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『日と月』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

宗教上より見たる日と月に就て説明してみるが、之は甚だ神秘幽玄にして、コジツケとみらるる節なきに非ず、然し之は真理である以上、心を潜めて判読されたいのである。日本古代に三種の神器がある。之は璽(たま)、剣、鏡という事になっているが、即ち玉は日であり、剣は月であり、大地は鏡によって表徴されている。玉は太陽の形であり、剣は三日月の形であり、鏡は八咫の鏡と唱え八凸に分れている。即ち東西南北、艮 辰巳 坤 戌亥の八方を型どつたものである。此三種の中で大地は判り切っていて説明の要はないが、日月に就ては深い意味があるから、それを書いてみよう。

茲で解り易くする為、天理教で唱える説を借りてみるが、それは月は突であり、日は引くという意味で、日月とは引きと突であるという。之はなかなか面白い解釈と思う。それは夜の世界に於ては何事に於ても突く事を好む。大にして国と国とが互いに突き合う。戦争がこれである。衝突という事も突き合いである。古代に於る戦争は剣で突き合った事は明かである。それが転化して交際することもつき合という。文字が違うだけで言霊は同一である。突進むという言葉は勝利を意味する。全く月の働きであり、夜の世界を表わしている。

右に引換え、ヒキ、ヒクは、退く事である。引寄せる、陣を退く、敗北する、腰を低くする――というように凡て月と反対であり、此理によって昼の世界は凡てがヒキの働きであるから、負ける事を善しとする。人間では謙譲である。之では争いの起りよう筈がない。吾々の方では風邪を引く事を良いとしている。本教団の目的が病貧争絶無の世界を造るという。その争がなくなるのは以上の意味から考えらるるのである。本教団は日即ち火素の活動が主である以上、月でなく引きを心に銘じて活動すべきで、それにまって多くの人が引寄せらるるのである。

又日は玉であるから、円満清朗、円転滑脱でなくてはならないのは勿論である。

 

『学問のズレ』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

一口に学問と言うが、学問にも生きた学問と死んだ学問とがある。というと可笑しな話であるが、判り易くいえば、学問の為の学問は死であり、学問を実社会に活用するのが生きた学問である。然し真理探究の為の学問は又別で、之は貴重なものである。

先ず学問とは何ぞやという事であるが、今日、大中小の学校に於て教科書を経とし、実地を緯として先生から教えられる。処がその教育方法は幾多の先哲学究が刻苦研鑽の結果構成され、今日の如き学問形態となったものである。勿論新発見や新学説が表われては消え、現われては打破され、其中の価値ある部分のみが、残存集積され来ったのは言うまでもない。其当時真理として受入れられ、金科玉条としていたものも、それ以上の新学説、新発見が現われた事によって跡方もなく消滅したり、又今以て生命を保ち社会人類に役立ちつつあるものもあり、一切は時がそれを決定するのである。

此意味に於て、現在絶対真理とし、永久不変のものと確信していたものと難も、それを被る処の新学理が何時如何なる人間によって主唱さるるかも分らないのである。処が、ともすれば新発見が表われた場合、其新発見なるものはそれまでの既成学理の型には当嵌らないのが当然で、当嵌らないだけ其価値がある訳である。一言にして言えば型破りでありそれが大きければ大きい程、価値が大きいのである。故に真理と思ったものもいつか葬り去られるという事は、それ以上の真理が生れたからで、斯くして止りなき文化の進展があるのである。

