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『時期を待て』

「光」14号、昭和24(1949)年6月25日発行

社会各方面をつぶさに観察する時、失敗者の余りにも多い事である、ところが失敗の結果として、御当人だけの苦しみなら、やり方が悪いとか運が悪いとかいって諦めてしまえばそれで済むが、実はそれだけでは済まない、では何かというと、一人の失敗が家族を路頭に迷わせたり、親戚知人にまで迷惑を及ぼすという事になるから、一種の社会悪を構成する事になる、つまり最初の出発は悪意ではなかった事はもちろんであるが、結果からみてそうなる以上、軽々に看過出来ない問題である。

右のごとくである以上、失敗者のその原因を深く検討する必要がある、その結果余り人々の気のつかない所に、その原因を見出すのである、というのは最初事に当る場合充分計画を建てて、遺憾なく準備をしてかかる、ではあろうが、さて行ってみると予期通りにゆかないばかりか、思いもかけない邪魔や障碍が起るので、御当人もその判断に苦しむ事となり、前途が判らなくなるというのが、失敗者の誰もがたどる経路である、これはどこに原因があるかを説いてみよう。

右は一言にしていえば時期という事を無視するからである、人事百般この時機ほど絶対的のものはない、例えばあらゆる花卉や果物にしても農作物にしても、すべては時期がある、時期に合わなければ他の事はいかに好条件であっても良成果を挙げる事は出来ない、秋季草花の球根を埋めるから春になって花が咲く、春種を蒔き芋根を植えるから、夏から秋に美しい花が咲くのである、果実にしても熟す時期は決っている、熟さない時採っても食う事は出来ない、充分熟した時に採ってこそ、美味な食物である、農作物にしても、種播きや移植等すべて適期がある、もちろん風土気候にも適合しなければならない。

以上のように、大自然は人間に対し、時期の重要性を教えており、大自然のあるがままの姿こそ真理そのものである、従って人間は何事をなすにも大自然を規範としなければならない、それに学ぶ事こそ成功の最大条件である、この意味において、私が唱える神霊療法も無肥料栽培も、その他の種々の方法にしても大自然に従う事を基礎としているから、ほとんど失敗はなく予期の成果が得られるのである、ゆえに私は何かを計画する場合決して焦らない、充分多角的にあらゆる面から客観し、熟慮に熟慮を重ねいかなる点からみても正しく、社会人類のため有益であり、永遠の生命ある事を確認し、しかる後準備万端を調え時期を待つのである、ところが大抵の人はこの時を待つ辛抱がなかなが出来ない、時期いまだ熟していないのに着手するから計画と時期とにズレを生じ思うようにゆかない、あせる、益々ズレが大きくなる、ついに失敗するという順序になるのである、従って肝腎な事は時期来るまでの期間の辛抱である、物には必ずちょうど好い時があるものだ、昔から「待てば海路の日和あり」とか「果報は寝て待て」とか「狙い打ち」とかいう諺(ことわざ)があるが、全くその通りである。

ところが右のような私のやり方に対し非常にまだるがる人が以前はよくあった、また種々の献策や希望をいう人もあったが、私はそれらを採用すべく約束してもなかなか実行に移さないので焦れたり不思議がる人もよくあった、私としては、時期が来ないから手を出さないまでである、昔から「チャンスを掴め」とか「風雲に乗る」とか「機会を逸するな」――というような言葉もあるが、よくこの理を喝破している、しからばその機運というものは何によって判断するかというと、まずあらゆる条件が具備し、機運からみてどうしても計画を実行しなければならないという勢が迸(ほとばし)るようになる、そういう時こそ機が充分熟したのであるから、着手するや少しも無理がなく、楽々すべてが運んでゆく、そういう訳で更に力が要らない、自然にうまくゆく、要するに熟慮断行の四字に尽き、たとえば重いものを坂から落す場合、つかえているものがある、それを無理に動かそうとすると力が要る、そこを我慢して待っていると、障害物が石の重みで段々弱ってゆく、もう一息という時指一本で押すと訳なく転がるようなものである。

「鳴かずんば啼くまで侍とう時鳥(ほととぎす)」とは家康の性格を諷(ふう)したのであるが彼が三百年の命脈を保ったのも全く時期を待つという、そのためでもあった。

以上によって、時期なるものがいかに重要であるかを知るであろう、大本教祖のお筆先にいわく「時節には神も敵わぬぞよ」とあるが、一言に喝破し得て妙なりというべきである。

 

