが、不道徳の原因ともされている、しかしながら吾らからいえば至上主義でもあり、また不道徳の場合もあるというのが本当であろう、今恋愛について吾らの見解を述べてみよう。

そもそも恋愛なるものは、神が人間に与えた最大なる恩恵でもあり、実に耽美しても耽美し尽せない魅惑的のものでもある、そうして恋愛が高潮の結果生命を放棄する事さえ何とも思わなくなる程の危険物でもある、それがため小説でも劇でも、恋愛が含まなければ成立ち得ないといってもいい、もしこの世に恋愛がないとすれば、人生は冷たい冬の枯野のようなものとなろう。

ところが事実を見る時、恋愛による幸福よりも恋愛に因る不幸の方が多い例である、人間同志の醜い争いも、どうする事も出来ない苦悩も、運命の破滅も、情死殺傷等の忌わしい事件も、ことごとくといいたい程恋愛が原因である、実に恐るべきものといってもよいのである。

とすれば恋愛は一体どう扱うべきが本当であるかを信仰上からかいてみよう。

それは大して難しい問題ではない、はなはだ簡単である、と言えば不思議に思うであろうが、実は一言にしていえば、叡智と勇気と真の愛である、まず男女間に恋愛関係が成立するとする、と同時に決して主観に捉われてはならない、飽くまでも客観的に視る事である。

それにはまず何よりも結果を見極めるべきで、それは双方共前途の幸不幸を考える、例えば結婚が最後の目的であるとすれば幸福を作り、善であり、結婚の意志がなくただ一時的衝動に駆られての享楽本意とすれば、少なくとも女性の方は不幸となるから悪である。

しかし当事者はいうであろう、恋愛をするのに善とか悪とか、結果はいかなるなどと考える事は出来ない、ただ愛するだけだ、どうにもならない愛の衝動あるのみだ――と決めるであろうが、これが言わば盲目的恋愛でつまり恋愛に呑まれてしまったのである、まず男子の場合とすれば繊弱(かよわ)い一女性に呑まれたのでいわば女性に負けたのである、ゆえにかような弱虫は男子の資格はない、到底出世などはむずかしい人間である、吾らの言いたいのはこの点でどうしても恋愛を呑んでしまわなくてはいけない、そうすれば決して間違など起るはずはない、また女性としてもそういう男子こそ尊敬に値すべきで反って愛は深くなり満足する物である、ゆえに吾らの恋愛観は、恋愛は決して悪いものではない、全く人生の花であるが、ただ前述のごとく恋愛に支配されない事で恋愛を支配する事が出来れば決して間違はないのである。

恋愛哲学ざっと以上の通りである。

『夫婦の道』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

近来、見合結婚が良いか、恋愛結婚が良いかは相当やかましく論じられている。しかしながら、これを霊的に解釈をする時は、どういう訳になるかを説いてみよう。

わが国は、都会はもとよりいかなる山間僻地といえども、必ず鎮守様、すなわち産土の神様が鎮まりいます産土神社、または氏神様がある。これはちょうど現界における区役所のようなもので、人間社会における冠婚葬祭はもとより、出産等に至るまで、産土の神様が担任されておらるるのである。昔から子が産まれるや、必ずお宮詣りに行く習慣があるが、これは子供を授けて下さった神様にお礼詣りをするのである。これと同様結婚においても産土神が男女を結合させるので、その際恋愛による場合と、見合いによる場合と、いずれも産土神の思召によるのである。しかし、それを知らない人間は、人為的に成立するものと思うため、世間に沢山ある夫婦喧嘩の末「貴様出て行け」などと言うのは、いかに間違っているかという事である。せっかく神様の思召によって結ばれた妻であり、夫であるものを、人間が勝手にどうこういう事は、神様に対してはなはだしい無礼となるではないか。いかに気にいらぬ夫でも、気にいらぬ妻でも、縁があって神様が決めてくださった以上、おろそかに思う事は申しわけない訳で、有難く感謝すべきである。故にその事を知って、感謝の心を持って見直したならば、よい妻であり、よい夫であると思えるようになる事は請けあ合いである。