私は今一層掘り下げてみよう、それは既成教育は長年月に渉って構成された処の一応の整った形式が成立っている。処が文化の急速な進歩は、その固定的形式を非常な速度を以て切り放すのである。最近私は某大会社の社長某氏の述懐を間いた事がある。その人曰く、「十年以上経つた大学出の秀才も、今日では実際問題に当って適応しない事が多い。何となれば、その時代修得した学問と、今日の時代とは余りに隔絶しているからで、いわば時と学問のズレである。技術家に於て特に然り」であるというのである。之等をみても、私が曇に述べた如く、学理はその時代までを基準としている以上、その後進歩した文化の標準と平行しなければ、死んでしまうのである。之に就て今一つの例を挙げてみょう。それは今日の政治家は、非常に型が小さくなったと言われる。つまり肚の大きい、腹芸をやるような政治家は殆ど見当らない。此頃の大臣は機略など薬にしたくもなく、ただ当面発生した問題のみを処理するに汲々たる有様で、肚が見え透いていると言われる。之は何が為であるかというと、今日の大臣級は官立大学や出であり、古い学理に捉われ勝で、何事も理屈一点張りで行るからで、理外の理というものを知らない。恰度自動車の走っている時代に、馬車を曳出すようなもので、馬車の操縦は習ったが、自動車は知らないと同様であろう。全体、学問は人間の頭脳を開発し、或程度の基礎を作るもので、いわば建築なら土台である。その基礎の上に新建築を打建てる、即ち学問を活用し、進歩せしめ、新しいものを作るのである。日進月歩の文化と歩調の合う事である。否それ以上前進し、指導的役割を果す、それが生きた学問である。彼の米大統領、トルーマン氏が、一九二一年頃は小間物雑貨商人であったとは、彼が最近の言明で、之によってみても彼の実社会的経験が、今日あるに至ったのである。

私は十数年以前から、医学に関する新学説を唱え、それを著書として発刊するや、忽ち発禁となった。三回までも発禁となったので、やむを得ず今は諦めている。それは現在の医学とは凡そ反対の説であるからとの理由に因るのである。処がその実績に於ては、現代医学の治病率に対し、私の方は数十倍の効果を奏する事で、而も一時的ではなく根本的に治癒するのである。之は一点の誇張もない事実で、著書の中にも「実験には何時でも応ずる」旨を書いておいたに拘わらず、当局も専門家も一顧だも与えないので、どうしようもないのである。

抑々医療の目的は凡ゆる病患を治癒し、人間の健康を増進させ、寿齢を延長させるという事で、それ以外に何の目的があろう。如何に学理を云々し、唯物的施設や、機械的巧緻を極めると雖も、右の目的に沿わない以上、何等の意味もない事になる。私の説が只だ既成医学の理論と異るの故を以て、何等の検討もせず、無関心であるという事は、文化の反逆者たる謗(そしり)は免れまい。而も政府が、それに絶対の信を与えている現状であるから、現代人こそ洵に哀れな小羊というの外はない。

以上に述べた如き、大胆極まる私の説は何が故であろうか。私と難も狂人ではない、絶対の確信がなければ発表し得る筈はない。全く今日進歩したと誇称する医学には、恐るべき一大欠陥の伏在している事を、私は発見したからである。此発見こそ今日迄の如何なる大発見と雖も比肩するものはあるまい。何となれば人間生命の問題の解決程重要なものはないからである。故に此大欠陥に目覚めない限り、現代医学は有用な存在ではない事を断言するのである。

飜って街を見る時、誤まれる医学によって重難病に呻吟しつつある憐れな者が如何に氾濫しつつあるかは、何人も知る処であろう。之等を見る時、吾等は到底晏如(あんじょ)してはいられないのである。

茲に於て私は今の処、此誤れる医学に一日も早く目覚めさせ給えと神に祈るのみである。

 

『神秘の扉は開かれたり』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

私が解く処の多くの説は、その殆んどが前人未踏のものばかりといってもよかろう。之に就て、良い意味の疑念を起す人が数多くあろうと思うから、その訳を簡単にかいてみる。

私は常に地上天国建設を唱えているが、之は私が考え出したのではない。天の時到って神が私をして実現すべき計画と様相を示すと共に、目的を遂行し得る絶大なる力を与え給うたのである。その力の中、物を識る力の発揮が私の解く説となり、今日迄暗幕に鎖されていた謎や、霧に覆われ臓朧としていたものなどがはっきりと霊覚に映り、其のままをかくのであるから、一切が開明せられる時となったのである。恰度今日迄夜の世界であったから、暗の夜の不可視は勿論であるが、月明と難も、鮮明に物を見得る程ではない。それが現在迄の世界の実相であった。