『行詰り』

「栄光」180号、昭和27(1952)年10月29日発行

世の中の人ばかりじゃない、信者でもそうだが、よく行詰りという言葉を発するが、これは物の真相を弁(わきま)えないからで、何事も行詰りがあるから発展するので、つまり行詰りじゃない訳で、ちょうど駈出しすぎては息が続かないから一休みするのと同じ訳でいわば節である。これは竹を見ても分る通り、伸びては節が出来、伸びては節が出来るから丈夫に育つので、伸びるばかりで節がなければ、アノ強靱な竹とはならないのである。従って節の少ない竹程弱く、節の多い程強いのはそういう訳である。このようにすべては自然が教えているから、何事も大自然をよく見つめれば物事は大抵判るはずである。

右は自然の行詰りについてかいたのだが、困る事には人為的に、行詰らせる人も少なくないので、これこそ叡智が足りないためで、こうすればこうなるという先の見通しがつかないからである。こういう人こそ壁に突当って二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなるのであるから、これを読んだらよく心の奥に蔵(しま)っておき、行詰った際、振向いてよく考えてみれば分るはずである。それによってどこかしら間違っている点に気がつけばいいので、人間は普段から精々智慧を磨いておくべきでそれには出来るだけ御神書を拝読すべきである。

『調和の理論』

「栄光」176号、昭和27(1952)年10月1日発行

昔からよく調和という事を言われるが、これを単に聞くだけではいい意味にとれ、道理のように思われるが、実はこれを丸呑みに出来ない点がある。というのはなるほど全然間違ってはいないが、この考え方は浅いのである。そこでこれを深く掘下げてみるとこういう事になる。そもそもこの大宇宙の一切はことごとく調和していて、寸毫(すんごう)も不調和はないのである。従って人間の眼に不調和に見えるのは表面だけの事である。何となれば不調和とは人間が作ったものであって、その原因は反自然の結果である。すなわち大自然からいえば、反自然によって不調和が出来るのが真の調和であり、これが厳正公平な真理である。この意味において人間が天地の律法にしたがいさえすれば万事調和がとれ順調に進むのである。

右のごとく不調和を作るから不調和が生まれ、調和を作るから調和が生まれるのが自然の大調和であるとしたら、人間はこれを深く知る事で、これによって幸福者となるのである。何よりの証拠は今は不調和であっても時が経てば調和となったり、調和だと安心していても、いつの間にか破れて不調和になる事がよくあるのも、世の中の真相である以上、よくよく味わうべきである。換言すれば不調和とは小乗的見方であり、調和とは大乗的見方であると心得べきである。

『運命と自由主義』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

宿命と運命についてよくたずねられるから説明をする。

まず、宿命とはその人に与えられた決定的のものであるから、いささかも換える事はできない。しかるに運命は、限定されたある枠内の中は自由自在で、その人の努力次第で、枠内の最上位にまでは到達なし得ると共に、その反対であれば下位に転落するのである。

今日人々の関心事となった自由主義なるものも右の運命とよく似ている。何となれば、真の自由主義とは、ある一定の枠内に制約されているものであって、無限の自由は決してあり得ない。真の自由とは、限度のある、即ち有限の自由である。故にその枠を越えた場合、それは他人の自由を侵害する事となり、文化の反逆者となる事は、運命の枠を越ゆる場合、失敗者となるのと同様の理である。

『人は人を咎むる勿れ』

「救世」55号、昭和25(1950)年3月25日発行

時々人を咎(とが)める事の可否について質(き)かれるから、ここにかいてみるが、実をいえば人を咎める権能は神のみが有せられるものであって、人が人を咎めるという事は実は人が神の地位を犯す事となるのである、また別の面からみるも、人を咎めた結果は良い事はまずない、大抵は逆効果となるものである。

私の事をいうが、私は人が間違った事をしてる場合、見て見ぬ振りをして放っておく、すると間違った事はいつか頭をブッつける時が来る、そこで自ら眼が覚め心から悔改めるものである、これをたとえていえば、坂から大石が転っている際、それを止めようとするようなもので、決して止まるものではない、もし無理に止めようとすると怪我(けが)をするのがオチである、ゆえに落ちるのを待って落ちてから徐(おもむ)ろに上げればいいのである、といってもその場合そういう事をすると結局失敗するという事は話してやった方がいい、それによって頭をブッつけた時、ハハアー以前言われた事はこれだなと早く悟るからである、以上のごとく人間が人間を咎め権力や何かで無理に制えつけたり脅かしたり、また戒律などで縛るのは一時的で、いつかは必ず反動があり、結局は面白くない、どうしても当人自身が非を悟って心から悔改めるのでなくては本物ではないのである。

この事は医学にも当はまる、現代医療は病気に対し種々な唯物的責道具で、病気を止めようとするがなるほど一時は止め得ても必ず反動が起って再発する、それが初めの病気より悪質である、ゆえに吾らの神療法のごとく全然責道具など用いないで、病人自身有する良能の力で自然に治させるゆえに、その良能力を増させる方法こそ真の医術である。