今一つ重要な事があるが、それは子供の死であって、その原因たるや夫の不品行にもとづくのである。例えば妻以外の女との関係がそれで、この罪は重大であって、ほとんど死に価する程のものである。しかも世の中には妾を二人も三人も中には十数人に及ぶものさえあるという事を聞くが、実に恐ろしい事である。これらの罪を霊界における祖霊は非常に怒るばかりか、子孫繁栄の妨げとなり、罪の重さによっては一家断絶の不幸に陥る事さえあるので、祖霊は極力止めようとしてあらゆる手段をつくすが、なかなか目覚めないものである。しかも、罪はますます増大する以上、早くその罪を贖(あがな)わなければならない。それには主人たるべきものが責任を負うべきであるが、そうなると、家族の生活や将来に悪影響を及ぼす事になるから、祖霊は主人の身代りとして子供を犠牲に供するのである。このような事は、世間にあまりに多いものであるから、読者諸士は注意を払われたい。必ず思いあたる事があるはずである。

そうして夫婦喧嘩の主なる原因は、第一が妻君の嫉妬、第二は生活難であろう。故に、前述のごとき霊的事情を主人が認識するとしたら、嫉妬の原因はなくなる訳で、夫婦は神様の御意志で結ばれた事や、妻以外の婦人関係は重罪にあたる事を認識したならば、良き夫となり、良き妻となり、夫婦円満にならざるを得ないであろう。これは、決して夫婦円満にするための作り話ではない。事実長年にわたり幾多の経験とあいまって、神様から教えられたものである以上、一点の嘘もない事を断言する。

聖書の中から右に関した教えを左に記してみよう。

○神の合わせたるものを、人たるもの離すべからず。

○人はその妻に合い、二人の者一体となるべし。

○汝の妻をもて足れりとせよ。

私は、この一文を世の既婚者諸君に呈するものである。

 

『御任せする』

「栄光」132号、昭和26(1951)年11月28日発行

私はいつも御任せせよと言う事を教えているがつまり神様にお任せし切って、何事があってもクヨクヨ心配しない事である。というと実に雑作(ぞうさ)もない訳なく出来そうな話だが、ドッコイ仲々そうはゆかないものである。私でさえその境地になった時、随分御任せすべく骨を折るが、ともすれば心配という奴、ニョキニョキ頭をもたげてくる。というような訳でしかも今日のような悪い世の中では、ほとんど不可能といってもいいくらいである。しかしながら神様を知っている人は大いに異(ちが)う。というのはまず心配事があった時、それに早く気が付く以上、ズット楽になるからいいようなものの、ここに誰も気が付かないところに重要な点があるから、それをかいてみよう。

というのはこれを霊の面から解釈してみると、それは心配するという想念そのものが、一種の執着である。つまり心配執着である。ところがこの心配執着なるものが曲者(くせもの)であって何事にも悪影響を与えるものである。だが普通執着とさえいえば、出世をしたい、金が欲しい、贅沢がしたい、何でも思うようになりたいという希望的執着と、その半面あいつは怪(け)しからん太い奴だ、実に憎い、酷い目に遭わしてやりたい、などという質(たち)の悪い執着等であるが、私の言いたいのはそんな分り切った執着ではなく、ほとんど誰も気が付かないところのそれである。では一体それはどんなものかというと、現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。それらに対し信者の場合、神様の方で御守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強い程御守護が薄くなるので、そのため思うようにゆかないという訳である。この例としても人間がこういうものが欲しいとしきりに望む時には決して手には入らないものであって、もう駄目だと諦めてしまった頃、ヒョッコリ入ってくるのは誰も経験するところであろう。またこうなりたいとか、アアしたいとか思う時は、実現しそうで実現しないが、忘れ果てた頃突如として思い通りになるものである。浄霊の場合もそうであって、この病人は是非治してやりたいと思う程治りが悪いが、そんな事は念頭におかず、ただ漫然と浄霊する場合や、治るか治らないか分らないが、マアーやってみようと思うような病人は、案外容易に治るものである。

また重病人などで家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりたいと一心になっているのに、反って治りそうで治らず、ついに死ぬ事が往々ある。そうかと思うと、その反対に本人は生死など眼中におかず、近親者も余り心配しないような病人は、案外スラスラ治るものである。ところでこういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親者も是非助けたいと思っているのに、病状益々悪化し、もう駄目だと諦めてしまうとそれからズンズン快くなって助かるという事もよくある。面白いのは俺はこれしきの病気で死んで堪るものか、俺の精神力でも治してみせると頑張っているような人は大抵死ぬもので、これらも生の執着が大いに原因しているのである。