処が、昭和六年の半頃から黎明期に入ったのである。その時を契期として、漸次太陽は上昇しつつ昼の世界に入った訳で、今や光明世界は来らんとし、地上天国は出現せんとするのである。此意味に於て、凡ゆる謎も秘密も社会悪も、光明に晒される事になった。いわば不透明が透明となり、悪の隠れ場がなくなる時となったのである。

人間の三大苦である病貧争の原因が、悪から発生したとすれば、悪の追放によって病貧争絶無の世界が生れるのは敢て不思議ではない。

そうして右の三大苦の中に主たるものは、勿論人間の病苦である以上、病患の根源と雖も明かとなるのは当然で、茲に病無き世界が実現するのである。

そうして今日迄の宗教を初め、哲学、教育、思想等凡ゆるものは一切に対し或程度以上の解釈は不可能とされ、深奥なる核心に触れる事は出来ないとされた。彼の釈尊は七十二歳にして吾見真実となったと云い、日蓮は五十余歳にして見真実となったと云う事であるが、見真実とは、前述の核心に触れた事を言うのである。それによって明かとなったのが、釈尊に於ては法滅尽と弥勒下生であり、日蓮に於ては六百五十年後浄行菩薩が出現し、義農の世となるという事であった。キリストは見真実の言は発せられなかったが、「天国は近づけり」という事と、「キリスト再臨」の予言は、見真実によらなければ判る筈がないのである。其他昔から見真実でない迄も、それに近い聖者の幾人かは現われた事は想像され得るのである。そうして見真実を判り易くいえば、ピラミッドの頂点の位置に上ったと思えばいい。ピラミッドの高き尖端に立って俯瞰する時、高い程視野が広くなり、多くを見得るのと同様である。

茲で私の事を云わない訳にはゆかないが、私は四十五歳にして見真実になったのである。見真実の境地に入ってみれば、過現未に渉って一切が明かに知り得る。勿論過去の一切の誤りは浮び上って来ると共に、未来の世界も其時の人間の在り方も、判然と見通し得るのである。といって知り得た総てを今は語る訳にはゆかない。何となれば、サタンも提婆もバリサイ人も未だ妨害を続けつつあるからである。故に或範囲だけを発表するの余儀ない訳であるから、今一歩という所で、徹底しない悩みのなきにしも非ずであるが、之も経綸上止むを得ないのである。然し、今迄だけの発表でも前人のそれとは格段の相違のある事は、私の文章を読む限りの人は認識されたであろう。

以上標題の如く、己に神秘の扉は開かれたのである。

 

『大乗宗教』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

宗教、特に仏教に、大乗、小乗の区別のあるのは遍く人の知る所であるが、どうも今日迄、徹底されない恨みがあったようである。之に就て私の見解を述べてみよう。

抑々大乗とは大自然という意味である。大自然とは、万有一切の生成化育のあり方をいう事は勿論で ある。故に大乗とは一切を包含して余す処がない。此意味に於て、今私の説く大乗は大乗仏教ではなく、大乗道である。即ち宗教も哲学も、科学も政治も、教育も経済も、芸術も、その悉くが含まれている。そればかりではない、戦争も平和も、善も悪も包含されているのは勿論である。

右の如く、一切万有の活動を凝視する時、其処に自然の道が窺われる。勿論道に従う事によって順調に進むべき事の認識を得る人にして、真の人たるの価値があるのである。此理によって、道に外れる時は無理を生ずるから、必ず支障を及ぼし、結局停滞又は破壊される事になるのである。右の如く道に叶えば創造となり、道に外るれば破壊となるというのが、此世界の実相である。恰度汽車電車が軌道に外れなければ進行し、外るれば駄目と同様である。

故に一切は滅ぶるのも、滅ぶ理由があり、生れるのも、生れるべき理由があり、決して偶然はない。凡ては必然である。此意味に於て思想上に於ても、左に偏すれば右が生れ、右に偏すれば左が生れ、何れにも一方に偏する事なく軌道を進むべきで、恰度自動車を運転するのと同様である。此理によって資本主義も社会主義も、共産主義も、保守派も、進歩派も、積極主義も、消極主義も他の何々主義も必要があって生れ必要によって滅ぶのである。勿論宗教と雖もそうであって、出現するのは出現すべき理由があるからである。処が人間の多くは自己の居点に立って眺め、自己以外のものは兎角異端視するのである。それは自己という小さき眼孔から観るからで、諺に謂う、「葭(よし)のズイから天井覗く」という訳である。然し此大地を経綸し給う神の御眼からみれば、蝸牛角上に相争う人間の小ささに、苦笑し給うであろう。

凡ゆる物質は、人間に不必要であれば自然淘汰され、必要があれば如何に人間が淘汰しようとしても 駄目である。例えていえば、茲に新しい宗教や、新しい思想が生れる。それが人間の眼には迷信邪道と見えても、人類に必要があれば発展し、不必要であれば淘汰されるのであるから、或程度自然に任すべきである。

真に生命があり、価値がありとすれば、人力を以て弾圧すればする程、反って発展の度を高める事になるのである。何よりの例は彼のキリスト教である。教主キリストを断罪に処したに拘わらず、今日の隆盛をみれば何をか言わんやである。

現代人が一切をみる眼があまりに小さく、余りに短見である事の誤りに、反省を促すべく此文をかいたのである。

『本教と大道主義』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

今日世の中を見ると、ヤレ左翼だとか、ヤレ右翼だとか、否俺の方は左派でも右派でもない、中道だとか言って騒いでいるが、どうも或限られたる主義や思想を飽迄固持し、それを貫こうとする結果、どもうしても摩擦が生じ易い。尤も中には摩擦や争いを目的とするものもないではないが、これはまた別の話である。
終戦後、国民の目標は言うまでもなく民主主義であるが、民主主義とは勿論、最大多数の最大幸福を目的とするものである以上、自己の主義や思想を飽迄固執するとすれば、争を捲き起し、最大多数の幸福処か、反対に最大多数の最大不幸を招く事になる。
これは私が言うばかりではない、事実今日の世相をみれば、遺憾なく表われている。彼の政党を見てこと確執もそうである。一党内に何々派などと主義主張を異にしたもの同志が、常にカリシツ(確執)しており、ややもすれば分裂解体などの危険すら絶えない事実で、何でも自己の主義主張に合わないものは、忽ち敵と見たがる。出来たばかりの内閣をすら倒そうと計画するかと思えぱ、僅か二、三ケ月経たばかりの内閣に対し、野に居た時の政策の実行を督促し、空手形呼ばわりをする。このような訳で、日本の内閣は頻々と代って席の暖まる暇もない。此点フランスとよく似ている。彼の英国の労働党内閣が、最初一年位経た頃は意外に成績が悪かった。日本ならば囂々(ごうごう)たる非難の声が揚がるべきに、流石英国民の寛容さは、アトリー氏に委任して、静まり返っていたのを、吾等は不思議に思った位である。
又アメリカを見てもそうである。同国大統領が任期四年であるからこそ、思い切った政策が行えるのである。彼の第二次世界戦争に当って勝利を得、戦後と雖も綽々(しゃくしゃく)たる余裕を以て、欧州も東亜も救済せんとする偉観は、全くルーズヴェルト氏が四回の当選によって、十六年の歳月を閲(けみ)し、思いきった施策行い、宜しきを得た事によるのである。
曩に述べた如き日本の現状は、全く狭い島国根性が抜け切れない為であるから、何よりも日本人全体が此際大いに寛容の精神を涵(かん)養すべきで、之が当面の喫緊事であろう。
宗教の目標は、争いのない社会を作るとすれば、何よりも、自己独善から他を排斥する狭量を改めなければならないのである。此意味に於て、本数の如きも、右にも、左にも偏らず、中道にもこだわらず、凡ゆる主義主張総てを包含し、一切をコントロールした世界思想ともいうべき高い大理想を掲げて進まんとするものである。吾等はこれを名づけて大道主義というのである。