右のごとく種々の例によってみても、執着のいかに恐ろしいかが分るであろう。従ってもうとても助からないというような病人には、まず見込がない事を暗示し、その代り霊界へ往って必ず救われるようにお願いするからと、納得のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の者にもその意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向かうものである。またこれは別の話だが、男女関係もそういう事がよくある。一方が余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、まことに皮肉極まるが、これも執着が相手の心を冷すからである。このように世の中の事の多くは、まことに皮肉に出来ているもので、実に厄介なようでもあり、面白くもあるものである。右によっても分るごとく、物事が巧くゆかない原因には、執着が大部分を占めている事を知らねばならない。私がよくいう逆効果を狙えというのもその意味で、つまり皮肉の皮肉であってこれが実は真理である。

 

『我と執着』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

およそ世の中の人を観る時、誰しも持っている性格に我と執着心があるが、これは兄弟のようなものである。あらゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解 決しないのは、この我と執着によらぬものはほとんどない事を発見する。例えば政治家が地位に執着する為、最も良い時期に挂冠(けいかん)すべきところを、 時を過ごして野垂死をするような事があるが、これも我と執着の為である。又実業家等が金銭に執着し、利益に執着する為、かえって取引先の嫌忌を買い、取引 の円滑を欠き、一時は利益のようでも、長い間には不利益となる事が往々ある。又男女関係においても、執着するほうが嫌われるものであり、問題を起こすのも 我執が強過ぎるからの事はよくある例である。その他我の為に人を苦しめ、自己も苦しむ事や、争いの原因になる等、誰しも既往を省(かえり)みれば肯くはず 筈である。

以上の意味において、信仰の主要目的は我と執着心をとる事である。私はこの事を知ってから、出来るだけ我執を捨てるべく心がけており、その結果として第 一自分の心の苦しみが緩和され、何事も結果がよい。ある教えに「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉である。

そうして霊界における修行の最大目標は執着を除(と)る事で、執着の除れるに従い地位が向上する事になっている。それについてこういう事がある。霊界に おいては夫婦同棲する事は、普通はほとんどないのである。それは夫と妻との霊的地位が異(ちが)っているからで、夫婦同棲は天国か極楽人とならなければ許 されない。しかしながら、ある程度修行の出来た者は許されるが、それも一時の間である。その場合、その界の監督神に願って許されるのであるが、許されて夫 婦相逢うや、懐かしさのあまり相擁するような事は決して許されない。いささかの邪念を起こすや、身体が硬直し、自由にならなくなる。そのくらい執着がいけ ないのである。故に霊界の修行によって執着心が除去されるに従って地位は向上し、向上されるに従って夫婦の邂逅も容易になるので、現界と如何に違うかが想 像されるであろう。そうしてさきに述べたごとく、執着の権化は蛇霊となるのであるから恐るべきである。人霊が蛇霊となる際は、足部から漸次上方へ向かっ て、相当の年月を経て蛇霊化するもので、私は以前首が人間で身体が蛇という患者を取り扱った事があるが、これは半蛇霊となったものである。

従って信仰を勧める上においても、執念深く説得する事は熱心のようではあるが、結果は良くない。これは信仰の押し売りとなり、神仏を冒涜する事となるか らである。すべて信仰を勧める場合、ちょっと話して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるのを差し控え、 機の到るを待つべきである。

『順序を過る勿れ』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

昔から「神は順序なり」という言葉があるが、これはすべてに渉って重要事であり、心得おくべき事である。まず森羅万象の動きを観れば分かるが、すべて順序正しく運行されている。四季にしても、冬から春となり、夏となり、秋となるというように、梅が咲き、桜が咲き、藤が咲き、菖蒲が咲くというように、年々歳々不順序(くるい)なく生成化育が営まれる。かように大自然は順序を教えている。もし人間が順序の何たるを知らず、順序に無関心であるなら、物事が円滑にゆかない。故障が起こりがちで、混乱に陥りやすいのである。ところが、今日までほとんどの人間は順序を重要視しないが、これを教えるものもないから無理もなかった。私は一般が知っておかねばならない順序の概略を書いてみる。

まず順序について知りおくべき事は、現界のあらゆる事象は霊界からの移写であると共に、現界の事象もまた霊界へ反映するのである。そして順序とは道であり、法であるから、順序を紊(みだ)すという事は道にはずれ、法にもとり、礼節にかなわない事になる。仏語に道法礼節という言葉があるが、この事をいうたものであろう。

まず、人間が日常生活を営む上にも、守るべき順序があって、家族の行動についてもおのずから差別がある。例えば部屋に座る場合、部屋の上位は床の間であり、床のない部屋は、入口から最も離れたる所が上座である。上座に近き所に父が座し、次に母が、次に長男が、長女が、次男が、次女がというように座るのが法であって、こうすれば談話も円満にゆくのである。いかに民主主義でも、法に外れてはうまくゆくはずがない。例えば、ここに一人ずつしか渡れない橋があるとする。それを数人が一度に渡ろうとすれば混乱が起こり、川へ転落する。どうしても一人ずつ、順々に渡らなければならない。そこに順序の必要が生まれる。又客が来るとする。客と主人との間柄が初対面の場合と、友人、知人の場合と、上役や部下の場合、座るべき椅子も座席もおのずから順序がある。挨拶等も、その場に適切であると共に、相手によって差別があるから、それに注意すればすべて円満にゆき、不快を与えるような事はない。又女性、老人、小児等にしても、態度談話にそれぞれ差別がある。要は出来るだけ相手に好感を与える事を本位とすべきである。

次に、子女や使用人を二階三階に寝かせ、主人夫婦は階下に寝るという家庭があるが、これらも誤っており、こういう家庭は、子女や使用人は言う事を聞かなくなるものである。又妻女が上座に寝、主人が下座に寝る時は、妻女が柔順でなくなる。その他神仏を祭る場合、階下に祭り、人間が二階に寝る時は、神仏の地位が人間以下になるから、神仏は加護の力の発揮が出来ないばかりか、かえって神仏に御無礼になるから、祭らない方がよいくらいである。仏壇のごときもそうである。祖先より子孫が上になる事は非常な無礼になる。何となれば、これらは現界の事象が霊界に映り、霊界と現界との調和が破れるからである。

この理は国家社会にもあてはまるが、最も重大な事は産業界における資本家と勤労者の闘争である。特に、最も不可であるのは生産管理の一事で、これ程順序を紊す行動はあるまい。ここに一個の産業がある。それを運営し発展させるとすれば、すべてに渉って順序が正しく行なわれなければならない。すなわち、社長は一切を支配し、重役は経営の枢機に参画し、技術家は専門的技術に専念し、勤労者は自分の分野に努力を払う等、全体がピラミッド型に一致団結すれば、事業は必ず繁栄するのである。しかるに、生産管理はピラミッドを逆さにするのであるから、倒れるに決まっている。この理によって資本家と労働者が闘争するにおいては、その結果として勤労者も倒れ、資本家も倒れるという事になるから、実に愚な話である。故に、どうしても両者妥協し、順序を乱さず、和を本位として運営すべきで、それをよそにして両者の幸福は得られる訳がないのである。私は産業界から闘争という不快なる文字を抹殺するのが、繁栄の第一歩であると思う。しかしながら、以前のごとく資本家が勤労階級を搾取し、利己本位の運営が行き過ぎる結果は、共産主義発生の原因となったのであるが、今日は反動の反動として、共産主義の方が行き過ぎとなり、産業が萎靡(いび)し、生産が弱体化したのであるから、一日も早くこれに目覚めて、あくまでも相互扶助の精神を発揮し、新日本建設に努力されん事を望むのである。これが私のいう「順序を正しくせよ」という意味である。

戦時中東条内閣の時、東条首相は社長の陣頭指揮という事をとなえ、又自分も先頭へ立って活躍したが、これ程の間違いはない。何となれば、昔から事業を行なう事を経綸を行なうというが、経綸とは車を回す事である。即ち首脳者は車の心棒にあたるので、車がよく回るほど心棒は動かない。又車は心棒に近いほど小さく回り、外側になるほど大きく回り、心棒が躍るほど、車の回転の悪いのはもちろんである。

右の理によって考えるとき、こういう事になる。すなわち心棒に近いところほど少数者が担当し、漸次遠心的に多数者となり、最外側のタイヤに至っては、道路に接触するため過激の労働となる事によってみても、順序の何たるかを覚り得らるるであろう。故に、すべて主脳者たる者は、奥のほうに引っ込み、頭脳だけを働かせ采配を振っておれば事業は発展するのである。